2016年10月24日月曜日

20161024 北海道からの転勤、南紀での勤務、さらなる転勤・・

A「本日は少し帰宅が遅くなりました。
さて、昨日のブログ記事の続きとなります。
私の就職後初めての赴任地とは北海道の札幌市の近郊であった。
無論、これは私にとって初めての北海道での在住経験であったが、北海道とは、冬が寒く、日射量が少なかった。
そして、この時に日光の精神に与える影響の重要性および自身が北海道を含む寒冷地に対し体質的に向いていないことを強く認識した。
とはいえ、ここで2年間在住した。
この2年間の在住期間を通じ、特に価値観が大きく変化することはなく、ただ漠然と東京を含む首都圏に戻ることを望んでいた。
そして、その次の転勤先とは和歌山、南紀であった。
東京、首都圏を通り越し、はるか遠く、和歌山、南紀が転勤先であったことは、当時の自身にとって決して嬉しいものではなく、むしろ強く落ち込む要因となった。
とはいえ、この地に赴任し、最初に感じたことは、日射量が多いということである。
また、それによりいくらか萎縮気味であった自身の精神が膨らみ、そしてほぐれていくというような感覚をおぼえた。
しかしながらこうした、しばらくの期間、日射量の少ない寒冷地に在住した後、日射量の多い温暖な地域に転居した場合、こうした現象が生じるのは特に珍しいことではないものと考える。
さらに、この南紀での在住期間を通じ、山奥のダム湖でのバス釣りをおぼえ、夏の暑い盛りに一人釣行し、ボートの上から釣糸を垂らしているのは、なかなか風情があり、また、魚が掛かった時の興奮とは、それまでに味わったことのないものであった。
私はこの南国的ともいえる南紀の横溢とした自然風土が徐徐に好きになっていった。
また、それと同時にここではサイクリングもよく行い、南紀白浜から中紀の御坊市まで日帰りで行ったことも何度かあった。
そしてまた、近隣地域を無闇に走り、迷ってしまうことも度々あった。
そうした折、目にする珍しい地名をいくつも憶えたが、これらは不思議なことに、後に当地の雨乞いに関しての研究を行った際、よく出てきたように思われる。
また、その地名のいくつかとは銅鐸の出土地でもあり、それら(珍しい地名、銅鐸の出土)の関連性とは、未だ判然としていない。
とはいえ、やはり何かしらの関連性があるのではないかと今でも考えている。
以上のような経験、経緯により、当地の歴史、文化に対し漠然とした興味を抱き、それらに関する書籍を能動的に読みはじめた頃、東京の事業所への転勤の辞令を受けた。
当初望んでいた東京への転勤がこの時期に為されることはなかなか皮肉なことであった。
そして、東京転勤の後も、この思いは終息することはなく、また当時実家近くにいたこともあり、以前より相談に乗って頂いていた方々に会い、そうした思いを述べ、相談し、やはり、かねてよりの望みに従い大学院に進学した方が良いのではないかと考えるに至った。
この時、相談に乗って頂いた方々は、特に賛成、反対することもなく、ただ、その方法に対して具体的な質問をするのみであった。
ただ、この時兄が、それまでの経緯を知ってくれていたことから、賛成してくれた。
その後、会社を退職し、必要であると思われる勉強を行い、いくつかの大学願書を入手し、必要書類を作成、入手し院試に望んだ。
また、この時期は幸いなことに、丁度、会社勤務時代に貯めていたものの価格が急騰をはじめた時期でもあり、これによりおおいに助かった。

受験した大学院は全て関西、近畿圏に立地するものであり、それぞれの先生方に事前に連絡を取っていたが、その感触とは、よく分からないものであった。

そして、結果的に二つの大学院に通り、このうちの自身が研究を望む地域により近い大学の方が良かろうと考え、そちらに進学することにした。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本での大地震、そして昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」


2016年10月23日日曜日

20161023 もう一人の師匠について P51 兵器開発 武器貸与法

昨日投稿の「輪読会」についての記事は投稿翌日のわりには多くの方々に閲覧して頂いた。これを興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さて、本日はそれとはまた別にお世話になった師匠について記そうと思います。
この師匠との出会いは大学3年生の頃であり、その頃の私は体育会運動部に属しながら、一方において様々な書籍を無軌道に読んでいた。
こうしたことは部活内ではあまり知られず、評価もされず(当たり前ではあるが)そうした行動を知っている部員の方々は殆どいなかった。
それ故、当時の私の無軌道な読書を知っていた感づいていたのは、主に部活動以外での知人であった。
そうした知人の一人に誘われ、新しく着任してきたという教員(師匠)の研究室に行ってみようということになった。
この教員(師匠)は、それまで海外の大学に長く留学されていたということであり、今回の着任がはじめての就職ということであった。

知人に連れられ、研究室に入ると文系大学教員研究室の類例にもれず大量の和洋の書籍が書棚、机上を問わず置かれており、また、それと同時に、これまた大量の軍艦、戦車、飛行機などのプラモデル、クラシック音楽のCDがいくらか整然と室内各所に置かれていた。

これまでにそうした教員にお目に掛かったことはなかったため、興味を示し置かれてあった一つのプラモデルの飛行機を興味深げに眺めていると、おもむろにこの教員(師匠)が
「君、**君といったっけ、君が見ているその飛行機の名前を知っているかね・・?」と尋ねてきた。

その話口調はいくらか甲高く、明瞭ではあるが多少早口気味であった。

それ故、再度その飛行機のプラモデルをよく見ると、その塗装は典型的な第二次世界大戦欧州戦線におけるイギリス空軍のそれであったことによりホーカー・ハリケーンあるいはスーパーマリン・スピット・ファイアではないかと思われた。

しかし、その主翼の形状、胴体下部の特徴的な丸みを帯びた張り出しから、それは同時代のアメリカ軍の機体P51ムスタングであることが分かった。

それ故、この旨を質問の主(師匠)に返答すると、満足気に頷き、この珍しい塗装が為された機体の来歴を第二次世界大戦開戦当時の兵器開発事情、国際情勢から説明され、結びのコトバとして「こうした一つの兵器からもまた、当時の国際情勢あるいは近現代史の一幕を理解することが出来るのです。」といったことを述べられた。

そのハナシは大変興味深く、また私としては、この教員(師匠)が一応満足して頂く程度の返答をすることが出来たことに大変満足し、そのためか、その後、折を見てはこの教員の研究室に足を運ぶようになった。

また、時代が良かったのか、当時はこうしたことも大目に見られていたようであり、師匠が講義に出ている間、私が研究室で読書をしているということも度々あった・・。

そして、部活も引退する時期になると、この傾向は一段と強くなり、ついには大学院に進学し、さらに欧米の文化、歴史について勉強、研究してみようと考えるに至った。

また、幸運なことに、当ブログにて何度か取り上げているように、ごく親しい親戚の一人(これもまた師匠)が文系学問分野にて大学教員の職に就いていたことから、この願望を打ち明けたところ「それはいい考えであると思うけれども、とりあえず何年か社会に出て働いてみて、それでも大学院に行きたければ、その時に行けば良いと思うよ。」と云われ「なるほど、そういうものか。」と納得し就職活動を行い企業に就職した次第である。

しかしながら、この影響とは、その後も尾を引き生き続けたようであり結果として5年間企業にて働いた後、大学院に進学することとなった・・。

とはいえ、この間に生じた大きな変化とは、専攻研究分野に関してである。

そのことについては、以前ブログ記事にて記したが、次の機会に改めて記そうと思う。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念いたします。

2016年10月22日土曜日

20161022 輪読会について・・

昨日のブログ記事にて記した「輪読会」にて想起することは、歯系院に在籍以前、文系の修士課程在籍時に受講した英語科目が経済学関連の英論文、雑誌を用いるそうした形式であったこと、また、それとは別に院生有志にて岩波文庫版のマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の輪読会を夏の暑い盛りに行ったことである。

その後、この私的な輪読会の形式が進化し、院生有志が自身の行っている研究内容を講義形式にて各々発表しあう研究発表会が行われるようになった。

そして発表の後、学食や図書館前、近隣の喫茶店などで、各発表内容に関しての議論が行われるのであるが、私個人としては、こうした全く私的な集まりにて行われた方が、より自由であり面白かったように思われる。

しかし一方、この場合、問題であったのは、議論によって生じる意見の対立の際の裁定、調停を行う存在がいないということであった。

そうした場合、議論の主題に詳しいと思われる教員の研究室にご意見を伺いに行っていた。

大概の場合、オフィスアワーでないにもかかわらず、快く対応して頂けたと思う。

そうしたことからか、後に、この集まりは教員有志のご参加により、半ば公式化し行われるようになったが、それもまた概ね自由な雰囲気にて行われ大変勉強になった。

私が文系学問、特に思想関連に関して多少なりとも分かったようなことを記すことが出来るようになったのは、この研究発表会に拠るところが大きい。

また、鹿児島在住時においてもこうした集まりに参加させて頂き、就中2012年初秋に開催されたそれに参加した際の私とはD2病の一番勢いのあった頃ではないかと思われる・・。

この時発表、報告した内容は、過去から現在に至る歯科材料の概容、およびその歴史であり、それに加え、和歌山ということもあり、銅鐸を絡めて発表・報告した。

また、その際、前置き・緒言として文系らしくトーマス・マン著の「魔の山」からの一節を抜粋引用した。

また、このことは以前ブログにて記した記憶があるが、その翌年に公開されたジブリアニメにおいて、伏線として、この著作が存在したことには多少驚かされた・・。

ともあれ、こうした自身の知性、直観を練磨することの出来る集まりとは、なかなか大事であり、おそらく創造性なるものとは総じて、こうした「場」において発生するのではないだろうか?

しかしまた、こうしたこと(創造性の由来、発生の機序)とは、大事であるにもかかわらず、科学的には、あまり解明されていないのではないだろうか・・?

あるいは、こうしたことを解明してしまうと、創造性自体が創造性のない味気のないものと認識されてしまうおそれがあるため、解明はされても発表はされにくいものであるのかもしれない・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

さる熊本における大地震、昨今の山陰東部における大地震による被災地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。




20161021 2009年4月初め頃の記憶から・・

A「2009年4月初旬、はじめて指導教員となる先生(師匠)の研究室を訪ねた。

それまでに師匠の執筆された論文、レビューなどはいくつか読んでいたが、それらの文体とは、いずれも典型的な理系論文のそれであり、そのことから随分とカタい人柄を勝手に想像し、若干緊張していたが、実際にお目に掛かり、そのおハナシを伺うと、若干甲高いともいえる、特徴的な関西弁を話される、気さくな御人柄であり、その書かれた文章、文体とのギャップに当初いささか驚いた。

しかしながら、現在になり考えてみると、こうしたことは特に研究者などでは珍しくないと思われる。

また、その研究室、講座周辺とは、多くの理系研究室がそうであるように、一面の壁に学会発表にて用いたポスターおよび得た賞状のコピーなどが掲示されていた。

さらに、それらの多くが英語にて記されていることに対し驚きと共に強い不安を感じたことを覚えている・・。

そして講座の教職員、在籍、修了院生の方々を紹介され、講座内に机、椅子およびPCを貸与支給して頂いた。

また、同時に師匠より「毎週水曜日、朝8:00より英語論文の輪読会を行っているので出席するように」との指示を受けた。

現在輪読中の論文は、以前より出席されている修了院生の方から速やかに頂き、また現在読んでいる箇所も教えて頂いた。

この時は正直なところ、大変緊張したが、少し間を置き冷静に考えてみると「何も理系の論文であるから読めないこともないはずではなかろうか・・」と考えるに至った・・。

その理由とは、一応私も文系のそれであれば、修士課程在籍時、この輪読会の形式と類似した講義をいくつか受講しており、特にそこで困ったという記憶もなかった。

さらに、その時期において、参考文献として英書を幾つか(自己流に)読んでおり、また、留学生との会話、コミュニケーションにおいて特に困ったという記憶もなかった。
といったところである。

しかし、そうはいうものの、やはり、この緊張は全く無くなるものでもなく、院の講義や講座内の様々なことを覚え知るのと並行し、自分なりに念入りに予習を行った(つもりであった)。

そして訪れた次の輪読会にて順繰りに周囲の出席者が読み、それを和訳していき、師匠が註釈を加え、ついに私の番となった時はやはり大変緊張していた・・。

とはいえ、意識して、これまでに行ってきたそれとほぼ同様の調子にて音読、和訳を行ったところ、特に場の雰囲気も急変せず、概ね「・・まあ、いいだろう」といった感じであった。

その後、実験室にて実験、作業などを行う際、その合間にて輪読中の論文そして辞書を持ち込み、その読解を行うことが徐徐に習慣となっていった。

とはいえ、こういしたことは全く珍しいことでもなく、多くの研究室の院生達が同様のことをしているものと考える。

そして、これがおそらく、文系学問の研究を行う院生達と大きく違うところではないかと思われる。

つまり、この違いとは、手作業の合間にて論文読解を行う理系、それに対し概ね研究室、図書館といった環境にて読解等の研究を行う文系といったところではないかと思われる。

また、後になり考えてみると、自身の場合、前者のそれであったことが本当に良かったと思われる・・。

さらに後になると、学会発表前の一人予演をも実験室での作業、実験の合間にて堂々と行うようになっており、これを異言すると、立派なD2病となっていたということである・・(苦笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる熊本の大地震そして昨日の山陰東部にて発生した地震による被害、そしてその後の種々復旧活動が速やかに為され、復興されますことを祈念しております。」






2016年10月21日金曜日

20161020 岩波書店刊 野上彌生子著「迷路」上巻pp.319ー322より抜粋引用

「省三は幅のある机に身を乗りだして窓をあけた。生ぬるく潤んではいって来る夜気には、酒の香がほのかに漂うた。
これは家の体臭といってよかった。
それを発散させる酒倉は、下の石畳の空地の三方を取りかこみ、厚い壁と、ほんの覗き穴ぐらいの小さな窓で、城砦めいて並んでいた。
省三に父祖の古い家に帰っていることを端的に思い知らせるのは、これらの重々しい建物と酒に匂う空気であった。
父親に似てか進んでは飲む気もしないのに、場合ではいくらでも飲めて、赤くもならず、かえって蒼ざめて眼がすわって来るだけなのは、赤ん坊から酒のかおる空気よりほかには呼吸しなかったためかもしれない。
その意味ではまた乳の香にも等しかった。省三は小鼻をふくらませ、それを嗅ぐことで、子供時代の家にまつわる追想に意識的に耽ろうとした。考えまいとするひとのことから、乱れる情念を引き剥ぐには手近く、便利な方法でもあった。
九月にかかると、田舎から背中の両側に重い俵をつけた馬が、店から内所のまえの通路を抜け、それの奥まった拡がりなる下の石畳の空地に毎日曳きこまれる。
俵のなかみはまっ青な渋柿である。酒倉の端に設備された臼場の、一列の古めかしい足搗の石臼で挫かれる若い渋い果実が、梯子でのぼる大桶に投げ込まれ、酒袋をそめる大切な染料としての渋の自家製造がはじまるのが、醸造場の行事の幕開でもあった。
日増しに透明に冴えていく秋陽は、石畳や酒倉の屋根の一部にもあるコンクリートの乾場に鱗のように並べられ、染め返されるたびに渋いろを深めて行く長方形の麻袋と、酒倉の白壁との映りあいを鮮明にする。当分渋の匂がぷんぷんして、こぼされた液が、黒ずんだ血に似た斑点を石畳に撒くのもこの頃である。しかし樽屋がはいって、親桶の箍の締め直しがはじまると、渋の臭気は、鋭利な包丁の切先でぱりぱり音をたてて割られる太い真竹の、甘青っぽい匂に変る。
また大阪からとどく吉野杉で新桶がつくられる時には、酒の芳醇を増すとされているその木肌特有の香気が、かんな屑の一片にも漂い、これも梯子乗で、えんやさ、えんやさと、大槌を振う樽職人たちの掛声まではずみわたって聞こえた。
実際これ等のまっさらな親桶が、角力の横綱めいてふとぶとした青竹の大箍で、淡紅いろの胴体を幾段にも締めあげられた出来上がりは、どっかりと目ざましい観物であった。親桶が石畳に現れだすと、小学生の省三は仲間を引きつれて這いこみ、いくら叱られても、内側からを輪廻しのようにごろん、ごろん、させておもしろがったものであるが、新桶だけは流石の悪童たちも憚った。
敢えて犯そうものなら、仕込米を積みこんだ米蔵の中での戦争ごっこと同じく、老杜氏に大目玉を喰わされるのである。
主人の治右衛門でさえ「おやじどん」で、決して呼び捨てにはしなかったこの老杜氏は、もう四十年からの奉公人で、彼に劣らぬ年期を入れている弥吉番頭と並んで、店と酒倉を分権的に支配していたので、奥の小わっぱなど孫扱いであった。臍の下に猪口がのるのが自慢で、時々やって見せた彼の毛むくじゃらの偉大な布袋腹と、毎朝くばって来たひねり餅の味が、省三の記憶には切り離されない連関をもっている。
このひねり餅で、倉はいよいよ酒の仕込みがはじまったのを子供の省三は知る。またそれは米の蒸れ工合を見るために、酒屋だけで作られる特殊の餅であることもわかっていたが、どんな方法で拵えられるかは、白い米がどんな過程で酔う水に変ずるか、わからないと同じにわからなかった。そのほか酒倉のことは、昼でも場所ではまっ暗なのと、容易に人の立ち入りを許さない拒否で、一種神秘めいた蔽いに包まれていた。それに店と倉とは地球の東西に似ていた。酒醸りのおもな作業は、店の商売とは反対にほとんど真夜中に行われるからである。長い頑丈な鎖つきの大戸が、がら、がら、がちゃんと閉ざされて店が眠り、内所に集まって、雑巾さしやつぎ物の夜なべをする女中たちも寝てしまい、鼠の渾名のある小男の、眼っかちの不寝番の爺が、拍子木を叩いて廻りはじめる頃、倉は活動を開始する。表側がおきて働いている時、裏側は眠っており、それがおきだすと表側が眠る、というわけで、このずれちがいが酒倉の中の生活を一層隔絶させ、子供の幼いこころには怪しく、不可知なものに感ぜられるのであった。」


「迷路」上巻

ISBN-10: 4003104927
ISBN-13: 978-4003104927

2016年10月20日木曜日

20161019 少し酔った状態にて記しております・・。

A「本日は若干帰宅が遅くなりました。

また本日に関しては「ブログ記事の作成は止めておこうか・・。」とも比較的強く思いましたが、とりあえず何かしら書いておこうと思い、ついさきほど記しはじめた次第です・・。

さて、本日は以前いや現在もお世話になっている歯科理工学分野の先生二人とお目に掛かることになりましたが、久しぶりにこうした空間に身を置くことになりますと、不思議なことに以前の記憶が比較的鮮明に甦ってくるものです・・(笑)。

おそらく人と会うこと、そしてハナシをすることとは、記憶および精神の減退を防止する大きな要素ではないかと思われました・・。

また、そうした意味において、これまで記し続けているこのブログ記事もまた、同様の効果を持っているのではないかと思われます。

とはいえ、ハナシを戻し、これまで同じ研究分野(歯科理工学)であるにもかかわらず、あまり接点のなかった先生方が一堂に会する機会を設けることが出来たことは、少なくとも悪いものではなかったと考えます。

こうした狂言回し的な役回りとは、正直なところあまりキライではありません・・(笑)。

そしてまた、それが以前に自身が身を置いた研究分野に対して現在行うことの出来る僅かばかりの貢献ではないかとも思われます・・(苦笑)。

そういえば、ハナシは変わりますが、昨日記したブログ記事は、どうしたわけか、投稿翌日であるにもかかわらず、その閲覧者数が思いのほか多かったことは、多少不思議に思われます。

あるいは、これは先日来「はてなブログ」に記事を投稿していることに因るのでしょうか・・?

いずれにしましても、私の記したブログ記事を閲覧してくださる方々が多いことは、大変嬉しいことであり、よろしければ、こちらのブログであれ「はてなブログ」の方であれ、「★」あるいは「+1」を押して頂けますと、大変励みになりますので、僭越ではあるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします(笑)。

また、本日に関しては久しぶりにお酒を飲んだことにより、何といいますか、頭の中で心理学でいうコンステレーションのようなことが生じていることが認識されます・・(笑)。

こうした気分とは、なかなか悪くないものではありますが、同時に多少フワフワしており、ある程度硬質の文章を記す場合においてはあまり適していないようです・・(笑)。

こうした状態にて記すのに適した、脳裏に浮かびやすい文体とは、私の場合、おそらく詩、短歌?のようなものであり
実際のところ
「秋の宵 右手に見ゆる 牛ヶ淵 月に照らされ 水面は映える」
「神無月 月陽は照らす 牛ヶ淵 神はなけれど 水面煌めく
「千代田にて はじまり興る 歯科医学 神無月とて 話ははずむ」
といった、よく分からないものが、困ったことに比較的スムーズに出てきます・・(苦笑)。

そして、このまま書いていきますと、おそらく変なことになりそうですので、本日はこの辺りで止めておきます(笑)。

とはいえ、本日もここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。

さる四月の熊本における大地震にて被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。」


2016年10月18日火曜日

20161018 吸気と呼気のように膨張、収縮する精神・・

A「つい先日作成、投稿したブログ記事により総投稿記事数が450に到達しましたが、現在においてもこれといった内外の変化などは認められず、また、それと同時にかつてほど記事作成に窮するということもありません。

そして、そうした心境、状態にて本日も記事を作成しております。

とはいえ、やはり一日働いておりますと精も根も疲れるようであり、また、それが平日の記事作成の場合、通常の状態ではありますが、そうした疲労感の中で本日もまた記事作成を行っております・・(苦笑)。

しかしながら一連のブログ記事を閲覧しておりますと疲労感の中で作成したものと、そうでないものの間では特に大きな相異とは認められないのではないかと思われますが如何でしょうか・・?

そして、これは作成者の文章作成の才能の乏しさを示しているのか、あるいは、その進歩を示しているのかは、よくわかりません・・願わくは後者であらんことを望む次第ではありますが、こうしたものは自身のみで判定することは多少危険なことではないかと思われます・・(苦笑)。

そして、そうしたことと多少関連があるのではないかと思われますが、以前読み、また、これまでのブログ記事においても幾度か抜粋引用した夏目漱石著「三四郎」内の記述、主人公三四郎と広田先生との会話にて「我々の住む世の中とは、偽善的、露悪的の両思想が主たるものとして、それら交互の変化、交代にて進行していると考えて差支えない。」といったものがありましたが、これを現今の首都圏に当て嵌めて考えてみますと、おそらく後者の色彩が強いのではないかと思われます・・。

そして、これを異言すると、露悪的つまり強者、膨張、男性的な思想、発想が現今の首都圏において優位を占めているのではないかということになるものと思われます。

また、こうしたことは歴史上の事物、遺物について考えてみても、あるいは看取することが出来るのではないかと思われます。

それはたとえば巨大化した銅鐸、銅矛、古墳、そして近現代であれば19世紀末から20世紀前半における大艦巨砲主義などがそうした強者、膨張、男性的思想あるいはそれが優位を占める時代精神を示しているのではないかと思われます。

しかし一方、我々日本人とは「何でも小型化したがる」といった心的傾向を持つなどとも云われておりますが、これにさきのことを加味して考えてみますと、それは時代精神の一面のみにおいて云えることであり、実際のところ、我々の精神とは、時代により、事物により、種々様々な膨張、縮小双方の嗜好を示すのではなかろうかと思われます・・。

あるいはまた、それをさらに視点を変えますと、時代精神における躁、鬱双方の傾向を示すのではないかとも思われますが、さて如何でしょうか・・?

とはいえ、本日のブログ記事にて、こうしたことを主題として記す背景について考えてみますと、その根本とは、作成者の能動性ではありますが、それと同時に本日お話しを伺った歯科医師の方との対話もまた一つのそれ(根本)ではなかろうかとも思われます・・。

そして、そこ(このブログ記事)から本日私が伺ったハナシおよびそこで為された対話の概容を想定してみるということは、現時点においては時間的に近すぎることにより困難であり、おそらくこうしたことは、以前さかんに作成した対話形式のブログ記事のように、ハナシ、対話の後、ある程度時間を経てからでないと、うまく捨象し対話形式の文章と成すことが困難であるののかもしれません・・(笑)。

しかし、そうであるからといって、それ(直近のハナシ、対話)が現在そして未来においても無価値であると断ずるのはナンセンスであることはご理解頂けるのではないかと思われます。

とはいえ、現今首都圏において優位を占めていると思われる強者、膨張、男性的思想に拠ると、そうしたもの(直近のハナシ、対話)などは、無価値に近いものであると判ぜられる傾向があるのではないかとも思われます・・。

そしてこうした傾向とは、一体どこに由来しているのでしょうか?

一方、こうしたもの(時代精神)とは、時代が生む多くの文物に対し影響力を持ち、そしてそれらが現今の我々よりも賢明且つ客観的であるかもしれない後世の人々により鑑定、評価されることを忘れてはいけないのかもしれません・・(笑)。

ここでは「近視眼的」というコトバがキーワードになるのかもしれません・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本にて発生した大地震により被災された地域における諸インフラの今後の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。」