A「改めて記すことではないかもしれませんが東京、首都圏は人が多いです・・。
町中でも電車の中でも、どこでも、とにかく人が多いと思います(多すぎるとはいいませんが)。
帰郷後当初はこれになかなか慣れることが出来ず難儀しましが、ここ最近は特にそうしたこともあまり苦とも思わなくなりました・・。
これは以前その場所にて生活していたからなのでしょうか・・?
さて、そうした環境にも(再び)慣れてきますと、町中や電車内などにおいて他者のことを見て考える余裕も出てきます・・。
そういえば、かつて一連のシャーロック・ホームズシリーズを熱心に読んでいた時期は、そのようなことを電車内などでたびたび行っておりましたが、現在ではかつてほど進んで、熱心にそういったことをしようとは思いません・・。
これは精神の進化あるいは退化のいずれ(の傾向)であるのでしょうか・・(笑)。
しかし、それはさておき、最近の(あまり熱心ではない)そうした観察、考察を通じて思うことは「ここ首都圏とは九州在住時に比べ天然そのまま(「に近い」も含む)の容貌、容姿といったものが少ないのではないか?」ということです。
また、それと関連して先日偶然神田の古書店にて林忠彦の文庫サイズの写真集「文士の時代」を眺めておりますと、不図「この文士たちの誰かをもし、現代の電車の中で見かけたら、一体どのような観察、考察を私はするのであろうか?」といった考えが浮かんできました・・。
やはり、かつての文士、著述家とは、現代のそれに比べ、顔つき、顔貌が異なり、司馬遼太郎風の表現を用いますと「より魂の濃度が濃い」といった印象を受けます。
また、さらに以前の著述家、研究者などの顔貌もまた(現代に比べ)同様の印象を受けます。
たとえば青年時代の牧野富太郎、南方熊楠の顔貌は、おそらく現代の東京、首都圏などにおいてはなかなか(到底)お目に掛かれない一種の迫力、魅力?を持っているのではないかと思われます・・。
その点、九州在住時の頃を思い起こしてみますと、老若男女共々全体的に東京、首都圏に比べ印象的(迫力・魅力)な方々が多かったように思われます。
しかし、こうした見解とは、果たして科学的な意味で妥当なものなのでしょうか・・?
そして、科学的な意味においてそれが(ある程度)妥当な見解であるとすれば、それらの間の差異を生み出す因子とは(様々考えられますが)一体何なのでしょうか・・?
あるいはまた、その差異とは、昨今のインターネットの普及に伴う、様々な情報の全国的な標準化、平均化によって今後減衰してゆく性質のものなのでしょうか?
・・私見としては、それによってあまり減衰してゆくことはないと考えます。
何故ならば、その根源には、我々が大きく変化させることの出来ない自然風土があると考えるからです。
そして、さきに挙げた青年時代の牧野富太郎、南方熊楠の顔貌にも、彼らを生んだ自然風土(土佐、紀伊)が大きく関与しているのではないかと考えさせられますが如何でしょうか?
本日もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。」
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