2016年9月18日日曜日

20160917 筑摩書房刊 丸山眞男著「忠誠と反逆」pp.234ー237より抜粋引用

「明六社的啓蒙思想がフランスの百科全書家ほどラディカルでなかったとすれば、なにより伝統的思考の範疇を打破し転回させるという点の不十分さという点にこそ問題の所在を求めねばならぬ。

それにしても明六社の思想は十年代以後の自由民権論に比べて、政治的急進性において劣っていたものを、啓蒙主義本来の課題の方法的自覚において補っていたといっても必ずしも言い過ぎではない。

明六社のような非政治的な目的をもった自主的結社が、まさにその立地から政治を含めた時代の重要な課題に対して、普段に批判して行く伝統が根付くところに、はじめて政治主義か文化主義かといった二者択一の思考習慣が打破され、非政治的領域から発する政治的発言という近代市民の日常的モラルが育って行くことが期待される。

その意味では、この明六社が誕生わずか一年余りで讒謗律、新聞紙条例といった維新政府の言論弾圧によって解散しなければならなかったということは、近代日本における開いた社会の思考の発展にとって象徴的な出来事であった。

これ以後にもっとも活発に社会的に活動する自主的結社は、ほとんど政党のような純政治団体に極限されていかざるを得なかったのである。

けれども、政治団体が自主的集団を代表するところでは、国家と独立した社会の十全な発達は期待できない。

むしろ本来的に闘争集団であり権威性と凝集性を欠くことのできない政治団体にたいして、開いた社会への垂範的な役割を託するということ自体に内在的な無理があるというべきであろう。

政治と異なった次元(宗教・学問・芸術・教育等々)に立って組織的化される自主的結社の伝統が定着しないところでは、一切の社会的結社は構造の上でも機能の上でも、政治団体をモデルとしてそれに無限に近づこうとする傾向があるし、政党はまた政党で、もともと最大最強の政治団体としての政府の小型版にすぎない。

それだけにここでは一切の社会集団がレヴァイアサンとしての国家に併呑され吸収されやすいような磁場が形成されることとなる。

「交詢社」などの使命とした「社交」がその後たどった運命はどうであったか。
維新以来のもっとも著名な知日家の一人であるB・チェンバレンは、この国の自然の風景の素晴らしさと対蹠的に「社交」がおそろしく退屈(ダル)なことをのべ、「日本における善美なもののカタログをひろげれば随分沢山ある。
けれども諸君の教養ある魂が客間やコンサートホールのよろこびを憧れはじめたら、諸君はむしろ故国へ帰る切符を買った方がいい」(Things japanese, 6th rev. ed., 1901, 〔1st ed., 1890〕のなかの“Society”の項)と勧告しながら、そこに潜む根本問題についてつぎのような定式化をこころみている。

日本では、社交界というのはほとんど全く政府筋のものである。イギリスで田舎の名門といえば、官職を引き受けるのも引き受けないのもあるが、引き受けた場合にも、それですこしでも家門の名誉が増すわけではなく、それどころか逆に官位の方に箔が付くのであるが、そういった意味の名門に当たるものが日本には皆無である。(中略)

日本では皇室が事実上唯一つの名誉の源泉であり、一旦敗れた大義名分(コーズ)にはこの国では誰も味方に付き手がない。
(中略)皇室(というよりも皇室の名において行動する者なら誰でもいいのだが)は古い封建制の廃墟の上に新たな官僚制を築いたが・・・この官僚制こそ国家そのものでありまた社交界でもあって、いかなるライヴァルの存在をも始めから排除してしまうような、本来の意味での貴族制なのである。
・・・実際日本の社会では官界が圧倒的なエレメントであり、政府の援助なしには何一つできない。

アングロ=サクソンはこうした個人主義の欠如をもって、とかく弱さの源泉と断定しがちである。

しかしこうした見方にたいして、日本の驚異的勃興―日本が政府の指導下の奮励によってたった一世代の間にかちえた地位―はまさに抗し難い反証となる。

日本はプロシアのように中央集権化を通じて成功した。
その四千三百万の国民はあたかも一人の人間のようにうごくのである」。

無数の閉じた社会の障壁をとりはらったところに生まれたダイナミックな諸要素をまさに天皇制国家という一つの閉じた社会の集合的エネルギーに切りかえて行ったところに「万邦無比」の日本帝国が形成される歴史的秘密があった、チェンバレンのいう反証がはたして、またどこまで、反証でありえたかを、すでに私達はおびただしい犠牲と痛苦の体験を通じて知っている。
しかし、その体験から何をひき出すかはどこまでも「第三の開国」に直面している私達の自由な選択と行動の問題なのである。」

ISBN-10: 4480083987
ISBN-13: 978-4480083982

2016年9月16日金曜日

20160916 読書の種類、環境の変化と文章の作成について・・

A「ここ最近読み進めている、どちらかというと理系分野の著作を読んだ直後とは、少なくとも私に関しては、あまりこうしたブログの文章が(相対的に楽に)思い浮かばなくなるようです・・。

これはここ最近(のみ)の傾向であるのか、今後更なる検証が必要ではありますが・・・。

あるいは、これは単なる経験(N)不足によるものであるのかもしれませんが・・。

しかし、傾向としては、やはり何かしらの文学作品あるいは文系分野の著作を読んでいる時の方が、あまり一つのコトバ(の厳密な意味)に捉われず、あるいは文章の簡潔化にも捉われることなく、何と言いますか、伸び伸びと文章を書けるような感じがします・・(笑)。

そして、もし、こうした傾向が実際に内部において存在するのであれば、やはり私は元々文系の人間ということになるのでしょうか・・?

もちろん断定は出来ませんが・・。

とはいえ、こうしたことに関しては、他者の御意見をあまり聞いたことがないため、どうもイマイチよく分かりません・・。

自分自身のこととは、相対的にはなかなか分からないこともあるものです・・(苦笑)。

しかし、その一方で思うことは、ある種の書籍を読んだり、あるいは誰かと話しますと、理由はよくわかりませんが、文章などの主題を思いつく、ひらめくといったことは(比較的よく)あるのではないかと思われます・・。

そして、その反対といったこともまた、あるのかもしれませんが・・(苦笑)。

その点において、ここ一年程度の周囲の環境とは、果たして好ましいものであったのでしょうか・・?

あるいは、そうした環境に慣れて(しまい)、ここまでどうにかブログ記事作成を継続することが出来ているのでしょうか・・?

そして、今後もし何か(大きな)環境の変化があった場合、それに適応し、記事などといった文章作成を継続することができるのでしょうか・・?

・・こうしたことを考えてみますと、多少不安になってくるものです・・(苦笑)。

しかし、それと同時に、採用されれば必然的に環境が変化すると思われる大学職種の公募に応募しようというのは、これまたさきに述べた不安(環境の変化により文章作成の継続が図れるのか?)と矛盾するものではないのだろうか・・(苦笑)?

しかしながら、その前段階で、このブログ記事作成を開始した主な理由とは、自身の文章を書けなくなったことに対する適当な解決策として周囲の方々に勧められ、また自身もそれに納得、同意したことにより、それは文章作成における環境の変化への心配以前のものであることから、それ(環境の変化)が本心から自身の望む環境の変化であるならば、たとえ文章を一時的に書くことが困難となったとしても、これまでどうにか継続してきた何かしらのコツらしきものを頭よりも身体の方が記憶しており、再度何かしら(案外早く)書くことが出来るようになるのではないかと思います・・(笑)。

とはいえ、こうしたことも冒頭に述べたように、その後の検証が必要であるとは思いますが・・。

どうも、ここ最近は自身の内部に対する興味関心を述べてきてしまいましたので、今後少し趣向を変えてみようと思います・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」



20160915 理念と欲、ブログ記事作成について・・

一連のブログ記事も400記事への到達から、もうしばらく経ちました・・。

本日は多少帰宅が遅くなり、記事作成を多少面倒に思いましたが、それでもまた、何かしら作成しておこうと考え書きはじめた次第です・・。

ここまで記事作成を継続して行っておりますと、ほぼ惰性あるいは習慣となってしまっているのではないかと思われますが、たしかに双方共に間違いではないと思います・・(笑)。

また、特に前者に関してはより強くそうであると思われます・・(苦笑)。

もともと私は特に勤勉な方ではありません・・。

しかし一方において、自身の好きなことには昔から没頭するクセがあります。では、昔から没頭しているクセとは何であるかと考えてみますと、それは読書であるといえます。
それ故、その時々において自身の好んだ分野における読書とは、あまり苦にならず、ある程度の量を読み込んでいるのではないかと思われます。

しかし、その読み込んだ書籍の分野、分野があまり(世間一般における)統一性を持ったものでないため、現今のような事態(決して「悪い」とは思いませんが)を招いているのではないかとも思われます・・。

とはいえ、これらは自身としては、ある程度統一されたものであり、それぞれの分野間に結節点、移行部が存在し、それをどうにか文章にて説明しようとする試みが、この一連のブログ記事なのではないかと思われますが、さて、これらを読んで頂いている皆様に納得して頂けるでしょうか・・?

また、納得して頂いたとしても、そこから肯定的な評価を頂けるかどうかもまた、別のハナシになってきます・・(苦笑)。

しかしながら、考えてみますと、何も肯定的な評価を(より多く)得るために一連のブログ記事を作成しているわけではなく、その当初においては「とりあえず自分なりに書けることを書いていこう。」といった理由により、ブログ記事の作成をはじめたわけであり、それは現在なお特に変化しているわけではありません・・。

ただ、ブログ記事作成を継続していくに伴い、読んで頂いている方々の数が当初の予想よりも(大幅に)上回ったため、何かしらの「欲」(もっと多くの閲覧者を得たい)のようなものが出てきたというのもまた事実であるといえます・・(苦笑)。

そして、さきに記したブログ記事作成をはじめた当初の理念(「とりあえず自分なりに書けることを書いていこう。」)と、後に現れ大きくなった「欲」との争いが葛藤となり、それを通じて一連のブログ記事とは作成されている傾向があるのではないかと思われます・・。

そうしますと、これら双方(当初の理念・欲)とは、共に重要、不可欠なものであり、何れか一方により統一されることにより、案外ブログ記事の作成という一応創造的な行為とは、困難なものとなってしまうのかもしれません・・。

また、これらの矛盾するとも見える要素を一人がその内部に包括することにより、ブログ記事の作成を含めた能動的、創造的ともいえる行為が為されるというのは、特に珍しい意見でもなく、ヘーゲルの弁証法、西田幾多郎の絶対矛盾の自己同一なども、大きく見れば、それに適合するのではないかと思われますが如何でしょうか・・(笑)?

しかし一方、ここで大事なことは「矛盾するとも見える二つの要素を一人がその内部に包括すること」であり、おそらくこのこの矛盾する要素の相異、矛盾の度合いが大きくなればなる程に、それを一人格が包括することが困難となり、精神に対し負荷となるのではないかと思われます・・。

そして、そうであれば、こうした負荷を出来るだけ少なくして、より大きな矛盾を包括出来ればそれで良いのではないかとも思われますが、しかし、おそらくそこには「持続可能性」といった概念があまり考慮されていないのではないかと思われます・・。

そして、そうしたところに様々な物質と人間の精神の異なる点が存在するのではないかと思われます・・。

またそれと同時に、昨今流行している人間の心理、精神に関しての問題解決型の多くの書籍とは、おそらくそうした点があまり考慮されていないのではないでしょうか?

もちろん一概にはいえないハナシではありますが・・。

とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂いて、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。

2016年9月14日水曜日

20160914 羽根、鋳バリ、銅鐸の鰭飾り・・

本日の首都圏もまた天候が不安定であり、小雨が降ったり止んだりといった状態でした・・。

また、よく読まれているブログ記事を見てみますと、よく読んで頂いているようであり、本当に感心し恐縮すらしてしまいます・・(苦笑)。

これら一連の記事を読んで頂いている皆様、どうもありがとうございます。

さて、これまで投稿したブログ記事も400からいくらか過ぎ、このまま順調に記事の投稿が為されたならば500記事もそこまで遠い先ではないことのように思えてきました・・。

自分で記すのも、おかしなハナシではありますが、よくもまあ、ここまで書き続けることが出来たと思います・・。

とはいえ、こうしたことをさらに長い間されている方々も特に珍しいわけでもありませんので、あくまでもこれは主観的な思いではありますが・・。

また、本日に関しても、ここに至るまで記す題材も特に定めているワケではありません・・(苦笑)。

そういえば、本日町中にて鯛焼きの美味しそうな匂いに誘われて、少し気を付けて見てみますと、そこに「羽根付き鯛焼き」と記されており「何故鯛焼きに羽根がついているのだろう?」と思い、しばし観察してみますと、どうやらこの羽根とは、鯛焼き作成時の周りの生地によるバリのことを指すようであり、これは同様に「羽根付き」と称される餃子と同じパターンのネーミングであることが分かりました・・(笑)。

しかし「何故このバリともいえる羽根があることがブランドになるのだろうか?」と考えてみますと、残念ながら、その適当な答えは思い浮かびませんでした・・。

その一方、同じく液状の物質を型に流し込み所望の外形、外観を得る技術として鋳造が挙げられますが、鋳造においてはこうしたバリとは絶対に避けるべきものとして考えられています。

そして、その鋳造時に生じるバリの主要な原因として、
埋没材の急加熱、鋳型への衝撃、埋没材の膨張差、埋没材の亀裂などが挙げられます。

これらは総じて何らかの原因(主に埋没材の急加熱、衝撃)による鋳型内部(パターン空洞部との接続部)の亀裂によって生じるものであるといえます・・。

こうした鋳造時に生じる鋳バリとは、我が国古代(弥生時代)における銅鐸においても、見出すことが出来、また、この鋳バリを起源として装飾へと転化、進化させたものが、縁に鰭のような装飾が為された大型(後期)の近畿式銅鐸であると言われており、私はこの説が妥当であると考えております。

また、そのような製作者あるいは使用者の心のメカニズムが同様にさきに述べた鯛焼きあるいは餃子における羽根のブランド化?にも転用、応用することが出来るのではないかと思われますが、さて、如何でしょうか・・(笑)?

また、それに関連して、さきに述べた近畿式銅鐸の鰭状の装飾部(円型、渦巻き文様)のみがペンダント状に再加工され後代(古墳時代)の静岡県沼津市の遺跡から発掘、出土していることは、なかなか興味深く、これは住民の移住(近畿から静岡へ)を示唆しているのかもしれません・・。

そしてまた同様にそれは、以前当ブログにて抜粋引用しました谷川健一著の文章を裏付ける一つの要素となり得るのもしれません・・。


さきにも少し述べたが、我が国における青銅製祭器のなかで、特に我が国において特有と考えられるものが銅鐸である。

多くの場合、銅鐸はその出土に際し伴出物なく孤立し、しかも工事などの際に偶然見出されることが多い。

また、それら形状の多くは、我が国にて独特のものであり、周辺諸国に同じ形状のものがなかったことから、これを説明するため一種の仮説が立てられた。

それは現在の日本民族の祖先が渡来する以前の民族、原住民が作製したものであり、彼らが滅亡する際に、この青銅器を土中に埋め、侵入者に発見されることを避け、逃走したというものである。

しかしその後、銅鐸が他の青銅製祭器(銅剣、銅矛、銅戈など)および弥生式土器と一緒に出土、発見されたことから、銅鐸も我々の先祖が作製した弥生式文化事物の一つとして認識されるようになり、またその祖型とは中国、朝鮮半島における楽器の一種である編鐘(へんしょう)あるいは家畜の首にぶら下げる鐸(さなぎ)であるといった理解が為されるようになり、銅鐸もまたその祖型とは他の同時期の文化的事物と同様、中国、朝鮮半島より齎されたものと認識されるに至った。

銅鐸の出土分布は西日本に集中し、近畿、四国東半、瀬戸内、山陰に特に多いと云える。

また、この時代においては、後の古墳時代ほどではないにしても、実用的利器の素材としてはより有用な鉄を用いることも珍しくはなかったことから、実用的利器の素材として青銅とは、あまり重要でなかったものと考えられる。

これは九州北部を中心として四国西半、瀬戸内、山陰にて発見、出土される銅剣、銅矛においても同様のことが云える。

それ故、これら青銅祭器とは、中国、朝鮮半島から九州北部を経て主に西日本の弥生式文化圏へ伝播していったのであるが、それとほぼ時を同じくして鉄器文化もまた同様の経路にて伝来し、そこで利器素材としての価値を失った青銅とは祭器を主とした用途にしたものと考えられている。

ともあれ、一般的な世界史時代区分にて考えると、石器時代に次いで青銅器時代そして鉄器時代へと移行あるいは進化していくのだが、我が国の歴史において特徴的であることは青銅器と鉄器がほぼ同時に中国、朝鮮半島より齎されたということであると云える。

金属製品とは一般的に鍛造、圧延、切削などの方法により加工・製作されるが、その本質である優れた機械的強度により、かなり多くの労力が費やされると云える。

とりわけ複雑な形状の製品を製作する場合は困難であると云える。

そして、それを解決するための方法が鋳造であると云える。

鋳造においては金、銀、銅、鉄、亜鉛、スズ、アルミニウムなどを単独あるいはそれらを合金化して用いる。

鋳造に用いる合金、金属としては青銅あるいは銅がもっとも古いとされている。

以前の記事においても述べたが古代メソポタミア(両河地方)においては紀元前3500年頃すでにその合金が存在し鋳造に用いられていた。
 
また古代エジプトにおいては紀元前2000年頃より為され、古代中国においては殷・周の時代すなわち紀元前1500年以降が青銅器時代とされている。

わが国においては弥生時代にそれらが大陸、朝鮮半島からもたらされ、またそれは鉄器伝来とほぼ同時代であったことから明確に青銅器時代として区分される時代はなかったと云える。

昨今は弥生時代の鋳造遺跡が多く発見され、その最古のものは現在のところ和歌山県御坊市の堅田遺跡(紀元前200年頃)であるとされているが、おそらくほぼ同時期の西日本、特に北部九州地域などにおいては、鋳造技術とは特に稀なものではなかったと考えられている。

弥生時代における我が国の青銅器とは当初、渡来元の朝鮮半島にて製作されたが、後代に至り製作技術が流入・定着し当時の我が国の(地域ごとの)嗜好、文化にあわせた独自の青銅器の製作が為されるようになった。

その際、我が国にて製作されたのは銅剣、銅矛、銅戈、銅鐸、銅鏡などであり、それら青銅器およびその鋳型とは、これまで主に西日本各地にて出土している。

また、こうした祭器の製造とは軌を異にするものであるか未だ不明であるが、統一国家の成立に至ると鋳造技術とは、貨幣の製造(造幣)と密接な関係を持つようになる。
これはある程度普遍的な歴史発展の図式、様相ではないかと考える。

世界最古の鋳造貨幣とされるものは紀元前700年頃、リディア(現在の小アジア・トルコ共和国西側)にて製造されたエレクトロン貨幣であり、これは自然に産出された金銀合金を材料として用いている。

また中国では紀元前200年代の秦の始皇帝の時代に貨幣鋳造が国家事業として為された。

我が国においては7世紀末天武天皇の御代に製造された富本銭、707年の和銅年間に製造された銅貨の和同開珎が古いものとして有名であり、その後、天平宝字年間(700年代中頃・淳仁天皇の御代)に我が国初の鋳造金貨である開基勝宝が製造された。

鋳造を行う職人をわが国では一般的に鋳物師と呼び、古くは大宝律令において大蔵省の典鋳司(いもののつかさ)の下におかれた雑工部に十名程度の職工官が勤務していた。

後代の鎌倉時代においては各地の村々にてさまざまな農工具を鋳込んだり、寺社などの招きにより梵鐘、仏像を鋳造するフリーランスとも云える職人も存在していた(このあたりを欧州における石工と比較して考察してみるのも面白いのかもしれない・・)。

さて、具体的な鋳造技術の種類としては平板の鋳型に溶湯を鋳込む方法、上下の型を合わせ、その中に生じる空隙に溶湯を鋳込む方法、そして実物を砂で埋めその実物を抜き取った後に溶湯を流し込む方法といったものが挙げられるが、歯科鋳造とは精密さが要求されることから、その用いる材料の選択にはじまり鋳造に至るまで細心の注意が払われる。

2016年9月13日火曜日

20160912 またしても・・しかし・・

A「本日首都圏、東京都は雨が降ったり止んだりの落ち着かない天気でした。

それでも、気温がそこまで上昇しなかったため、比較的過ごし易くはありましたが・・。

さて、つい先日応募しておりました西日本在某大学の公募(任期付コーディネーター)の「採用ならず」との結果を受け、かなり落ち込みました・・。

このような時はガックリと膝の力が抜けるものです・・。

また、とりあえず面接まで進ませて頂いたのは大変ありがたいのですが、その往復交通費、宿泊代が(大変)バカにならないものでした・・。

これもなかなか辛いものです・・。

しかしながら、落ち込んでいても仕方がありませんので、今後はもう少し応募職種を精選してみようかと思います・・。

『しかし、そうすることにより、今度はチャンスを逃してしまうのではないか?』
といった不安、危惧もまた生じますが一方、始終そうした考えに捉われ日常を送っておりますと、神経が衰弱(心を病む)してしまいますので、そうした病的な方向に向かうことを避けるべく、自然と自身が(本当に)就くことを望む大学での職があるとすれば、自身がそれを見つけ応募することになるのではないかといった、見方によればいい加減な、大上段の、あるいは運命論的な考えに徐々に落ち着いていくような感じがします・・(苦笑)。

しかし一方、これを積極的に考えますと、もしかすると、現在の職務での経験を付加的に生かし、今後の自身の就くことの出来る職もまた増えるのではないかとも思えます・・(笑)。

この私とは、よくよく考えてみますと、様々な経験(だけ)はしているのではないかとも思えますが、一体どうなのでしょうか・・?

そして、こうした(変な)人間が大学組織の中に少数いることは、あながち無益なことではないと思われるのですが・・(笑)?

あるいは、これはさきに述べた願望よりも一層現実的ではないのかもしれませんが『何かしらの著述によって生計を立てることができれば、時にはイヤイヤになるかもしれませんが、継続的、能動的に努力をすることが出来るのではないだろうか?』とも、ここ最近考えてしまいます・・(苦笑)。

これに関しては、これまでブログ記事を作成してきたことにより、そのように考えることが出来るようになったのではないかと思います・・。

とはいえ、これは、これまで(主観的あるいは客観的にも)あまり面白いとは思えないブログ記事を少なからず作成、投稿しつつも、一連のそれを読んで頂いた方々がいらっしゃるからではありますが・・(苦笑)。

そしてそれ故、このブログ記事の作成を止めず、ここまで継続的に記事を作成することができました・・。

これはひとえに読んで頂いている皆様のおかげです・・。

果たして今後500記事にまで至ることが出来るのでしょうか?
また500記事に到達出来た場合、如何なる心境の変化といったものが生じるのでしょうか?

しかし、何れであれ、これもまた記事を投稿し続けないと分からないことですので、今後もとりあえずキリの良いところ(500記事程度)までは、どうにかして記事を作成、投稿したいと考えております。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」


20160912 自然風土と魂の濃度・・?

A「改めて記すことではないかもしれませんが東京、首都圏は人が多いです・・。

町中でも電車の中でも、どこでも、とにかく人が多いと思います(多すぎるとはいいませんが)。

帰郷後当初はこれになかなか慣れることが出来ず難儀しましが、ここ最近は特にそうしたこともあまり苦とも思わなくなりました・・。
これは以前その場所にて生活していたからなのでしょうか・・?

さて、そうした環境にも(再び)慣れてきますと、町中や電車内などにおいて他者のことを見て考える余裕も出てきます・・。

そういえば、かつて一連のシャーロック・ホームズシリーズを熱心に読んでいた時期は、そのようなことを電車内などでたびたび行っておりましたが、現在ではかつてほど進んで、熱心にそういったことをしようとは思いません・・。
これは精神の進化あるいは退化のいずれ(の傾向)であるのでしょうか・・(笑)。

しかし、それはさておき、最近の(あまり熱心ではない)そうした観察、考察を通じて思うことは「ここ首都圏とは九州在住時に比べ天然そのまま(「に近い」も含む)の容貌、容姿といったものが少ないのではないか?」ということです。

また、それと関連して先日偶然神田の古書店にて林忠彦の文庫サイズの写真集「文士の時代」を眺めておりますと、不図「この文士たちの誰かをもし、現代の電車の中で見かけたら、一体どのような観察、考察を私はするのであろうか?」といった考えが浮かんできました・・。

やはり、かつての文士、著述家とは、現代のそれに比べ、顔つき、顔貌が異なり、司馬遼太郎風の表現を用いますと「より魂の濃度が濃い」といった印象を受けます。

また、さらに以前の著述家、研究者などの顔貌もまた(現代に比べ)同様の印象を受けます。

たとえば青年時代の牧野富太郎、南方熊楠の顔貌は、おそらく現代の東京、首都圏などにおいてはなかなか(到底)お目に掛かれない一種の迫力、魅力?を持っているのではないかと思われます・・。

その点、九州在住時の頃を思い起こしてみますと、老若男女共々全体的に東京、首都圏に比べ印象的(迫力・魅力)な方々が多かったように思われます。

しかし、こうした見解とは、果たして科学的な意味で妥当なものなのでしょうか・・?

そして、科学的な意味においてそれが(ある程度)妥当な見解であるとすれば、それらの間の差異を生み出す因子とは(様々考えられますが)一体何なのでしょうか・・?

あるいはまた、その差異とは、昨今のインターネットの普及に伴う、様々な情報の全国的な標準化、平均化によって今後減衰してゆく性質のものなのでしょうか?

・・私見としては、それによってあまり減衰してゆくことはないと考えます。

何故ならば、その根源には、我々が大きく変化させることの出来ない自然風土があると考えるからです。

そして、さきに挙げた青年時代の牧野富太郎、南方熊楠の顔貌にも、彼らを生んだ自然風土(土佐、紀伊)が大きく関与しているのではないかと考えさせられますが如何でしょうか?

本日もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。」








2016年9月12日月曜日

20160911 意識の流れの感知、言い換え作業・・

A「おかげさまで昨日のブログ閲覧者数も1000に到達しました。
興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さて、昨日は半分仕事も兼ねて東京、千代田区周辺を廻りましたが、その際、面白い書籍を(比較的安価にて)見つけ購入しました。

その書籍とは荒俣宏著の「理科系の文学誌」というものであり、偶然ながら、この著作内に取り上げられている人物の多くが、これまでに投稿した一連のブログ記事にて取りあげた人物と重なるため興味深く、面白いと感じた次第です。

しかし、そこで面白いと感じるのは「自身が面白いと感じることが出来る著作に出会うことが出来た」ということであり、具体的には「数多ある書店の書籍の中から、何故それを手に取り頁を開いたか」ということです・・。

そのように考えてみますと「こうしたことは一種の運によるものではないか?」とも考えられ、また、それ以外に如上のような現象を簡便、適当に説明する論法?とはないのではないかと思われます・・。

さらに若干、我田引水、牽強付会の観がありますが、そうした意識の流れ(の感知)が文系諸学問が持つ根源的な価値であり、またそれは一見あまり大きな意味を持つものではない(あまりにも主観的であり(他者が)感知することが困難であるが故に)とも見ることができるため、特に昨今の我が国社会においては(文系諸学問が)軽んじられているのではないかとも思われます・・。

また、こうしたことは、さきに示した著作の内容にも関連するのではないかと思われますが、前述の意識の流れ、およびその感知とは、何も文系諸学問のみに認められるものでなく、理系諸学問においても同様に存在するのではないかと思われます・・。

しかしながら、文系諸学問においては、この意識の流れの知覚、これをさらに別言すると、認識された形而上下の現象の言語化そしてその(継続的な)言い換え作業を通じて生じる現実(物質的)世界との(時折生じる)合致「こそ」が重要であるため、何と言いますか、その成果の認識あるいは可視化、具現化が困難であることから、どうしても、さきのような価値判断(文系学問の軽視)へと至るのではないかと思われます・・。

そして、ここまで記していて思うことは、我々は一般的に具体的な物質的存在の認識および、その積重ねによる思考作業の方が(徹頭徹尾形而上的な思考作業よりも)容易に為すことが出来ると考えられることから、先ず理系、文系の分岐以前の中等教育あるいは高等教育初期段階において、ある程度職業につながるような専門的な技術教育を行い、そこからさきの高等教育(専門課程)の段階においても、理系、文系何れの学問分野であれ、各々の専攻とは異なった学問分野(理系であれば文系の、文系であれば理系の)にて能動的に親しむことの出来る科目を見つけておくことが案外と重要なのではないでしょうか?

そしてまた、これは大学院(研究)レベルにおいても、そのようにしておく方が良いのかもしれません・・。

しかし、その意味、価値を疑問視する方々も少なからずいらっしゃるかもしれませんが「強く弦を張りすぎた弓は切れやすい」ともいいますので、少なくとも息抜き、あるいは(ユング)心理学でいうところのコンステレーション(布置、配置)の契機ともなるのではないでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ速やかな復旧そしてその後の復興を祈念しております。」