A「どうも年末年始で何か面白い本や映画などは観ましたか?」
B「いえ、映画やテレビなどはあまり観ておりませんでした。
また、書籍に関しては相変わらずで蔵書を読み返しておりました・・。
その中で加藤周一の「日本文学史序説」は相変わらず興味深く読めました。」
A「ああ、Bさんはあの著作からよくブログでの引用抜粋をしていますね。
そういえば加藤周一といえば、私は新書の「羊の歌」をなかなか興味深く読んだ記憶がありますね。」
B「「羊の歌」は私も以前読みましたが、これは今現在であるからこそ面白く読めるのではないかと思います。」
A「なるほど、たしかにそうですね(笑)。
あと最近Bさんのブログで大岡昇平の著作を何度か取上げていましたが、同著者の「ある補充兵の戦い」もなかなか興味深いと思いますよ。
この著作は「俘虜記」での体験とかなり被ると思うのですが、その視点およびその文体が「俘虜記」とは異なるのです。
こういった同一に近い経験に基づき複数の著作を作れるということは著者の才能およびある種の工夫によるのでしょう。」
B「ええ「ある補充兵の戦い」も以前読みましたが、これも興味深かったですね。
この著作は「俘虜記」と比べ体験を割合軽めに淡々と述べているように思います。
つまり「俘虜記」「ある補充兵の戦い」は共に基本的には著者自身の体験に基づいたノンフィクションではあるのですが、同時に体験に対しての思索、評価の程度、姿勢が異なるのではないかということです。
そのようなことから「俘虜記」は一般的な意味での小説であり、著者の思想、考えが色濃く反映されているのではないかと思います。
それに対し「ある補充兵の戦い」とは、前にいいましたとおり、著者の体験をあまり感情を交えずに書いた回想録に近いものではないかと思います。」
A「なるほど・・いわれてみるとそうした傾向はたしかにあるかもしれませんね。
あと、それで私が思い出すのは戦記ものが多い潮書房光人社から刊行されている比留間弘著の「地獄の戦場泣きむし士官物語」です。
この著作と「ある補充兵の戦い」とは、その作風において幾分類似しているのではないかな?」
B「・・またシブい著作を出されましたね・・。
私もその著作も以前読みましたが、おっしゃることわかります。
現在我々が読むことが出来る太平洋戦争の戦記ものは数多くあり、また、私はそこまで多くの戦記ものを読んだわけではありませんが、両著共にたしかにその著述の仕方、文体は特に重いものではないと思います。」
A「ええ、両著者共に筆舌に尽くしがたい戦争体験をされているはずなのに、そうした割合読みやすい文体、つまり自身の体験に対し距離感を保ちながら、その体験を書けることは、ある意味スゴイことであるのかもしれません・・。」
B「たしかにそうですね・・。
それにしても我々日本人にとって太平洋戦争とは、かなり大きな影響をおよぼしているのでしょうね・・。
そしてそうであるがゆえに、現在を生きている我々は、そうした歴史を忘れてしまってはいけないのでしょう。
こうしたことは、これまでに読んだ様々な戦争を経験された著述家の多くが書かれていましたが、一方、現在の我が国の情勢を見ていますと、彼らのその願いとは、私を含め後の世代にあまり通じていないように思えます・・残念ながら。」
A「ええ、現在の我が国の社会にはよくわからないイケイケドンドン的な積極、攻撃的な傾向が多く見受けられますね。
しかし一方において、現在日本を取り巻く状況とは、以前に比べ、きな臭くもなってきていますから、それは生物的には健康な反応であるのもしれません・・。
ただ、そういった情勢の中で私が強く危惧するのは、そうした状況に便乗して国内外の勢力が自身の利己的な欲望を手段を選ばずに満たそうとすることなのです。
まあ、たとえ利己的ではあってもそれが他者を結果的に貶めるものでなく、逆に向上、満足させるものであれば、それはそれで良いのかもしれませんが、そうしたものは決して多いといえないのが現状であると思います・・。」
B「ええ、良くも悪くも我々日本人は社会に生じた流行、傾向などの核に対する凝集性あるいはそれを応用しようとする傾向がありますから・・また、これは古来よりの傾向であるので、変えることは困難であると思います・・。
では、そうした傾向を無理に変えることなく、そうした勢力を抑えるためには、どうすれば良いのでしょうかね?」
A「ううむ、それは言葉でいえば案外簡単で、単純に様々な意味における情報リテラシーを向上させれば良いのではないでしょうか?
そして、それを為すためには、さまざまな書籍を読み、多くの人々とカタチだけでない議論を継続的に行うことではないでしょうか?」
B「ええ、書籍、議論などは、どちらかというと、これまであまりカッコいいものとして扱われてきませんでしたので、これが能動的に行われるような環境になれば、何かしらの効果は出てくるかもしれません。
私はおそらく泥臭いと思われながらも、単純に楽しかったので修士院生時代に両方共割合多く行ってきたと思いますので、その点は理解、肯定できます・・。」
A「うん、福沢諭吉の創設したあの学校には演説館があるけれども、あれは当時の我が国において演説、議論文化の必要性を痛感した結果造られたのでしょう・・。
そしてそれを痛感した原因とは、さきほどBさんが指摘していたことに関連するかもしれないけれども、凝集性が強く、雰囲気、空気に縛られやすい我が国の国民性ではないでしょうか・・?
そして雰囲気、空気に縛られやすい国民性とは、本質的に書籍の深い読解、議論などを不粋、面倒なものとして避ける傾向があるのではないかな・・?。
しかし、そうした傾向とは、結局のところ野狐禅に陥ってしまうのではないでしょうか?」
B「ええ、そうした傾向とは、たしかに我が国社会において伝統的に根強いと思います。
しかし、そうすると話はまたふりだしに戻ってしまうのではないでしょうか?」
A「・・そうですね、少なくとも我が国における自身の悪しき利己的な欲望を満たそうとする勢力とは、古今意識、無意識問わずそういった我が国の国民性から生じる傾向を利用、便乗してきましたからね・・。
そして、それだからこそ能動的な態度に拠って自然に情報リテラシーが向上されることが重要なのでしょう・・(苦笑)。」
2016年1月4日月曜日
2016年1月2日土曜日
20160101文学と社会をめぐる対話
A「新年あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくおねがいします。
そういえばBさんは最近引越されたのですね。」
B「どうも、新年あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしく。
引越しは職場と実家の丁度中間ぐらいが具合がいいと思いましてね・・**にしました。
それでAさんの求職活動の方はどんな感じですか?」
A「相変わらず続けております。
また数日経ちましたら、活動再開です・・。
お陰さまでいくつか面接まで進むことができましたが、やはり職務内容などが合わないと、どうも長続きしないような気がしますので・・どうも臆病、慎重になってきてしまいます・・。
しかし、ここはゼイタクをいわずに、とりあえず目先の生活の安定を目指すべきなのでしょうか?
あるいはこのままの調子で求職活動を続けた方が自分にとってより良い職を得ることができるのでしょうか?」
B「・・それはおそらくAさんの考え次第ではないでしょうか?
ただ、ひとつ思うのは、ある程度Aさん自身の裁量で仕事が出来ることが大事なのではないでしょうかね?
しかし一方、収入つまり給与がどの程度であるかという要素も考慮しなければならないことが、ことを難しくしているのではないですか?」
A「ええ、まさしくそこなのです・・。
そこで最近はそうした点を考慮して「では、私はどのような職に就くのが良いのか?」と考えてしまうのです・・。
たしかにこれまで様々なことを経験させていただきましたが、それらの中のある部分を活かした職につくのは、職に就くという意味においては良いのかもしれませんが、それだけですとどうも私の場合ダメであるような気がするのです・・。
無論こうした意見は「甘い」といわれても仕方がないとは思うのですが、一方において職務に活かせる経験の割合をより多くしたいという希望もまた自然なものではないかとも思います。
ですから、もしも今後そういった職を得ることができれば、それは丹念に職探しを行った結果の良い選択ということになります。
それ故、出来得る限り、丹念に自分に合う職を探すことは特に非難されることはないと思うのですが・・。」
B「まあ君のことを心配してくれる方々がいるのはありがたいことですよ・・。
それでも、人によってはどの様な根拠、理由によって就職を急かすのかよくわからなくなることがありますからね・・。
我々日本人のなかには自分が安泰な地位にいるときに限って他者に対して居丈高に出るような人も少なくないですからね・・。
ああいう性分とは多分今後も簡単には変らないのではないでしょうか(苦笑)。
・・しかしそうした傾向とは特に我が国特有というわけでもないのかもしれません。
たしかシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」のなかに「謙遜さは若き野心の梯子であり、梯子を登るとそれを背後に退けて見向きもしない。」というような内容があったと思いますが、それも似たようなものではないでしょうか・・?」
A「・・ああ、たしかにそういった科白がありましたね。
しかし「ジュリアス・シーザー」といえば、シーザーが殺害された後のローマ市民に向けたアントニーの演説が印象的でした。
ああした物語、劇の内容が浸透している国の国民とは、なかなか簡単に上手く騙すことができないのでしょうね・・。」
B「ええ、そのアントニーの演説については、たしか山本七平の著作で、それを扱った章がありましたね、題名はたしか「アントニーの詐術」でしたか・・?
これはAさんは既に読まれているのではないでしょうか?」
A「・・さすがによく御存知ですね。
今さっきの私の発言もその読書の記憶から出てきたものです・・。
しかし、こうしたことはBさんにはかないませんね・・(苦笑)。」
B「いやいや、丁度今の御時勢でそれを取上げるのは様々な意味でタイムリーであると思いますよ(笑)。
しかし、現代の我々の社会の何というか、そうしたドロドロした要素を描いた作品となるとどんなものがあるのだろうかね・・?」
A「はあ、それでしたら山崎豊子の作品がそういった要素が強いのではないかと思います・・。
もっとも私はそれらは原作を読んだことがなく映画、テレビドラマのみですが・・。」
B「たしかに山崎豊子の著作ではそうした傾向がありますね・・。
あとは、そうですね大西巨人の「神聖喜劇」なども、かなり日本社会のイタイところに踏込んでいるのではないかな?
それに君の昨年末のブログで取上げた大岡昇平の「俘虜記」もその点については同様であるかもしれないし・・。
ただ、不思議に思うのは、それらの作品は、我が国の中では間違いなく名作であり、また海外の作品にも決して負けていないと思うのだけれど、どうも国外いや現在ではもう国内でもあまり認知されていないのではないかなと思います・・。」
A「ええ、さすがに「神聖喜劇」はあの全五巻の英訳はかなり難しいと思います・・。
それにあの著作は様々な意味で反時代的な要素があると思いますし・・加えて多分、女性にとってあの著作は、生理的に受け付けない部分が多くあるのではないかと思います・・。
それはたしか瀬戸内寂聴が「神聖喜劇」のあとがきで書いていたような気がします。
しかしながら「俘虜記」の方はどうやら英訳で刊行されているようです。
ともあれ、この著作を海外の方々が読まれていることには多少驚きますが、同時にこの著作の海外の読者は、現在の日本の文学をどのように見ているのでしょうかね・・?」
B「うん、現在もっとも海外で一般的な邦人作家の一連著作と比べると、やはり色々違うと思われているでしょうが・・その具体的な評価に関してはよくわかりませんね・・。
そうしますと我々日本人は、海外で読まれている邦人作家およびその著作の傾向などを情報としてある程度知っておくと面白いかもしれませんし、国際関係上何かの役に立つかもしれません。
少しなまぐさくなってしまいましたが・・(苦笑)。」
A「ははあ、なるほど、それはなかなか面白い考えですね(笑)。
たしかに小説などの出版物とは、その国のリアルタイムに近い状況をニュースなどと関連しながらもまた違った視点で映し出すものですからね・・。」
B「ええ、そうですね、我々が享楽の要素と見做している文芸一般の質、傾向とは、それが本質的に享楽であるがゆえに、文化水準、社会の傾向などの正直な反映となり、ごまかしがきかないのでしょう・・。
また国外の読者の方々はそうしたものを案外我々日本人よりもノイズなしに客観的に判断している、できているのかもしれませんね・・。」
A「ううむ、それはちょっとこわいような気もしますが、たしかにそのとおりかもしれません・・。」
今年もどうぞよろしくおねがいします。
そういえばBさんは最近引越されたのですね。」
B「どうも、新年あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしく。
引越しは職場と実家の丁度中間ぐらいが具合がいいと思いましてね・・**にしました。
それでAさんの求職活動の方はどんな感じですか?」
A「相変わらず続けております。
また数日経ちましたら、活動再開です・・。
お陰さまでいくつか面接まで進むことができましたが、やはり職務内容などが合わないと、どうも長続きしないような気がしますので・・どうも臆病、慎重になってきてしまいます・・。
しかし、ここはゼイタクをいわずに、とりあえず目先の生活の安定を目指すべきなのでしょうか?
あるいはこのままの調子で求職活動を続けた方が自分にとってより良い職を得ることができるのでしょうか?」
B「・・それはおそらくAさんの考え次第ではないでしょうか?
ただ、ひとつ思うのは、ある程度Aさん自身の裁量で仕事が出来ることが大事なのではないでしょうかね?
しかし一方、収入つまり給与がどの程度であるかという要素も考慮しなければならないことが、ことを難しくしているのではないですか?」
A「ええ、まさしくそこなのです・・。
そこで最近はそうした点を考慮して「では、私はどのような職に就くのが良いのか?」と考えてしまうのです・・。
たしかにこれまで様々なことを経験させていただきましたが、それらの中のある部分を活かした職につくのは、職に就くという意味においては良いのかもしれませんが、それだけですとどうも私の場合ダメであるような気がするのです・・。
無論こうした意見は「甘い」といわれても仕方がないとは思うのですが、一方において職務に活かせる経験の割合をより多くしたいという希望もまた自然なものではないかとも思います。
ですから、もしも今後そういった職を得ることができれば、それは丹念に職探しを行った結果の良い選択ということになります。
それ故、出来得る限り、丹念に自分に合う職を探すことは特に非難されることはないと思うのですが・・。」
B「まあ君のことを心配してくれる方々がいるのはありがたいことですよ・・。
それでも、人によってはどの様な根拠、理由によって就職を急かすのかよくわからなくなることがありますからね・・。
我々日本人のなかには自分が安泰な地位にいるときに限って他者に対して居丈高に出るような人も少なくないですからね・・。
ああいう性分とは多分今後も簡単には変らないのではないでしょうか(苦笑)。
・・しかしそうした傾向とは特に我が国特有というわけでもないのかもしれません。
たしかシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」のなかに「謙遜さは若き野心の梯子であり、梯子を登るとそれを背後に退けて見向きもしない。」というような内容があったと思いますが、それも似たようなものではないでしょうか・・?」
A「・・ああ、たしかにそういった科白がありましたね。
しかし「ジュリアス・シーザー」といえば、シーザーが殺害された後のローマ市民に向けたアントニーの演説が印象的でした。
ああした物語、劇の内容が浸透している国の国民とは、なかなか簡単に上手く騙すことができないのでしょうね・・。」
B「ええ、そのアントニーの演説については、たしか山本七平の著作で、それを扱った章がありましたね、題名はたしか「アントニーの詐術」でしたか・・?
これはAさんは既に読まれているのではないでしょうか?」
A「・・さすがによく御存知ですね。
今さっきの私の発言もその読書の記憶から出てきたものです・・。
しかし、こうしたことはBさんにはかないませんね・・(苦笑)。」
B「いやいや、丁度今の御時勢でそれを取上げるのは様々な意味でタイムリーであると思いますよ(笑)。
しかし、現代の我々の社会の何というか、そうしたドロドロした要素を描いた作品となるとどんなものがあるのだろうかね・・?」
A「はあ、それでしたら山崎豊子の作品がそういった要素が強いのではないかと思います・・。
もっとも私はそれらは原作を読んだことがなく映画、テレビドラマのみですが・・。」
B「たしかに山崎豊子の著作ではそうした傾向がありますね・・。
あとは、そうですね大西巨人の「神聖喜劇」なども、かなり日本社会のイタイところに踏込んでいるのではないかな?
それに君の昨年末のブログで取上げた大岡昇平の「俘虜記」もその点については同様であるかもしれないし・・。
ただ、不思議に思うのは、それらの作品は、我が国の中では間違いなく名作であり、また海外の作品にも決して負けていないと思うのだけれど、どうも国外いや現在ではもう国内でもあまり認知されていないのではないかなと思います・・。」
A「ええ、さすがに「神聖喜劇」はあの全五巻の英訳はかなり難しいと思います・・。
それにあの著作は様々な意味で反時代的な要素があると思いますし・・加えて多分、女性にとってあの著作は、生理的に受け付けない部分が多くあるのではないかと思います・・。
それはたしか瀬戸内寂聴が「神聖喜劇」のあとがきで書いていたような気がします。
しかしながら「俘虜記」の方はどうやら英訳で刊行されているようです。
ともあれ、この著作を海外の方々が読まれていることには多少驚きますが、同時にこの著作の海外の読者は、現在の日本の文学をどのように見ているのでしょうかね・・?」
B「うん、現在もっとも海外で一般的な邦人作家の一連著作と比べると、やはり色々違うと思われているでしょうが・・その具体的な評価に関してはよくわかりませんね・・。
そうしますと我々日本人は、海外で読まれている邦人作家およびその著作の傾向などを情報としてある程度知っておくと面白いかもしれませんし、国際関係上何かの役に立つかもしれません。
少しなまぐさくなってしまいましたが・・(苦笑)。」
A「ははあ、なるほど、それはなかなか面白い考えですね(笑)。
たしかに小説などの出版物とは、その国のリアルタイムに近い状況をニュースなどと関連しながらもまた違った視点で映し出すものですからね・・。」
B「ええ、そうですね、我々が享楽の要素と見做している文芸一般の質、傾向とは、それが本質的に享楽であるがゆえに、文化水準、社会の傾向などの正直な反映となり、ごまかしがきかないのでしょう・・。
また国外の読者の方々はそうしたものを案外我々日本人よりもノイズなしに客観的に判断している、できているのかもしれませんね・・。」
A「ううむ、それはちょっとこわいような気もしますが、たしかにそのとおりかもしれません・・。」
20160102
A「最近わかったのですが私のブログの閲覧者はマックユーザーの比率が高いようです。
今まで知らなかったのですが、全体的なシェアではウィンドウズの方が圧倒的主流派のはずなのですが、私のブログではウィンドウズ、マックの双方45%程度なのです。
これはなかなか面白い現象であると思いました・・。」
B「ふーん、私はウィンドウズユーザーですがそれはなかなか面白いですね・・。
Aさんのブログはマックユーザーに受ける何かがあるのでしょうかね?
それと、ブログの閲覧者地域はやはり日本が多いのですか?」
A「マックユーザーの特徴などはこれまでに調べたことはありませんが、もしかしたら私のブログにそこに受ける何かがあるのでしょうかね・・・?
それでも、今後それを調べて対策を施し閲覧者を増やそうとは思いませんが(笑)。
あと、閲覧地域も面白いことに日本とアメリカ双方共に45%程度であり、残り10%が主に西欧各国となっております。」
B「はあ、アメリカからの閲覧者がなかなか多いようですね・・。
しかしAさんのブログはアメリカの方から見て面白い何かがあるのでしょうかね?」
A「いえ、そこらへんもよくわかりません(苦笑)。
しかし、ブログの内容はアメリカあるいは他の国に対して、そこまで失礼なことも書いていないと思いますし、また、対話で挙げた史実はあくまでも史実ですから、それはとくに非難の対象となることもないと思います。」
B「・・まあ、私も君のブログを読んでみて他国に対し感情的な中傷の要素は見受けられないので多分大丈夫であるとは思うけれども、一方、ああいったものは誰が見ているかわからないので、気をつけるのに越したことはないと思いますが・・。」
A「ええ、それは一応私なりに気を付けていますが、ともあれ御心配痛み入ります。
また、そういった懸念も若干あったことから、一応フィクションの対話形式を用いてブログを作成しているのです。
これは当初あまり深く考えずにそのようにしたのですが、今考えてみますと、そのおかげで今のところ特にネタが本格的に行き詰まることもなくブログを続けられているのかもしれません・・。」
B「うん、ブログを書いている本人の実名、顔写真は出しているけれども、その書いている内容の登場人物に関しては明確にブログ作成者本人としていないところは緊張感を持ちながらも遊びの部分を残しているという意味で悪くない手法であると思いますよ。
ただ、自身の顔写真出してブログ書いていることは、私からすれば、なかなか勇気があるというか大胆なような気がするのですが・・。」
A「ええ、作成したブログに関しては私が書いたものであることを示しておいた方が良いのではないかと思います。
・・匿名になりますと、やはり気が緩み、ウカツな発言をしてしまう可能性が高くなると思いますし・・(苦笑)。
ですから、何といいますか、そういった緊張感、遊びの双方を生む距離感みたいなものは意外と重要ではないかと思います。
また、そうした距離感とは、理系の論文、文章などにおいては、書いている内容が科学的事実であり、再現可能性があることが最も重要ですので、あまり第一義的に考慮されることはないと思います。
一方において、文系の特に国際関係、思想、歴史などといった解釈が分かれ、且つそこから好悪の感情が惹起されるようなネタを扱う場合、そういった距離感みたいなものが重要になるのではないかと思います。」
B「なるほどねえ・・。
それはたしかに文系の著作においては大切な要素ですね。
しかし、私からいわせれば、以前君のブログにも書いてあったけれども、理系の男性的、漢文的、断言的な文章上のあの言い回しに多少憧れみたいなものを持ってしまいますね・・(笑)。
時折私もそうしたノリで文章を練ることがありますけれども、どうもイマイチなりきることができないですね・・(苦笑)。」
A「・・はあ、たしかにそうですね・・。
そしてまた理系文章のあの独特な言い回しとは、距離感が最初から最後まで基本的に一定、統一されていることもまた一つの特徴ではないかと思います。
その点、文系文章の言い回しとは、一文章、論文の中にも緩急つまり距離感が微妙に変化していることが多いのではないかと思います。
そして、こうしたこともまた、各々学問分野の相異によって生じるのではないかと思います。
また、それに加えて多くの理系学問分野では一般的に修士課程で英論文をある程度読込むような環境に置かれます。
そして、そうした環境を経ることにより、作成する日本語の文章に対し何らかの影響が与えられるのではないかと思います。
そういったこともまた、さきほどの双方学問分野における文章上の言い回しの違い、つまり文体の相異に結び付くのではないかと思います・・。
その意味において、学問分野の相異に加え、そこでの言語環境もまた同様に重要なのでしょう。」
B「ははあ、なるほどねえ・・。
たしかにいわれてみると当り前なのだけれど、そうすると民俗学と工学系の修士課程では、その研究する対象、方法などが随分違うのだろうねえ・・。」
A「ええ、そうなのです。
同じ修士課程という名前があてがわれてはいますが、それは陸上競技場とプールで同じ100m進むのと同じ程度に異なるのではないかと思います(笑)。
しかしながら同時に大事なことは、各々研究間に本質的に貴賎上下はないということなのですが・・。」
B「うーん、現実社会での扱いはちょっと違うような気がしますが、そうした考えは今の御時勢だからこそ大事なのではないかと思います。
若干我田引水、牽強付会の気味があるけれども・・(笑)。」
A「ええ、そうですね(苦笑)。
しかし、そうした現実社会における状況とは、西洋的な科学技術を基盤とする近代社会の後発国特有の現象なのでしょう・・。
そして今後もそうした状況とは、我が国では大きく改善されることはないと思いますね・・(苦笑)。
B「・・文化ありきの科学技術であるのか、あるいは科学技術ありきの文化であるのかを決めるのは、文化に基づく社会であるのか、あるいは科学技術に基づく社会であるのかといったことは、なかなか難しいことであると思います・・。」
今まで知らなかったのですが、全体的なシェアではウィンドウズの方が圧倒的主流派のはずなのですが、私のブログではウィンドウズ、マックの双方45%程度なのです。
これはなかなか面白い現象であると思いました・・。」
B「ふーん、私はウィンドウズユーザーですがそれはなかなか面白いですね・・。
Aさんのブログはマックユーザーに受ける何かがあるのでしょうかね?
それと、ブログの閲覧者地域はやはり日本が多いのですか?」
A「マックユーザーの特徴などはこれまでに調べたことはありませんが、もしかしたら私のブログにそこに受ける何かがあるのでしょうかね・・・?
それでも、今後それを調べて対策を施し閲覧者を増やそうとは思いませんが(笑)。
あと、閲覧地域も面白いことに日本とアメリカ双方共に45%程度であり、残り10%が主に西欧各国となっております。」
B「はあ、アメリカからの閲覧者がなかなか多いようですね・・。
しかしAさんのブログはアメリカの方から見て面白い何かがあるのでしょうかね?」
A「いえ、そこらへんもよくわかりません(苦笑)。
しかし、ブログの内容はアメリカあるいは他の国に対して、そこまで失礼なことも書いていないと思いますし、また、対話で挙げた史実はあくまでも史実ですから、それはとくに非難の対象となることもないと思います。」
B「・・まあ、私も君のブログを読んでみて他国に対し感情的な中傷の要素は見受けられないので多分大丈夫であるとは思うけれども、一方、ああいったものは誰が見ているかわからないので、気をつけるのに越したことはないと思いますが・・。」
A「ええ、それは一応私なりに気を付けていますが、ともあれ御心配痛み入ります。
また、そういった懸念も若干あったことから、一応フィクションの対話形式を用いてブログを作成しているのです。
これは当初あまり深く考えずにそのようにしたのですが、今考えてみますと、そのおかげで今のところ特にネタが本格的に行き詰まることもなくブログを続けられているのかもしれません・・。」
B「うん、ブログを書いている本人の実名、顔写真は出しているけれども、その書いている内容の登場人物に関しては明確にブログ作成者本人としていないところは緊張感を持ちながらも遊びの部分を残しているという意味で悪くない手法であると思いますよ。
ただ、自身の顔写真出してブログ書いていることは、私からすれば、なかなか勇気があるというか大胆なような気がするのですが・・。」
A「ええ、作成したブログに関しては私が書いたものであることを示しておいた方が良いのではないかと思います。
・・匿名になりますと、やはり気が緩み、ウカツな発言をしてしまう可能性が高くなると思いますし・・(苦笑)。
ですから、何といいますか、そういった緊張感、遊びの双方を生む距離感みたいなものは意外と重要ではないかと思います。
また、そうした距離感とは、理系の論文、文章などにおいては、書いている内容が科学的事実であり、再現可能性があることが最も重要ですので、あまり第一義的に考慮されることはないと思います。
一方において、文系の特に国際関係、思想、歴史などといった解釈が分かれ、且つそこから好悪の感情が惹起されるようなネタを扱う場合、そういった距離感みたいなものが重要になるのではないかと思います。」
B「なるほどねえ・・。
それはたしかに文系の著作においては大切な要素ですね。
しかし、私からいわせれば、以前君のブログにも書いてあったけれども、理系の男性的、漢文的、断言的な文章上のあの言い回しに多少憧れみたいなものを持ってしまいますね・・(笑)。
時折私もそうしたノリで文章を練ることがありますけれども、どうもイマイチなりきることができないですね・・(苦笑)。」
A「・・はあ、たしかにそうですね・・。
そしてまた理系文章のあの独特な言い回しとは、距離感が最初から最後まで基本的に一定、統一されていることもまた一つの特徴ではないかと思います。
その点、文系文章の言い回しとは、一文章、論文の中にも緩急つまり距離感が微妙に変化していることが多いのではないかと思います。
そして、こうしたこともまた、各々学問分野の相異によって生じるのではないかと思います。
また、それに加えて多くの理系学問分野では一般的に修士課程で英論文をある程度読込むような環境に置かれます。
そして、そうした環境を経ることにより、作成する日本語の文章に対し何らかの影響が与えられるのではないかと思います。
そういったこともまた、さきほどの双方学問分野における文章上の言い回しの違い、つまり文体の相異に結び付くのではないかと思います・・。
その意味において、学問分野の相異に加え、そこでの言語環境もまた同様に重要なのでしょう。」
B「ははあ、なるほどねえ・・。
たしかにいわれてみると当り前なのだけれど、そうすると民俗学と工学系の修士課程では、その研究する対象、方法などが随分違うのだろうねえ・・。」
A「ええ、そうなのです。
同じ修士課程という名前があてがわれてはいますが、それは陸上競技場とプールで同じ100m進むのと同じ程度に異なるのではないかと思います(笑)。
しかしながら同時に大事なことは、各々研究間に本質的に貴賎上下はないということなのですが・・。」
B「うーん、現実社会での扱いはちょっと違うような気がしますが、そうした考えは今の御時勢だからこそ大事なのではないかと思います。
若干我田引水、牽強付会の気味があるけれども・・(笑)。」
A「ええ、そうですね(苦笑)。
しかし、そうした現実社会における状況とは、西洋的な科学技術を基盤とする近代社会の後発国特有の現象なのでしょう・・。
そして今後もそうした状況とは、我が国では大きく改善されることはないと思いますね・・(苦笑)。
B「・・文化ありきの科学技術であるのか、あるいは科学技術ありきの文化であるのかを決めるのは、文化に基づく社会であるのか、あるいは科学技術に基づく社会であるのかといったことは、なかなか難しいことであると思います・・。」
20151231
A「Bさんのブログも年おさめと書かれていましたが、その後また書かれているようですが、これはどうしたわけですか?」
B「ええ、その後不図思いついたことを書いておりましたら、ある程度の文量に達しましたので、投稿することにしました(笑)。結局これはウソを書いてしまったことになりますが、これは特に悪意に基づくものではないので、まあ見逃してください・・(苦笑)。」
A「はあ、それは別に気にすることもありませんよ(笑)。
また私も丁度Bさんにお聞きしたいことがありましたので・・。」
B「それはどういったことですか?
私で分かることでしたら・・。」
A「Bさんはこれまで色々と映画を観てこられたと記されていましたが、その中で特に印象に残っている、面白い作品は何ですか?」
B「そうですね・・洋画、邦画など色々ありますが面白かったのはサシャ・バロン・コーエン監督の「ボラット」という作品ですね。これはかなり久しぶりに大笑いさせてもらいました。Aさんももし機会がありましたら是非観てください。そして観終わった後に実はこの映画に描かれている内容とは我が国の社会においても当てはめることができるのではないかと思います。そして、その内容とは御自身で観ていただきますと分かるのではないかと思います。その意味において、この作品は表面的にはドタバタコメディーではありますが、その深層には、かなり手厳しい、ある種の文明批判が隠されているのではないかと思います。また、同監督の他の作品においても扱っている内容は異なりますが、これと類似した傾向があるように思えます・・。」
A「・・はあ、それは大変興味深い作品ですね。是非今度観てみましょう。また、そうした作品とは邦画でいいますとどの様な作品と類似していますか?」
B「・・多分邦画では類似した内容の作品はないのではないかと思います。しかし、強いて挙げるとすれば、コメディーではありませんが、同じドキュメンタリー映画に分類される「ゆきゆきて神軍」が多少関連、類似性があるかもしれません。その関連、類似性とは、両作品共に少なくとも設定上において、主人公か大真面目に振舞っている様子が傍目から見ると滑稽に映るということでしょうか?そして、そしてそうした要素とは、セルバンテスの代表作の前半部においても多く見出すことが出来るのではないかとも思います。
また、ここまで話して思うことは、私はこれまで約半年程ブログを書いてきましたが、その内容は自分なりに真面目に書いてきたつもりではあるのですが、読む人によってはかなり滑稽に感じているのではないかと思うことがあります・・(苦笑)。
ともあれ、さきのセルバンテスのあの作品の伝でゆけば、実はそうした彼我の感性の間に生じるギャップこそが悲喜劇の源泉そのものであるのではないかとも思われます・・・。
そのように考えますとシェイクスピアの「マクベス」においてもそういった要素があるのようにも思えます。「マクベス」の作中においてはマクベス夫人が夫マクベスと、その周辺人物との感性、考えの間に存在するギャップの存在を夫に示し、それをマクベスが信じることにより不信が徐々に芽生え、物語が暗転し悲劇の様相を示しはじめるのです・・。
つまり、各々主人公の信念に基づく行動が、他者である観客、読者から見て滑稽に映ることは悲劇でもあり、同時に喜劇でもあるのです・・・。こうしたことは様々な流行の栄枯盛衰についても同様のことがいえるのではないかと最近思います・・。そして、ここで重要なことは、信念に基づき行動している主体が、とにかく、その行動を継続していることではないかと思うのです・・。それは回転している扇風機には指を出せないようなことに似ているのかもしれません・・。そして、行動を止めた時に足を引張る内外様々な要素が現出し、あるいはそれが感知されるようになるのではないでしょうか?このことはおそらく社会の民度、文化水準などと密接な関係があると思いますが、我が国の場合、マスコミなどの報道活動などから判断しますと、そうした民度、リテラシーらしきものは今後更なる進化発展の余地があると思います・・。」
A「まあ、マスコミをはじめ様々な機関、組織が目についたものを持ち上げてから落すのは、どの国でも同じではないかと思いますが、我が国におけるそれは、民俗学的な視点で見ると、よく分かるような気がしますね・・(笑)。そして、こうしたことは、歴史を見ますと、決して時代の経過に伴い進化しているとはいえず、むしろ場合によっては退化しているのではないかと考えさせることがあります。ですから、そういった民度、リテラシーを継続的に向上する方法の模索とは、今後、より良い社会を築く上において極めて重要なことではないかと思います。それでも大事なことは、その基盤として社会において信頼関係が存在することではないかと思いますので、この点について現在我が国はあまり良い状況にあるとはいえないと思います・・。
B「ええ、実はそれこそが現代の我が国社会が持つ最も困難な課題の一つであるのではないかと思います・・しかし、そこまで悲観はしていませんが・・。」
B「ええ、その後不図思いついたことを書いておりましたら、ある程度の文量に達しましたので、投稿することにしました(笑)。結局これはウソを書いてしまったことになりますが、これは特に悪意に基づくものではないので、まあ見逃してください・・(苦笑)。」
A「はあ、それは別に気にすることもありませんよ(笑)。
また私も丁度Bさんにお聞きしたいことがありましたので・・。」
B「それはどういったことですか?
私で分かることでしたら・・。」
A「Bさんはこれまで色々と映画を観てこられたと記されていましたが、その中で特に印象に残っている、面白い作品は何ですか?」
B「そうですね・・洋画、邦画など色々ありますが面白かったのはサシャ・バロン・コーエン監督の「ボラット」という作品ですね。これはかなり久しぶりに大笑いさせてもらいました。Aさんももし機会がありましたら是非観てください。そして観終わった後に実はこの映画に描かれている内容とは我が国の社会においても当てはめることができるのではないかと思います。そして、その内容とは御自身で観ていただきますと分かるのではないかと思います。その意味において、この作品は表面的にはドタバタコメディーではありますが、その深層には、かなり手厳しい、ある種の文明批判が隠されているのではないかと思います。また、同監督の他の作品においても扱っている内容は異なりますが、これと類似した傾向があるように思えます・・。」
A「・・はあ、それは大変興味深い作品ですね。是非今度観てみましょう。また、そうした作品とは邦画でいいますとどの様な作品と類似していますか?」
B「・・多分邦画では類似した内容の作品はないのではないかと思います。しかし、強いて挙げるとすれば、コメディーではありませんが、同じドキュメンタリー映画に分類される「ゆきゆきて神軍」が多少関連、類似性があるかもしれません。その関連、類似性とは、両作品共に少なくとも設定上において、主人公か大真面目に振舞っている様子が傍目から見ると滑稽に映るということでしょうか?そして、そしてそうした要素とは、セルバンテスの代表作の前半部においても多く見出すことが出来るのではないかとも思います。
また、ここまで話して思うことは、私はこれまで約半年程ブログを書いてきましたが、その内容は自分なりに真面目に書いてきたつもりではあるのですが、読む人によってはかなり滑稽に感じているのではないかと思うことがあります・・(苦笑)。
ともあれ、さきのセルバンテスのあの作品の伝でゆけば、実はそうした彼我の感性の間に生じるギャップこそが悲喜劇の源泉そのものであるのではないかとも思われます・・・。
そのように考えますとシェイクスピアの「マクベス」においてもそういった要素があるのようにも思えます。「マクベス」の作中においてはマクベス夫人が夫マクベスと、その周辺人物との感性、考えの間に存在するギャップの存在を夫に示し、それをマクベスが信じることにより不信が徐々に芽生え、物語が暗転し悲劇の様相を示しはじめるのです・・。
つまり、各々主人公の信念に基づく行動が、他者である観客、読者から見て滑稽に映ることは悲劇でもあり、同時に喜劇でもあるのです・・・。こうしたことは様々な流行の栄枯盛衰についても同様のことがいえるのではないかと最近思います・・。そして、ここで重要なことは、信念に基づき行動している主体が、とにかく、その行動を継続していることではないかと思うのです・・。それは回転している扇風機には指を出せないようなことに似ているのかもしれません・・。そして、行動を止めた時に足を引張る内外様々な要素が現出し、あるいはそれが感知されるようになるのではないでしょうか?このことはおそらく社会の民度、文化水準などと密接な関係があると思いますが、我が国の場合、マスコミなどの報道活動などから判断しますと、そうした民度、リテラシーらしきものは今後更なる進化発展の余地があると思います・・。」
A「まあ、マスコミをはじめ様々な機関、組織が目についたものを持ち上げてから落すのは、どの国でも同じではないかと思いますが、我が国におけるそれは、民俗学的な視点で見ると、よく分かるような気がしますね・・(笑)。そして、こうしたことは、歴史を見ますと、決して時代の経過に伴い進化しているとはいえず、むしろ場合によっては退化しているのではないかと考えさせることがあります。ですから、そういった民度、リテラシーを継続的に向上する方法の模索とは、今後、より良い社会を築く上において極めて重要なことではないかと思います。それでも大事なことは、その基盤として社会において信頼関係が存在することではないかと思いますので、この点について現在我が国はあまり良い状況にあるとはいえないと思います・・。
B「ええ、実はそれこそが現代の我が国社会が持つ最も困難な課題の一つであるのではないかと思います・・しかし、そこまで悲観はしていませんが・・。」
ジョルジュ・バタイユ著酒井健訳「魔法使いの弟子」景文館書店刊pp.11-17より抜粋20151231
虚偽が画家や作家の職業に関係してくると、さらに一般的に言えば、虚偽が彼らの自我に関係してくると、その虚偽はフィクションをもっと強固な現実に役立つようにとそそのかす。
それゆえ美術と文学は、自己充足した一世界を形成しない場合には、現実の世界に従属して、教会や国家の栄光を称えるのに貢献したりする。
あるいはこの現実の世界が政教分離のように分裂しているならば、宗教のためにしろ、政治のためにしろ、それぞれの分野で行動と宣伝に貢献したりする。
だがその場合は、もはや装飾か他人への奉仕でしかない。
それ以上の事態、つまりもしも人々が仕えていた制度や組織が革命のように人間の運命の矛盾した動きによって揺さぶられることがあるならば、美術は、人間の深い実存に仕えてそれを表現する可能性に出会うことになる。
あるいはこの現実の世界が政教分離のように分裂しているならば、宗教のためにしろ、政治のためにしろ、それぞれの分野で行動と宣伝に貢献したりする。
だがその場合は、もはや装飾か他人への奉仕でしかない。
それ以上の事態、つまりもしも人々が仕えていた制度や組織が革命のように人間の運命の矛盾した動きによって揺さぶられることがあるならば、美術は、人間の深い実存に仕えてそれを表現する可能性に出会うことになる。
この場合、その組織の利害が特殊な状況や共同体に関係しているのならば、美術は、深い実存と党派的な行動とのあいだに混同をもたらす。
その党派の人々に対してさえ、ときにひどいショックを与えかねない混同をもたらすのだ。多くの場合、人間は、人間の運命を、フィクションのなかでしか生きることができずにいる。
その一方でフィクションに従事している人間は、自分が描く人間の運命を自分自身全うできないことで苦しんでいる、フィクションの外へ出たところで作家という職業のなかに留まらざるをえないことに苦しんでいるのだ。
その党派の人々に対してさえ、ときにひどいショックを与えかねない混同をもたらすのだ。多くの場合、人間は、人間の運命を、フィクションのなかでしか生きることができずにいる。
その一方でフィクションに従事している人間は、自分が描く人間の運命を自分自身全うできないことで苦しんでいる、フィクションの外へ出たところで作家という職業のなかに留まらざるをえないことに苦しんでいるのだ。
だから彼はせめて、彼の心に棲みつく幻影たちを現実の世界へ出してやろうと努力する。
しかしそれら幻影たちが、現実の世界に、つまり行動によって真になる世界に属するようになると、言い換えると、作家がこれら幻影たちを何らかの特殊な真実に関係づけると、ただちに幻影たちは、その特権を、つまり人間の実存をとことん全うするという特権を失ってしまうのだ。
そうなるともはや幻影たちは、この現実の断片化した世界、専門に分かれたこの世界の退屈な反映でしかなくなる。
しかしそれら幻影たちが、現実の世界に、つまり行動によって真になる世界に属するようになると、言い換えると、作家がこれら幻影たちを何らかの特殊な真実に関係づけると、ただちに幻影たちは、その特権を、つまり人間の実存をとことん全うするという特権を失ってしまうのだ。
そうなるともはや幻影たちは、この現実の断片化した世界、専門に分かれたこの世界の退屈な反映でしかなくなる。
科学が明らかにする真実は人間的な意味を失っている。
他方で精神が作り出すフィクションだけが、今では奇妙に映ってしまう人間の意志に、つまり人間の運命を全うするという意志に、応えている。となれば、人間の奇妙な意志が本当に完全になるためには、フィクションが真実になる必要がある。
じっさい、フィクションを創造する欲求にもてあそばれている人は、人間でありたいという欲求を絶えず感じているのだ。
しかしそうでありながら、この人は、人間でありたいという欲求を諦めて、ただ幻影や嘘の物語を創造してばかりいる。
この人が雄雄しくあるのは、もっぱら現実を自分が考えていることに適合させようと努力している限りでのことなのだ。
この人の内部の力はどれも、この人が生まれでてきたこの現実世界、できそこないのこの世界をきまぐれな夢想の言うなりになるように要求しているのである。
しかしこの内的な力の要求は、ほとんどの場合、不明瞭なかたちでしか現れない。
科学のように人間味のないまま現実を映し出すことはむなしく見えるし、フィクションのように現実から逃れるのもむなしく見えてくる。
唯一行動だけが世界を変えようと、世界を夢想に似たものへ変えようと、申し出ている。
〈行動する〉という言葉は、エリコのラッパの大音響とともに人々の耳のなかに響き渡る。これほどに荒っぽい効果を持つ命令はない。
これを聞いた者は、行為に向わねばならないと、即刻、無条件に迫られる。
他方で、人間をつき動かすあの意志を実現するようにと行動に要求する人は、ただちに奇妙な返事を行動から受け取るのだ。
夢想をかかえて行動の世界に乗り込んできた新参者は、効果的な行動を求める意志とはただ死んだような夢想を求めるだけの意志なのだと知る。彼は同意する。そして徐々に理解していく。行動は、行動したという利点しか自分に残さないだろうということを。
彼は、自分の夢想に拠りながら世界を変えようと思っていたのだ。しかしじっさいは、とてつもなく貧しい現実に合わせて自分の夢想を変えてばかりいたのである。
結局のところ彼は、自分が持っていた意志を自分のなかで窒息させることしかできなかったのだ。〈行動する〉ことができるようにするために、である。
行動を欲する人に行動が最初に求める断念、それは、自分の夢想を、学問が描き出す規模に縮小するということだ。
他方で、人間の運命に、フィクションとは違う領域を、たとえば政治の領域を与えたいと思っても、この欲求は、政治の教条主義者たちから軽蔑される。
もちろん、過激政党の実践の世界ではこの欲求が遠ざけられることはまずない。というのも過激政党は、闘士たちに命を賭けるように求めているからだ。とはいえ、戦うという条件だけでは一人の人間の運命は現実にならない。さらに必要なのは、この闘士が加わって死に直面している陣営の軍勢と、この闘士の運命が合致することだ。
その一方で、教条主義者たちは、一人の人間の運命を好きなように操作して、この運命をすべて同じような物質的幸福に縮小してしまう。
しかしこの内的な力の要求は、ほとんどの場合、不明瞭なかたちでしか現れない。
科学のように人間味のないまま現実を映し出すことはむなしく見えるし、フィクションのように現実から逃れるのもむなしく見えてくる。
唯一行動だけが世界を変えようと、世界を夢想に似たものへ変えようと、申し出ている。
〈行動する〉という言葉は、エリコのラッパの大音響とともに人々の耳のなかに響き渡る。これほどに荒っぽい効果を持つ命令はない。
これを聞いた者は、行為に向わねばならないと、即刻、無条件に迫られる。
他方で、人間をつき動かすあの意志を実現するようにと行動に要求する人は、ただちに奇妙な返事を行動から受け取るのだ。
夢想をかかえて行動の世界に乗り込んできた新参者は、効果的な行動を求める意志とはただ死んだような夢想を求めるだけの意志なのだと知る。彼は同意する。そして徐々に理解していく。行動は、行動したという利点しか自分に残さないだろうということを。
彼は、自分の夢想に拠りながら世界を変えようと思っていたのだ。しかしじっさいは、とてつもなく貧しい現実に合わせて自分の夢想を変えてばかりいたのである。
結局のところ彼は、自分が持っていた意志を自分のなかで窒息させることしかできなかったのだ。〈行動する〉ことができるようにするために、である。
行動を欲する人に行動が最初に求める断念、それは、自分の夢想を、学問が描き出す規模に縮小するということだ。
他方で、人間の運命に、フィクションとは違う領域を、たとえば政治の領域を与えたいと思っても、この欲求は、政治の教条主義者たちから軽蔑される。
もちろん、過激政党の実践の世界ではこの欲求が遠ざけられることはまずない。というのも過激政党は、闘士たちに命を賭けるように求めているからだ。とはいえ、戦うという条件だけでは一人の人間の運命は現実にならない。さらに必要なのは、この闘士が加わって死に直面している陣営の軍勢と、この闘士の運命が合致することだ。
その一方で、教条主義者たちは、一人の人間の運命を好きなように操作して、この運命をすべて同じような物質的幸福に縮小してしまう。
行動の言語は、合理的な原則に合致した定形表現しか認めない。
学問を規制し、学問を人間の生と無関係なままに維持しておく、そんな合理的な原則にかなう単純な定形表現しか認めないのだ。
実存が神話伝説上の英雄という人格的な形態で定義され姿を取るのと同じような仕方で一個の政治行動が定義され、具体的な姿を取りうるなどとは誰一人考えない。
実存が神話伝説上の英雄という人格的な形態で定義され姿を取るのと同じような仕方で一個の政治行動が定義され、具体的な姿を取りうるなどとは誰一人考えない。
彼ら教条主義者たちをもてあそんでいる欲求に応えるのは、唯一、生産物や文化所産の適正な配分だけである。この欲求は、人間の顔やその表情(何か渇望したり、喜び勇んで死に挑んだりする表情)に似ているもの一切を避けて通ろうとする。
すでに死につつある一群の英雄に語りかけるようにして闘争中の民衆に語りかけるのは断固憎むべきだと彼らは頑なに思い込んでいる。ということは、言わば自分自身の傷口からすでに血を流している人たちに対して彼らは損得の言葉を用いて語りかけているということなのだ。
行動の人々は、実存するものに従っている、もしくはこれに仕えている。
彼らの行動が反逆である場合でも、彼らは実存するものに従っている。
実存するものを破壊して人々から殺されることになっても、まだそうなのだ。
彼らは、破壊を行っているときにも、事実上、人間の運命にもてあそばれている。
逆に彼らが、彼らの世界の顔のないままに秩序づけようという意志しか持たなくなったときには、人間の運命はあっというまに彼らから離れていく。
だが、彼ら行動の人々の破壊が成し遂げられるやいなや、この破壊されたものは再び自分を建設しはじめて、他の人たちと同様に行動の人々にもつきまとって彼らを翻弄しだすのである。
夢想、形の定まらないあれこれの夢想は、学問と理性によってむなしい定形表現に縮小され、もはや〈行動〉が通り過ぎるときに立ち上がる埃にすぎなくなってしまう。
彼ら行動の人々は、彼ら自身、奴隷化する一方で、行動に抗うすべてのものを叩き壊していく。他の人々に先んじて彼らは行動の必要性を被ったわけだが、彼らの後に現れてこの行動の必要性に屈せずにいるすべてのものを叩き壊していくのだ。しかしそうして彼らは、彼らを運んでいく運命の流れ、彼らの無力な動乱がかえって加速させるあの流れに、ただ盲目的に身を捧げているだけなのだ。
すでに死につつある一群の英雄に語りかけるようにして闘争中の民衆に語りかけるのは断固憎むべきだと彼らは頑なに思い込んでいる。ということは、言わば自分自身の傷口からすでに血を流している人たちに対して彼らは損得の言葉を用いて語りかけているということなのだ。
行動の人々は、実存するものに従っている、もしくはこれに仕えている。
彼らの行動が反逆である場合でも、彼らは実存するものに従っている。
実存するものを破壊して人々から殺されることになっても、まだそうなのだ。
彼らは、破壊を行っているときにも、事実上、人間の運命にもてあそばれている。
逆に彼らが、彼らの世界の顔のないままに秩序づけようという意志しか持たなくなったときには、人間の運命はあっというまに彼らから離れていく。
だが、彼ら行動の人々の破壊が成し遂げられるやいなや、この破壊されたものは再び自分を建設しはじめて、他の人たちと同様に行動の人々にもつきまとって彼らを翻弄しだすのである。
夢想、形の定まらないあれこれの夢想は、学問と理性によってむなしい定形表現に縮小され、もはや〈行動〉が通り過ぎるときに立ち上がる埃にすぎなくなってしまう。
彼ら行動の人々は、彼ら自身、奴隷化する一方で、行動に抗うすべてのものを叩き壊していく。他の人々に先んじて彼らは行動の必要性を被ったわけだが、彼らの後に現れてこの行動の必要性に屈せずにいるすべてのものを叩き壊していくのだ。しかしそうして彼らは、彼らを運んでいく運命の流れ、彼らの無力な動乱がかえって加速させるあの流れに、ただ盲目的に身を捧げているだけなのだ。
2015年12月30日水曜日
20151230 大岡昇平「俘虜記」およびその他について
A「一時期、収容所ものの著作をよく読んでいたと以前、ブログにて書いていましたが、その中でどの著作が面白く、また、お勧めですか?」
B「・・ええ、それは主人公が米軍の捕虜となり、収容所での生活の記述とは、現代日本社会に通じる部分が多くあると思います。そしてその具体的記述の部分とはAさんが読まれた時に分かるのではないかと思います・・。加えて収容所での生活を描いた他の興味深い著作は、会田雄次の「アーロン収容所」、山本七平の「私の中の日本軍」などが挙げられます。
A「はあ、それで具体的には、その著作「俘虜記」のどこが面白かったのですか?」
B「・・ええ、それは主人公が米軍の捕虜となり、収容所での生活の記述とは、現代日本社会に通じる部分が多くあると思います。そしてその具体的記述の部分とはAさんが読まれた時に分かるのではないかと思います・・。加えて収容所での生活を描いた他の興味深い著作は、会田雄次の「アーロン収容所」、山本七平の「私の中の日本軍」などが挙げられます。
また、これらの著作を忠実に再現した映画など映像作品がありましたら、それはかなり効果的な現代日本社会に対する警鐘になると思います。
しかし、何故だかこれまでにそれらの著作が映像化されたことはありませんので、おそらく今後もないのではないかと思います・・。また、大岡昇平の従軍経験を扱った他の著作であり、これまでに二度映像化された「野火」は、どちらかというと個人の倫理、道徳を扱ったものであると思いますので、前に挙げた著作とは若干テーマが異なると思います。
そしてこの「野火」と類似したテーマを扱ったものとしてドキュメンタリー映画の「ゆきゆきて神軍」が挙げられます。
これは以前ブログにて記しましたが、もし興味がありましたら是非一度観てください。
ともあれ、こうしたことは、おそらく日本社会が決して良い状態とはいえない現在であるからこそ、より際立ち、そして理解できるのかもしれません・・。
まあ、その点において「俘虜記」も同様であるのかもしれませんが・・。
ただ、それらが大きく異なる点は「野火」「ゆきゆきて神軍」が過酷な戦場という極限状態でのことを主として描いているのに対し「俘虜記」は主人公が米軍捕虜となり収容所において衣食住が一応安定した状態となった後の生活の記述の方が多く、そこに描かれている収容所内での様々な様相、出来事とは、拡大、縮小してみても現代の我々の大小組織、社会において類似、共通することが多いのではないかと思います。
そして、その具体的記述とは、読者となった方が各々の感性で認識されるのではないでしょうか?
他の著作では、その具体的記述を抜粋、引用してみても良いかなとも思いましたが、この著作に関してはどうもその気が起きません・・。
その理由とは、おそらく抜粋、引用していくうちに気が滅入ってくるような要素が多分にあるからではないかと思います・・。
しかし一方、そうした要素こそが文学、小説といった一般的に有益でもなく、また実用性が少ないとされるものが持つ最大の価値ではないでしょうか?
そして、そうしたどちらかといえば人を内省的にさせる要素とは、おそらく欧米文化に起源を持つ価値観であり、それ故異なった文学、小説の歴史、文化を持つ我が国では、あまり馴染みのないものではないかと思います。
しかし、だからといって決して我が国の文学、小説の伝統が欧米に劣るものであるとは思いませんが・・。
ただ、そうした彼我の歴史、文化の相違とは、私も含め我々日本人は昔からあまりよく呑み込めていないのではないかと思うのです・・。
その意味において、この「俘虜記」とは欧米的要素を持つ、あるいは少なくとも欧米的な手法を用いた著作であると思いますね。
しかしながら、現在の我が国の小説、マンガといった読物一般とは、こうした著作が刊行された当時に比して劣化しているのではないかと思うのです。
あるいは、これが現在の国風文化のの流れなのでしょうか?
これは特に最近のマンガなどにおいて時折感じることなのですが、哲学用語・画数の多い漢字などを散りばめたものが多く見られるということです・・(苦笑)。
また、これは商品のポスターなどについても同様のことがいえるのではないかとも思いますね。
しかし、こうした難解な用語、漢字を用いたがる傾向とは、前にも記しましたが、何かしら社会におけるあぶない傾向と付随して生じるものなのではないかと思います。
また、そうした傾向と安直な反知性的、排外的な傾向が社会において併存することは大変興味深く、幕末期において興隆した国学、攘夷運動、幕政組織に対するテロが生じた我が国、あるいは戦間期における古代ゲルマン文化の復興、ユダヤ人排斥、近隣諸国に対する示威、威圧行為を行ったドイツとも類似しているのではないかと思われるのです・・。
ともあれ、こうした傾向とは、自然に発生したものではなく、様々な形での外圧からの反応としてあらわれたものではないかとも思いますが・・。
そして、この「俘虜記」の著者である大岡昇平は、こうしたことを全て知っていたのではないかと思うのです・・。
そうした知的背景における共通性が、この時代の作家、著述家、研究者の大きな特徴であり、またそういった知的背景あるいは土壌があったからこそ、様々な分野との知的交流が活発に為されたのではないでしょうか?
また、それは、当時刊行された書籍の面白さが、その状況を的確に示すのではないかと思います・・。」
A「・・・はあ、なるほど、そうですか・・では今度「俘虜記」読んでみます。どうもありがとうございます。」
2015年12月29日火曜日
20151229 ブログの閲覧者数および文章の作成について
A「今年ももうすぐ終りそうですので、ブログも今年最後のものを書こうと思います。
しかし、そう思うと今度はなかなかそのネタが思いつきません・・困ったものです(苦笑)。」
B「Aさんのブログはここ最近連投気味で書かれていたようなので、そろそろブログも年おさめをしても良いのではないのでしょうか?
それでまだ今年は終りませんが、これまで約半年での表示回数、閲覧者数はどのような感じになりましたか?」
A「ああ、これまでの表示回数は81600程度で、閲覧者数は20700程度になりました。
半年でこのくらいというのは多いのかどうかわかりませんが、まあ書いているブログの内容からすれば上々の出来ではないかと思っています・・(苦笑)。」
B「はあ、そうですか・・そのくらいの表示回数、閲覧者数は悪くないと思いますが、今後それを増やすためにブログの方向性などを変える気はありますか?」
A「・・ううむ、これまでに書いた対話形式のブログで大分慣れてきましたので、特に必要性が生じないかぎり、とりあえずこの調子で書き続けてゆこうと思いますが・・あるいはそういった形式的なことでなく、他のことについてですか・・?」
B「いえ、ただ何となく聞いてみただけですので、あまり気にしないでください(笑)。
それでも半年ブログを書いていますと、書くことが習慣になってきませんか?」
A「ええ、そうですね(笑)。
ブログを書きはじめた頃は、正直書くのが大変面倒くさかったです・・(苦笑)。
それでも何とか書くことを続けるために、読んだ書籍の抜粋、引用を行った次第なのですが、これはこれでかなり勉強になったのではないかと思います。
そして、それではやはり自身の文章でないために、色々と試行錯誤、苦心の結果、この対話形式にたどり着いたわけです・・。」
B「はあ、そうだったのですか・・。
それでも、私個人の意見ではAさんの対話形式は結構いいと思いますよ。
つまり我々は、分野は違いますが、自身の考えを文章にて表現することを学んできましたよね?
そしてその背景には依拠とする信頼に値する知識が必要とされます。
また、この信頼される知識およびその体系とは、各個人の研究、学習活動によってのみ獲得されますよね?
これはネットがいくら発達してもその基本は変らないと思います。
そして自身がある程度こうした活動をした人であるならば、他者と話していても、その獲得、修練の程度が何となくわかってくるのです・・うまくいえませんが・・(苦笑)。
それでも、このことは以前Aさんのブログに書かれていましたよね・・?」
A「ええ、そうですね・・今の指摘はおっしゃるとおりです(笑)。
それでも、何故それと私の対話形式のブログが悪くないというBさんの評価に結びつくのですか・・?」
B「・・それは思考する文章とは、問題提起、思索、暫定的な仮説の定義そしてさらな問題提起、思索・・となり、たとえるならばドリルのように問題を掘削してゆくようなものではないかと思います。
そして、それは他者との対話であれ、自問自答であれ、その根本においては対話があると考えます。
それ故、Aさんの対話形式のブログは思考の基本に忠実であるという意味で、いいと思った次第なのです。」
A「そうしますと、個人の研究、学習活動によって獲得した知識を自問自答あるいは他者との対話によって有機化、血肉化し見識とするということでしょうか?」
B「ええ、まさしくそうです。
これはうまくわたしの先ほどの発言を補完していただいた感じになりますね(笑)。」
A「いえ、これもBさんの問題提起の仕方が上手いからではないでしょうか?
ですから、案外こうした対話、問答の良し悪しの行方とは、互いが変な駆け引きナシで用いる言語の語義に忠実に議論することに因ると思います。
つまり、言語化以前の混沌とした思考とは、明晰に言語化されることにより、はじめて受肉、具現化し、他者との対話、問答に供されるに値するものとなるのではないかと思います。
そして実はこの過程が案外重要ではないかと最近思います・・。」
B「そうですか、それはどうもありがとうございます(笑)。
また、おっしゃることは肯定できます。
しかし、先ほどいいました対話によって相手の知識獲得、修練の程度がわかるというのは、また少し次元が違うのではないかとも思いますが・・。」
A「・・たしかにいわれてみますと、それはそうかもしれませんね。
しかし、それはどのようにして判断しているのでしょうかね?」
B「それはよくわかりませんが、テレビなどの会話を聞いていますと、何だか大変無理をしているように聞こえることがあります・・。
しかしながら、私がこのように感じるのですから、他にもそう感じている方は多いのではないかと思います。
ですから現代は芸能人の方々にとっては辛い時代になってきたのではないでしょうか・・?」
A「しかし、だからといって知性、教養に対し敵対的、攻撃的に出て、反知性的な態度を貫き通そうとするのは、さらにこうした状態を悪化させるのではないかと思います・・。
であるからといって、どうすれば良いのかは分かりませんが・・。」
B「ええ、それはたしかにそうなのですが、その一方において医療ドラマ、マンガがここまでもてはやされるのも、どうかとも思いますけれども・・?
あれは結局、一般的に医学部が最も知的、有益であり、セレブ?的であるところからきているのではないでしょうかね?
たしか工学部の教授を主人公にした小説がありましたけれども、もう少しマニアックな視点のそうした小説、マンガ、ドラマがあっても面白いのではないかと思いますけれどもね・・(笑)。」
A「ああ、それはたしかに面白い試みですね・・Bさんも御自分の研究の合間に何かそういったものを書かれてみてはどうですか(笑)?」
B「ええ、それは面白いですね・・しかし、それでしたらAさんもそういった内容のものを今後書かれてみては如何でしょうか?」
しかし、そう思うと今度はなかなかそのネタが思いつきません・・困ったものです(苦笑)。」
B「Aさんのブログはここ最近連投気味で書かれていたようなので、そろそろブログも年おさめをしても良いのではないのでしょうか?
それでまだ今年は終りませんが、これまで約半年での表示回数、閲覧者数はどのような感じになりましたか?」
A「ああ、これまでの表示回数は81600程度で、閲覧者数は20700程度になりました。
半年でこのくらいというのは多いのかどうかわかりませんが、まあ書いているブログの内容からすれば上々の出来ではないかと思っています・・(苦笑)。」
B「はあ、そうですか・・そのくらいの表示回数、閲覧者数は悪くないと思いますが、今後それを増やすためにブログの方向性などを変える気はありますか?」
A「・・ううむ、これまでに書いた対話形式のブログで大分慣れてきましたので、特に必要性が生じないかぎり、とりあえずこの調子で書き続けてゆこうと思いますが・・あるいはそういった形式的なことでなく、他のことについてですか・・?」
B「いえ、ただ何となく聞いてみただけですので、あまり気にしないでください(笑)。
それでも半年ブログを書いていますと、書くことが習慣になってきませんか?」
A「ええ、そうですね(笑)。
ブログを書きはじめた頃は、正直書くのが大変面倒くさかったです・・(苦笑)。
それでも何とか書くことを続けるために、読んだ書籍の抜粋、引用を行った次第なのですが、これはこれでかなり勉強になったのではないかと思います。
そして、それではやはり自身の文章でないために、色々と試行錯誤、苦心の結果、この対話形式にたどり着いたわけです・・。」
B「はあ、そうだったのですか・・。
それでも、私個人の意見ではAさんの対話形式は結構いいと思いますよ。
つまり我々は、分野は違いますが、自身の考えを文章にて表現することを学んできましたよね?
そしてその背景には依拠とする信頼に値する知識が必要とされます。
また、この信頼される知識およびその体系とは、各個人の研究、学習活動によってのみ獲得されますよね?
これはネットがいくら発達してもその基本は変らないと思います。
そして自身がある程度こうした活動をした人であるならば、他者と話していても、その獲得、修練の程度が何となくわかってくるのです・・うまくいえませんが・・(苦笑)。
それでも、このことは以前Aさんのブログに書かれていましたよね・・?」
A「ええ、そうですね・・今の指摘はおっしゃるとおりです(笑)。
それでも、何故それと私の対話形式のブログが悪くないというBさんの評価に結びつくのですか・・?」
B「・・それは思考する文章とは、問題提起、思索、暫定的な仮説の定義そしてさらな問題提起、思索・・となり、たとえるならばドリルのように問題を掘削してゆくようなものではないかと思います。
そして、それは他者との対話であれ、自問自答であれ、その根本においては対話があると考えます。
それ故、Aさんの対話形式のブログは思考の基本に忠実であるという意味で、いいと思った次第なのです。」
A「そうしますと、個人の研究、学習活動によって獲得した知識を自問自答あるいは他者との対話によって有機化、血肉化し見識とするということでしょうか?」
B「ええ、まさしくそうです。
これはうまくわたしの先ほどの発言を補完していただいた感じになりますね(笑)。」
A「いえ、これもBさんの問題提起の仕方が上手いからではないでしょうか?
ですから、案外こうした対話、問答の良し悪しの行方とは、互いが変な駆け引きナシで用いる言語の語義に忠実に議論することに因ると思います。
つまり、言語化以前の混沌とした思考とは、明晰に言語化されることにより、はじめて受肉、具現化し、他者との対話、問答に供されるに値するものとなるのではないかと思います。
そして実はこの過程が案外重要ではないかと最近思います・・。」
B「そうですか、それはどうもありがとうございます(笑)。
また、おっしゃることは肯定できます。
しかし、先ほどいいました対話によって相手の知識獲得、修練の程度がわかるというのは、また少し次元が違うのではないかとも思いますが・・。」
A「・・たしかにいわれてみますと、それはそうかもしれませんね。
しかし、それはどのようにして判断しているのでしょうかね?」
B「それはよくわかりませんが、テレビなどの会話を聞いていますと、何だか大変無理をしているように聞こえることがあります・・。
しかしながら、私がこのように感じるのですから、他にもそう感じている方は多いのではないかと思います。
ですから現代は芸能人の方々にとっては辛い時代になってきたのではないでしょうか・・?」
A「しかし、だからといって知性、教養に対し敵対的、攻撃的に出て、反知性的な態度を貫き通そうとするのは、さらにこうした状態を悪化させるのではないかと思います・・。
であるからといって、どうすれば良いのかは分かりませんが・・。」
B「ええ、それはたしかにそうなのですが、その一方において医療ドラマ、マンガがここまでもてはやされるのも、どうかとも思いますけれども・・?
あれは結局、一般的に医学部が最も知的、有益であり、セレブ?的であるところからきているのではないでしょうかね?
たしか工学部の教授を主人公にした小説がありましたけれども、もう少しマニアックな視点のそうした小説、マンガ、ドラマがあっても面白いのではないかと思いますけれどもね・・(笑)。」
A「ああ、それはたしかに面白い試みですね・・Bさんも御自分の研究の合間に何かそういったものを書かれてみてはどうですか(笑)?」
B「ええ、それは面白いですね・・しかし、それでしたらAさんもそういった内容のものを今後書かれてみては如何でしょうか?」
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