2015年8月30日日曜日

谷川健一著 「常世論」 講談社学術文庫刊 pp.32-35より抜粋

沖縄から渡来したと思われるハーリー船の競漕が出雲と熊野の双方に行われる。しかし、この二つの地方の類似性はそれだけにとどまらない、たとえば出雲と紀伊の双方に忌部郷、須佐郷があり、速玉神社、伊達神社(韓国伊太氐神社)、須佐神社、加多神社(加太神社)、熊野坐神社があることを挙げて、出雲族が紀伊熊野地方にて第二の故郷としたと述べている学者がいる。


これに対して石塚尊俊は出雲の熊野神社は天平五年の「出雲国風土記」には大社と記されていながら、その神格は杵築大社にうばわれ、一方紀伊の熊野神社は時代が下るとともに神威を高め、信仰圏を高めたことを指摘している、そうして出雲の熊野系とおぼしき神社61社のうち、そのほとんどが紀州からの勧請となっている事実を論証し、出雲族の紀州進出とは反対の事実があることをあきらかにしている。


安津素彦と鎌田純一の二人は、古代人の意識の中にあったヨミの国、トコヨの国の観念がこの出雲、熊野両方に同じように結び付けられて神話が構成されたのではないか、ヨミの国、トコヨの国の観念が、その素材的となるものを統合していく段階で、クマノ、イズモと結びつけられたのではないかと推察している。
たとえばイザナミノミコトを「古事記」では出雲の比婆山、「日本書紀」では熊野の有馬村に葬ったとしているが、これはイザナミノミコトとヨミノクニとを関連付けた神話がさきにあって、そのヨミノクニにつながるところとして、地形その他からして出雲、熊野にそれぞれ結び付けられたのではないかとするのである。

同じような理由でスサノオノミコトについても出雲と熊野を舞台とした神話がある。冒頭に述べた様に、スサノオの子供のイタケルは「日本書紀」の一書に木種をもって紀伊国に渡ったとされ、そのあとでスサノオは熊成峯にいたが、ついに根の国に入ったと記されている。つまり紀伊も出雲も常世のすぐ近くの場所と考えられていることがわかる。

私は安津と鎌田の考えに同感である。つまり大和政権はその西北方にある出雲と、大和の南方にあたる熊野とをともに常世に向う根の国とみなしたのである。それは古代王権の領域が拡大されていく過程において、常世の観念が人々の住む目さきの場所から、国家の四境に遠ざけられたことを意味している。

四囲を山にかこまれた大和では常世といえば、それを常陸、伊勢、熊野、出雲などの海に求めるほかはなかった。

たしかに、「古事記」では「御毛沼の命は波の穂を跳みて、常世の国に渡り来し、稲氷の命は妣の国として海原に入りましき」となっているだけで、「日本書紀」のように神武東征の際の熊野灘の出来事とはされていない。また、「少名毘古名の神は、常世の国に渡りましき」となっているだけで、書紀のように、「少名彦名命、ゆきて熊野の御崎にいたりて、ついに常世のくににいでましぬ。またいわく、淡島にいたりて粟茎にのぼりしかば、はじかれ渡りまして常世のくにに至りましきという」と地名を織り込んだ細かい描写にはなっていない。

これからみると、書紀の叙述の方が地名に結び付けられた新しい説話となっている。ただ、スクナビコナがアワの茎にはじかれた粟島、あるいは熊野の御崎は前後の文脈からして、紀伊熊野よりは出雲の熊野と考えるべきであるが、出雲と紀伊と同じように熊野ということばが残されているのは、クマが神を意味し、またコモルと通音することからして、常世に向う国の土地の名としては双方ともふさわしいものであった。

古代人の観念の中では出雲と熊野とは常世に近いところとして、まぎらわしいものであった。常世に向うところとしては、西北の出雲に行けばよかったし、また南の紀伊の熊野に行ってもよかった。

しかし私は、さらに一歩進めて次のように考えたいのである。常世としての出雲は、常世としての熊野と相似でなけらばならなかったのだと。つまり双方に水葬の習俗があるように、水葬を模倣した儀礼がなくては叶わなかった。この世にハーリー船の競技があるときには、他界にもハーリー船の競技があると信じられていることはまえに述べたことだが、他界どうしもそれぞれ相似である必要があった。出雲と熊野の諸手船の競技が行われ、出雲にモガリを模した青柴垣の神事があると同様に、熊野にも普陀落渡海のモガリの船があった。スクナヒコナは出雲の熊野の御崎から常世国に出発し、また紀伊の熊野からも出発しなければならなかった。イザナミは出雲と同様に熊野にも葬られた。それはひとつの事象を二つの鏡がおなじように反映することにたとえることができる。

 あるいは一つの鏡の中の像が写し合う様に、古代人の意識の中には、それぞれ相似の常世の像があったのではなかろうか。スクナヒコナが、出雲の粟島から粟茎にはじかれて常世の国に行くとき、それは紀伊熊野の御崎からも南の方の常世に旅立つすがたがとられている。こうした考えを前提にしなければ、出雲と熊野との双方にあまりに類似の民俗事象や地名や神社名があることの充分な説明にはならない、と私は思うのである。

古代人の観念は出雲と熊野に分裂した常世の世界をどうして生み出すにいたったか。それはもともと南方から北上し、二つに分かれて日本海の出雲と太平洋の紀伊半島とを洗う黒潮文化に原因があると思う。
もと一つの文化や意識が二つに割れたということから、その相似の分裂のすがたが可能になったのではあるまいか。
つまり古代人の意識には、かつて一つのものが二つに分かれた過程がそのままとらえられていると私は考えるのである。


0 件のコメント:

コメントを投稿