2016年9月14日水曜日

20160914 羽根、鋳バリ、銅鐸の鰭飾り・・

本日の首都圏もまた天候が不安定であり、小雨が降ったり止んだりといった状態でした・・。

また、よく読まれているブログ記事を見てみますと、よく読んで頂いているようであり、本当に感心し恐縮すらしてしまいます・・(苦笑)。

これら一連の記事を読んで頂いている皆様、どうもありがとうございます。

さて、これまで投稿したブログ記事も400からいくらか過ぎ、このまま順調に記事の投稿が為されたならば500記事もそこまで遠い先ではないことのように思えてきました・・。

自分で記すのも、おかしなハナシではありますが、よくもまあ、ここまで書き続けることが出来たと思います・・。

とはいえ、こうしたことをさらに長い間されている方々も特に珍しいわけでもありませんので、あくまでもこれは主観的な思いではありますが・・。

また、本日に関しても、ここに至るまで記す題材も特に定めているワケではありません・・(苦笑)。

そういえば、本日町中にて鯛焼きの美味しそうな匂いに誘われて、少し気を付けて見てみますと、そこに「羽根付き鯛焼き」と記されており「何故鯛焼きに羽根がついているのだろう?」と思い、しばし観察してみますと、どうやらこの羽根とは、鯛焼き作成時の周りの生地によるバリのことを指すようであり、これは同様に「羽根付き」と称される餃子と同じパターンのネーミングであることが分かりました・・(笑)。

しかし「何故このバリともいえる羽根があることがブランドになるのだろうか?」と考えてみますと、残念ながら、その適当な答えは思い浮かびませんでした・・。

その一方、同じく液状の物質を型に流し込み所望の外形、外観を得る技術として鋳造が挙げられますが、鋳造においてはこうしたバリとは絶対に避けるべきものとして考えられています。

そして、その鋳造時に生じるバリの主要な原因として、
埋没材の急加熱、鋳型への衝撃、埋没材の膨張差、埋没材の亀裂などが挙げられます。

これらは総じて何らかの原因(主に埋没材の急加熱、衝撃)による鋳型内部(パターン空洞部との接続部)の亀裂によって生じるものであるといえます・・。

こうした鋳造時に生じる鋳バリとは、我が国古代(弥生時代)における銅鐸においても、見出すことが出来、また、この鋳バリを起源として装飾へと転化、進化させたものが、縁に鰭のような装飾が為された大型(後期)の近畿式銅鐸であると言われており、私はこの説が妥当であると考えております。

また、そのような製作者あるいは使用者の心のメカニズムが同様にさきに述べた鯛焼きあるいは餃子における羽根のブランド化?にも転用、応用することが出来るのではないかと思われますが、さて、如何でしょうか・・(笑)?

また、それに関連して、さきに述べた近畿式銅鐸の鰭状の装飾部(円型、渦巻き文様)のみがペンダント状に再加工され後代(古墳時代)の静岡県沼津市の遺跡から発掘、出土していることは、なかなか興味深く、これは住民の移住(近畿から静岡へ)を示唆しているのかもしれません・・。

そしてまた同様にそれは、以前当ブログにて抜粋引用しました谷川健一著の文章を裏付ける一つの要素となり得るのもしれません・・。


さきにも少し述べたが、我が国における青銅製祭器のなかで、特に我が国において特有と考えられるものが銅鐸である。

多くの場合、銅鐸はその出土に際し伴出物なく孤立し、しかも工事などの際に偶然見出されることが多い。

また、それら形状の多くは、我が国にて独特のものであり、周辺諸国に同じ形状のものがなかったことから、これを説明するため一種の仮説が立てられた。

それは現在の日本民族の祖先が渡来する以前の民族、原住民が作製したものであり、彼らが滅亡する際に、この青銅器を土中に埋め、侵入者に発見されることを避け、逃走したというものである。

しかしその後、銅鐸が他の青銅製祭器(銅剣、銅矛、銅戈など)および弥生式土器と一緒に出土、発見されたことから、銅鐸も我々の先祖が作製した弥生式文化事物の一つとして認識されるようになり、またその祖型とは中国、朝鮮半島における楽器の一種である編鐘(へんしょう)あるいは家畜の首にぶら下げる鐸(さなぎ)であるといった理解が為されるようになり、銅鐸もまたその祖型とは他の同時期の文化的事物と同様、中国、朝鮮半島より齎されたものと認識されるに至った。

銅鐸の出土分布は西日本に集中し、近畿、四国東半、瀬戸内、山陰に特に多いと云える。

また、この時代においては、後の古墳時代ほどではないにしても、実用的利器の素材としてはより有用な鉄を用いることも珍しくはなかったことから、実用的利器の素材として青銅とは、あまり重要でなかったものと考えられる。

これは九州北部を中心として四国西半、瀬戸内、山陰にて発見、出土される銅剣、銅矛においても同様のことが云える。

それ故、これら青銅祭器とは、中国、朝鮮半島から九州北部を経て主に西日本の弥生式文化圏へ伝播していったのであるが、それとほぼ時を同じくして鉄器文化もまた同様の経路にて伝来し、そこで利器素材としての価値を失った青銅とは祭器を主とした用途にしたものと考えられている。

ともあれ、一般的な世界史時代区分にて考えると、石器時代に次いで青銅器時代そして鉄器時代へと移行あるいは進化していくのだが、我が国の歴史において特徴的であることは青銅器と鉄器がほぼ同時に中国、朝鮮半島より齎されたということであると云える。

金属製品とは一般的に鍛造、圧延、切削などの方法により加工・製作されるが、その本質である優れた機械的強度により、かなり多くの労力が費やされると云える。

とりわけ複雑な形状の製品を製作する場合は困難であると云える。

そして、それを解決するための方法が鋳造であると云える。

鋳造においては金、銀、銅、鉄、亜鉛、スズ、アルミニウムなどを単独あるいはそれらを合金化して用いる。

鋳造に用いる合金、金属としては青銅あるいは銅がもっとも古いとされている。

以前の記事においても述べたが古代メソポタミア(両河地方)においては紀元前3500年頃すでにその合金が存在し鋳造に用いられていた。
 
また古代エジプトにおいては紀元前2000年頃より為され、古代中国においては殷・周の時代すなわち紀元前1500年以降が青銅器時代とされている。

わが国においては弥生時代にそれらが大陸、朝鮮半島からもたらされ、またそれは鉄器伝来とほぼ同時代であったことから明確に青銅器時代として区分される時代はなかったと云える。

昨今は弥生時代の鋳造遺跡が多く発見され、その最古のものは現在のところ和歌山県御坊市の堅田遺跡(紀元前200年頃)であるとされているが、おそらくほぼ同時期の西日本、特に北部九州地域などにおいては、鋳造技術とは特に稀なものではなかったと考えられている。

弥生時代における我が国の青銅器とは当初、渡来元の朝鮮半島にて製作されたが、後代に至り製作技術が流入・定着し当時の我が国の(地域ごとの)嗜好、文化にあわせた独自の青銅器の製作が為されるようになった。

その際、我が国にて製作されたのは銅剣、銅矛、銅戈、銅鐸、銅鏡などであり、それら青銅器およびその鋳型とは、これまで主に西日本各地にて出土している。

また、こうした祭器の製造とは軌を異にするものであるか未だ不明であるが、統一国家の成立に至ると鋳造技術とは、貨幣の製造(造幣)と密接な関係を持つようになる。
これはある程度普遍的な歴史発展の図式、様相ではないかと考える。

世界最古の鋳造貨幣とされるものは紀元前700年頃、リディア(現在の小アジア・トルコ共和国西側)にて製造されたエレクトロン貨幣であり、これは自然に産出された金銀合金を材料として用いている。

また中国では紀元前200年代の秦の始皇帝の時代に貨幣鋳造が国家事業として為された。

我が国においては7世紀末天武天皇の御代に製造された富本銭、707年の和銅年間に製造された銅貨の和同開珎が古いものとして有名であり、その後、天平宝字年間(700年代中頃・淳仁天皇の御代)に我が国初の鋳造金貨である開基勝宝が製造された。

鋳造を行う職人をわが国では一般的に鋳物師と呼び、古くは大宝律令において大蔵省の典鋳司(いもののつかさ)の下におかれた雑工部に十名程度の職工官が勤務していた。

後代の鎌倉時代においては各地の村々にてさまざまな農工具を鋳込んだり、寺社などの招きにより梵鐘、仏像を鋳造するフリーランスとも云える職人も存在していた(このあたりを欧州における石工と比較して考察してみるのも面白いのかもしれない・・)。

さて、具体的な鋳造技術の種類としては平板の鋳型に溶湯を鋳込む方法、上下の型を合わせ、その中に生じる空隙に溶湯を鋳込む方法、そして実物を砂で埋めその実物を抜き取った後に溶湯を流し込む方法といったものが挙げられるが、歯科鋳造とは精密さが要求されることから、その用いる材料の選択にはじまり鋳造に至るまで細心の注意が払われる。

2016年9月13日火曜日

20160912 またしても・・しかし・・

A「本日首都圏、東京都は雨が降ったり止んだりの落ち着かない天気でした。

それでも、気温がそこまで上昇しなかったため、比較的過ごし易くはありましたが・・。

さて、つい先日応募しておりました西日本在某大学の公募(任期付コーディネーター)の「採用ならず」との結果を受け、かなり落ち込みました・・。

このような時はガックリと膝の力が抜けるものです・・。

また、とりあえず面接まで進ませて頂いたのは大変ありがたいのですが、その往復交通費、宿泊代が(大変)バカにならないものでした・・。

これもなかなか辛いものです・・。

しかしながら、落ち込んでいても仕方がありませんので、今後はもう少し応募職種を精選してみようかと思います・・。

『しかし、そうすることにより、今度はチャンスを逃してしまうのではないか?』
といった不安、危惧もまた生じますが一方、始終そうした考えに捉われ日常を送っておりますと、神経が衰弱(心を病む)してしまいますので、そうした病的な方向に向かうことを避けるべく、自然と自身が(本当に)就くことを望む大学での職があるとすれば、自身がそれを見つけ応募することになるのではないかといった、見方によればいい加減な、大上段の、あるいは運命論的な考えに徐々に落ち着いていくような感じがします・・(苦笑)。

しかし一方、これを積極的に考えますと、もしかすると、現在の職務での経験を付加的に生かし、今後の自身の就くことの出来る職もまた増えるのではないかとも思えます・・(笑)。

この私とは、よくよく考えてみますと、様々な経験(だけ)はしているのではないかとも思えますが、一体どうなのでしょうか・・?

そして、こうした(変な)人間が大学組織の中に少数いることは、あながち無益なことではないと思われるのですが・・(笑)?

あるいは、これはさきに述べた願望よりも一層現実的ではないのかもしれませんが『何かしらの著述によって生計を立てることができれば、時にはイヤイヤになるかもしれませんが、継続的、能動的に努力をすることが出来るのではないだろうか?』とも、ここ最近考えてしまいます・・(苦笑)。

これに関しては、これまでブログ記事を作成してきたことにより、そのように考えることが出来るようになったのではないかと思います・・。

とはいえ、これは、これまで(主観的あるいは客観的にも)あまり面白いとは思えないブログ記事を少なからず作成、投稿しつつも、一連のそれを読んで頂いた方々がいらっしゃるからではありますが・・(苦笑)。

そしてそれ故、このブログ記事の作成を止めず、ここまで継続的に記事を作成することができました・・。

これはひとえに読んで頂いている皆様のおかげです・・。

果たして今後500記事にまで至ることが出来るのでしょうか?
また500記事に到達出来た場合、如何なる心境の変化といったものが生じるのでしょうか?

しかし、何れであれ、これもまた記事を投稿し続けないと分からないことですので、今後もとりあえずキリの良いところ(500記事程度)までは、どうにかして記事を作成、投稿したいと考えております。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」


20160912 自然風土と魂の濃度・・?

A「改めて記すことではないかもしれませんが東京、首都圏は人が多いです・・。

町中でも電車の中でも、どこでも、とにかく人が多いと思います(多すぎるとはいいませんが)。

帰郷後当初はこれになかなか慣れることが出来ず難儀しましが、ここ最近は特にそうしたこともあまり苦とも思わなくなりました・・。
これは以前その場所にて生活していたからなのでしょうか・・?

さて、そうした環境にも(再び)慣れてきますと、町中や電車内などにおいて他者のことを見て考える余裕も出てきます・・。

そういえば、かつて一連のシャーロック・ホームズシリーズを熱心に読んでいた時期は、そのようなことを電車内などでたびたび行っておりましたが、現在ではかつてほど進んで、熱心にそういったことをしようとは思いません・・。
これは精神の進化あるいは退化のいずれ(の傾向)であるのでしょうか・・(笑)。

しかし、それはさておき、最近の(あまり熱心ではない)そうした観察、考察を通じて思うことは「ここ首都圏とは九州在住時に比べ天然そのまま(「に近い」も含む)の容貌、容姿といったものが少ないのではないか?」ということです。

また、それと関連して先日偶然神田の古書店にて林忠彦の文庫サイズの写真集「文士の時代」を眺めておりますと、不図「この文士たちの誰かをもし、現代の電車の中で見かけたら、一体どのような観察、考察を私はするのであろうか?」といった考えが浮かんできました・・。

やはり、かつての文士、著述家とは、現代のそれに比べ、顔つき、顔貌が異なり、司馬遼太郎風の表現を用いますと「より魂の濃度が濃い」といった印象を受けます。

また、さらに以前の著述家、研究者などの顔貌もまた(現代に比べ)同様の印象を受けます。

たとえば青年時代の牧野富太郎、南方熊楠の顔貌は、おそらく現代の東京、首都圏などにおいてはなかなか(到底)お目に掛かれない一種の迫力、魅力?を持っているのではないかと思われます・・。

その点、九州在住時の頃を思い起こしてみますと、老若男女共々全体的に東京、首都圏に比べ印象的(迫力・魅力)な方々が多かったように思われます。

しかし、こうした見解とは、果たして科学的な意味で妥当なものなのでしょうか・・?

そして、科学的な意味においてそれが(ある程度)妥当な見解であるとすれば、それらの間の差異を生み出す因子とは(様々考えられますが)一体何なのでしょうか・・?

あるいはまた、その差異とは、昨今のインターネットの普及に伴う、様々な情報の全国的な標準化、平均化によって今後減衰してゆく性質のものなのでしょうか?

・・私見としては、それによってあまり減衰してゆくことはないと考えます。

何故ならば、その根源には、我々が大きく変化させることの出来ない自然風土があると考えるからです。

そして、さきに挙げた青年時代の牧野富太郎、南方熊楠の顔貌にも、彼らを生んだ自然風土(土佐、紀伊)が大きく関与しているのではないかと考えさせられますが如何でしょうか?

本日もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。」








2016年9月12日月曜日

20160911 意識の流れの感知、言い換え作業・・

A「おかげさまで昨日のブログ閲覧者数も1000に到達しました。
興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さて、昨日は半分仕事も兼ねて東京、千代田区周辺を廻りましたが、その際、面白い書籍を(比較的安価にて)見つけ購入しました。

その書籍とは荒俣宏著の「理科系の文学誌」というものであり、偶然ながら、この著作内に取り上げられている人物の多くが、これまでに投稿した一連のブログ記事にて取りあげた人物と重なるため興味深く、面白いと感じた次第です。

しかし、そこで面白いと感じるのは「自身が面白いと感じることが出来る著作に出会うことが出来た」ということであり、具体的には「数多ある書店の書籍の中から、何故それを手に取り頁を開いたか」ということです・・。

そのように考えてみますと「こうしたことは一種の運によるものではないか?」とも考えられ、また、それ以外に如上のような現象を簡便、適当に説明する論法?とはないのではないかと思われます・・。

さらに若干、我田引水、牽強付会の観がありますが、そうした意識の流れ(の感知)が文系諸学問が持つ根源的な価値であり、またそれは一見あまり大きな意味を持つものではない(あまりにも主観的であり(他者が)感知することが困難であるが故に)とも見ることができるため、特に昨今の我が国社会においては(文系諸学問が)軽んじられているのではないかとも思われます・・。

また、こうしたことは、さきに示した著作の内容にも関連するのではないかと思われますが、前述の意識の流れ、およびその感知とは、何も文系諸学問のみに認められるものでなく、理系諸学問においても同様に存在するのではないかと思われます・・。

しかしながら、文系諸学問においては、この意識の流れの知覚、これをさらに別言すると、認識された形而上下の現象の言語化そしてその(継続的な)言い換え作業を通じて生じる現実(物質的)世界との(時折生じる)合致「こそ」が重要であるため、何と言いますか、その成果の認識あるいは可視化、具現化が困難であることから、どうしても、さきのような価値判断(文系学問の軽視)へと至るのではないかと思われます・・。

そして、ここまで記していて思うことは、我々は一般的に具体的な物質的存在の認識および、その積重ねによる思考作業の方が(徹頭徹尾形而上的な思考作業よりも)容易に為すことが出来ると考えられることから、先ず理系、文系の分岐以前の中等教育あるいは高等教育初期段階において、ある程度職業につながるような専門的な技術教育を行い、そこからさきの高等教育(専門課程)の段階においても、理系、文系何れの学問分野であれ、各々の専攻とは異なった学問分野(理系であれば文系の、文系であれば理系の)にて能動的に親しむことの出来る科目を見つけておくことが案外と重要なのではないでしょうか?

そしてまた、これは大学院(研究)レベルにおいても、そのようにしておく方が良いのかもしれません・・。

しかし、その意味、価値を疑問視する方々も少なからずいらっしゃるかもしれませんが「強く弦を張りすぎた弓は切れやすい」ともいいますので、少なくとも息抜き、あるいは(ユング)心理学でいうところのコンステレーション(布置、配置)の契機ともなるのではないでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ速やかな復旧そしてその後の復興を祈念しております。」

2016年9月11日日曜日

20160911 岩波書店刊・バートランド・ラッセル著「幸福論」pp.54ー55より抜粋引用

「成功感によって生活がエンジョイしやすくなることは、私も否定はしない。
たとえば、若いうちはずっと無名であった画家は、才能が世に認められたときには、前よりも幸福になる見通しがある。
また、金というものが、ある一点までは幸福をいやます上で大いに役立つことも、私は否定しない。しかし、その一点を越えると、幸福をいやますとは思えない。
私が主張したいのは、成功は幸福の一つの要素でしかないので、成功を得るために他の要素がすべて犠牲にされたとすれば、あまりにも高い代価を支払ったことになる、というのである。
この災いの根源は、実業界一般に広まっている人生観にある。
確かに、ヨーロッパには、実業界以外にも威信のある階級がいる。
一部の国には、貴族階級がある。
すべての国には、知識階級があり、二、三の小国を除くすべての国では、陸海軍の軍人が非常に尊敬されている。
さて、ある人の職業が何であろうと、成功の中に競争の要素があることは事実であるが、同時に、尊敬の対象となるのは、ただ成功することではなくて、何でもいい成功をもたらしたすぐれた資質である。
科学者は、金をもうけるかもしれないし、もうけないかもしれない。しかし、金をもうけたほうが、もうけない場合よりも余計に尊敬されることは、絶対にない。
有名な将軍や提督が貧乏だからといって、だれも驚きはしない。それどころか、こういう境遇での貧乏は、ある意味では、それ自体一つの名誉である。
こういう理由で、ヨーロッパでは、純粋に金銭のために競争し奮闘するのは、一部の階級だけに限られているし、しかも、そういう人たちは、たぶん最も有力でもなければ、最も尊敬されているわけでもない。
アメリカでは、事情が異なる。陸海軍は、彼らの尺度では、影響を及ぼすほどの役割を国民生活において果たしていない。
知識階級について言ば、ある医者が本当に医学のことをよく知っているかどうか、あるいは、ある弁護士が本当に法律のことをよく知っているかどうか、部外者にはさっぱりわからない。だから、彼らの価値を判断するには、彼らの生活水準から推定される収入によるほうがやさしい。大学教授について言えば、彼らは実業家たちに金で雇われた使用人であり、そういうものとして、もっと古い国々で与えられているほどの尊敬を受けていない。こうした事態の結果、アメリカでは、知的職業にたずさわる人は、実業家のまねをし、ヨーロッパにおけるように独自のタイプを作っていない。それゆえ、アメリカには、裕福な階級のどこを見まわしても、金銭的な成功のための露骨な容赦ない闘いを緩和するものは、何ひとつない。」

20160910 筑摩書房刊・山田風太郎著 「秀吉はいつ知ったか」pp.243ー249より抜粋引用

「榎本武揚はまさしく英才であった。少年時、昌平黌に学び、青年時、海軍伝習所に学んだというのだから、現代でいえば東大を出て、防衛大学を出たようなものだ。そして二十代後半の五年間をオランダに留学した。当時おそらく近代兵学、近代科学についての素養において、彼の右に出る者はなかったであろう。その自負ゆえに、彼は帰朝して早々にぶつかった幕府崩壊の嵐の中にひとり屈せず、幕府艦隊を率いて五稜郭に立てこもり、官軍に猛抵抗して徳川の侍の最後の意気地を見せた。その壮絶さが官軍の参謀黒田清隆を感心させ、箱館戦争終結後、みずから坊主になってまで叛将榎本の助命に奔走するという美談を作り出した。降伏後、牢から出た榎本は、以後海軍中将に任ぜられ、ロシアや中国の駐在公使、外務、海軍、農商務、文部等の大臣を歴任する。元幕臣、しかも新政府に対する叛将というハンディキャップを持つ人間としては稀有の栄職である。いかに彼が有能であったかがわかる。ただ、きれるだけでなく、榎本は快男児であった。
五稜郭の戦いのみならず、オランダへゆくとき、ジャワ海で嵐のために船が難破して名も知らぬ小島に漂着し、海賊船に襲われたが、かえって日本刀をつらねて海賊たちを制圧し船を出させたという逸話、海軍卿時代、隅田川に海軍の汽艇二隻を浮かべ、芸者を満載してドンチャンさわぎをやったという快談、ロシア駐在公使の任を終えたとき、まだ鉄道もないシベリアを馬車で横断して帰国したという冒険など、あたかも武侠物語の主人公の観がある。しかも写真で明らかな通り、日本人は珍しいほどの颯爽たる美丈夫である。まさに人物、風貌、男の中の男といっていい。この榎本武揚にして、私の見るところでは、その人生において重大な二つのミスをした。人生のミスはなにも彼にかぎったことではないが、いかにも武揚らしくないミスである。ミスというより、誤判断だがー。
一つは、例の福沢諭吉の「痩我慢」問題に見られる福沢との鞘当てである。
明治三十四年(1901)、福沢諭吉は「痩我慢の説」という文章を発表した。実に福沢が死ぬひと月前のことである。彼は、国家も個人も痩我慢が大事である。平時において大国に対して小国が独立を保つのも痩我慢の精神、戦時において国敗れんとするも最後まで全力をあげるのも痩我慢の精神だとして、維新時なお戦う力があるのに幕府を売ってしまった勝海舟を嘲罵した。兵乱のために人を殺し、財を散ずる禍いを軽くしたかも知れないが、一国の士風をそこなった罪はそれより重いとしたのである。さらに、それはなお許すとしても、維新後、勝が新政府の栄爵の地位を得るのは何ごとか、と弾劾した。
そしてまた彼は、ほこさきを榎本武揚にも向ける。
榎本が、すでに滅亡した徳川武士の意気地を見せようとして五稜郭で戦ったのはまさしく痩我慢の見本であっぱれなふるまいだ。たとえ敗れて牢に投じられたとしても、勝敗は兵家の常ととがむべきではない。しかし、そのあとがいけない。
「氏が放免の後に、さらに青雲の志を起こし、新政府の朝に立つの一段に至りては、我輩の感服する能わざる所のものなり」
と、福沢は言い、榎本よ、君はいま青雲の志をとげて安楽豪奢に余念がないかも知れないが、夜雨秋寒くして眠る能わず、残燈明滅独り想うのとき、五稜郭で君に殉じて戦死したいくたの部下たち、またそのあとに残されて路傍に彷徨した母や子たちを想像して腸を寸断されることはないか、と述べ、榎本のいま世に処すべき唯一の路は、坊主となって死者の菩提を弔うか、そうでなければせめて世間の耳目から隠れてひっそりと生きるべきである、と断案を下した。
実はこの文章を公開する前に、福沢はこれを勝と榎本に見せ、これについて何か言いたいことがあれば言え、という手紙を送った。
維新時まっさきに両刀を捨てた「平民」福沢諭吉から、「士道」についてのこの公開状をつきつけられて、勝海舟のほうは、行蔵は我に存す、毀誉は我に関せず、そのまま公表されても毛頭異存なし、という風のような返事をよこし、榎本のほうは、目下多忙、そのうち愚見を述べる、と、ぶっきらぼうに言って来たが、それだけで、以後何も言って来なかった。実は福沢の文章を読んで、彼は真っ赤になって激怒したといわれる。
この「痩我慢の説」は明治三十四年に発表されたのだが、実際は十年前の明治二十四年に書かれたもので、それはその年福沢が興津に遊んだとき、そこでの清見寺の境内に建ててある一つの石碑を見たからである。明治元年(1868)八月、榎本は幕府艦隊をひきいて北海道へ向かったが、途中房総沖で暴風のために艦隊四散する難に遭った。
その中の一隻咸臨丸は清水港までおし流されたところを官軍方の攻撃を受け、おびただしい死者が海に浮かんだままになった。それを土地の遊侠清水の次郎長なるものが一々ひろいあげて、ひそかに葬った義挙を伝えるための石碑であった。
咸臨丸は福沢が、勝艦長とともにはじめてアメリカへ渡ったときの船である。
「それからの咸臨丸」の悲運に万感をもよおしながらこの記念碑を見た福沢諭吉は、その裏面に、「人ノ食ヲ食ム者ハ人ノ事ニ死ス。従二位榎本武揚」と彫りこんであるのに気がついて、帰京後たちまち「痩我慢の説」の筆をとり、かつその内容をひそかに勝と榎本に示したのである。榎本の文字は徳川に殉じた侍たちを悼んだものだが、福沢は、徳川の禄を食みながらついに徳川のために死ななかったやつが、えらそうに何を言うか、という心情を勃然と発したのであった。そして、これについては福沢と榎本の間に、明治の劈頭早々に、次のようなただならぬいきさつがあったのだ。
明治二年(1869)六月、降将として箱館から東京に送られた榎本武揚が辰ノ口の牢獄にいれられたまま、それっきり消息が絶えてしまったのを、榎本の老母や姉たちがひどく案じているといううわさをふと耳にした福沢諭吉は、榎本とは一面識もなかったにもかかわらず、榎本の最後の勇戦ぶりに感心していたこともあって、義侠の人肌をぬいだ。
彼はひそかに武揚が牢で健在であることを調べて家族に知らせてやり、牢獄に書物その他を差し入れてやり、はては武揚の母に代わって助命嘆願まで書いてやり、さらに黒田清隆と相談して触法運動に奔走さえしたのである。ところがである。やがて釈放された武揚は、この福沢の労にまったく酬いることがなかったのだ。どうやら出獄後、礼のあいさつにさえゆかなかったらしい。福沢の尽力のことは家族から聞かなかったはずがない、-いや、それどころか彼自身獄中で、福沢から差し入れられたオランダの化学書も受けとったのに、これに対して彼の感想は、「実は、この方一同、福沢の不見識には驚きいり申し候。もそっと学問ある人物と思いしところ存外なりとてなかば歎息いたし候。これくらいの見識の学者にても百人余の弟子ありとは、我が邦いまだ開化文明のとどかぬこと知るべし」と、姉宛の手紙に書いたようなものであった。榎本は、福沢から差し入れられた化学書があまり初歩的なものであったので、かえってむっとしたのである。彼の語学力、また西洋知識についての自信は絶大なものがあった、自分の履歴についてのプライドは天より高かった。おそらく、直参、最初の留学生、徳川艦隊司令長官のコースを経た彼は、九州の小藩の下級武士出身で、いまは市井に塾をひらいているだけの福沢という男が、自分のために多少の奉仕をしてくれようと、町人が殿様に犬馬の労をとってくれたぐらいにしか思わなかったのではあるまいか。」
「秀吉はいつ知ったか」
ISBN-10: 4480433031
ISBN-13: 978-4480433039
山田風太郎





2016年9月10日土曜日

20160909 コーヒーについて

A「本日もまた、ある程度長い距離を徒歩にて移動したと思います・・。

とはいえ、昨日(20160908)ほどの湿気ではなかったため、多少楽ではありましたが・・。

また、丁度昼時に神田周辺の某個人経営のコーヒー店にてコピ・ルアクをかなりの安価で限定販売(10杯)しており、これを幸運にも飲むことができました(本日最後の1杯であったそうです)。

本当に美味しいのであろうかと思い飲んでみますと、たしかにコンビニエンス・ストアのコーヒーに慣れている私にとっては格別の美味しさであり、短い時間ではありましたが満喫することができました・・。
そして、コーヒーも豆によって大分味に違いがあることを再認識しました・・。

そういえば、コーヒーといえばかつて九州在住の折、特に福岡市街には(センスの良い)個人経営のコーヒー店が少なからずあり、週末の書籍持参の散歩の際は、かなりお世話になった記憶があります・・。

もしかすると、こうした個人経営のコーヒー店の数およびその質とは、その都市の文化水準を測定する要素となり得るのではないでしょうか・・(笑)?

そして、この意見がある程度妥当であるとするならば、少なくとも福岡市はなかなかのものであるのではないかと思います。

また、それに加え、コーヒーに関して最近思うことは、コーヒーを飲んでいる時の方が、こうしたブログの文章を書く際において、割合スムーズに書くことが出来るのではないかということです。

そうしますと、コーヒーに何かしらの精神に及ぼす影響、作用があるのではないかと思われますが、たしかにコーヒーを飲むことによる文章作成への影響、効果とは、あると私は考えます・・。

そうしますと、フランスの作家オノレ・ド・バルザックは、その著作執筆の際コーヒーを大量に飲んでいたと伝えられておりますが、この行為も無理なく理解することができます・・。

さらにまた、私の師匠のお一人(歯科理工学)も学生時代に自分専用のコーヒー・ミルを所持されていたと何度かお聞きしたことがありますが、この師匠もまた、多くの著述をされております。

私は師匠から、このお話しを伺った時、森見登美彦著「太陽の塔」内での記述のようであると返答した記憶がウッスラとあります・・。

そして私もこれまである程度(たいしたことでもありませんが)継続的にブログ記事を作成してきましたが、これもある程度コーヒーのおかげであるのかもしれません・・(笑)。

とはいえ、無論、これを為さしめている最大の要因とは、これまで投稿した一連の記事を読んで頂いている皆様がいらっしゃることではありますが・・。

しかし、ここではそれはさておき、そうしますと、コーヒーには何と言いますか一種、麻薬的な効果があるのかもしれません・・(笑)。

そして、もしかすると私はその中毒ではないかとも思われます・・(まあ、それでしたら私以外にもいくらでもいらっしゃるとは思いますが・・(笑))。

ともあれ、コーヒーとは我々が普段何気なく飲んでいるものではありますが、我々の精神およびそこから発せられる様々な事物に対し、少なからぬ影響を持っており、またそれ故に時折美味しいコーヒーを飲むこととは、あながち悪いことではないと思われますが、さて如何でしょうか?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」