2015年8月30日日曜日

堀米庸三著「歴史と人間」NHKブックス刊pp.19-22より抜粋

私どもは今、少し以前では夢想だにできなかったことが可能になっておりますが、これは私どもが別にスーパーマンになったことを意味してはおりません。

なるほど私どもはボタン一つで暑さを涼しく寒さを暖かさに変え、洗濯をし掃除をすることができます。
空を飛び土や水にもぐり、数千里の彼方を見たり、そこに住む人と話をしたり、さらに最近は地球引力のおよぶ外側にさえ出ることあたかも孫悟空の如くであります。
しかしそれぞれの専門家以外、私どもの誰も、どうしてそれが可能であるのか知りませんし、まして肉体的にはいかなる意味でも以前の人間より強力になったわけではありません。技術の進歩は、そのままにしておけば、私どもの肉体的能力を低下させるだけであることは、野蛮人や鳥獣との比較を考えればすぐわかることです。
私どもは肉体的には何一つの進歩もないのに、私どもの大多数にはわけのわからぬ、その点では非人間的・抽象的な技術の進歩のおかげで、肉体的には見ることも聞くこともできぬものを、見聞しているわけです。
そこで、今日では誰一人地球が球状をなしており―といっても、それは完全な球体ではなく、西洋梨状だといいますが―また太陽をめぐる一物体であることを疑わないにもかかわらず、私どもは、大地が平面であると信じられていた時代の人間と同じように、相変わらず太陽は地球の周囲をめぐり、朝、東の空に上がって、夕べ、西の空に沈むといっております。
私どもの具体的な感覚にとっては、それで少しも不都合は生じませんし、地球が西洋梨みたいな形だといっても、それをこの眼で見たわけではありません。精密な観察と計算だけが、私どもにそれを知らせてくれるのです。

このように見てみれば、私どもの生活条件についての知識は、技術の進歩とともに抽象化してゆくのでありまして、比較的な意味では少なくとも、私どもは科学技術の進歩とともに無知になってゆくのです。
もし万一何等かの理由により、この技術的知識が適用できなくなった場合、たとえば突然の天災地変とか戦争とかによって現在使用している動力や通信交通の手段が使用不能に陥った場合には、この技術的知識のなかった時代の人間よりはるかに頼りのないみじめな状態に落ち込んでしまうのです。
乱暴な言い方をすれば、野蛮人の方が文明人より、はるかに確実な、あるいは具体的な生活上の知識を持っているとさえいえるのです。

他方、マルクスエンゲルスの考え方によると、人間は打ち勝ちがたい自然的障壁や説明のできぬ人生の不思議に出会うと、それを神として神秘化したと申します。
宗教とは人知の限界において生じる観念ということになります。生物学が生物の進化を、生理学や心理学が造物主の創造の秘密を明らかにし、経済学が人間社会の不可測性の神秘を説いて以来、この世界には原理上宗教の存在する理由はなくなったといわれます。
教会がしばしばこのような学問の敵であったり、その成果に懐疑的であったとすれば、それはある程度マルクシズムの言い方が当っているかもしれません。
少なくとも宗教が真の生命を持ち続けようとするには、人間の手で生命の合成が可能となる以前において、伝統的な造物主の観念は捨てた方が賢明であるといえましょう。

しかし今私が考えているのは宗教の運命ではありません。
科学がこれだけの速さで進歩をとげ、技術の発達が科学の進歩の動かしがたい証人となっている現代において、相も変らず迷信が信ぜられ、新しい信仰が次々と生まれてくること―既成宗教が容易に衰えないことはいうまでもありませんが―これこそが今考察される必要のある問題でしょう。
この問題がどの程度、現代社会の矛盾として説明されるか、ないしは社会の進歩がいつかあらゆる宗教を社会倫理の問題に帰着させてしまうかどうか。
れはまたしても別個の関連で取上げられるべき問題です。問題は現代においても大衆の宗教上の問題は何千年来少しも変化がないという事実です。
生命がアナザー・トライヤルを許さない一回限りのものであり、この貴重な生命が主観的には少なくとも何千年来同じ不可測の危険に脅かされてきていること、学問がどのように進歩しても、生命の無意味を教えこそすれ、絶対にその究極の意味を教えないという事実、これが科学の進歩と逆行する非合理的な信仰の諸形態を生み続けている理由でしょう。
人生のこの根本問題については、釈迦とキリスト以来果たして本質的な進歩があったのでしょうか。

技術的な知識は人間の生命から独立に、世代から世代へと蓄積せられ、今日の高さに達したのですが、精神的な知識には、どこまでも個性的なものが残ります。
その中には社会的獲得として教育によって世代から世代に受け継がれ発展させられてゆくものもあります。
しかし人生の根本問題は個性的な知恵として以上の客体化ができず、人間は原則上同じ生活知に達するため、何千年ものあいだ同じ努力を繰り返してまいりました。
プラトーン対話編を今日の問題として愛読できるのはこのためであり、また同じ事は芸術の世界についてもいうことができます。造形の技術は世代ごとに蓄積されましたが、美の個性的表現は、技術とは関係なしに可能であります。たとえば遠近法の有無によって芸術作品の価値の上下を決めることが出来ましょうか。西洋風の表現と東洋風の表現の芸術的価値の優劣を論ずることができましょうか。

このように宗教や芸術、一言でいえば人間の精神的価値の領域では、古代も現代もないのです。
歴史はこの点で私どもに無限の経験の宝庫を開いてくれるはずのものです。
ただしこの宝庫は、博物館のような入場料を払えば、あとは自分で自由に見られるといった性質のものではありません。
その宝庫を開いてくれるのは歴史家であり、陳列物を並べその各々に説明を加えるのも歴史家です。で
すから門番でもあり案内役でもある歴史家が悪ければ、入場者はどんな高い料金を出したところで、期待した宝物に接することができないわけです。
 
 
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