2016年5月29日日曜日

20160529 「Obsession」20200419加筆

おかげさまで昨日初めて、当ブログの1日の閲覧者数が1000人に到達しました。

さて、昨日、久しぶりに神保町に行き、古本屋の店頭にて何気なく目に入った「少女怪談」という様々な作家による短編集をパラパラと立ち読みしていますと、期せずして、その中の森村誠一による「青の魔性」という作品を読み入っていました・・。


私は特に「少女が好き」という傾向を持っていませんが、この作品の内容は、それが少女でなくともハナシのスジにはそこまで支障がないと思われます。


ともあれ、その上で、この作品の内容に関しては、何となく「分かる」といった感じを受けました。


そして、当作品冒頭部にて描かれている『憑りつかれる』といった感覚は、物理的現象としては認識し難いものの、良くも悪くも実際に存在するのではないかと思われます。


また、こうしたことを書くと「この人は少しおかしいのではないだろうか・・?」と思われる方々もいらっしゃるのではないかとも思われます・・(笑)。


しかしながら一方で、それはプラスな意味合いでは、自分以外の誰かから『元気をもらう』あるいは『癒される』などと普通に言い表される現象の逆をも含めたものであると考えていただければ、多少は納得していただけるのではないでしょうか?


また、私個人の経験に即して考えてみますと、良い意味でのそれは、私の九州在住時においても生じていたのではないかと考えています・・。


そして、現在の私は、まさに、そのことにより、これまでブログ記事の作成を継続することが出来、さらには生きている(生かされている)のではないかとも思われるのです。

いや、あるいはまた、そうした現象をどうにか客体化・対象化して認識するために、これまで一連のブログ記事作成を行っているのではないかとも思われます・・(笑)。

そして、こうした現象をマクロレベルにて考え、さらに歴史を遡上して考えてみますと、我が国が倭国と呼ばれた時代、女王が統治する邪馬台国というクニが、九州あるいは畿内の何れかに存在していたことが実感を以って感覚的にも理解・認識できるのではないかとも思われるのです・・。


その意味において、以前数回当ブログにて引用したローレンス・ヴァン・デル・ポストの「The seed and the sower」に記されている我が国の特質についての記述は、かなり興味深いものであると云えます。


とはいえ、そうであっても、こうしたことは畢竟、単なる思い込み・迷信の類であると批判される方々も少なからずいらっしゃるのではないかとも予想されます。


そして、そのような批判がなされた場合、私は『ええ、たしかにそうであるかもしれませんが、しかし、そこで私と同様な経験を彼の地ですることになれば、私以上に敬虔にそうしたことを信じるようになるかもしれませんよ・・。』と返答とすると思います・・(笑)。


ともあれ、この『憑りつかれる』と表現される内容も前述のとおり様々であり、それが生じた時の自身の心持、就中、邪気の有無がかなり精確に反映され、後になり自身に返ってくるのではないかと思われるのです・・。


そして、そういった、いわば単純且つ原始的な観念こそが様々な神話そして道徳的意味合いを持つ神話、さらには地域、国レベルの倫理、道徳観念の基礎あるいは枠組みへと変化そして精製されてゆくのではないでしょうか?


しかし、それでも現在記しているこの記事は、実際問題として、幾分迷信的ともとられ、また自身の今後、保身においても何かしらおかしな影響をおよぼしかねないと考え、投稿することを多少躊躇しておりましたが、それでも、どうしたわけか、この記事を投稿することにしました・・(笑)。


『他方では女友達のいるときの祖父を、理解していなかったにしても、理解するかもしれないと予感していたにすぎない。予感が私のなかで実現したのは、はるか後になって、私自身がひとりの女の眼のなかにすべてをみ、その一刻が世界の全体よりも貴重だと思われるような瞬間を、経験した後でのことである。その経験は、事の善悪について語ることを、全く無意味にみせる・・』
岩波書店刊 加藤周一著「羊の歌」-わが回想ーp.9より抜粋
ISBN-10: 4004150965
ISBN-13: 978-4004150961


さきの熊本での大地震によって被災された地域の諸インフラの早急な復旧、そしてその後の復興を祈念しております。

また、ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。

皆様のおかげでここまで書き続けることが出来ております。
そして最後にゲーテ曰く『迷信的であることは詩作の妨げにはならない』しかしながら、私は詩人ではありません・・(笑)。






          




加藤周一著「言葉と戦車を見すえて」筑摩書房刊pp.87‐89より抜粋20160528

昨日夕刻来の広島にて生じた出来事は以下の抜粋引用部を私に想起させた。

「無条件降伏のその日から、万事が変わったことは周知のとおりである。
占領は夏にはじまったから、開襟シャツの司令官がフロックコートの天皇と並んで写真を撮り、それを新聞雑誌に発表した。米国の営利雑誌はその下に註釈して「もと神」と書いたのである。

日本側では註釈を翻訳する時に、もとの表現の辛辣な諧謔味をとり除いた。

そこには、開襟シャツの大柄な外国人とその傍に立っている昨日までの「御真影」とを対照させた写真に対する、日本側の困惑がよく表れていた。しかし、おそらく天皇のために怒る者は殆どいなかったし、昔の臣民の中で、何等かの激しい反撥を表明する者もいなかった。

反応はおどろく程穏やかであった、しかしそれは写真の効果が浅かったということではけっしてない。おそらく天皇の「神性」を否定しようと考えた占領軍が予期したよりも、その影響は大きかったのである。余りに深い反応は、直ちに表面に出てくることができない。

対照の妙にこっけい味を感じる余裕のないことはいうまでもないとして、怒りや反撥をおぼえるよりも、日本側はその写真が発表されるようになった事態の意味を理解するために努力しなければならなかったのである。

永遠なるものは何もないということ、人間以外の何かがわれわれの世界を保障しているのではないということ、したがって「すべての文明はほろびる」ものであり、況や極東の島国の秩序はいつでも変わり得るものにすぎないということ、変われば前の世界に通じていたことが、後の世界では通じなくなるだろうということ、要するに自分達の永遠だと信じてきた世界の相対性を理解する急な必要があったのだ。

しかしこの場合に、世界を変えることではなく世界のかわることが問題であったということほど、決定的なことはない。

私は敗戦による一種の革命が唯外部から起こり、まったく内側から支えられていなかったというつもりはない。しかし大部分の国民にとって、外部からの変化として受けとられたという事実を強調しておく必要があると考える。

何故なら、歴史的意識は、おそらく一つの世界をその内側からくずし、別の世界を築きあげようとする経験の蓄積を通じてしか獲得されないものだろうからである。


その時現在の権威は来たるべき権威によって否定される。現在の世界の中心は、次の世界の中心が発見され、ひそかに強められ、その影響の範囲を拡大して後に、はじめて除かれる。


1789年に旧制度は仏国民の心のなかで死んでいたのだ。しかしそれは1945年の日本の状況ではなかった。来たるべき権威は予想されず、次の世界の精神的中心が何処にあるのかわからないうちに、永遠と信じられた、または仮定されていたーしかし、どういう違いがその間にあるのだろうか、ー旧来の権威、秩序、生活の規準となるべき権威の大部分は動揺し、くずれ、失われたのである。占領軍が期待し、また国内の民主的勢力が望んだのは、天皇の絶対的権威が否定されることであった。しかし実際に国民の大多数の中で否定されたのは、天皇の権威ではなく、権威そのものであった、歴史的相対主義のかわりに、現在目の前のどういう価値も信用しないという現象が起こるのは、当然の成り行きであったろう。

民主主義の一面は、敗戦後十年の間に、深く抜き難い根を下ろしていったが、それは一面においてであり、具体的な個々の場合においてであって、また、おそらく選良の多数には、未だそういうものとしてしか民主主義は受け入れられていない。


むしろ逆に天皇を中心とした世界の崩壊が作り出した権威一般に対する不信用の態度は、民主主義そのものにも向けられていると考えなければならない。事がそのように運んだ理由は、むろん敗戦の事情だけではなく、また民主主義の原理そのものとも関連し、殊にその原理が現在世界で遭遇している大きな困難、すなわち「二つの民主主義」という言葉によって要約される矛盾と関連している。


「二つの民主主義」の対立は、いずれかの形での民主主義の経験の浅い国ではーそれは何も日本に限らないがー当然のことながら、文化的伝統と国家的経験の基準からよりも、純粋にイデオロギー的な対立として扱われる傾向がある。

しかしそれがイデオロギー的対立として扱われる限り、第一に、解決は困難であり、したがって第二に、議論が煩雑とならざるをえない。その結果は、第三に、一般の知的大衆が民主主義に対するほんとうの関心を失うのである。いわゆる「敗戦の虚脱」の根本的条件は今でも変わっていないと思われる。」

「言葉と戦車を見すえて」
ISBN-10: 4480092382
ISBN-13: 978-4480092380
加藤周一 

























































2016年5月28日土曜日

バートランド・ラッセル著 堀秀彦・柿村峻訳「怠惰への賛歌」平凡社刊pp37‐41より抜粋20160527

伝統的な教育制度のあるフランスやイギリスのような国々では、知識を功利的にみる見解は、ほんの一部分に拡がっているにすぎなかった。
例えば、大学には、中国の古典は読むが、近代中国を創造した孫逸仙の著書を知らない中国語の教授が今なおいる。
また、文章が純粋である著書が書くものに限った古代史、換言すれば、ギリシャではアレキサンダー、ローマではネロに至る歴史は知っているが、もっと重要な後世の歴史は、それを述べる歴史家が文学的に劣っているから、知ろうとしない人がいる。
しかし、フランスでもイギリスでも、古い伝統は絶えていき、ロシアや合衆国のような近代的な国では、全くなくなっている。
例えば、アメリカでは、教育委員会は、大多数の人が、商業通信文に使う語は、全部で千五百字を出てないことを指摘し、それに基づいて、これ以外の語は一切、学校の課程から除くべきだと提唱している。
基本英語は、イギリスの案出にかかわるものだが、もっと進んで、どうしても必要だという語彙を八百語に減らしている。言葉は美的価値を持ち得るものだとする考え方は亡びていって、実際的な知識を伝えるのが、言語の唯一の目的だと考えるようになって来ている。
ロシアでは、実用上の目的を追求することがアメリカよりも熱心である。というのは、教育機関で教えることは、教育や政治の面で、或るはっきりした目的を果そうとすることに限られているからである。しかしただ一つの例外は、神学に見られる。即ち、聖書は、誰かは固有のドイツ語で研究しなければならないし、少数の教授たちは、ブルジョア形而上学の批判から傷つけられないように唯物弁証法を守るために、哲学を勉強しなければならない。
だが正統派の基盤がもっともしっかり定まると、このささやかな逃げ口も閉ざされるだろう。
どの方面をみても、知識は、それ自身だけで善いものとみなされず、また一般的にいって、ひろく情味豊かな人生観を生み出す方法としては考えられず、単なる技術の一要素とみなすようになって来ている。
こういうことは、科学的技術や軍事上の必要がもたらした社会の大きな統合の一端のあらわれである。
昔より今は、経済上または政治上の相互依存が強くなって来たので、社会的圧迫がふえたから、誰でも、その隣人に役に立っていると思われる方法で生活せざるを得ない。
非常な金持のための学校や、伝統が古いために動かすことができないような学校(イギリスにおいて)は別として、すべての教育機関は、好き勝手に金をつかうことは許されないが、技術を授け、忠誠心を吹きこむことで有用な目的にかなったことをしていることを、国家に納得させなければならない。
このことが、強制的な兵役、ボーイスカウト、政党の組織及び新聞を通じて政治的な情熱の伝播を引き起こす結果となったその運動の重要な要素である。
私たちは、なかまの市民を以前よりかえってよく知っており、私たちに道徳心があるなら、彼らのためになり、どんな場合でも、彼らも私たちのためになることもするようにさせたいという念願を前よりも強くなっている。
誰であろうと、ぶろぶらして人生を享受している人を思い浮かべるのもいやである。その享楽の性質がどんなに品がいいものであろうともそうである。ひとはすべて、(何であろうと)偉大な事件を推し進めるために何か為すべきだと思う。
多くの悪人がその事件を妨げる働きをしており、それを止めなければならないから一層そう思われる。したがって、どんなものにせよ、私たちが大切だと考えることえお求めてたたかう助けとなるような知識でない知識は何によらず、獲得する心のゆとりは、私たちにはない。
 教育に対してせまい功利的見解をするいいわけはたくさんある。大体、暮らしをたて始めない内に、あらゆることを学ぶ時間はない。それで確かにいわゆる「有用」な知識が甚だ役に立つ。その知識が現代世界を作ったのである。それがなければ、機械も自動車も鉄道も飛行機もできていなかったはずだ。さらに近代の知識は、おしなべて健康えお著しく増進したが、同時に毒ガスで大都市を滅ぼす方法も発見した。私たちの世界を前の時代と比較してわかる著しい特徴は、どれもいわゆる「有用」な知識から生まれている。今までのところ、どの社会をとってみても、この知識は不十分なので、教育はたゆまずそれを増進していかなければならないことはいうまでもない。
伝統的な文化教育の多くが馬鹿げていることも認めなければならない。少年たちは、ラテン語やギリシャの文法を修得するために何年も費やしているが、結局(そのごく少数の人の場合を除けば)その言葉で書いた著作物を読む能力もないし、或いは読む気もない。どんな点からみても、近代語や歴史の方が好ましい。それらは遥かに役に立つばかりでなく、遥かに少ない時間で、より多くの教養を与えてくれる。


  • ISBN-10: 4582766765
  • ISBN-13: 978-4582766769
  • 柿村峻

    2016年5月26日木曜日

    20160526 日差しと精神

    テーマの重複などは多くあるかもしれませんが、とりあえず当ブログにて300記事以上投稿し続けることが出来たことは良い経験になったと思います。

    今後どの程度まで記事作成を継続することになるかわかりませんが、もう少し記事作成を継続してゆきたいと考えております。


    そういえば最近は首都圏においても気温が上昇し、日中は「暑い」といってもいい日もありました。

    しかし暑さに関していいますと、やはり鹿児島の夏の暑さはなかなかのものであり、何といいますか日光の強さが首都圏のそれとは多少異なるのではないかと思います・・。

    そして、そこで想起するのは夏目漱石著の「三四郎」に登場する、三四郎と同郷の研究者である野々宮宗八(寺田寅彦がそのモデル)が、こうした光線の強さについて研究していることに加え、同作中、冒頭部に近いところにて三四郎が汽車にて九州から北上するにつれて乗車してくる女性の肌の色が徐々に白くなってくるといった記述です・・(笑)。

    これはおそらく熊本市に在住経験のある夏目漱石の多少なりとも実感を伴った描写ではないかと思われます。

    一方、熊本の南隣の県に在住した経験を持つ私は、九州の方々に見られる肌の色の濃さとは、概して健康的であり、それは往時以来我々日本人の美的感覚に適うものではないかと思います。

    また、もしかすると、私はその南国的ともいえる日光の下に身を置いてきたお蔭で現在こうした記事を書くことが出来ているのではないかとも割合本気で思います・・。

    とはいえ、そうしたことを記述すること自体、私が多少精神に失調、変調をきたしているということに因っているのであらうか・・(苦笑)?

    (しかし私の精神とは正常であると当たり前のように思っている。また、それが当然であると思っている(笑)。)

    それはともかく、この日光と精神の失調との関連を匂わせているのがジョセフ・コンラッドの「闇の奥」作中にて主人公のマーロウがアフリカに旅立つ前の健康診断を受ける際に医師から「(変にならないためには)カッカしないで日光にあたらないように気をつけなさい。」という助言を受けるという記述ではないかと思います。

    あるいはもしかすると、この助言とはある程度までは正しいのかもしれません・・(苦笑)。

    ともあれ、以上の記述も含め、いくつかの異なる場所にしばらくの間住んでおりますと、様々なことから「自分は多少おかしい(普通ではない)のではないか?」と感じることが時折あります。
    (これはおそらく経験されている方々は少なくないと思います。)

    そして、それがどの程度まで「科学的な意味で」正しい見解であるのかよくわからないうちに、その場所に適応してゆくのではないでしょうか? 特に適応力に富んだ若い時分においては・・。

    また、その意味において、さきに記したことを異言しますと、私が「現在」ブログ記事を作成し続けることが出来ているのは九州、鹿児島在住時に得た感覚、日常感が現在の首都圏におけるそれと合致させることが困難であるところから生じる内部応力(葛藤?)のようなものに起因しているのかもしれません(笑)。

    しかし、もしかすると文章を書く、書き続ける力の根源には、観念と現実が接する文字、文章の世界における水平線、地平線が一見合致、接しているように見えながら、よくよく見ると全く合致、接していないといった状況から生じるディレンマといったようなものがあるのかもしれません・・(苦笑)。



    とはいえ、ここまで興味深く記事を読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
    また、九州・熊本の大地震にて被災された地域における早期の復旧そして今後の復興を祈念しております。」







    金関丈夫著 大林太良編 岩波書店刊「木馬と石牛」pp.59‐61より抜粋20160525

    『日本のいわゆる金石併用時代の青銅器文化に、中国地方の中央を境界にして、東西二つの文化圏があった。東は銅鐸の文化であり、西は銅剣、銅矛の文化であるということは、今ではあまねく知られている。また出雲地方が、この西の文化圏にあったということについても、明らかな証拠がある。現に出雲大社の宝殿には、この地方から出土した銅矛の実物が蔵されている。
    この二つの異なる青銅器文化圏の意義をどう考えるかということは別として、弥生式の時代に、出雲地方が北九州を中心とする一つの優勢な文化圏にあったということは、またたいへん面白いことではないかと思う。
    「古事記」によると「ムナカタ」氏が祭祀したという筑前の宗像神社の祭神の一人「イチキシマヒメ」というのは、宗像三女神のうちで、後世に創らせたものであったが、この「イチキシマヒメ」の「イ」は単なる接頭音であり、「チキ」とか「ツク」とかに語源がある。
    私の考えでは、この「チキ」「ツク」などという語と、筑紫の「ツク」また九州の地名に多い「ツキ」例えば秋月、古月、香月、杵築、「シキ」例えば伊敷、一色、「スキ」例えば臼杵、指宿、「チキ」例えば市来、加治木、「チカ、シキ」例えば値賀島、志賀島などとは関係があり、これらの音で表されている名を冠した一つの強力な海洋部族があったかと思う。
    出雲地方へ北九州の青銅文化をもたらし、出雲の海辺の一角に定着して「杵築」の地名をのこしたのも、恐らくこの一族ではなかったか。
    こんなことをいうと、大社関係の方々にしかられるかもしれないが、大社の祭神はいまはオオナムチノミコトということになっているかもしれないが、これは近世以後のことであって、古来スサノオノミコトと信ぜられていたのである。
    ところがさきの宗像の三神は、天安河原でうけひをしたときに、スサノオノミコトのものざねから生まれたので「乃ち汝の子なり」とアマテラスからスサノオにおしつけられたという。すなわち宗像の三神はスサノオノミコトの子だということになっている。
    この説話のおこりは、おそらく「イチキシマヒメ」の祭祀者がスサノオノミコトを祭祀する部族と接したときに生まれた、よくある妥協の思想から成立した話であろう。大社にはスサノオと共にイチキシマヒメが祭られたことがなかったとはいえないと思う。
    出雲の部族が、古代においては日本海をまたにかけたたいそう発展的な海洋族を含んでいたことは、「古事記」の記事や、「風土記」の国引きの伝説からもうかがわれる。
    若狭路から琵琶湖に入ったと思われる「イツクシマヒメ」も、両部思想のお陰で安芸の厳島と同様弁天様になったが、島の名の竹生には「チク」の語源をとどめている。
    これらも日本海から近畿に入ったのであり、出雲族の越の国々との交通の遺物であろう。京都の出雲路というのも同方面から侵入したこの部族の故地であろう。
    竹生島の「チク」は滋賀の「シカ」にも関連があろうかと思う。
    出雲神話に南方説話の影響の多いことなども、私の以上の考えを支持するもののようである。
    近年鰐淵村の猪目洞穴で発見された弥生式時代の貝輪などにも、南海産のテング貝で作られたものがあった。
    土俗の方からいっても、中海のソリコブネのような船が南方につながることは、早くから人々に云われており、その他にも色々と面白い事実があるようだ。
    佐陀神社の神事の海蛇が南海から暖流に乗ってきたものであることも、この際見逃し難い。
    以上はただ旅中、不備な資料を基にした私の思いつき出会って、詳細はもっと深く考えなければならないが、請われるままに仮に発表したのである。』
    新編 木馬と石牛 (岩波文庫)
    ISBN-10: 4003319710
    ISBN-13: 978-4003319710
    金関丈夫 

    2016年5月25日水曜日

    20160524 社会が巧妙に仕組んだワナ、創造性について・・

    先日のブログ記事にて記した「燃え尽き症候群」とは、今考えてみますと私にもそれに類するものがあったのではないかと思われます・・。

    そして、それは学位取得後の時期であると考えております。

    その当時はアタマの中ではさまざまな考えが浮かぶのですが、それを上手く言語化、文章化することがまったく出来ないといった状況でした・・。

    そうした状況がある程度継続すると、多少なりとも精神に失調をきたすのではないかと思われますが如何でしょうか?

    ともあれ、そうした状況を経て現在、少なくとも以前よりかは(ある程度)楽に文章が書けるようになったのではなかと思われます・・。

    そして、それは遅々たる、漸進的な治癒、寛解の過程を経た結果であり、同時に今後また如何なる状況に遭遇することになるかはわかりません・・。

    しかしながら、あの文章がまったく出ない時期とは、私にとって心身共になかなか辛いものでした・・。

    そうした時期のさなか、周囲の複数の方々の勧めに従い、ブログ記事を書き続けたことは、現在になり考えてみますと、やはり効果的であったのではないかと思います。

    こうしたことから考えてみますと、どのような効果、重みによるものであるか分かりませんが、少なくとも私にとって2013年初秋に取得した「学位」とは、一面において「呪い」のような効果があったのではないかと思われます・・・。

    また、現在において、こうしたことを過去の出来事として記すことが出来ているのは、その「呪い」が解けたことによるものであるかはよくわかりません・・。

    しかし、とにかく何かしら自身の書くことが出来ることを書き続けることにより、大げさに云いますと現在の私とは「生きている」ことができているのではないかとも思います・・。

    それ故、今後博士課程に進むことを検討されている皆様、現在では「足の裏の米粒」と評されるその結実たる学位ではありますが、これには一面において、こうした(多大なる)負(?)の効果がある可能性もまたどうぞ認識して頂きたく思います・・。

    もしかすると、これは社会が巧妙に仕組んだワナであるのかもしれません・・(笑)。

    とはいえ、その反面において、新しい事物の発見、学問的な創造性とは、こうした危険、ワナの先に存在、あるいはその展望が開けるのかもしれません・・。
    そしてそれはそれで一方においては魅力的なことではないかとも思われますが如何でしょうか(笑)。

    また、私は私が提示することが出来る新しい事物およびそれらの関連性を提示し尽したなどとは考えておりませんが、それでも自分なりに何かしら新しい要素を吸収しつつ、そこから何かしら提示し続けることを現在なお望んでおります・・(笑)。

    そして、その様式が私の場合、たどり着いたこのブログであり、また文章ということになるのかもしれません・・。

    さて、このようなことを平気が記す私とは現在なお精神に失調をきたしているのでしょうか(笑)?

    あるいは、もしかすると、このようなことは自明のことであり、上記のことはいわば冗長であり、また単に私の理解の鈍さを示しているだけなのかもしれません・・(苦笑)。

    とはいえ、ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。

    また、先日の熊本の大地震により被災された地域における生活インフラの復旧そして今後の復興を祈念しております。


    2016年5月23日月曜日

    20160523 ブログ記事作成および韓国岳について

    これまでに投稿したブログ記事が300に到達しますと、何と言いましょうか「燃え尽き症候群」のようなものがやってくるのではないか?と勝手に考え300記事目は軽く流すように作成、投稿しました。

    そしてさらに久しぶりに書籍からの引用抜粋を行いました。
    岩波文庫版、トーマス・マン著の「魔の山」からの抜粋ですが、この著作は作中のこうした会話が何とも言えず面白いと思いますが、読んでいただいた皆様はどのように思われたでしょうか?

    また、この著作に興味を持たれた方々、一度読んでみては如何でしょうか?

    ともあれ、さきに記した「燃え尽き症候群」らしきものは、そのおかげでか、特に感じられず、現在もこのように新しいブログ記事を書いている次第ですが、ここで少し思うことは、ブログを書く際において大事なのは導入部ではないかということです・・。

    この部分さえどうにか書ききれば、自ずとテーマ、主題が定まり、またそれに付随し関連する小ネタ、知識そしてさらにそれらと関連する小ネタ、知識などがほぼ自動的に湧いてくるようです・・。

    そのように考えてみますと、これは登山にも少し似ているのかもしれません・・。

    鹿児島在住時、週末に登山に行きますと、一週間の疲れが残り、はじめはかなり辛いのですが10~15分程度歩いておりますと、徐々に体が軽くなってきて、足取りも軽やかになってきます・・。

    そして、ここまで記していて不図想起したことは、鹿児島在住時に登った霧島にある韓国岳という山のことです。

    この名称はなかなか面白いと思い、その由来を周囲の方々に聞いてみますと「この山の頂上に登ると、はるか北方に韓国が見えると云われたからだ。」と聞かされました。

    しかし「さすがにそれは違うのでは?」と考え、郡元にある大学図書館に行き、その由来を調べたところ8~9世紀頃にかけて、この地域一帯には豊の国(現在の大分県)の住民が多く移住し、そしてその住民の多くは玄界灘の向こう側に出自を持つ人々が多く、それに伴い、上記のような山の名前が付けられたのではないかとのことでした。

    こうした地名、山の名などは関西に多く、また関東においても少なからず見受けられます。

    おそらく当時、半島からの移民とは、先端の文物を知るものとして移住先の住民から歓迎されたのかもしれません。

    とはいえ、では何故、当時、豊の国(現在の大分県)には半島に出自を持つ方々が多く、そして何故、彼らの多くが薩摩・大隅の国境付近に入植することになったのかとはJR九州の肥薩線、日豊本線が乗り入れる隼人駅近くの隼人塚に行ってみると何となくわかるのではないかと思います・・。

    そしてまた島津氏が薩摩・大隅(あるいは日向の大部分も)治めていた時代に為された人配(にんべ)の起源などは、こういったところにあったのではないだろうかと考えさせられます・・。

    また、北隣のクニのこととなりますが、先月の熊本での大地震により被災を受けた地域における諸インフラの早期の復旧そして復興を祈念いたします。
    そして、ここまで興味を持って読んでいただいた皆様どうもありがとうございます。