2015年8月30日日曜日

金関丈夫著「発掘から推理する」「あた守る筑紫」岩波書店刊pp.145-150より抜粋

「あた守る筑紫」
筑紫という名は、狭くとれば筑前、筑後の二国であろうし、やや広くひろげて、北九州一帯を指す場合もあったが、時にはまた、九州全体をこの名で呼ぶこともあった。
「万葉集」の「あた守る筑紫」は、普通には北九州のことと考えられ、大陸方面からの外寇に対する防壁の地の意に解されている。
そうした意味の筑紫の形容語として「あた守る」といっているわけだが、この「あた」という語は、古来なんぴとも、敵人とか、賊とかを意味する普通名詞と考えて疑わなかったようである。
その字に「仇」をあて、古くは「あた」と清んで呼んだ。後には「あだ」と尾音が濁り、「酒は身の仇」とか「国に仇なす」とか、さらに広く普通名詞として用いられるに至っている。
すなわち、これが普通名詞として、古くから敵人とか、賊とかの意に用いられ来ったことは確かであるが、元来それがどこからきたか、あるいは「あた守る筑紫」という場合には、やはりそうした普通名詞であったかどうか。私はこのことを問題にして、一つの新しい説を出してみようと思う。
さて、話は変わるが、「隼人」と書いてハヤトあるいはハイトと訓むのは、もともとハヤヒトの約音である、というのが本居宣長の説である。なるほど「万葉集」などにもすでにハヤヒトと訓んでいるから、この訓みは相当に古い。
また宣長はハヤヒトを、その人々がすぐれて敏捷く、猛勇き故にハヤヒトという、と解しており、現代でもこの解釈は疑われていない。
もし下河辺長流(江戸前期の歌学者)の「枕詞燭明抄」の「其たけくして烈しきこと隼の如しと風土記に見ゆ」という記事を信じ、かつそのいわゆる「風土記」なるものを一般の「風土記」と同種のものと考えるならば、宣長流のこうした解釈をも、また奈良朝までさかのぼらせ得るかも知れない。
また「万葉集」巻十一に「ハヤヒトの名に負ふ夜声いちじるし」とあるのは、「続日本紀」の大宝二年(702)十月の条下に見える薩摩の「唱更国司等」の唱更をハヤヒトと訓んでいるのと共に、当時ハヤヒトの名は唱す(はやす)人というところからきたのだ、との考えもあったかと思わせる。
これらの考えにしたがえば、いずれにせよ、ハヤト、ハイトの前に、ハヤヒトがあったことになる。しかし、考えてみると、もともとハヤトと呼ばれたこの人々の名に隼人という字をあてたことから、後にその字によって、ハヤヒトの訓みが生まれたのだと、いえないこともない。

隼人はもともとハヤトという音にあてられた音字であり、これをハヤヒトと訓んで、逆にその字柄から敏捷猛勇な人々だと考えたり、あるいはその職分から、唱いはやす人だと考えたのは、後世人のいわゆるフォークスエチモロジー(民間語源説)であったかもしれない。
そこで、可能的な一つの説として、このハヤトがハヤヒトに先行するのではないか、という新しい考え方を、私は仮に取り上げてみる。そして、ここでまた一つ話をかえてみる。

ネグリト族と隼人
フィリピンのルソン島の所々に、身長が小さく、皮膚が黒く、頭髪が縮れて、円ら眼の、唇の厚い人間が住んでいる。
すなわち人も知るネグリト族で、周囲のマレー系の種族からは、アエタ、アイタ、アジエタ、アグタ、アギタ、アイグタ、アタ、アツタ、エタ、イタ、イナグタ等、種々様々な音で表される名で呼ばれている。タガログ語のイタ、あるいはイテイムやビコル語のイトム、マレー語のイタムからきているといい、これらはいずれも黒いという形容詞だという。ところが、宋の趙汝适の「諸蕃志」には、この地方を含む三嶼という国名の部に「海膽(胆)人」の種族名が見え、形小さく、眼は円く髪が縮れていると、彼等を形容している。この本の英訳者のヒルト氏らは、この海胆(ハイタン)をアエタの対音と考えている。
また元の汪大淵の「島夷志略」の三島の部の「海膽」についても、校注者の藤田豊八博士は、これを「諸蕃志」の海胆であるとし、アエタの対音であるとの考えに賛成している。
これらの考えは正しいと思われる。
すると、アエタ、アイタ、アタの音は、ハイタンのごとくにも伝えられた、という一証がでてきたわけである。
このハイタンの音は、隼人のハイトにはなはだ似ている。
宣長が挙げた「日本書紀」の訓に隼人をハイトンといったという例は、このハイタンにますます近いわけであるが、ここでは胆の音にこだわる必要はない。
しかし、このネグリトを指したハイタンの名と、南九州の古代人を呼んだハイトの名が似ているというのは、偶然のことかも知れない。少なくともその間につながりがあると考えさせる資料は、今のところほとんどない。
同様に、つながりがない、ともいいきれないが、それはともかくとして、ここで必要なのは南方のこうした種族を、あるいはアタともいい、あるいはハイタンともいった、アタはハイタンのごとくにも響くことがあった、という一つの事例なのである。
というのは、天武天皇の白鳳十一年(682)に、大隅の隼人と相撲をとった、と記されている薩摩の阿多の隼人の阿多という地名が、これで浮かび上がってくるからである。
元来、地名と種族名とは、こうした時代には不可分のことが多く、種族名をとって地名にあてた例は他にも少なくない。
例えばエゾは北辺の住民そのものであり、また彼等の住んだ地名の名でもある。南方にも同様の例は多いのである。
薩摩の阿多を種族名からきた地名と認めるのは、それだけでは証拠不十分であるが、一方にマレー系の語圏で、アタがハイタンとも響いた例があるところから、薩摩とアタとハイトとを結びつけることが可能になってきたのである。隼人は古くはアタとも呼ばれていたのであろう。
というのが私の想像の第一段である。つまり、奈良朝のころに、地名をアタといい、種名をハヤトといって別物と考えたのは、当時すでに両語の同源であったことが忘れられていたのであろう。
誤解を防ぐために重ねていうが、隼人の名がフィリピンのネグリトの名に似ているといっても、その二つの種族が同一だったと考える事はできない。
隼人がネグリトに似ていたかを知る材料は、何も残っていないからである。有名な「肥前国風土記」の値嘉島の白水郎は容貌が隼人に似て、その言語俗人(よのつねのひと)に異なっている、とあるのは、隼人が周囲の一般人と容貌や言語風俗を異にしていたことを示すのみであって、その容貌がどうであったは、これだけではわからない。
ただ、今日薩南の地方を歩いてみると、身長が極度に低く、頭髪が縮れ、鼻の平たい人に遭うことがしばしばある。一種の、ネグリト様の体質がこの地方にあることは認められる。しかし、かく痕跡化してしまったのでは、これを強調することができないのである。

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