2015年10月10日土曜日

山本七平著「これからの日本人」文藝春秋刊pp.60-64より抜粋

脱イデオロギーの時代とは何か。
それは体制信仰の別名ではなく、いずれの面でも「いわゆる信念のない時代」、イデオロギー信仰も体制信仰も拒否する時代であり、思考により、新しい仮説の未来を言葉で構築しなければならぬ時代なのである。
しかし信念の拒否は実際には非常に困難な作業であり、イデオロギーへの信仰はそのまま体制信仰に転位し、別のタイプの「信念の人」を生み出してしまう。
そしてその「信念の人」は、まことに始末のいい存在だが創造性が皆無であり、それがますます体制を固めて行くという悪循環を起こす。
前に会田雄次氏が「信念の人!つまりそりゃ頭がカラッポの人間のことやね」と言われたが、確かにその通りであって、現在の体制を絶対と信じようと、過去のイデオロギーのシナリオを絶対と信じようと、そう信ずるだけなら頭はカラッポの方がよい。
そして何か反論されれば「これはオレの信念だ」と言えば、それで終わりである。
そしてこういう信念なら、そしてその信念に基づく無思考の決断と実行なら、教育ママも赤軍派も田中角栄氏もともに持っている。
三者が軽侮し合い、反発し合うなら、それは信念の対象が違うというだけのことであり、その状態が共に「思考の拒否」であることは否定できない。
そして脱イデオロギー時代は、必ずこのタイプを生み出すのであり、民主主義下におけるその危険性は、その相反発が結局多数の勝利すなわち体制信仰に固着し固定してしまうことである。
そしてこうなると、脱イデオロギーの如く見えて、実は、体制信仰・生活イデオロギーの完全な信徒となってしまうわけである。

体制が永遠で「天壌無窮」ならこれでもよい。
しかしそうでないなら、人は一体この状態から、どうやって脱出すべきであろうか。
明治以来われわれは、外国をモデルとして、それを移入することで進歩してきた。
イデオロギーももちろん輸入品で間に合わせてきた。
そしてわれわれはこれを進歩と考えて来たわけだが、実は厳密な意味での進歩とは違う、別の作業だったはずである。
すなわち、この作業は、すでに存在しているものを、外国から日本へと空間的に移動させる作業であっても、自らの「時代」をどこかで区切り、その先の未来を言葉で構築して、それを現代と対比させ、この言葉で構築された未来との関連において、現在の問題を処理するという形で行う進歩ではなかった。

従って、空間的に移動させうる対象が見つからなくなったとき、いまあるものを固定させ、これを絶対に動かないと信じて、その中を通過して行くという形でしか、自己の存在を把握できなくなってくる。
そしてこういう把握が当然と信じられた頃に、その体制がぐらつき出すと、昭和初期の日本人のように、これにどう処理してよいかわからなくなるのである。
現在はおそらく非常にこれによく似た時代で、日本の周辺で何か異変が起こったら、政府もマスコミもおそらくただただ戸惑うだけで、何一つ的確な対処はできないであろう。

ではわれわれは、何をなすべきなのか。何から手をつけるべきなのか。

一個人であれ、一民族であれ、一国家であれ、日々の目前の問題の処理は放置できない。
しかし目前の問題の処理は、一つの「時代」の終わりと次の「時代」への対処ではなく、あくまでその体制内の空間的処理であり、対ロッキード的処理にすぎない。
従って現代に要請されていることは、それらの処理とともに、それとは別の形で行われるべき言葉による自らの未来の構築なのである。
思想が輸入できず、自らの思想だけが指針であった民族は、みな自らの手でこの構築を行ってきた。
そして、その作業の跡を見れば、それが決して安直なものでなく、驚くべき知的浪費を重ねた実に長い歳月が、その構築のために費やされている。
そして、その第一歩は常に脱イデオロギーの時代にはじまり、一つの思考が次の思考を生み出していくという形で、徐々に修正されながら、それが体系づけられ、そのように構築された一つの世界が、世界イデオロギーとは別の、一つの実在感を持ちうるイデオロギーとなって人々の意識を支配し、その意識と現実の生活の間に緊張関係を生じ、それがエネルギーとなって、人々が現実に動き出し、それが社会を変革して行く。

そしてこの間、常に一世紀から一世紀半の歳月が過ぎている。
そしてこれは、かかって当然の歳月であり、この過程を経たものだけが現実に社会を変革しうる思想なのである。そしてその思想は、任務を果たして消えていく。

そして、それがはじまる第一歩は、常に過去のイデオロギーの呪縛から自らを解放し、同時に、体制信仰からも自らを解放して、「自由になること」からはじまっている。
従ってまず最初にそれを行った人間を見ると、必ず過去のイデオロギーのレッテルを、どう貼り付けてよいかわからない人間なのである。
いまの言葉でいえば左翼ともいえるし保守反動ともいえ、右とも見えるし左とも見える人間であり、と同時に、どう見てもどちらの枠にも入らない人間である。
そういう人間の一例をあげればモンテーニュがいるであろう。
彼はおそらく、同時代の人間から見れば、何とも規定しかねる人間だったに相違ない。
というのはもちろん彼はプロテスタントではない、と言って伝統的かつ教条的なカトリックでもない。
いわば当時のあらゆるイデオロギーの枠外にいる。
しかしそれでいて、否むしろそれなるが故に、以後のフランスの思想を―それだけでなく政治体制まで―方向づけたのは、おそらく彼だったであろう。

そしてこの「自由な思考」のできる人を見ると、そこに示されているのは、まことに遠慮会釈のない、勝手気儘ともいえる、過去の思想の自由なる取捨選択なのである。
いわばすべてのイデオロギーはもはや帰依の対象ではなく、また自らの空白を埋める信念でもなく、自己の思想のために、自由自在に使ってよい材料にすぎない。
そしてこれが自由であり、これが思考なのである。
人は、言葉により未来を構築しなければならぬとはいえ、いきなり白紙に返って無から有を生み出せるわけではない。
過去の思想をばらばらの素材に解体して、文字通り遠慮なく使いこなし、使い棄てにし、自分の意のままに利用すること、それが脱イデオロギーの時代、思考の時代の特徴のはずである。

脱イデオロギーの時代は確かに平穏な時代である。
現在の平穏な時代はまだ続くであろう。そしてこの平穏な時代こそ、思考においては平穏であってならない時代、人間が自由自在にその思考力を活用し、自らの脳漿をしぼって思考すべき時代なのであり、この時代はこれが任務のはず、知的怠惰が許されない時代のはずである。
もっともこの作業は、過去のイデオロギーと生活のイデオロギーを信念としてもつ人には、まことに下らない知的遊戯に見え、閑人のサロンの閑談に見えるかもしれない。
しかしわれわれは、多くの科学上の実験がまずサロンで行われ、フランス革命へと進んだ発起点もまたサロンであったことも忘れてはなるまい。

もちろんそこで行われたのは、驚くべき知的浪費だったかもしれぬ。
しかし、あらゆる思想が形成されるまでには、みな恐るべき知的浪費が行われている―少なくとも完成品の輸入で間に合わせた者から見れば。
しかし、この作業が浪費でないことは、基礎的技術の確立のために行われる膨大な実験が浪費でないのと同じように、浪費ではない。

人々は技術についてはしばしばこのことを口にする。しかし、この原則はただに技術だけでなく、さらにその奥にある思考にとっても結局は同じことなのである。


ISBN-10: 4163647104
ISBN-13: 978-4163647104

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