2015年8月30日日曜日

ジョージ・オーウェル著オーウェル評論集 2 水晶の精神 平凡社刊pp.268-273より抜粋

1937年にパリで死んだザミャーチンは、ロシアの小説家で、革命の前後に何冊かの本を出している。「われら」を書いたのは1923年ごろ。この作品はロシアを描いたものではないし、26世紀を扱った空想小説で、現代の政治と直接のつながりはないのだが、イデオロギー上好ましからざるものだという理由で発禁になった。(中略)
これはまだ一度も指摘されていないと思うが、「われら」に関してまず誰でも気付くと思われることは、オルダス・ハックスリー(1894-1963)の「素晴らしい新世界」(1932)がこの作品から部分的にヒントを得ているにちがいないということである。どちらの作品も、合理化され、機械化され、苦痛すらなくなっている世界に対する原始的な人間精神の反乱を扱っており、どちらの作品も、これからほぼ600年後の未来世界に起こる出来事を描いている。
これらの二つの作品は雰囲気が似ているし、ハックスリーの作品の方が政治意識が希薄で、生物学や心理学の最近の学説に影響されている度合いが大きいという相違はあっても、大雑把にいって、描かれているのは同種の社会である。

ザミャーチンが描く26世紀では。ユートピアの住人は個性というものをまったく失っており、番号によってしか認知し得ない存在になっている。彼等はガラスの家に住み(これはテレビが発明される前に書かれたものだ。)、そのおかげで「守護者」という名の政治警察が住民をいっそう楽に監督することができる。住民は全員同じ制服を着、一人一人は「員数」もしくは「ユニファ」(制服)で呼ばれるのが常である。

食料は合成食品で、レクリエーションといえば、その単一国家の国家がラウドスピーカーから流れている間四列縦隊で行進することぐらいである。
規定された間隔で一時間(「性の時間」と呼ばれる)だけガラスの住居にカーテンを下すことが許されている。性生活は相手構わずというわけではなさそうだが、特定の相手との結婚はもちろんない。愛の営みのためにすべての人がピンク色の一種の配給切符を持っていて、割り当てられた性の時間を過ごす相手の女性は、控えにサインする。単一国は「恩人」なる人物によって統治され、この「恩人」は毎年の選挙で全国民によって全員一致で再選される。
この国家の指導原理は、幸福と自由は両立しないということである。いまやこの単一国が人間の自由を除去することによって人間の幸福を取り戻した、というわけである。(中略)

ザミャーチンの作品の方が全体としてわれわれ自身の状況によく当てはまる。教育され「守護者」に監視されているにも関わらず、古くからの人間本能のまだ多くが、そのユートピアのなかに生き残っている。
この物語の語り手はD-503という有能なエンジニアだが、貧しいありきたりの人物で、ロンドンのデカをユートピアに移したようなやつで、革命以前の昔へ戻りたいという衝動にたえず襲われていて、これにおびえている。
彼はI-330と恋に陥る(いうまでもなく、これは罪である。)この女性は地下レジスタンス運動の一員で、一時彼を反乱に導き入れることに成功する。反乱が起こってみると、「恩人」の敵はじつはどうも相当な数に上るらしい。そしてこれらの人々は国家転覆の計画とは別に、カーテンが下りている時に喫煙とか飲酒といった悪習にまでふけるのである。しかしD-503は、土壇場になって自身の愚行の報いを受けずにすむ。
当局は最近の騒動の原因を究明したと発表する。想像力という病気にかかった者がでた、というのである。想像力を司る神経中枢が突き止められ、その病気はX線治療で治るようになる。D-503はその手術を受け、術後には最初から自分の義務だと知っていたことが楽に果たせるようになる。つまり、共謀者たちを警察の手に渡すのである。I-330がガラスの鐘の下に入れられて圧縮空気で拷問されるのを、彼は泰然自若として見つめている。

彼女は両手で椅子の肘掛をつかんで私を見たが、ついに両目を閉ざしてしまった。彼等は彼女を椅子から引きずりだし、電気ショックで意識を取り戻させ、また鐘の下に入れた。この操作が三度繰り返されたが、彼女は一言も漏らさなかった。
一緒に連行されてきたほかの人々は、もっと素直なところを示した。彼等の多くは一度の拷問だけで白状したのである。明日、彼等は全員「恩人の機械」に送られることになるだろう。
「恩人の機械」とはギロチンのことである。
ザミャーチンのユートピアでは多くの処刑が行われている。それは「恩人」の臨席の下、公衆の面前で行われ、御用詩人たちが朗唱する頌歌が付きものである。
ギロチンといってももとより旧式の残酷な刑具ではなく、大幅に改良された型で、犠牲者を文字通り液体化する。
一瞬のうちに一陣の煙ときれいな水たまりにしてしまうのだ。
処刑は要するに人身御供で、処刑を描いた場面に、ザミャーチンは、古代世界のあの悲惨な奴隷文明の色合いを意図的に与えている。
ザミャーチンの作品をハックスリーの作品よりすぐれたものにしているのは、人身御供、目的そのものと化した残虐性、神性があるとされる指導者の崇拝といったような全体主義の非合理的側面を、このように直観的に把握している点である。

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