2015年8月30日日曜日

養老孟司著 「カミとヒトの解剖学」 ちくま学芸文庫刊 pp.35-38 およびトーマス・マン著「魔の山」より抜粋

「前章「宗教体験と脳」でも述べたように、私は中・高校時代に、一種の宗教教育を受けた。べつに信者ではないが、その影響は、間違いなく尾を引いている。そういうと中身の影響かと勘違いする人もあるかもしれないが、そうではない。形式である。つまり、学校の教壇で、神とは何か、倫理とは何か、そういう問題を論じること自体である。この教育がなかったら、私は科学者だから、そういう問題は論じない。いまでも、そう頑張っているかもしれない。



 別に神の内容は、なんでもいいのである。この国でも「鰯の頭も信心から」というではないか。問題は鰯の頭ではなく、鰯の頭の論じ方である。これは昔から人間がやってきたことであって、それには判然とした形式があるはずである。今の教育では、それを抜いてしまうから、おそらく私が「無国民」になるのであろう。学校で「倫理」「宗教」を教えるというと、言っている方も、聞いている方も、鰯の頭を考えるのではないか。


 鰯の頭を教えなければ、信心の説明のしようがない。つまり、形式と内容は不可分だ。もちろん、そういう意見もあろう。しかし、現在の教育の状況は、そこまで高級なものではなかろう。それなら、内容は鰯でいいではないか。倫理教育賛成派は、鰯の頭を大切にせよというし、反対派は鰯の頭がなんになるという。問題はそこではない。

 自然科学の思考は、この国に、わりあいしっかり根付いてきたと思う。それは、外界とヒトの脳の間の、整合性の検定である。外の世界と、脳の考えることが、観察や実験によって、整合的であることを判定する。外の世界と、脳の考えることとが、観察や実験によって、整合的であることを判定する。そこはいい。ところが、外界と脳とのインターフェイスばかりを、一生懸命やっていたら、だんだん頭の中が薄っぺらになってきた。境の方に注意が集中するので、肝心の頭の中身について、よく考えなくなった。文科系の人はよく「人間はどうなる」というが、これも同じことを指すのであろう。科学であろうが、宗教であろうが、ヒトの営為には変わりがない。そうしたヒトそのものの理解は、昔から宗教の役目であったはずである。

その部分を教育から外すと、インターフェイスばかりが一人歩きする。脳と外界の境の扱い方は、方法論がよくわかってきたが、境というのは、両側があってはじめて成立する。そんなことは当然のことである。ところがインターフェイスだけになってきたから、人間側がかなり怪しくなってしまった。

たとえば、医学教育を自然科学の価値観で統率してしまうから、脳死をどう考えたらいいのか、医者自身がわからなくなる。自然科学の原理には、ヒトはどう生きるかなどは始めから書いてない。当たり前である。だから皆さん決めてくださいという。そんなことは、皆さんではなかなか決められない。第一、それではなんのために医業を社会的に権威づけ、資格を与え、金を払っているのか、わからない。臓器移植の技術と研究に金をかけ、時間を過ごし、移植はほとんどやっていない。一種の敵前逃亡である。

もちろん、医者ばかりが悪いわけではない。人間とはなにかに関する、話し合いの方式がない。そんな迂遠なことを、患者さんを目の前にして、議論している暇は、医者にはない。誰でも常識的に気付いていることであろうが、迂遠をあえて問おうとしないことが、この国の戦後教育の問題だった。しかし、いまや教育の問題を通り越して、社会の問題になった。それは当然のことで、子供はいずれ大人になるからである。教育をサボった分は、取り返しがつかない。医療や政治、つまりヒトを扱う分野で問題が生じて止まないのは、私が宗教教育と呼んだものがないからである。大人が、現場で、倫理の実習をしている。それでも、きちんと進歩してくれればいいが、叱る方も、叱られる方も、形が設定されていないから、五十歩百歩にみえる。叱られる方が、ともかく現場を背負っているものの、叱られるところをみると、ある程度は非があるのかもしれない。叱る方はといえば、カブトムシみたいな大きな字を書いて、現場を叱って済ませている、これでは、はなはだ心許ない。
誤解が生じるといけないから再言するが、鰯の頭がない、と文句を言っているのではない。「鰯の頭も信心から」ということを、どこで教えるか、という問題なのである。ヒトとはそういうものであると、それを教えるのが「教育」ではないのか。この国には特定の宗教を考える風習がない。ないならないでいいから、それに相当するものがなにか、それを考える必要がある。」


「私たち人間は、誰も個人としての個人生活を営むだけでなく、意識するとしないとに関わらず、その時代とその時代に生きる人々の生活をも生きるのである。私たちが、私たちの存在の基礎をなしている超個人的な普遍的な基礎を、絶対的なもの、自明なものと考えて、それにたいして批評を加えようなどとは、善良なハンス・カストルプがそうであったように、考えてもみないとしても、そういう基礎に欠陥がある場合に、私たちの倫理的健康がなんとなくそのためにそこなわれるように感じることは、大いにありうることであろう。個々の人間にとっては、様々な個人的な目標、目的、希望、将来が眼前にあって、そこから飛躍や活動の原動力を汲み取ることもできよう。しかし、周りの超個人的なもの、つまり、時代そのものが外見はいかに目まぐるしく動いていても、内部にあらゆる希望と将来を欠いていて、希望も将来もない途方にくれた内情をひそかに現し、私たちが意識的にか無意識にか、とにかくどういう形かで時代に向けている質問-私たちのすべての努力と活動の究極的な超個人的な絶対的な意味についての問いに対して、時代がうつろな沈黙を続けているだけだとしたら、そういう事態による麻痺的な影響は、ことに問いをしている人間がまじめな人間である場合には、ほとんど避けられないであろう。そして、そういう麻痺作用は、個人の心情と倫理的部分からただちに肉体と有機体の部分にもおよぶであろう。」

A man lives not only his personal life, as an individual, but also, consciously or unconsciously, the life of his epoch and his contemporaries. He may regard the general, impersonal foundations of his existence as definitely settled and taken for granted, and be as far from assuming a critical attitude toward them as our good Hans Castorp really was; yet it is quite conceivable that he may none the less be vaguely conscious of deficiencies of his epoch and find them prejudicial to his own moral well-being. All sorts of personal aims, ends, hopes, prospects, hover before the eyes of the individual, and out of these he derives the impulse to ambition and achievement. Now, if the life about him, if his own time seem, however outwardly stimulating, to be at bottom empty of such food for his aspirations; if the privately recognize it to be hopeless, viewless, helpless, opposing only a hollow silence to all the questions man put, consciously or unconsciously, yet somehow puts, as to the final, absolute, and abstract meaning in all his efforts and activities; then in such a case, a certain laming of the personality is bound to occur, the more inevitably the more upright the character in question; a sort of palsy, as it were, which may even extend from his spiritual and moral over into his physical and organic part.


小林秀雄「科学する心」












0 件のコメント:

コメントを投稿