2015年10月10日土曜日

山本七平著 「ある異常体験者の偏見」 文春文庫刊 pp.120-121より抜粋

引用とは非常に面白いもので、われわれはその人の引用の仕方でその人の精神構造を知ることさえできるのである。
たとえば私が「軍人勅諭」を引用するときは、あくまでもこれは史料としての引用である。しかしかつて軍人が引用したときは、自己権威化のためで史料としてではない。
この二つは全く違う。新井宝雄氏の引用は、毛沢東の言葉を、一つの史料として引用しているのではなく、絶対の権威として引用し、それを無謬の真理の如くにして、反対者の口を封じようとし、それに応じない者は「反省がない」ときめつけているわけである。これはかつての軍人と非常に似た態度だといわねばならない。
もちろん「似た」といったのは「同じ」ではないという意味であって、両者がどう違うかは軍国主義者と商業軍国主義者の差と同じである。
言うまでもない事だが、同一主義者集団またはそれに類するものの内部なら、「反省をしろ」「自己批判をしろ」という言葉は、ある程度は成り立ち得る。
この場合は、あくまでも「同一主義に基づく共通の尺度を相互にもっている」ことが前提である。従って、その尺度が同一かどうかを相互の討論によって検証し、確認された尺度の前に、共にそれを基準とすることが絶対に必要だとするのが、少なくとも相手を自分と対等の独立した人格であると考える者にとっては、当然の措置であろう。
主義を異にする者に対して、お前は反省が足りないの、反省がないの、ということは、少なくとも相手を独立した人格と認める者にはありえないことである。
従って、本当の「主義者」すなわち主義をもって自らを律している人は、自分と主義の違う者には絶対にこの言葉を口にしないのは、前述した通りであって、先制防御的にこの言葉を口にしてくるものは、二重の裏切りともいえる前述の矛盾を権威主義で隠蔽する「虚構の主義者」と考えてよい。






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