2016年2月3日水曜日

20160203 過去、未来および異文化理解などについて

A「先日たまたまテレビを観ていて思ったのですが、何故我が国の政治家、アイドル、著名人達はことさらに「前だけを見て進んでゆきたいと思います。」といったニュアンスの発言をされるのでしょうか?
それは「未来を見据えて着実に前進してゆきたい。」というポジティブな発想によるものなのでしょうが、一方、そういった発言を何度も聞いていると、どうも「この人は本心でそう思っているのだろうか?」と考えてしまうのです。
というのは、前つまり時間軸でいう未来とは、未だ実在していないものですから、それを認識することは困難であると思うのです。
「一寸先は闇」などという言葉もあるくらいですから・・。
そういった一面があるにも係らず、さきほどのような発言ばかり目立つというのは何か過去を忘れたいような心情があるのではないか、あるいは、その未来に見込まれる現世利益に対してのみ注視しているのではないかと考えさせられるのです。
もちろん、現世利益は極めて大事であると思いますが、一方で、そこには、忘却を指向しているような心情があるのではないかとも思います。
無論、あくまでもそれらは外部に対するスタンスではあると思うのですが、しかしそこでも、発言者の本音とは、傍目八目的に見出されてしまうのではないかと思いますが・・。」


B「ううむ、またよくわからない主張をされていますが、まあ、それでも我々日本人が過去の歴史、出来事あるいは文化に対して持つ一種敬虔な態度とは、大抵の場合、一種のゼスチャーではないかと思うことが時折ありますね・・(笑)。
また、そういったことは昨今の情報技術の進化発展により、徐々にそして一層諸外国にも認識されるようになってきたのではないでしょうか?
かつて「日本人はわかりにくい。」などといわれていましたが、それが良くも悪くも崩れつつあるのではないでしょうかね・・?」


A「たしか小噺で「日本人は何でも小型化するか隠したがる。」というのを読んだり、聞いたりしたことがありましたが、そうした傾向が情報技術の進化発展により見え易くなってきたということなのでしょうか・・?
そして、その結果、我々日本人の持っていた性質、傾向が、かつてより知れ渡るようになったのではないかと思います。
また、その知れ渡った性質、傾向とは、欧米を主とする、まあキリスト教文化圏から見ますと、どうも反りが合わないものが多いのではないかとも思います・・。
しかし一方において、その性質、傾向とは、我が国の歴史文化、つまり精神的風土に根差しているものであるのです。
それは伊豆半島のイルカ漁、紀伊半島の捕鯨文化のように・・。
また、そういった文化をさらに深くまで考察してゆくと、イルカ、クジラといった動物を対象とするものだけでなく、人間を対象とした対人文化においてもほとんど無意識であるかもしれませんが、大きな影響を及ぼしているのではないかと思います・・。」


B「ええ、そうした動物などに対する狩猟文化とは、古代より維持発展してきた、まさしく文化の中心に位置するものであり、また、その国、地域の自然の流れに沿い生成してきたものなのだろうね・・。
加えて、異文化の人間がそれを見た時に即物的であるがゆえに最もショックを受ける部類の一つでもあるかもしれません。
しかし、そう考えると、近代以降は別として一般論では日本人は奈良、平安時代あたりからあまり獣肉を食べることが少なくなり、現在の我々は、直接的にその後の非肉食文化の系譜に立つのではないかな・・?
ともあれ、その非肉食文化が大きく変化したのが明治維新あたりからなのですが、この食文化の変化も当時はなかなか大きいものであったのでしょうね。
まあ、そうしますと古来より継続して肉食文化を保持してきた国々の方が、我が国のイルカ漁、捕鯨文化を糾弾し禁止させようとするのも何だか面白いですね・・(苦笑)。
また我々も我々で「現在我々は既に貴方がたの肉食文化を学び、完全に吸収しましたので、もうイルカ漁や捕鯨は必要ありません。」などとは決していいませんからね(笑)。
しかし、クジラのヒゲは文楽、人形浄瑠璃の操り糸として必要であるということですが・・。
ともあれ、我々日本人とは、直接身体的な要素に関して、かなり繊細、鋭敏な感覚を持ち、また、その快の追求において貪欲なのではないかと思います・・。
その意味で欧米の文化とは、そうした感覚の繊細、鋭敏さよりも合理性の追求の方をより上位に置いているようにも見えますね・・。
また、それと関連があるかわかりませんが、資本主義が典型的な発展を遂げたといわれる西欧の島国、新教の禁欲的な精神により商業活動が活発に為された国、地域などでは、料理、食文化はあまり高度に発展しなかったといわれますが、彼等はそれでも別に構わない文化を保持していたのではないかと思います。
こうしたことは、我々から見ますと、多少奇異に見えるかもしれませんが、実はこういったことは国内外を問わず、様々な文化の間でも同じようなことがいえるのではないでしょうか?
それ故、私は異文化に対して理性、理屈レベルで批判する気はありませんが、しかし、そこで問題になるのが、さきにAさんが仰っていた対人文化も各々の文化体系に含まれるということであり、実は、その文化体系こそ、様々なレベルでの対外的な摩擦を引き起こしているのですが、だからといって、その摩擦を引き起こしている部分、要素だけを他に取り換えることが出来ないのが文化一般というものではないかと思うのです。
そうしますと、太平洋戦争とは、明治維新以来の外来文化に対する無意識レベルでの拒否反応であったとも見ることが出来るかもしれません・・。
とはいえ、一方においてオレンジ計画などの存在もあるとは思いますが・・。
そして戦後日本社会は、自国の組織内において、その手法を真似するようになったのかもしれません。
また、人は他者から為されたことを無意識レベルで(ここが大事であるかもしれない。) また別の他者に対して行ってしまうのではないでしょうか?
しかし、この無意識を意識して明晰化するということは一体どういうことなのでしょうか?
あるいは前を見て進んでゆくということはどういうことなのでしょうか?」


A「はあ、最後のは何だかコンラッドの「闇の奥」を彷彿とさせますね・・。」


20160202 小学校時代の読書、および兵器、物に対する観念について

A「先日不図思い出したのですが、私は小学校時代にも文章を書くのが好きな時期がありました。・・たしか「物語を作る」というような課題が出まして、そこで書いた物語を数人から「面白い」といわれたのが嬉しくて調子に乗り、第二弾を書いたのですが、これはイマイチな反応でしたね・・(苦笑)。」

B「・・ううむ、それを突然思い出した原因の方も気になりますが、その特どういった内容の物語を書いたか憶えていますか?」

A「ええ、たしかその当時秋田書店から刊行されていた「ドイツ艦隊」という本を読んでおり、そこに描かれていた第一次世界大戦におけるドイツ軽巡洋艦のエムデンの太平洋、インド洋における活躍がいたく気に入ったようでして、それをベースにして第一次世界大戦停戦の後、太平洋に居た生き残りのドイツ艦艇数隻が南太平洋の無人島を基地にして海賊のように暴れまわるといった内容のものでした(笑)。

A「・・はあ、それは何だかジュール・ヴェルヌの「海底二万里」も彷彿とさせますが、それよりも子供向けでドイツ軽巡エムデンのハナシが書いてある本があったのですね・・あれはどちらかというとマニアックであると思うのですが・・。」

B「いえ、それでも私が読んだ船の図鑑にもトラファルガーの海戦でのビクトリー号などと並んでエムデンが紹介されていたような気がします・・。多分、当時のそういった子供向けの書籍の著者、編修者の方々は何が子供達にウケるのか知っていたのかもしれませんね・・。また、さきの「ドイツ艦隊」には、後のナチスドイツ海軍の司令官となるデーニッツ提督が第一次世界大戦時にUボートの艦長で、イギリス軍の捕虜になり、収容所で狂気を演じたというような忠臣蔵の大石内蔵助を彷彿とさせるようなことも書いてあったと記憶しています・・(笑)。また、同じくその本に掲載されていた第一次世界大戦時のUボートの写真には、まるで古代地中海世界のガレー船にあるような目が描かれており、それを「上空から見た際に魚に間違えるように目を描いてある。」と説明されていましたが、当時の私は子供心に「それは果たして本当であろうか?」と疑問を持った記憶もあります・・(笑)。とはいえ、乗載兵器に顔などを描くことは、古代より現在に至るまで結構見受けられますし、また、そういった遊び心のようなものは、案外日本などよりも海外の方が多いような気がしますが、こういった傾向の彼我の相違にも、やはり何かしら原因があるような気がします・・。」

A「はあ・・そのようなUボートの写真がその本に載っていたのですか・・。それは多少不謹慎であるかもしれませんが何だか面白いですね(笑)。ともあれ、たしかに西洋化に伴い設立された近代日本軍隊においては乗載兵器に顔を描くといったノーズ・アートらしきものは、あまり写真、映像資料などで見受けることがありませんね・・。」
B「ええ、そうなのです・・。そしてその理由を考えてみますと、これは特に深い国民性によるものではなく、端的にいいますと、日本が西欧的な意味での後発工業国であったからではないかと思います・・。そして、そのことにより、兵器の価値が過剰に重要視され、さらには営内教育における上級者から下級者への「お前たち兵隊は一千五厘(当時の切手代)で集めることができるが、この三八式歩兵銃はそうはいかないんだ!」といった叱責に結び付くのではないかと思います・・。また、こうした行動様式とは「道具としての各種兵器を大事にする」といった合理性を通り越して、あるいは別の方向に進化発展してしまった結果ではないかと思うのです・・。」

A「・・なるほどねえ・・いわれてみるとたしかに我が国にはそのような傾向があるかもしれませんね・・そして、それが無敵皇軍といった観念と結び付き、まあ一種のカルトのようなものにもなるのかもしれません・・。では、戦後に工業国として発展してきた現在の我が国において、かつて後発工業国であった時代からの習い性とは未だ残っているのでしょうかね?」

B「そうですね・・とりあえず人間の尊厳、生命よりも、何か他のモノの価値を過大に重視して、それを神聖視するような傾向は今現在でも、表立っては、建前としてはありませんが、多分に残っているのではないでしょうか・・?しかし、そう考えると、実はこうした習い性、つまり本質よりも何か他のモノを重視して、そしてそこから全体を把握しようとする、つまり管を通して空を見ようとするような傾向は古来よりあるのかもしれません・・。ニーチェは「古代ギリシャ人は中身を重視するために外面を大事にした。」というようなことを述べていましたが、これを日本に適用してみますと「日本人は日常的社会性を重視するために外面を大事にした。」というような感じで、はじめから、あまり彼岸的、形而上的なことは考慮に入れないといった普遍的な傾向があるのではないかと思います。そしてその日常的社会性が何かのショックを受けますと、隠されていた他の価値を過大に重視して、それを神聖視するような傾向が表出、顕現しはじめるのではないでしょうか・・?しかし、そう考えますと、こういったものは日本に限らず他国においても同様の傾向はあるのかもしれません・・。では、何が日本特有の傾向であるのかと考えてみますと、それは受けたショックに対する反応の仕方ではないかと思いますが、それは時代により社会も変化していることから同様に変化していると思うのですが、その基層にあるものには何かしらの普遍性があるとは思うのですが、それは未だによくわかりません・・。」
A「ええ、多分そこが大事であると思いますが、まあ今後折々考えてみてください、私もそこはよくわかりませんので・・(笑)。あるいはもっと上手く、簡単にそういったことを考え、述べる方法があるのかもしれませんが・・。しかし、それでも知識を仕入れ考え続けること自体に何かしらの価値はあると思いますので、まあ考え続けてみてください。」

B「ええ、そうですね(笑)。」

2016年2月1日月曜日

20160201 ノートへの記録、および帰納、演繹法について

A「ここ最近また書籍の抜粋が続いていますが、何か変化でもあったのですか?」

B「いえ、特にそういったわけではありませんが、このところ自身の作成した文章が続いていましたので、少し趣向を変えてみようと思った次第です。
しかし、またしばらく書籍の抜粋を続けていましたら、不思議なことにまた自身の文章を作成してみたくなってきました・・(笑)。
ですから、次に投稿するブログ記事は自身の作成した文章にしてみようと考えております。」

A「まあBさんのことですから、毎日何かしら少しずつ読んでいると思いますが、そういった書籍をキーボードを通して書写することもまた、単なる読書とはまた違った刺激になるのでしょうね・・。」

B「ええ、それはそうですね、ですから勉強などでもノートを書くことが重要なのではないでしょうか?
また、そのように考えてみますと、私は文系院生の頃は講義などでもノートを書くことは少なかったのではないかと思います・・。
講義などでは、どちらかというと予習の方が大事であったような気がしますね・・。
また、フィールド・ワークなどの際は、その時々に考えたことを記したり、スケッチのようなものを描いたりしておりましたが、それらは能動的な記録、筆記として、ある程度意味があったのではないかと思います。
とはいえ、現在それらを見てみますと「果たして何を意味しているのであろうか?」と考えたり、あるいはその稚拙さに赤面するようなものも少なからずあるように思います・・(苦笑)。
そして、その後の歯科技工学校では講義科目の多くがはじめてのものであり、かなり興味を持って講義ノートを作成していた記憶があります。
また、文系の世界にドップリ浸かっていた当時の私にとって、こうした講義はかなり実在感をもって迫ってくるものがあったのではないかとも思います。
その後、歯系院生の頃は、とにかく実験データが多く、それらの一つ一つ全てを記録しておかないと抽出される様々な傾向、そしてその後に続く考察ができませんので、記録しておりましたが、それらは実験装置の横に設置したPCのエクセル・ファイルに直接入力しておりましたね・・。
そしてそれと併行して、各々試料の実験時における特徴をノートに記してもいました。
その後、エクセル・データとノートを較べてみて、何かしら面白い発見はないかと考えてみるのも、なかなか面白いものがありました・・(笑)。」


A「ううむ、まあ特に理系学問分野は信頼できるデータがあってのものですからね・・。 ともあれBさんはその様な感じでPCデータ、実験ノートを作成していたのですか・・。
しかし一方、試料作成は、それとはまた別ですよね・・。
そのように考えると、実験を必要とする多くの理系学問分野とは、一種職人のような部分も多くあるのでしょうね。」

B「ええ、たしかにその様な部分は多くあると思います。
それでも私はどちらかというとスロー・スターターでして、徐々に実験にはまっていったような感じがあります。
ですから、そのはじめにおいては、どちらかというと受動的に実験をして、データを取っていたような感じでしたが、実験が進むにつれて、加速し能動的になっていった様な感じでしょうか・・今考えてみますと・・。
そして、今考えてみますと、それは指導してくださった先生の手腕に多く由来するものであると思います・・。」

A「ええ、そういったことは何となく私も理解できますね。
それに、時間をかけて凍結した氷の方が、早く凍結したそれよりも溶けにくいといわれますからね・・ですから、それはそれで構わないのではないでしょうか?
また、何かを継続するという意味においては、そういったBさんのような性質の方が都合が良いのかもしれませんよ(笑)。」

B「はあ、どうもありがとうございます・・。
しかし、その氷のハナシは本当に人間の精神についても適用することができるのでしょうかね?
というのは、時折人間の精神などについて考えてみますと、かねてより巷で流布している人間の性質、精神などに関する様々な意見とは、互いに矛盾しているものが多いのではないかと思う一方、信頼できるとされる医学的なデータに基づく人間の性質、精神についての見解とは、あくまでも人間の性質、精神に対しての直接的な言及ではなく、何かとの反応、対応の結果として見られる傾向、見解であるように思われるのです・・。
そして、そのように考えてみますと、我々は一体どのようにして人間一般のものとして性質、精神への知覚を得ることができるのでしょうか?
それに加えて、どのようにして過去からの人間の精神的活動の蓄積としての歴史、文化などを認識しているのでしょうか?」

A「・・はあ、なんだかずいぶん高踏的なハナシになってきましたね・・(笑)。
まあ、たしかに先程の氷の話は人間の精神について適応出来るものであるかどうかわかりません・・。
しかし、こうした観念的なことは一般的にたとえを用いて説明することが多いのではないでしょうかね?
たしか聖書にもそのようなことが書かれていませんでしたかね・・。
ともあれ、そうした表現から、その観念および関連の実在、正否についての疑問が生じると思うのですが、これをさかのぼると、御存知でしょうが演繹、帰納的な考え方の違いに結び付くのではないでしょうか?
そして、さきほどのBさんの疑問とは、演繹的な発想からもたらされたのではないかと思いますが・・。
さらにハナシを進めますと、演繹的な発想を用いて人間の性質、精神などといった形而上的なことへの見解を得ることは難しいのではないでしょうか?
これは帰納的発想あるいは経験論的なものの積み重ねによって徐々に形成されてゆくものなのではないでしょうか?
そしてその最大公約数的なものが一般的に通じるものとしての人間の性質、精神への見解ということになるのではないでしょうか?」

B「・・はあ、なるほどたしかにいわれてみますと私の疑問とは演繹的な発想であったかもしれませんね・・。
とはいえ、こうした意見もまた必要ではないかとも思います。
何故ならば、そうした意見を発信することによって、さきほどのAさんの御意見を聞くことができたのではないかと考えるからです。
まあ、多少開き直りの気味はありますが・・(苦笑)。」

A「はああ、なるほど、それは何だか弁証法的に基づくような意見ですね(笑)。
そうすると、演繹、帰納あるいは理系、文系といった異なった分野から発信される意見を正面からぶつけあわせることにより、高次の見解を得ることができるのかもしれませんね・・。
しかし、そうするとまた議論の重要性が問題となってくるわけですね・・。」

B「ええ、そうですね、そうした議論が成立するための基礎的なインフラの整備、発展が今後の我が国の社会において重要なのではないでしょうか・・?
そしてそれを為すためには、やはり多少時間をかけてでも教養教育を充実する以外にないのではないかと思いますが・・。」

2016年1月31日日曜日

戸部良一・寺本義也・鎌田伸一・杉之尾孝生・村井友秀・野中郁次郎著「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」中央公論社刊pp.66-69より抜粋20160131

ソ連軍の攻勢の結果、多数の日本軍第一線部隊の連隊長クラスが戦死し、あるいは戦闘の最終段階で自決した。また生き残った部隊長のある者は、独断で陣地を放棄して後退したとしてきびしく非難され、自決を強要された。日本軍は生き残ることを怯懦とみなし、高価な体験をその後に生かす道を自ら閉ざしてしまった。
一方、九月から十一月にかけて、ノモンハン事件の責任を明らかにするための人事異動が行なわれ、中央部では参謀本部次長、第一部長が予備役にまわされ、関東軍では軍司令官、参謀長が予備役に編入され、第二三師団では師団長がいったん関東軍司令部付となった後、予備役に入った。
また参謀本部第二課長、関東軍参謀副長、第一課全作戦参謀、重傷を受けた第二三参謀長が更迭された。
新しい幕僚の人選はできるだけ大本営勤務の経験者または堅実な者を選び、事件後関東軍の独断的行動は少なくなったといわれている。
大本営の稲田作戦課長は、新参謀次長の問いに対して、中央部がその意思を関東軍に強要しなかったのは、従来の悪習を踏襲したものであり、統帥上の大失策であった。
また関東軍中央と対等の観念を持ち、中央からの連絡を無視したことも満州事変以来の悪習であり、断固改革しなければならない、統帥の要は人にあり、関東軍をコントロールするには適正な人事が必要で、首脳部の更迭を実行すべきである、との意見を述べている。
一一月には中央部は、関東軍関係者と中央部が任命する委員より成る「ノモンハン事件研究委員会」を設置し、ノモンハン事件の再検討を始めた。

研究討議の結果は、低水準にある日本軍の火力戦闘能力を飛躍的に向上させる必要がある、というものであったが、一方、物的戦力の優勢な敵に対して勝利を収めるためには、日本軍伝統の精神威力をますます拡充すべきである、とも述べていた。
日中戦争の初期、小畑敏四郎中将は、日本軍が中国軍相手の戦争ばかり続けていると、戦術が粗雑になり下手になると心配し、囲碁をする者が下手とばかり手合わせをすると手が落ちるのと同じだ、といったことがある。
当時の関東軍は、満州国の内政指導権が関東軍司令官に与えられていることを理由に、しばしば政治に干渉し、満人官吏の任免や土建業者の入札にまで関与していた。
対ソ戦争の準備に専念すべき各地の師団も政治経済の指導に熱中し、また治安維持のために兵力を分散配置し、対ソ訓練はほとんど行われなかったといわれる。当時の関東軍の一師団に対する検閲後の講評は、「統率訓練は外面の粉飾を事として内容充実せず、上下徒に巧言令色に流れて、実戦即応の準備を欠く、その戦力は支那軍にも劣るものあり」というものであった。
また関東軍の作戦練習では、まったく勝ち目のないような戦況になっても、日本軍のみが持つとされた精神力と統帥指揮能力の優越といった無形的戦力によって勝利を得るという、いわば神懸り的な指導で終わることがつねであった。
ノモンハン事件は日本軍に近代戦の実態を余すところなく示したが、大兵力、大火力、大物量主義をとる敵に対して、日本軍はなすすべを知らず、敵情不明のまま用兵規模の測定を誤り、いたずらに後手に回って兵力逐次使用の誤りを繰り返した。情報機関の欠陥と過度の精神主義により、敵を知らず、己を知らず、大敵を侮っていたのである。
また統帥上も中央と現地の意思疎通は円滑を欠き、意見が対立すると、つねに積極策を主張するん幕僚が向こうに意気荒く慎重論を押し切り、上司もこれを許したことが失敗の大きな原因であった。なお日本軍を圧倒したソ連第一集団軍司令官ジューコフはスターリンの問いに対して、日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である、と評価していた。一方辻政信はソ連軍について、薄ノロと侮ったソ連軍は驚くほど急速に兵器と戦法を改良し、量において、運用において日本軍を凌駕した、革命軍の大きな特色というべきであろう、と述べている。満州支配機関としての関東軍は、その機能をよく果たし、またその目的のためには高度に進化した組織であった。しかし統治機関として高度で適応した軍隊であるがゆえに、戦闘という軍隊本来の任務に直面し、しかも対等ないしはそれ以上の敵としてのソ連軍との戦いというまったく新しい環境に置かれたとき、関東軍の首脳部は混乱し、方向を見失って自壊作用を起したのである。中国侵略そしてその植民地的支配の過程で、日本軍の戦闘機関としての組織的合理化は妨げられ、逆にさまざまな側面において退化現象を示しつつあった。このような退化現象を起しつつあった日本軍の側面を初めて劇的な形で示したのが、ノモンハン事件であった。
「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」
「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」
ISBN-10: 4122018331
ISBN-13: 978-4122018334
戸部良一
寺本義也
鎌田伸一
杉之尾孝生
村井友秀
野中郁次郎 













2016年1月30日土曜日

金関丈夫著「発掘から推理する」岩波書店刊pp.32-38より抜粋20160130

旧暦の五月は、もうそろそろ子供たちが水遊びをする時節である。端午の節句は、水死した楚の大夫屈原の霊をなぐさめる行事として起こったと説かれているが、もちろん屈原はこじつけだ。水死人の霊、すなわち水鬼は、たれの霊とは限らず最も恐るべきもので、なかまを作ろうとして、人々を水中に引き入れる。その難を避けるために、中国ではこの節句に水鬼をまつる。子供が鬼にとられぬようにそのからだに防御装置もする。端午の行事はいわば「河びらき」の行事なのである。
昭和8年(1933)、遼東半島の羊頭窪(ヤントウワ)というところを発掘したのが、ちょうどこの季節で、野山には馬蓮花(マアリエンホワ)の可憐な花が、いたるところ風にそよいでいた。家々の軒には、桃の枝や蓬などの駆除物がさがり、村の子供たちの手首や足首は、腕輪や脚輪をつけたように、五色の糸で巻かれていた。魂を身に付けるためのいわゆる「たま結び」である。魂を驚かさないように、子供の寝ているあいだに、そっと巻くという。水中の鬼たちに供える粽も、草のひもで幾重にも巻いて結んでいる。粽は見せかけだけの、魂の代用品で、鬼どもはこれでごまかされる。

このたま結びの色糸を、こうした特定の日に限らず、用心深くふだん身に付けているのが、首飾り、腕巻き、足巻きのたぐいで、多くは青色の珠を貫いた糸を巻く。いまのブレースレットやネックレスには、こうした前歴がある。ブレースレットもネックレスも幾重にも巻くのが本格である。ビルマのパダウン族の婦人などで、首や腕に銅輪を、あきれるほど巻いたのがいる。中国新石器時代の土製の腕輪は、死後につけられた明器であるが、糸を重ねた形を示すものがある。死人の魂を呪縛したつもりである。

装身具として文明人の用いる腕輪も、この腕巻きから変化したもので、指輪も、もとは指まきだった。台湾山地のパイワン族などは、今もそうした指巻きをつけている。物忘れは魂の不在から起こる。忘れものせぬように指をしばる風は今も残るたま結びの風である。

結婚式には、新郎が新婦の指に指輪にはめる。男の魂を女の身に結びつけるのである。旅立つ愛人のからだに紐を結ぶ。「いもが結びし紐吹き返す」と万葉人が歌ったのもこれである。今の原始民の風習からみて、このときには、こちらのからだから相手のほうへ、魂を導く動作が伴う。

腕輪が明らかにたま結びの用に使用されたことを示す例は、島根県古浦の弥生前期遺跡の小児人骨である。二歳の小児だから、もちろん成年以前のものだ。左腕に六個のハイガイ製の腕輪がはまっている。死後の魂を呪縛したもので、さきの土製の腕輪と同じである。一個だけでなく、いくつも用いることが、糸では幾重にも巻いた用意を語っている。

さて、魂が身体から離れぬようにするためには、腕、脚、胴体、首のような、しばりつけることができる場所以外に、防がなければならないもっと危険な場所がある。耳、鼻、口など、外に出口の開いている個所である。

死人に対しては、中国の古代人、玉器で栓をしてふさいでいる。日本の先史人もこれをまねて耳璫すなわち耳の栓などをはめているが、昨年発掘された飯塚市の立岩の弥生人の頭部には、耳、鼻、口の五孔をふさいだと思われる五つの栓が見出された。現代でも死体のあらゆる出口を、死の直後に綿でふさぐが、もともとは実用的の意味から起こったものではない。
生きた人間の出口からの、魂の脱出を防ぐためには、鼻中隔に棒を通したり、鼻翼や、耳たぶや、くちびるに孔をあけて栓をしたり、棒を通したりする。フランスの軍医ジャコビス・某(匿姓)は、百年ほど前のマレー(種族不明)の男性が、尿道開口部に接して横に孔をうがち、小さい木棒を通していたことを報告している。一種の快楽増進具だ、と彼は記載しているが、そうだったとしても、この奇異な風習の起こりはやはり、魂の脱出の門戸を閉じた閂だったとみるべきである。

栓にしても閂にしても、それで出口が完全にふせげるわけではないが、これは栓だぞ、閂だぞ、ということですむ。魂はルールを尊重する。身体変工のうちでも、もっとも派手な例の一つだが、しかしこれよりももっと奇抜な方法を用いる連中がある。

マッテスの報告(1872)によると、セレベスのブキ族は、病人の鼻や臍や、脚に、魚釣りばりをくっつける。からだから脱出しようとする魂は、これに鉤って引きとめられる。ハッドンはボルネオのパーラム河域のツルク族の男が、鉤状の石を身につけ、これで逃げ出そうとする魂を身につなぐのだと称したことを記している(1901年)。海部ダイヤ族の呪医は、指さきに釣りばりをつけ、逃亡しようとする患者の魂をひっかけて、生命をとりもどす(リング・ロス報告、1892年)。この鉤は文明社会の耳飾りにもしばしばのこっている。

鹿児島県、種子島の広田の弥生遺跡人には、貝製の鉤状の耳飾りをつけた女性人骨が数体発見されたが、男性人骨の左の手くびに、貝の管たまや小珠をとおした緒を、幾重にも巻きつけた跡があり、これに接して、女性の耳飾りと同形の、四個の鉤状貝製品が付着していた。

からだの開口部だけでなく、手くびにも、腕まきと併用して、魂をひっかける道具が使用されたのだ。同じ弥生時代の、各地の遺跡から発見されている奇妙な形の銅製の腕輪、その輪の一部から、さきの鋭く尖った鉤が、強く突出しているものが、ここで浮かび上がってくる。唐津市桜馬場出土のものは最も有名である。

考古学のほうでは、刺のあるくも貝製の貝輪からでた形だ、とまでは見当つけたが、その形体の意味はまだ不明である。しかし、腕まきを鉤にぶらさげるのと、腕輪の下をすりぬけた魂を、ひっかけてつなぎとめるとめに、つけられたのだ。
広田遺跡の例で見るように、首飾りのもこの鉤が用いられている。先史時代にも、現代の原始民族にも、貝、骨、牙、石なその鉤状の飾りを首輪にぶらさげたり、はめこんだりする例は多い。勾玉はその一種である。勾玉は鉤状の石である。

もとは獣の牙から起ったとしても、動物の牙そのものが、餌を口から離さないための装置である。牙も勾玉も、その他の鉤状の飾りも、みなこの、魂拘禁具とみるべきであろう。
だが、鉤状の装身具は、自身の魂の逃亡を防ぐだけが、その仕事ではなかった。南アメリカの各地のインディオに見られるように(フレーザー「金枝篇」)、外部からこちらへ侵入する邪霊を引きとめる効用もあったのだ。
弥生から古墳時代にかけて、多くは盾の表面にうたれたと思われる金具に、巴形銅器というものがある。

鋭い鉤が中心部から放射状にでたもので、ていねいなものは、盛り上がった中心部の頂からも、上に浮いて一つの鉤がとび出している。巴形銅器も日本考古学界の一つの謎である。しかし、盾そのものは敵の武器から身をまもるもの、敵の邪霊の侵入を引きとめるものが、この表面にとりつけらrた銅鉤だった、とみれば、この物の意味はよくわかる。平城京址から出土した「隼人盾」の紋様も「延喜式」では鉤といっている。

われわれのからだについている魂の一つは、魂魄二種のタマシイのうち、魄である。魄のツクリの鬼は精霊、ヘンの白はたましいの色を表わしたものと私は見ている。詳しい考証は省略するが、しかし白だといっても真っ白ではない。青白色だ。碧の字も白に従っているが、実はあお色である。白は同時に白昼の白で、明るいことである。碧は明るいあお色の玉のことだ。魄と碧とは、ことによると同語だったかも知れない。
孔子の音楽の師匠の萇弘の死体が碧玉すなわち璧(あお色の玉)を尊んだのは、その色が魂と同色であるからで、その同色性によって、魂を引きよせ、その鉤でつなぎとめる。
腕輪や首輪に青色のビーズや石が好まれたのもこれで、水鬼をごまかすチマキは、新鮮なあお色でなければならなかった。滋賀県の曾束の風俗で、夏がくると子供のある人は、キュウリ(胡瓜)の青色新鮮な初なりを瀬田川に流す。子供が川に入ってガタロウ(河童)に引きこまれない呪いだという(「民俗文化」15号)のもこれであろう。
楚辞の九歌の、たま迎えのために水中に建てられるたま家は、もろもろの香草で青々と飾られ、そのさまは種子島などで見る日本の盆の精霊棚にそっくりである。チマキやキュウリで邪鬼をごまかすと同様に、同色の誘いによって、魂を迎える行事も歴史は古い。

魂の形については、チマキやキュウリは簡単だが、それでも休場の頭と細長い尻尾の形は具わっている。勾玉の形も単なる鉤ではなく、魂の形でもあるのだ。勾玉の着装の風俗は、琉球の祝女には今ものこっている。単なる装身具ではなく、その着装が、信仰上の事象だった証拠である。勾玉は日本で特に流行した。しかしけっして日本独特のものではない。さきの、ボルネオの例にもつながるであろうが、1939年ボールズ教授は、ハワイのオアフ島で、伸屈葬の人骨に着装された、典型的な勾玉を発掘している。いわゆる装身具の表わす根元の信仰は、日本、中国、南方ととわず、世界いたるところ共通である。日本だけの「特殊事情」は後進資本主義時代以後の産物である。

「発掘から推理する」
ISBN-10: 4006031300
ISBN-13: 978-4006031305
金関丈夫

 

2016年1月29日金曜日

照屋佳男著「コンラッドの小説」早稲田大学出版部刊pp.117-119より抜粋20160129

ライオネル・トリリングは「闇の奥」に関して極めて注目すべき発言を行った。

トリリングはフレーザーの「金枝篇」(The Golden Bough)程に現代文学に決定的に重要な影響を及ぼした本はないという事、つまるところフレーザーは現代文学の特徴をなす「日常的事実といふ絆からの解放」の手助けをしたといふ事、この解放の延長線上でニーチェの「悲劇の誕生」(Die Geburt der Trogodie)の受け取り方が決定されるに至つたといふ事を語つてゐる。
ニーチェは理性と秩序を旨とするアポロ的なものの理解のためにも、ディオニュソス的なもの、即ち原初の無秩序なエネルギーを理解する必要があると説いたのだが、現代の文学者は「ソクラテス(アポロ的なものの体現者)は英雄ではなくて悪党である」といふ理解の仕方に走り、「アリストテレスから突然解放されたといふ興奮」に駆られて、「人間の本質的な形而上学的活動を構成するのは道徳ではなくて芸術である」といふニーチェの発言に殊のほか共鳴し、ニーチェが明示した弁証法、即ちディオニュソスとアポロとの間にただならぬ弁証法などは滅却し、ディオニュソス的なもののみを真理として認知したとトリリングは述べる。
「金枝篇」と「悲劇の誕生」の現代における受け取り方を評して、トリリングは言つたのである、「原初の非道徳的エネルギーの発見とその神聖化程に現代文学の中で際立つてゐる所以を、マーロウが密林の原始林的な生を高貴なもの、或いは魅力あるもの、それどころか自由なもの、などと見做さず、寧ろ卑しいもの、むさくるしいものと看破すところに見出してゐる。(勿論トリリングは、原初の生が、むさくるしいがゆゑにマーロウを惹きつける面のある事を見逃してはならない)そしてトリリングがマーロウとクルツの相違を「普通人と精神の英雄との違ひ」と捉へる事は、「精神の英雄」に共鳴する現代の芸術家に関して、次のやうな注目すべき発言を行ふ機縁となる。
「芸術家、即ち人間の魂の歴史的原初、決して脱却される事など無く、我々がいま知つてゐるがままの人間性の中にしつかり据ゑられるに至つた原初といふ名のあの地獄に降りて行く者、そしてこの地獄の上にかぶせられた文明の味気ない嘘よりも地獄の実在性を好む者、さういふ現代が芸術家に関して抱いてゐる信仰の本質を成すのではないか」。
「日常的事実といふ絆からの解放」を欲しないマーロウと対立関係にあるのは、「大地を蹴つて大地から離脱した」(144)クルツに限らないといふのは注目していい事である。
勿論クルツがマーロウの最大の〈アンチテーゼ〉である事に変りはないが、「信仰無き巡礼達」も「白く塗りたる墓」の如き街の住人達も、日常的事実の意義を解しない点ではマーロウの敵対者であり、前者が噂話と中傷と陰謀とに明け暮れてゐるとすれば、後者は「金儲けと飲食と愚劣な夢を見る事」(152)に明け暮れ、「全き安全を信じ切つて」(152)「一つの危険に直面してゐながらこれを理解し得ず、不埒にも愚行を見せびらかすやうな真似をしてゐる」(152)。
この手合は、文化や社会の文脈から切り離された「真理」の危険に気づく事などないのである。
彼等が後生大事にかき抱く知識なるものは、マーロウをいらだたせるだけである。
「俺が知ってゐる事どもをやつらは到底知り得ないと確信した」(152)とマーロウは言ふのだが、ここで「闇の奥」でマーロウは人間を三種類に分類してゐるとするワットの指摘を援用したい。
即ちワットは言つている、マーロウは人間を

一、クルツのやうに野蛮に反応し、これに屈する人々、
二、野蛮に反応するけれど「念入りに作り上げられた信条」を抱き、これによって野蛮に抵抗し得る人々、
三、何にも気づかないので、全く反応しない馬鹿者ども、この三種類に分けてゐる、と。
マーロウ自身は二番目の種類に属すると看做し得るが、「白く塗りたる墓」に似た街の住人達について、「やつらの蒙を啓いてやらうといふ気持も別に起さなかつたが面と向つて嗤つてやりたい気持を抑へるのに苦労した、なにしろ愚かにも、ひどくもつたいぶつてゐたのだ」(152)とまで語つてゐる。
反省が一度として施された事のない日常性の中に棲息するこれらの人々は、己れの足の下に固い舗道があるといふ事、隣人や警官がゐるといふ事、醜聞や精神病院を恐れる気持があるといふ事、さういふ些細な事がどんなに大きな相違をもたらすかといふ事に思い至らないのである。


つまり、世論を囁く親切な隣人の警告さへの聞かれなくなつたやうな状況に投げ入れられた場合に、人が頼りにすべきものは何であるかに思ひ至る事がないのである。


「信仰なき巡礼達」も、この第三の種類に属するが、彼等の棲息する世界は、既述の通り、日常性のパロディーに他ならない。
彼等の特徴の一つは、「豪胆さを伴はずに無謀、大胆さを伴はずに強欲、勇気を伴はずに残虐」(87)であるところに存するのであり、そして「中央支所」の支配人の例が示すやうに、「組織する才能も、事を率先して始める才能も、秩序を保つ才能も無い」(73)ところにも、彼等の特徴は表れる。「彼等もまた「世論を囁く親切な隣人の警告さへ聞かれなくなつた状況下で、何を頼りにすべきか、頼りにすべきものが何であるかを知らない。そこで、「勝ち誇る健康」(74)が依拠すべき唯一のものとなる。
勿論さうなると、彼等の内面は、「健康の驕逸」を戒めた仏陀に倣つて言へば、空虚と化するより他はない。(第一の語り手がマーロウの坐している時の姿勢を仏陀に喩へてゐるところからすると、「闇の奥」を書いてゐた頃のコンラッドの頭の片隅を仏教思想が占めてゐたのかも知れない。
「信仰無き巡礼達」は、貪欲の炎や愚癡の炎に燃えてゐるとも評され得るのである。)彼等の空虚な内面に関してマーロウはかう発言せざるを得ないのである。
「コンラッドの小説」
ISBN-10: 4657909312
ISBN-13: 978-4657909312

照屋佳男


2016年1月28日木曜日

加藤周一著「言葉と戦車を見すえて」筑摩書房刊pp.220-225より抜粋20160128

君たちはいま、ユダヤ人排撃運動でさわいでいる。君たちというのは、ドイツ人だけのことではない。ぼくのような極東の住民からみれば、西ドイツばかりではなく、英仏の人たちもあわせておよそ西洋人ということになるが、君たち西洋人についておどろくのは、いかにも記憶力がよすぎるということだ。
戦後15年もして、今再びカギ十字があらわれると、すぐにさわぎ出すのは、アウシュウィッツで何百万のユダヤ人を、老若男女、ただユダヤ人なるが故に、毒ガス室へ送り込んで、組織的に、計画的に、一糸乱れず虐殺したヒトラー総統とその国家社会主義、ゲシュタポやSSの歴史を、忘れないからであろう。

そればかりではない。
君自身も、今の西ドイツ政府の高官が昔ナチに属していたことを思い出している。イギリスの新聞のなかには、アーヘン、ボン、ドルトムント、デュッセルドルフ、エッセン、ゲルゼンキルヘン、ケルンの刑事部長がのこらず、もとSSの高い地位を占めていた、ということさえ忘れていないものがある。何という記憶力だろうか。われわれは、そういったことをみんな忘れてしまう。

現に日本の諺には、水に流すということがある。
君たちからみれば、記憶喪失症とうけとられるかもしれないが、これこそは、昔のことを一切忘れて、幸福に暮らそうという日本の国民的伝統だといえるかもしれない。
江戸っ子は宵越しの金を使わない。
その日暮らしに、どうして過去を思い出す必要があろうか。日本の過去にも悲劇がなかったわけではない。

アウシュウィツほど組織的・計画的ではなかったようだが、とにかく無秩序で衝動的な南京大虐殺があった。

そのほか、戦後の東京裁判もさらけ出したように、「無責任な軍国主義者」の侵略と人権無視のあらゆる例があり、ゲシュタポの日本版・特高警察もあった。そういうことは、すべて昨日あったのだが、われわれの流儀では、昨日のことは水に流して綺麗さっぱりと忘れるのである。

今の日本政府の高官に、もと「無責任な軍国主義」政府の閣僚がいないわけではない。
その高官とは誰よりも総理大臣であり、絶対多数党の総裁である。
しかし、われわれ日本国民の少なくとも大多数は、その過去を一切水に流して、この総裁をいただく政党を支持し、あらゆる国政をあずけ、殊に国の安全保障に関しては、その「大東亜戦争」指導の手腕に鑑み、満腔の信頼をよせている。
昨日は昨日、今日は今日。
そのとき巷に声あり、うたって曰く、昨日は日独軍事同盟、今日は日米安保体制と。しかし、ぼくのような一般庶民が過去を思い出すのは、そういう小さな巷の声よりは、むしろ日本人ならぬ西洋人の、途方もない記憶力に接しておどろき呆れるときだけなのだ。
岸さんがアメリカへ新安保条約の調印に出かける。するとアメリカの有名な週刊誌は、こう書く。

1920年に岸信介は東京大学法学部を卒業し、農商務省に入った。26年には最初の米国訪問。41年には商工大臣として、戦争を積極的に支持した。44年には戦局不利とみて東条追い出しを策し、戦後は戦犯として巣鴨に3年を過ごした。

その間、床掃除をし、西洋の本をよみ、詩をつくった、と。そして、その詩の一つを英訳で引用する。英訳からもう一度訳しなおせば、「わが名を犠牲にしても、後世に伝えたいのは、日本が正義の聖戦をやったということだ」というのである。―そんなことを、われわれ日本人自身はめったに思い出さない。

しかし、われわれが一切水に流しているのは、敗戦までの軍国主義や聖戦や南京虐殺ばかりではない。敗戦後の平和憲法や武装放棄や人権擁護の理想主義もまた綺麗さっぱり忘れようとしている。

君も知っているように、われわれの憲法の第九条には、戦争の放棄が規定され、その次に「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と書いてある。この憲法は敗戦後、占領中にできた。それができたときに、総理大臣吉田茂は、議会で「自衛のための戦争を正義の戦争だと考えることは許さるべきでない」と説明した。
ところが今の総理大臣岸信介は、「自衛のための戦力は、憲法に矛盾しない」といい出している。

総理大臣の憲法解釈、それも肝心なところで、一体軍隊をもってはならぬという憲法なのか、もってよろしいという憲法なのか、ということの解釈さえ、10年そこそこのうちには豹変するわけだ。こういう便利なことが、自由自在に行われるのも、われわれ日本人が、10年まえのことは水に流して、一切覚えていないからである。

憲法制定議会で田中耕太郎さんは文部大臣であった。海野晋吉さんという日本人としてはめずらしく過去に拘泥する人が、「速記録」から引用している田中さんの第九条に関する説明は、こうであった。

「不正義の戦争を仕掛けてきた場合において、これに対して抵抗しないで不正義を許すのではないか、というような疑問を抱く者があるかも知れない・・併しながら・・不正義は世の中に永く続くものではない。

剣をもって立つ者は剣にて滅ぶ、という千古の真理について、我々は確信を抱くものであります。・・仮に日本が不正義の力に依って侵略されるような場合であっても、併しそれを抵抗することによって、我々が被るところの莫大な損失を考えて見ますと、まだまだ日本の将来の為にこの方を選ぶべきではないか・・戦争放棄ということも決して不正義に対して負ける、不正義を認容するという意味をもっていないと思うのであります。」

今いわゆる砂川裁判で最高裁判所が憲法解釈を論じるときに、田中さんは最高裁判所長官である。その判決はいう。
「わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」

「自衛のための戦力の保持」を憲法が禁じているかどうかは判断を保留するが、「自国の安全と平和を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとることは当然」憲法の趣旨に適っていると。「剣をもって立つ者は剣にて滅ぶという千古の真理」の方は、もうこの判決のなかには出てこない。「千古の真理」とは、少し話が大げさすぎたのであろう。
千古どころか、10年もちこたえる真理もなさそうな気配だ。
いや、ぼくがいおうとするのは、10年もちこたえる真理があるかないかではない。いわんや、それが田中さんにとってあるかないかではない。おそらく文部大臣としての発言と最高裁長官としての法律解釈が、いくらかちがうのは、あたりまえなのかもしれない、ぼくがいいたいのは、そういうことではなく、君たち西洋人の過去にこだわり、もとナチの領袖を信用せず、10年まえの解釈を覚えていて、事ある毎に思い出すという式の窮屈なやり方に対し、わが日本の伝統的水流し方式が、どれだけ楽天的で、どれだけ和気あいあいとした人生と国家の妙法であるか、ということである。

たとえば敗戦直後にも、だれかが一億総ざんげという言葉を発明した。一億総ざんげというのは、皆がわるかったということで、裏返していえば、誰が特にわるかったわけではないということである。つまりあれほどのいくさのあとで、責任をとる必要のある人間は一人もいなかったというのだから、素晴らしい。一同これには大賛成をした。従っていわゆる「追放」さえ解除されれば、戦争責任問題は忽ち消えてなくなり、そもその戦争があったことさえ、ほとんど覚えていない。覚えているのは、敗けた戦争ではなく、勝った戦争、たとえば明治大帝と日露戦争だけだから、幸福になるのがあたりまえである。われわれは不愉快なことは一切忘れ、愉快なことだけを思い出すという心術に長じているので、これこそは人生の幸福を獲得する最高の方法だという悟りに達しているのである。君たちは忘れたくても、忘れられない。も少し鈴木大拙さんの英語の本でも読んで、心術を勉強しなければ、どうにもならないという気がする。
それでは日本流の生き方とは要するに無原則ということだろうと君は考えるかもしれない。しかし、君のように原則に固執することこそ、理想主義的であって、現実的でないのだ。そういう理想や原則を持つことを、日本語では、まだ大人になっていないという。われわれとしては、西洋人を育成して、西洋人が一日も早く大人になることを、悲願としている。
「言葉と戦車を見すえて」
ISBN-10: 4480092382
ISBN-13: 978-4480092380