そしてさらに久しぶりに書籍からの引用抜粋を行いました。
岩波文庫版、トーマス・マン著の「魔の山」からの抜粋ですが、この著作は作中のこうした会話が何とも言えず面白いと思いますが、読んでいただいた皆様はどのように思われたでしょうか?
また、この著作に興味を持たれた方々、一度読んでみては如何でしょうか?
ともあれ、さきに記した「燃え尽き症候群」らしきものは、そのおかげでか、特に感じられず、現在もこのように新しいブログ記事を書いている次第ですが、ここで少し思うことは、ブログを書く際において大事なのは導入部ではないかということです・・。
この部分さえどうにか書ききれば、自ずとテーマ、主題が定まり、またそれに付随し関連する小ネタ、知識そしてさらにそれらと関連する小ネタ、知識などがほぼ自動的に湧いてくるようです・・。
そのように考えてみますと、これは登山にも少し似ているのかもしれません・・。
鹿児島在住時、週末に登山に行きますと、一週間の疲れが残り、はじめはかなり辛いのですが10~15分程度歩いておりますと、徐々に体が軽くなってきて、足取りも軽やかになってきます・・。
そして、ここまで記していて不図想起したことは、鹿児島在住時に登った霧島にある韓国岳という山のことです。
この名称はなかなか面白いと思い、その由来を周囲の方々に聞いてみますと「この山の頂上に登ると、はるか北方に韓国が見えると云われたからだ。」と聞かされました。
しかし「さすがにそれは違うのでは?」と考え、郡元にある大学図書館に行き、その由来を調べたところ8~9世紀頃にかけて、この地域一帯には豊の国(現在の大分県)の住民が多く移住し、そしてその住民の多くは玄界灘の向こう側に出自を持つ人々が多く、それに伴い、上記のような山の名前が付けられたのではないかとのことでした。
こうした地名、山の名などは関西に多く、また関東においても少なからず見受けられます。
おそらく当時、半島からの移民とは、先端の文物を知るものとして移住先の住民から歓迎されたのかもしれません。
とはいえ、では何故、当時、豊の国(現在の大分県)には半島に出自を持つ方々が多く、そして何故、彼らの多くが薩摩・大隅の国境付近に入植することになったのかとはJR九州の肥薩線、日豊本線が乗り入れる隼人駅近くの隼人塚に行ってみると何となくわかるのではないかと思います・・。
そしてまた島津氏が薩摩・大隅(あるいは日向の大部分も)治めていた時代に為された人配(にんべ)の起源などは、こういったところにあったのではないだろうかと考えさせられます・・。
また、北隣のクニのこととなりますが、先月の熊本での大地震により被災を受けた地域における諸インフラの早期の復旧そして復興を祈念いたします。
そして、ここまで興味を持って読んでいただいた皆様どうもありがとうございます。
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