2015年8月30日日曜日

堀米庸三著「歴史と人間」NHKブックス刊pp.38-41より抜粋

(亀井勝一郎)氏によれば私どもが歴史に向うのは二つの欲求によると申します。
その一つは、「自己の生の源泉を、民族性や時代の流れのうちに確認すること、日本人とはそもそも何か」という問であります。
他の一つは、「史上において典型的と思われる人と邂逅し、新しい倫理的背骨を形成する上での根拠を発見しようという欲求」です。

これは人間の研究、歴史への愛情の問題として大切な点ですが、大事なのは、この場合、「歴史上の人物と私どもを隔てる〈過去〉という時間が消えてしまい、現に生きている人と会う様に、史上の人物とつきあう」という点であります。
このような欲求は、人々が「自己の実体、生の根拠」を求めて焦慮する危機の時代に特に顕著になるもので、未曾有の危機をはらむ現代はそれだけ歴史への関心が強い。ところが、この関心にこたえなければならない歴史家は、何故かそれにこたえるところがないと申します。

なるほど―と氏はつづけます―戦中・戦後を通して、明確に対立する二つの史観、皇国史観唯物史観による歴史家がおり、それぞれの史観にとっての典型的人物をたて、それを基準に歴史上の人物の黒白判断・断罪を行ってきたが、どちらの側も「型にはまった砂をかむような無味乾燥な史書を氾濫させた」にすぎなかった。

その理由はどこにあるのかといえば、歴史家が表現に苦心を払っていないのもその一つの理由である。

美文を要求するのではない。官学の歴史も唯物史観の歴史―ここから「昭和史」を正面にすえての批判が始まります―も、裁判記録にも似た典型的な官僚の文章であり、これを書く人間も読んで感心する人間も、ともにその精神構造が問題だ。
第二には、歴史とは人間の歴史にほかならない。歴史家は人間の探究家でなければならず、人間を知らぬ歴史家などいるはずがない。

「歴史に入り込むことは、様々な人間や事件と翻弄の関係に入ることである。あらゆる矛盾の認知であり、断定しがたいところで迷うその姿が、史書の一つの魅力となるのではないか」というわけです。ところが皇国史観も唯物史観も余りに迷いを知らぬ歴史ばかり書いたのではなかったか。

迷いを持つということは、歴史家にとって決定的に大事なことだ。
それはすなわち史上の人物とともに生き、自らもその環境に身をおいて史上の人物の迷いを自ら「追体験」することなのだ。

この追体験の深さがないところから、歴史家は、現代に生きるゆえに過去の人間より進歩していると盲信し、過去の人物の持つ「限界」を述べて得々とするというさかしらが生まれる。そして第三に、「歴史家は共感の苦悩に生きる人」であるのに、現在の歴史家にはそれがなく、そこからして史上の人物が個性を欠く類型に堕してしまう危険が生ずる。歴史家は宜しく史上の人物に対する愛憎を表白すべきである。「公平を期するのはよいとしても、「客観的」臆病者になってしまってはいけない」というわけです。

亀井氏によれば、これが現代史家の多くに通ずる欠陥というのですが、そこからして上記の人間性喪失の歴史が出来上がるということになります。
「昭和史」を読み終わって不思議に思われるのは、「この歴史には人間がいないということである」。「〈国民〉という名の人間不在の歴史である。個々の人間の名・・・敗戦に導いた元凶とか階級闘争の戦士の名は出て来る。ところがこうした歴史に現れねばならないはずの〈国民〉が不在だ」。
 
「戦争を強行した軍部や政治家や実業家と、それに反対して弾圧された共産主義者や自由主義者と、この双方だけがあって、その中間にあって動揺した国民層の姿は見当たらない。つまり〈階級闘争〉という抽象概念によって二つに分類限定し、そこに類型化が行われたのではないか」。中国侵略の責任は支配階級のみのものではなく、「西洋への劣等感」とも結びついた東洋人蔑視の感情を持ち続けた一般国民のものでもある。歴史家はこの国民をも正視するものでなければならない。これが第一点です。

しかし亀井氏の指摘する人間不在は、国民という集団にだけ関するものではありません、個々の人物の描写についても同じことが云えるのです。「たとえば田中義一近衛文麿東条英機といった各時期の政治家を登場させながら、時代が彼等に強いた異常な性格やその微妙な変化には全く無関心である」。田中や東条のような諷刺の絶好の対象があるにかかわらず、東条は「軍閥」概念の一統計人物となり、革命家は「革命」概念のそれに終わっている、共産主義者の闘争についても、彼等が国民の広い層に結びつき得なかったのは、ただ弾圧のためだけだったのか。
それとも戦略や戦術上の大きい誤りもあったのではないか。人間としての欠陥もあったのではないか、こういった点の指摘がなくては人間はすべて宙に浮いてしまう。「つまり軍部という一つの極限も、共産党という一つの極限も、それぞれ国民性や時代の性格に集約的に結びついているはずで、その結びつきの深浅や変化等々、この種の歴史にとって必至のテーマを何故無視してしまったのか」。これが亀井氏にとって不思議に思われた点だというのです。
 
 
 
  • ISBN-10: 4140010320
  • ISBN-13: 978-4140010327

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