2016年6月3日金曜日

20160602 現在の意識を形成する過去、経験、記憶について・・★★★

A「本日も若干帰宅が遅かったのですが、とりあえず何か書いてみようと思い、現在またブログ記事を書きはじめました・・。

昨日は一年前の丁度今頃書かれたブログ記事との比較について記しておりましたが、記事内容に関していえば、当時(一年前)の方が現在に比べ、かつて住んでいた西日本、九州でのことを身近な記憶として保持していたように思います・・。

しかしながら、これはかつての自身が記した記事について自身が思ったことでありますので、おそらく他の方がこれらを読まれた場合は若干事情が異なるのではないかとも思いますが・・(苦笑)。

また、それと同時に不図した契機に西日本、九州のことが想起されることがあります・・。

こういったものは不思議なものであるとは思いますが、一面において、現在の私とは、良くも悪くもこれら記憶の存在によって生かされている感じを多々受けます。

それ故、これら記憶が現在の私を存立せしめている大きな要素ではあるのですが、同時にそれらが、現在の私の「普通ではない」、「少しおかしい」(苦笑)部分とも強い関連性があるのではないかとも考えさせられるのです・・(苦笑)。

無論こうしたことは、それらの地域が直接、普遍的にヒトに対してそのような影響を与えるといったものではなく、あくまでも個人的なことであることを付記しておきますが・・。

そして、その私の考える「少しおかしい」部分とは、具体的には何かしら感情的な面での「過剰性」ではないだろうかと思います・・(苦笑)。

また、さらにいいますと、この「過剰性」らしきものが、さきのブログ記事にて記した「モヤモヤとた苦しさ」そして「(どうにか)現在までにブログ記事を書き続けている」双方に共通する要因ではないかと思われます・・。

しかしながら、この「過剰性」に関し言い訳じみたことを書かせていただきますと、この「過剰性」とは、何も私のみに認められる「特に異常」なものではなく、彼の地(西日本、九州)在住時の私の周囲にも私以上にそうした傾向を有している方々が少なからずいらっしゃったのではないかと思いますが如何でしょうか・・(笑)?

とはいえ、こうした「過剰性」が文章を書き続けるための必須の要素というわけではないとも思われますが・・。

その一方において、かつて文章がよく湧いて、またそれを容易に著すことが出来ていた時期(現在に比べ)においては、さきほどの「過剰性」とは異なった層にある『何か』が作用していたのではないかと思います・・。

とはいうものの、同時に、このことは漠然としていて、今現在においては明瞭に表現、言語化出来ないことが多少歯がゆいのではありますが・・(苦笑)。

さきの九州、熊本における大地震にて被災された地域における早急な復旧そして復興を祈念します。
また、ここまで興味を持って読んでいただき、どうもありがとうございます。」



2016年6月1日水曜日

20160601 「腑に落ちる」「納得する」について・・

おかげさまで本日、ブログの閲覧者数が80000人に到達しました。

丁度昨年の6月にブログをはじめましたので1年弱の期間でこの閲覧者数となりました。

これは特に早いというわけではないようですが、それでも一つの区切りにはなるのではないかと思います・・。

また現在、昨年の今頃に作成した記事を読んでみますと、何といいますか当時は(も)自分なりに苦労して記事を作成したことが思い起こされます・・。

おそらく当時の私は一つの記事に対し、より多くの情報を詰め込もうとしていたのではないかと思います・・。

そのため現在記しているそれに比べ、内容は多少濃いのではないかと思いますが、同時にどうも硬質な文体に固執し、そのことから表出の仕方に何かしら限界を感じていたようにも思えます・・。

一方、表出する内容に関しては色々な考えが断片的に浮かんでくるといった状況であり、それはそれでモヤモヤとして苦しいものでした・・。

こうしたことを現在想起しますと、あの当時味わっていたよくわからない苦しさは、比較的リアルに思い起こすことが出来、そして、そういった時は何故だかいつも眉間に皺が入ります・・(苦笑)。

いや、もしかするとそのモヤモヤとした苦しさとは今現在もなお続いているものであり、ただ、そういったことを拙劣ながらも言語にて表現、表出できるようになったことによって、どうにかそのモヤモヤと付き合ってゆくことが出来ているだけであるのかもしれません・・。

また、そのように書いてみますと、何だかそうであるような感じがしてきました・・(笑)。

こうしたことを書いた本人が記すのもおかしなハナシではありますが、これもまたなかなか面白い現象です。

また、同時にこのことを書いておもむろに想起したのは河合隼雄が心理学についてどこかで述べていた「心理学とは客観的な分析に用いる手段ではなく、何がしかの心的現象をその本人が腑に落ちるように、心から納得出来るように用いるものである。」といった内容です。

また、そのように考えてみますと本来、心理学を含めた学問全般とは、自身の持つ(本当の)性質に合った形にて世の中を理解(腑に落ちる、納得する)してゆくための枠組み、方法のようなものであるのかもしれません・・。

ただ、その中の幾つかかが、ある種の職業に就く上においてより専門性を高めていったというのが、その原点からの流れではないでしょうか?

そして、このようなことを考えていると、次に想起するのは丸山真男著の「日本の思想」にて我が国社会の特徴として述べられているタコツボ文化です・・。

おそらくこれを読まれている方々の多くは、おそらく私より多読、博識であると思い申し述べますと、ここに述べたことは、学問分野を横断しているものの、あながち的外れな類推ではないと思いましたが如何でしょうか・・(笑)?

とはいえ、ハナシの起点となったことが極めて個人的なこと(モヤモヤとした苦しさ)でありますのでハナシ全体として考えてみると多少事情は違うのかもしれません・・。

また、同時に、ここまで書いてみて思うことは「こうした考え方、発想法とは帰納法的、あるいは文系的なものではないか?」ということです。

おそらくこれに関しては形式的なことになりますので、多くの方が納得していただけるのではないかと思いますが如何でしょうか(笑)?

そして、そのように考えてみますと、断言はできませんが、昨年の今頃に味わっていたモヤモヤした苦しさとは、自身の比較的得意とする帰納法的、文系的な論述、口述をある程度封じざるを得ない状況が続いたことによって生じたものであるのかもしれません・・。

とはいえ、そうはいいましても、私の中には大前提からはじまる演繹法的なものを好む傾向もまた存在すると考えておりますので、簡単にいいますと、自身内部における双方のバランス、調和あるいは双方による相互作用のようなものが何かを創造なり表出する際において重要であるのではないかと思いますが、実際のところはどうなのでしょうか、あるいはどのようにすれば、そうした考えを心から納得し、腑に落ちることが出来るようになるのでしょうか(笑)?

ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。
おかげさまで閲覧していただいた方が80000人に到達しました。

また、去る4月半ばの熊本における大地震にて被災された地域の早期の復旧、今後の復興を祈念しております。」









20160531 文章作成のルーチン化について・・

本日は通常に比べ若干帰宅が遅く、ほぼ日課としているブログ記事の作成を大変面倒に思い「今日は記事を投稿するのを止めようか・・。」と思いましたが、それでもとりあえず何かしら書いてみようと思い立ち、現在こうして記事を作成している次第です・・。

また、丁度今から一年程前は自身の文章を書くことが大変に困難な状況であり、自分なりに苦心惨憺しておりました・・。

こうしたことは今になって考えてみますと、何故であるかよくわかりませんが、やはり、そこには何かしらの原因があり苦しんでいたのではないかと思います・・。

そして今後もまた、そうしたスランプのようなことが起きかねないと考えております・・。

しかし、昨年の私は、そのような状況においても、書籍からの抜粋引用であれ、何かを書き続けたことにより現在どうにかブログ記事の作成が出来ているのではないかと考えております・・。

また、ブログ記事作成をはじめた当初は一日の閲覧者数が十人にも満たず、一人で勝手に落ち込み、そしてそこから開き直り、あまり閲覧者数を求めない気持ちで記事の作成、投稿を続けていたところ不思議なことに、ある程度の記事数を(多分20記事くらいであろうか・・)投稿した時期から徐々に閲覧者数が増加してゆくようになりました・・。

ここにも一体どのような理由、原因があるのか今現在を以ってよくわかりませんが、それでも何かしら書き続けていると、自然と閲覧者数は増加してゆくのではないかと思います。

こうしたことは私の場合においてもそうであったので、今後、こうした形(ブログ等)で何かしら書いてみようと考えている方々は一度試してみるのも悪くないと考えますが、如何でしょうか・・?

またブログ記事を作成、投稿していて面白いことは、それが誰によるものであるかよくわかりませんが、何かしら面白い面白い反応を見つけることが出来るということです・・。

こうしたことを人に話しますと大抵「それはAさんの気のせいではないか?」といった反応となって返ってきますが、私としてはコトはそう簡単なものではなく、大抵の場合、そうした反応から何かしらの「意図」を感じさせるのです・・。

こうしたことは少なくとも私にとっては一種の遊びでもあり、また同時にそれが後に作成するブログ記事に対しても影響をもたらしているのです。

現在人工知能の開発が進んでいるとのことですが、現状においてその人工知能が、さきに記したような意図(のようなもの)を持ち、面白い反応が出来るかということは、なかなか面白い疑問であると思います。

ともあれ、私としては、こうした一連の反応とは全て生身の人間によるものであると望み、また、そのように考えておりますが、実際のところはどうなのでしょうか・・?

しかしその反面、これまでに作成したブログ記事に対しある特定の個人による反応であると分かっていたならば、ここまで記事作成を継続できたかどうかもかなり疑問に思います・・(苦笑)。

そしてまた、ここまで書いてきて不図思い出したのは、反応ではなく、記述の方になりますが、芥川龍之介著の「河童」における河童の世界での新聞記事の作成方法、そしてジョージ・オーウェル著の「1984」における同様の記事作成方法です・・。

もし、人工知能とはいえ、機械的なものが文章を著し、それが生身の人間の精神、心に対し影響を持つことになれば、それはそれで由々しき事態ではないかと思います・・(苦笑)。

何故ならば、これまでに多少の無理をしてまでブログ記事を作成してきたことの「意味あい」(もし意味があるとすれば)が多少なりとも減じてしまうのではないかという危惧を感じるからです・・(笑)。

また、今後近い将来、文章の作成といった分野が、そうした人工知能による作業として浸透してきますと、おそらくブログなどは衰退してゆくのかもしれません・・(笑)。

とはいえ、対象となる人間による作業の種類は異なりますが、こうしたいわゆる技術の進化発展が我々の日常感覚を変化させてきたことは事実であると思いますので、もしかすると、こうした技術の進化発展とは、その反面において我々人間(精神、身体感覚)から何かを奪い続けてきたとも、いえるのかもしれません・・。

こうした意見とは、かねてよりかなり言い古され、陳腐なものではあるとは思いますが、同時にもう少し深く考えてみる価値があるものではなかとも思われますが如何でしょうか?

とはいうものの、よくよく考えてみますと、私がこれまでにブログ記事を継続的に作成して得たことは、表現の仕方にもよりますが、一面において、ある程度ルーチン化し、機械的に文章を記す技術ではなかったのだろうか?といった疑念もまた生じてきます・・(苦笑)。

そして、では生身の人間による機械的な作業を通じ生じるものと、機械により作成されるそうしたものとの間にある相違点とは如何なるものかと考えますと、それは、また陳腐なものとなってしまいますが「精神」や「記憶」ではないかと思います・・。

それ故、「歴史」や「神話」などといったものが重要となってくるのではないでしょうか?


ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうござます。

また、熊本の大地震にて被災された地域における早急な諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念します。」




2016年5月30日月曜日

20160530 いくばくかの自信らしきもの・・マトリックス

夜半に帰宅し、ブログの閲覧者数を見ておりますと、直近に投稿した記事に対し、類似あるいは強い関連性を持つ記事を様々な手段により提示してきているのではないかと考えさせられることが多々あります(私はおかしいのだろうか?)・・。

こうしたことは概ね私が考えるよりも上等のものであり、何となく遊ばれているような感じを受けることがあります・・(苦笑)。

また、これまで私はある程度の期間(明らかに)自身よりも優秀な方々に(多く)接してきたと思います・・。

そうした状況にて、かろうじて私が自信を維持できた主な理由とは、おそらく歴史、人文社会科学的な知識全般における、いくばくかの自信ではなかろうかと思います・・。

そして、それがなければ私はどこかで自信をなくし、挫折していたでしょう・・(苦笑)。

さらに、それは新たに研究を始めた学問分野における理解のための有用な道具あるいはマトリックスともなりました。

その意味において他の方がどう考えようとも、私は根っからの人文社会科学、文系の人間であると思っております・・(笑)。

また、私がそうなった主な理由、原因とは、様々な段階における周囲の環境に因るものが大きかったと考えております・・。

そして、こうしたものは、そのかなり大きな部分が「運」というものに依存しているのではないかとも最近思います。
また、一方において「これは必然であった。」と考える私もおりますので、この点においては未だに自身の中で確たる結論は出ていないようです・・(苦笑)。

それに加え、私にとって大変勉強になったのは、以前も当ブログに記した指導教授、教員といった方々によるものばかりでなく、私よりはるかに年下であり且つ私よりはるかに優秀な方々(男女問わず)によるものも少なからずあるのではないかとも思います・・。

一般的に特に我が国の男性の多くとは、自身よりも優秀な年下の方々(特に異性)に対して、どうにかして、それこそ卑怯な手段を用いても自身が優位に立たなければ気が済まないような傾向を有する方々が少なからずいらっしゃるのではないかと思いますが如何でしょうか?
(具体例としてSTAP細胞事件)
果たしてそれは自然なことなのでしょうか?

しかし、私はそのようには考えません・・むしろ、それは本当に醜いことではないかと考えます。

とはいえ、彼等、彼女等に対し、ただ理解を示すようなゼスチャーをとることもまた、同様に害悪であるとは考えますが・・。

実際に自身が感に堪えない、その才能を強く感じた時などは、それが若年・異性を問わず『正直な対応』をすることが良いのではないかと思います・・。

そして、そうであっても、そうしたことが続いたとしても、自身の内部に確たる自信を有する何かしらの分野があれば、それで良いのではないでしょうか?

私の場合、それはさきに述べたように歴史、人文社会科学的な知識あるいは見識ではないかと思います・・(笑)。

これもまた、様々な理系学問分野におけるそれと同様、なかなかその修練には時間、能動性を要するものであると思いますから・・。

しかし、私が危惧し反感を持つことは、こうしたものが簡単に自己のものとすることが出来るといった昨今流行の「心得違いな」考えであり、また、それを助長しているような現今我が国の社会です・・。

こうした現象とはニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」
マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
あるいはホセ・オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」を否応なく想起させ暗澹たる気分にさせてくれます・・。

とはいえ、先月の熊本での大地震によって被災された地域の諸生活インフラの早急な復旧そしてそれに続く力強い復興を祈念いたします。

また、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。」







2016年5月29日日曜日

20160529 「Obsession」20200419加筆

おかげさまで昨日初めて、当ブログの1日の閲覧者数が1000人に到達しました。

さて、昨日、久しぶりに神保町に行き、古本屋の店頭にて何気なく目に入った「少女怪談」という様々な作家による短編集をパラパラと立ち読みしていますと、期せずして、その中の森村誠一による「青の魔性」という作品を読み入っていました・・。


私は特に「少女が好き」という傾向を持っていませんが、この作品の内容は、それが少女でなくともハナシのスジにはそこまで支障がないと思われます。


ともあれ、その上で、この作品の内容に関しては、何となく「分かる」といった感じを受けました。


そして、当作品冒頭部にて描かれている『憑りつかれる』といった感覚は、物理的現象としては認識し難いものの、良くも悪くも実際に存在するのではないかと思われます。


また、こうしたことを書くと「この人は少しおかしいのではないだろうか・・?」と思われる方々もいらっしゃるのではないかとも思われます・・(笑)。


しかしながら一方で、それはプラスな意味合いでは、自分以外の誰かから『元気をもらう』あるいは『癒される』などと普通に言い表される現象の逆をも含めたものであると考えていただければ、多少は納得していただけるのではないでしょうか?


また、私個人の経験に即して考えてみますと、良い意味でのそれは、私の九州在住時においても生じていたのではないかと考えています・・。


そして、現在の私は、まさに、そのことにより、これまでブログ記事の作成を継続することが出来、さらには生きている(生かされている)のではないかとも思われるのです。

いや、あるいはまた、そうした現象をどうにか客体化・対象化して認識するために、これまで一連のブログ記事作成を行っているのではないかとも思われます・・(笑)。

そして、こうした現象をマクロレベルにて考え、さらに歴史を遡上して考えてみますと、我が国が倭国と呼ばれた時代、女王が統治する邪馬台国というクニが、九州あるいは畿内の何れかに存在していたことが実感を以って感覚的にも理解・認識できるのではないかとも思われるのです・・。


その意味において、以前数回当ブログにて引用したローレンス・ヴァン・デル・ポストの「The seed and the sower」に記されている我が国の特質についての記述は、かなり興味深いものであると云えます。


とはいえ、そうであっても、こうしたことは畢竟、単なる思い込み・迷信の類であると批判される方々も少なからずいらっしゃるのではないかとも予想されます。


そして、そのような批判がなされた場合、私は『ええ、たしかにそうであるかもしれませんが、しかし、そこで私と同様な経験を彼の地ですることになれば、私以上に敬虔にそうしたことを信じるようになるかもしれませんよ・・。』と返答とすると思います・・(笑)。


ともあれ、この『憑りつかれる』と表現される内容も前述のとおり様々であり、それが生じた時の自身の心持、就中、邪気の有無がかなり精確に反映され、後になり自身に返ってくるのではないかと思われるのです・・。


そして、そういった、いわば単純且つ原始的な観念こそが様々な神話そして道徳的意味合いを持つ神話、さらには地域、国レベルの倫理、道徳観念の基礎あるいは枠組みへと変化そして精製されてゆくのではないでしょうか?


しかし、それでも現在記しているこの記事は、実際問題として、幾分迷信的ともとられ、また自身の今後、保身においても何かしらおかしな影響をおよぼしかねないと考え、投稿することを多少躊躇しておりましたが、それでも、どうしたわけか、この記事を投稿することにしました・・(笑)。


『他方では女友達のいるときの祖父を、理解していなかったにしても、理解するかもしれないと予感していたにすぎない。予感が私のなかで実現したのは、はるか後になって、私自身がひとりの女の眼のなかにすべてをみ、その一刻が世界の全体よりも貴重だと思われるような瞬間を、経験した後でのことである。その経験は、事の善悪について語ることを、全く無意味にみせる・・』
岩波書店刊 加藤周一著「羊の歌」-わが回想ーp.9より抜粋
ISBN-10: 4004150965
ISBN-13: 978-4004150961


さきの熊本での大地震によって被災された地域の諸インフラの早急な復旧、そしてその後の復興を祈念しております。

また、ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。

皆様のおかげでここまで書き続けることが出来ております。
そして最後にゲーテ曰く『迷信的であることは詩作の妨げにはならない』しかしながら、私は詩人ではありません・・(笑)。






          




加藤周一著「言葉と戦車を見すえて」筑摩書房刊pp.87‐89より抜粋20160528

昨日夕刻来の広島にて生じた出来事は以下の抜粋引用部を私に想起させた。

「無条件降伏のその日から、万事が変わったことは周知のとおりである。
占領は夏にはじまったから、開襟シャツの司令官がフロックコートの天皇と並んで写真を撮り、それを新聞雑誌に発表した。米国の営利雑誌はその下に註釈して「もと神」と書いたのである。

日本側では註釈を翻訳する時に、もとの表現の辛辣な諧謔味をとり除いた。

そこには、開襟シャツの大柄な外国人とその傍に立っている昨日までの「御真影」とを対照させた写真に対する、日本側の困惑がよく表れていた。しかし、おそらく天皇のために怒る者は殆どいなかったし、昔の臣民の中で、何等かの激しい反撥を表明する者もいなかった。

反応はおどろく程穏やかであった、しかしそれは写真の効果が浅かったということではけっしてない。おそらく天皇の「神性」を否定しようと考えた占領軍が予期したよりも、その影響は大きかったのである。余りに深い反応は、直ちに表面に出てくることができない。

対照の妙にこっけい味を感じる余裕のないことはいうまでもないとして、怒りや反撥をおぼえるよりも、日本側はその写真が発表されるようになった事態の意味を理解するために努力しなければならなかったのである。

永遠なるものは何もないということ、人間以外の何かがわれわれの世界を保障しているのではないということ、したがって「すべての文明はほろびる」ものであり、況や極東の島国の秩序はいつでも変わり得るものにすぎないということ、変われば前の世界に通じていたことが、後の世界では通じなくなるだろうということ、要するに自分達の永遠だと信じてきた世界の相対性を理解する急な必要があったのだ。

しかしこの場合に、世界を変えることではなく世界のかわることが問題であったということほど、決定的なことはない。

私は敗戦による一種の革命が唯外部から起こり、まったく内側から支えられていなかったというつもりはない。しかし大部分の国民にとって、外部からの変化として受けとられたという事実を強調しておく必要があると考える。

何故なら、歴史的意識は、おそらく一つの世界をその内側からくずし、別の世界を築きあげようとする経験の蓄積を通じてしか獲得されないものだろうからである。


その時現在の権威は来たるべき権威によって否定される。現在の世界の中心は、次の世界の中心が発見され、ひそかに強められ、その影響の範囲を拡大して後に、はじめて除かれる。


1789年に旧制度は仏国民の心のなかで死んでいたのだ。しかしそれは1945年の日本の状況ではなかった。来たるべき権威は予想されず、次の世界の精神的中心が何処にあるのかわからないうちに、永遠と信じられた、または仮定されていたーしかし、どういう違いがその間にあるのだろうか、ー旧来の権威、秩序、生活の規準となるべき権威の大部分は動揺し、くずれ、失われたのである。占領軍が期待し、また国内の民主的勢力が望んだのは、天皇の絶対的権威が否定されることであった。しかし実際に国民の大多数の中で否定されたのは、天皇の権威ではなく、権威そのものであった、歴史的相対主義のかわりに、現在目の前のどういう価値も信用しないという現象が起こるのは、当然の成り行きであったろう。

民主主義の一面は、敗戦後十年の間に、深く抜き難い根を下ろしていったが、それは一面においてであり、具体的な個々の場合においてであって、また、おそらく選良の多数には、未だそういうものとしてしか民主主義は受け入れられていない。


むしろ逆に天皇を中心とした世界の崩壊が作り出した権威一般に対する不信用の態度は、民主主義そのものにも向けられていると考えなければならない。事がそのように運んだ理由は、むろん敗戦の事情だけではなく、また民主主義の原理そのものとも関連し、殊にその原理が現在世界で遭遇している大きな困難、すなわち「二つの民主主義」という言葉によって要約される矛盾と関連している。


「二つの民主主義」の対立は、いずれかの形での民主主義の経験の浅い国ではーそれは何も日本に限らないがー当然のことながら、文化的伝統と国家的経験の基準からよりも、純粋にイデオロギー的な対立として扱われる傾向がある。

しかしそれがイデオロギー的対立として扱われる限り、第一に、解決は困難であり、したがって第二に、議論が煩雑とならざるをえない。その結果は、第三に、一般の知的大衆が民主主義に対するほんとうの関心を失うのである。いわゆる「敗戦の虚脱」の根本的条件は今でも変わっていないと思われる。」

「言葉と戦車を見すえて」
ISBN-10: 4480092382
ISBN-13: 978-4480092380
加藤周一 

























































2016年5月28日土曜日

バートランド・ラッセル著 堀秀彦・柿村峻訳「怠惰への賛歌」平凡社刊pp37‐41より抜粋20160527

伝統的な教育制度のあるフランスやイギリスのような国々では、知識を功利的にみる見解は、ほんの一部分に拡がっているにすぎなかった。
例えば、大学には、中国の古典は読むが、近代中国を創造した孫逸仙の著書を知らない中国語の教授が今なおいる。
また、文章が純粋である著書が書くものに限った古代史、換言すれば、ギリシャではアレキサンダー、ローマではネロに至る歴史は知っているが、もっと重要な後世の歴史は、それを述べる歴史家が文学的に劣っているから、知ろうとしない人がいる。
しかし、フランスでもイギリスでも、古い伝統は絶えていき、ロシアや合衆国のような近代的な国では、全くなくなっている。
例えば、アメリカでは、教育委員会は、大多数の人が、商業通信文に使う語は、全部で千五百字を出てないことを指摘し、それに基づいて、これ以外の語は一切、学校の課程から除くべきだと提唱している。
基本英語は、イギリスの案出にかかわるものだが、もっと進んで、どうしても必要だという語彙を八百語に減らしている。言葉は美的価値を持ち得るものだとする考え方は亡びていって、実際的な知識を伝えるのが、言語の唯一の目的だと考えるようになって来ている。
ロシアでは、実用上の目的を追求することがアメリカよりも熱心である。というのは、教育機関で教えることは、教育や政治の面で、或るはっきりした目的を果そうとすることに限られているからである。しかしただ一つの例外は、神学に見られる。即ち、聖書は、誰かは固有のドイツ語で研究しなければならないし、少数の教授たちは、ブルジョア形而上学の批判から傷つけられないように唯物弁証法を守るために、哲学を勉強しなければならない。
だが正統派の基盤がもっともしっかり定まると、このささやかな逃げ口も閉ざされるだろう。
どの方面をみても、知識は、それ自身だけで善いものとみなされず、また一般的にいって、ひろく情味豊かな人生観を生み出す方法としては考えられず、単なる技術の一要素とみなすようになって来ている。
こういうことは、科学的技術や軍事上の必要がもたらした社会の大きな統合の一端のあらわれである。
昔より今は、経済上または政治上の相互依存が強くなって来たので、社会的圧迫がふえたから、誰でも、その隣人に役に立っていると思われる方法で生活せざるを得ない。
非常な金持のための学校や、伝統が古いために動かすことができないような学校(イギリスにおいて)は別として、すべての教育機関は、好き勝手に金をつかうことは許されないが、技術を授け、忠誠心を吹きこむことで有用な目的にかなったことをしていることを、国家に納得させなければならない。
このことが、強制的な兵役、ボーイスカウト、政党の組織及び新聞を通じて政治的な情熱の伝播を引き起こす結果となったその運動の重要な要素である。
私たちは、なかまの市民を以前よりかえってよく知っており、私たちに道徳心があるなら、彼らのためになり、どんな場合でも、彼らも私たちのためになることもするようにさせたいという念願を前よりも強くなっている。
誰であろうと、ぶろぶらして人生を享受している人を思い浮かべるのもいやである。その享楽の性質がどんなに品がいいものであろうともそうである。ひとはすべて、(何であろうと)偉大な事件を推し進めるために何か為すべきだと思う。
多くの悪人がその事件を妨げる働きをしており、それを止めなければならないから一層そう思われる。したがって、どんなものにせよ、私たちが大切だと考えることえお求めてたたかう助けとなるような知識でない知識は何によらず、獲得する心のゆとりは、私たちにはない。
 教育に対してせまい功利的見解をするいいわけはたくさんある。大体、暮らしをたて始めない内に、あらゆることを学ぶ時間はない。それで確かにいわゆる「有用」な知識が甚だ役に立つ。その知識が現代世界を作ったのである。それがなければ、機械も自動車も鉄道も飛行機もできていなかったはずだ。さらに近代の知識は、おしなべて健康えお著しく増進したが、同時に毒ガスで大都市を滅ぼす方法も発見した。私たちの世界を前の時代と比較してわかる著しい特徴は、どれもいわゆる「有用」な知識から生まれている。今までのところ、どの社会をとってみても、この知識は不十分なので、教育はたゆまずそれを増進していかなければならないことはいうまでもない。
伝統的な文化教育の多くが馬鹿げていることも認めなければならない。少年たちは、ラテン語やギリシャの文法を修得するために何年も費やしているが、結局(そのごく少数の人の場合を除けば)その言葉で書いた著作物を読む能力もないし、或いは読む気もない。どんな点からみても、近代語や歴史の方が好ましい。それらは遥かに役に立つばかりでなく、遥かに少ない時間で、より多くの教養を与えてくれる。


  • ISBN-10: 4582766765
  • ISBN-13: 978-4582766769
  • 柿村峻