A「先日たまたまテレビを観ていて思ったのですが、何故我が国の政治家、アイドル、著名人達はことさらに「前だけを見て進んでゆきたいと思います。」といったニュアンスの発言をされるのでしょうか?
それは「未来を見据えて着実に前進してゆきたい。」というポジティブな発想によるものなのでしょうが、一方、そういった発言を何度も聞いていると、どうも「この人は本心でそう思っているのだろうか?」と考えてしまうのです。
というのは、前つまり時間軸でいう未来とは、未だ実在していないものですから、それを認識することは困難であると思うのです。
「一寸先は闇」などという言葉もあるくらいですから・・。
そういった一面があるにも係らず、さきほどのような発言ばかり目立つというのは何か過去を忘れたいような心情があるのではないか、あるいは、その未来に見込まれる現世利益に対してのみ注視しているのではないかと考えさせられるのです。
もちろん、現世利益は極めて大事であると思いますが、一方で、そこには、忘却を指向しているような心情があるのではないかとも思います。
無論、あくまでもそれらは外部に対するスタンスではあると思うのですが、しかしそこでも、発言者の本音とは、傍目八目的に見出されてしまうのではないかと思いますが・・。」
B「ううむ、またよくわからない主張をされていますが、まあ、それでも我々日本人が過去の歴史、出来事あるいは文化に対して持つ一種敬虔な態度とは、大抵の場合、一種のゼスチャーではないかと思うことが時折ありますね・・(笑)。
また、そういったことは昨今の情報技術の進化発展により、徐々にそして一層諸外国にも認識されるようになってきたのではないでしょうか?
かつて「日本人はわかりにくい。」などといわれていましたが、それが良くも悪くも崩れつつあるのではないでしょうかね・・?」
A「たしか小噺で「日本人は何でも小型化するか隠したがる。」というのを読んだり、聞いたりしたことがありましたが、そうした傾向が情報技術の進化発展により見え易くなってきたということなのでしょうか・・?
そして、その結果、我々日本人の持っていた性質、傾向が、かつてより知れ渡るようになったのではないかと思います。
また、その知れ渡った性質、傾向とは、欧米を主とする、まあキリスト教文化圏から見ますと、どうも反りが合わないものが多いのではないかとも思います・・。
しかし一方において、その性質、傾向とは、我が国の歴史文化、つまり精神的風土に根差しているものであるのです。
それは伊豆半島のイルカ漁、紀伊半島の捕鯨文化のように・・。
また、そういった文化をさらに深くまで考察してゆくと、イルカ、クジラといった動物を対象とするものだけでなく、人間を対象とした対人文化においてもほとんど無意識であるかもしれませんが、大きな影響を及ぼしているのではないかと思います・・。」
B「ええ、そうした動物などに対する狩猟文化とは、古代より維持発展してきた、まさしく文化の中心に位置するものであり、また、その国、地域の自然の流れに沿い生成してきたものなのだろうね・・。
加えて、異文化の人間がそれを見た時に即物的であるがゆえに最もショックを受ける部類の一つでもあるかもしれません。
しかし、そう考えると、近代以降は別として一般論では日本人は奈良、平安時代あたりからあまり獣肉を食べることが少なくなり、現在の我々は、直接的にその後の非肉食文化の系譜に立つのではないかな・・?
ともあれ、その非肉食文化が大きく変化したのが明治維新あたりからなのですが、この食文化の変化も当時はなかなか大きいものであったのでしょうね。
まあ、そうしますと古来より継続して肉食文化を保持してきた国々の方が、我が国のイルカ漁、捕鯨文化を糾弾し禁止させようとするのも何だか面白いですね・・(苦笑)。
また我々も我々で「現在我々は既に貴方がたの肉食文化を学び、完全に吸収しましたので、もうイルカ漁や捕鯨は必要ありません。」などとは決していいませんからね(笑)。
しかし、クジラのヒゲは文楽、人形浄瑠璃の操り糸として必要であるということですが・・。
ともあれ、我々日本人とは、直接身体的な要素に関して、かなり繊細、鋭敏な感覚を持ち、また、その快の追求において貪欲なのではないかと思います・・。
その意味で欧米の文化とは、そうした感覚の繊細、鋭敏さよりも合理性の追求の方をより上位に置いているようにも見えますね・・。
また、それと関連があるかわかりませんが、資本主義が典型的な発展を遂げたといわれる西欧の島国、新教の禁欲的な精神により商業活動が活発に為された国、地域などでは、料理、食文化はあまり高度に発展しなかったといわれますが、彼等はそれでも別に構わない文化を保持していたのではないかと思います。
こうしたことは、我々から見ますと、多少奇異に見えるかもしれませんが、実はこういったことは国内外を問わず、様々な文化の間でも同じようなことがいえるのではないでしょうか?
それ故、私は異文化に対して理性、理屈レベルで批判する気はありませんが、しかし、そこで問題になるのが、さきにAさんが仰っていた対人文化も各々の文化体系に含まれるということであり、実は、その文化体系こそ、様々なレベルでの対外的な摩擦を引き起こしているのですが、だからといって、その摩擦を引き起こしている部分、要素だけを他に取り換えることが出来ないのが文化一般というものではないかと思うのです。
そうしますと、太平洋戦争とは、明治維新以来の外来文化に対する無意識レベルでの拒否反応であったとも見ることが出来るかもしれません・・。
とはいえ、一方においてオレンジ計画などの存在もあるとは思いますが・・。
そして戦後日本社会は、自国の組織内において、その手法を真似するようになったのかもしれません。
また、人は他者から為されたことを無意識レベルで(ここが大事であるかもしれない。) また別の他者に対して行ってしまうのではないでしょうか?
しかし、この無意識を意識して明晰化するということは一体どういうことなのでしょうか?
あるいは前を見て進んでゆくということはどういうことなのでしょうか?」
A「はあ、最後のは何だかコンラッドの「闇の奥」を彷彿とさせますね・・。」
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