2015年11月15日日曜日

20151115 文系と理系

A「相変わらずブログを続けているようですね。」
B「ええ、こういったことでもしていないと、どうも落ち着きませんので・・。
しかし、これでも時々何かの拍子に落ち込みそうになり、そして胃のあたりに痛みが走ることがあります。
こういうのは、やはりストレスに因るのだろうとは思いますが、それでも、とりあえず現在の自分が出来ることをあまり先のことを考えずにやっていく以外ないのだろうなと思います・・。
そして、それがこのブログであったり、現在の求職活動であると思っています。
しかし一方、こういったことを継続できる期間というのも、ある程度限定されているのだとも思います・・。
それが今夏にはじまり、思いのほか長く続いてしまっている感じはします。
この一連の活動が今後どのようなかたちで一応の終局を迎えるのかは今のところ想像もつきませんが、このようなノンフィクションのようなフィクションの対話形式を用いてその状況を記録しておくのはあながち悪いことではないと思います(笑)。」
A「うーん、私はその点そういった期間はあまり経験していないから、それはそれで貴重であり、また、そういうのは誰かがきっと見ているから、まあ気を強くもって「先ず隗より始めよ」を実践する以外、今のところないと思います。
それに君はまだ若いからね。
人文社会科学系の研究者で最もアブラが乗るのは40歳から50歳の期間だっていうから、まだまだ大丈夫だよ。」

B「はあ、そのような傾向があるのですか・・?
そういわれますと、私もどこかで似た様なことを聞いた憶えがありますが、そこでは研究者の創造的な能力のピークが30代後半から40代前半であると聞いたような気がしました・・。
そうしますと今Aさんからお聞きしました年代と若干異なるのは、もしかしたら、学問分野による違いなのでしょうか?」

A「うーん、明言はできないけれども、昔ながらの人文社会科学系の学問とは、その学問的基盤がある程度出来上がるまでにかかる時間が理系学問のそれに比べ、長くかかるのではないかな?だからアブラが乗る時期が少し遅いのかもしれないね・。」
B「はあ・・そうでしょうか?
それでしたら何故、医歯薬獣医学部などの修行年限、そして工学部なども現在では概ね六年制であるといってもいい状況のなか文系学部のそれは四年制なのでしょうか?」

A「ああ、それはなかなかいいところを突いてきましたね(笑)。
君も知っていると思うけれど理系諸学問とは、大学という研究施設での特殊な機器、設備を用いて学問、研究をしなければならないことに加え、文系諸学問と比べ在学中に憶えることが要求される対象、事柄が多いことが、その原因ではないかと思います。
そして、それが理系諸学問が「実学」とされる理由であり、また、それは一面において事実であると思います。しかし、だからといって文系諸学問が虚学であるとか、内容がないとは決して思いませんけれどもね・・。その意味で文系諸学問とは、社会に出て、はじめてその意味、それが何を指していたのかが分かる様なものが多いのではないかな?それだから必要があると思った時に院にでも行けばいいのではないかと私は思うのだけれどね・・。」

B「はあ、なるほど・・その御意見は大分前にAさんからお聞きして、その様にしましたけれども、それは現在のあまり好ましくない求職活動における状況を除けば、仰るとおりであると思います。また、これは決して皮肉などではなく、私としては思ってもみなかった面白い方向に進んだと思っています(笑)。」

A「まあ、君の場合はたしかに月並みではないね(笑)。しかし私の場合だってその時々の必要性、興味に従い大体やってきたようなものだからね・・それで60歳でようやく学位をもらえたのだよ・・。そういえばあの時は銀座の**ホテルの中にある中華料理店で集まって祝賀会を開いたけれども、君はわざわざ南紀から来てくれたね。」

B「ああ、そうでした。Aさんよく憶えていますね!それにしても還暦で学位を頂くという様な世界とは、文系ではかつてはよく聞きましたけれども、これは理系分野におけるそれとは大きく異なりますよね。」

A「うん、そうだね。
まあ文系でも取得し易い分野があるとは聞くけれども、少なくとも私の年代などでは学位などなかなか取得できないものだったよ・・。これは君の好きな夏目漱石の時代の価値観に近いのかもしれないね(笑)。それでも今後はそういった傾向もどんどん変っていくと思うよ。」

B「ええ、多分その様になっていくと思います。
それでもそうすると今度は私みたいな変なのが多く出てくるのではないかと思います・・。私としては、それは良いことであるとは思うのですが、しかし修了後の就職先を考えてみますと、今のところ暗澹たる心境にならざるをえません。
そういえばAさんは「はかせが百人いる村」って御存知ですか?」

A「ええ、それは前に聞いたことがあります・・。大学院重点化政策の結果、その受け入れ先に問題があるのだろうね・・。こういうのは太平洋戦争の日本側の戦記を読んでいるようです・・(溜息)。しかし残念ながら私ではどうすることもできませんが。」

B「まあ、しかし私などはそのおかげでここまでこられたのかもしれませんので、あまり文句をいえたものでもないのかもしれませんが・・(苦笑)。しかし、私を同年代の平均的な男性と比べると、欠落している、忘れてきたことが多くあることに時折愕然とします。
それに加え、一連の求職活動においてヘタに学位を持っていることが不利に作用したと思われるようなことが幾たびかあり、それでかなり落ち込んだこともあります・・。
そして、そういった価値観、心境が優勢になり定着しますと多分マズイことになるのだろうなと思います・・。ただ、こういった、どう見ても好ましくない状況にて、おかしくなることを防いでくれている要因とは、これまで様々な異なった分野に身をおいて特に悪いこともせずにどうにかやってきたという自覚と、かつて自分ができなかったことができるようになり、そして採用されるかどうかはわかりませんが、とりあえず応募できる職もかつての自分に比べ多くあるということですかね・・。それ故、現在は前にいいましたとおり、自分のできることを続ける以外ないのではないかと思います。」

A「うん、そうだね。それはよく分かるよ。もう少し気を落さずにがんばってみてはどうかね?」

B「ええ、どうもありがとうございます。そうしてみます。」

参考URL:博士の就職難~解決の道がみえてきた




2015年11月12日木曜日

20151112 食文化について

A「先日神保町に行きましたら、立ち食いのステーキ屋さんを見つけました。
これまでにそういった店は見たことがなかったので、ビックリしました。
しかしこの時は生憎昼食後でしたので、今度機会を見つけて一度行ってみようと思います。」

B「ふーん、たしかに立ち食いのステーキ屋さんは私も聞いたことがなかったなあ・・。
どちらかというとステーキなどは豪華なハレの食事であるイメージが強いからね、立ち食いといういかにも「ケ」つまり日常の食事にはそぐわないからねえ。
まあ、しかしそう考えると、寿司なども江戸前寿司の起源は屋台の立ち食いだし、うなぎもそうだと聞くからね、だから海外からの食文化であるステーキが舶来、非日常の食事から日常の食事への路線を辿った結果であるとも見られるかもしれないね・・。」

A「ああ、なるほど、たしかにいわれてみるとそうですね。
あと、私はこれまで国内有数の畜産県に住み、そこでは肉が身近な食材であり、また面白い肉の食べ方を知りましたが、しかし、そこでもステーキであれ、とんかつであれ立ち食いの店はありませんでした・・。
まあ、そう考えますと「立ち食い」という食べ方のスタイル自体、決して格好いいものではないとは思いますが、時間と場所の効率化の所産として極めて合理的いや、都会的なものなのかもしれません・・。」

B「うん、私もこれまで国内外で色々なところに住んできたけれど、立ち食いの店があったのは概ね都市圏であったから、そうした必要性のない場所、地域では発生する要因がないのかもしれないね。
あと、君が今いった面白い肉の食べ方とはどんなものだったのかね?」

A「ええ、もしかしたらBさんは既に御存知であるかもしれませんが、南九州の方では鳥を刺身で食べます。私はそれまで鳥を刺身で食べたことはありませんでしたが、慣れたら結構好きになりました(笑)。
それに北隣の熊本では馬を刺身で食べますし、南の沖縄などでは山羊を刺身で食べます。
ですから九州南部から沖縄の地域では、日本全国における魚と同様、鳥獣肉を刺身で食べる文化が一般的、普通であるのではないでしょうか?」

B「鳥刺しは聞いたことがあるけれど、残念ながらこれまでに食べたことがないなあ・・しかし馬は別として鳥や山羊を刺身で食べるのは正直ちょっと抵抗があるなあ・・。
それで君はまた機会があったらまたそれらを食べたいと思いますか?」

A「それはどうでしょうか・・?
あれは慣れるまでまた何回かおなかをこわした様な記憶がありましたので、しばらくそこに住むことになりましたら、それこそハラを据えて(笑)食べる様になるのではないでしょうか?
ただ、一度既に免疫はつきましたので、以前ほど慣れるのに回数、時間はかからないとも思います。
あと福岡、博多は水炊きやもつ鍋が有名であり、実際にそれらは大変美味しいのですが、同時にあまり知られていないかもしれませんが、牡蠣が大変美味しかったです。
それで在住時に覚悟を決めて牡蠣を生でポン酢、もみじおろしで食べてみましたが、大丈夫でしかも、とても美味しかったです。
Bさんも是非福岡に行かれる機会がありましたら、牡蠣を生で食べてみてください。」

B「ふーん、そういった生食はもしかしたら郷土食文化への帰依のパスポートみたいなものなのかもしれないね・・。
それでも私は生牡蠣はちょっとこわいから遠慮したいなあ・・(笑)。
しかし福岡、博多といえば、水炊き、もつ鍋はもちろんだけれど、やはりラーメンでしょう?
私も用事で博多に行った時は、大体飲みに行くのだけれど、その時もシメはラーメンであり、何軒か東京でも有名なお店に入ったけれど、どれも美味しかったなあ(笑)。」

A「ああ、たしかに博多のラーメンは、ほとんどハズレはありませんでしたね・・。
あと、地元の人が一押しのお店にも割合多く行きましたが、どれも東京の博多ラーメンのお店よりも美味しいと感じましたね・・。
あれは調理法などの次元ではなく、水が違うのかななどと思いました。」

B「うん、博多のお店は何故か分からないけれどもどれも美味しかったね。
あと、本当かどうかわからないけれども、料理屋などは博多で成功すれば、どこでも大丈夫だといわれているらしいから、やはりレベルは高いと思うよ。
それに博多は古来より国際的な都市であるから、何というか少なくともアジア規模における普遍的なものに対するセンサーが発達しているのではないかと思うよ?
まあ、そこまでいうと思うのは、昔ながらの美味しい中華料理店が多くある都市は文化水準が高いという意見だけれど、これは誰がいっていたのかなあ・・?
まあ、とにかく福岡、博多はとても面白いところだと思うよ。」

A「ええ、その中華料理店に関してのはずいぶん穿った御意見であると思います。
また、それは多分世界規模でもいえることかもしれませんね。」

2015年11月11日水曜日

20151111 モビリティー 地域性 創造性などについて・・ 

A「どうも、その後求職活動に何か進展はありましたか?」

B「いえ、その後特に大きな進展はありませんが、また何か動きがありましたら御連絡します。」

A「早いところBさんが納得出来る職に就けると良いですね・・。」

B「ええ、早いところこの原因不明のストレスによる体調不良が治ることを願っています。
あと、最近起きた不思議な体の変化は、鼻と上唇の間のヒゲが濃くなったことです。
指でこの場所を撫でてみますと、以前と比べ明らかに表面粗さが増大していることが認められます。
ここ最近、食生活などに大きな変化はありませんので「これは一体何が原因なのか?」と思いましたね。」

A「ああ、ヒゲが急に濃くなったのはこれまでいくつか見聞きしましたけれど、あれもたしかストレスが原因ではないかといわれている様です。」

B「はあ、なるほど、そうですか・・。
鼻の下のヒゲもストレスが原因なのですか。
まあ、それでしたら髪の毛が多く抜けてしまうよりかはまだいいかもしれませんね・・。」
あと、ストレスといえば先日所用で都心に出向いた帰り、
三人の若い中国人女性グループに英語で道を聞かれました。
話す態度、様子から見ると大分洗練されておりましたが、
多分どうにか問題なく対応出来たのではないかと思います。
質問に答えている間はやはり緊張しておりましたが、それでも以前女性恐怖症であった私からすれば、ずいぶん進化したものだと我ながら少し嬉しく思いました(笑)。
しかし同時に、自分の故郷から離れた場所の女性になるにしたがい、この恐怖は薄らいでいく可能性もあるのかもしれません・・。
そして、このことをもう少し考えてみますと、私自身の把握可能な出自とは、もっとも西にいっても富山、静岡県であり、東は福島県です。
そうした中、私が様々な経験をした西日本に対しアイデンティティーを持つことは、私の家族からすれば奇異に映るようですが、私個人の意見としては、本来男性とは少なくとも若い時にはそうやって色々と動きまわる方が良いのではないかなと思います・・。
そして、この考えが社会において奇異なものとなるにつれて社会とは固定、膠着化して発展性の余地をなくしていってしまうのではないかと思います・・。」

A「はあ、それはモビリティーの概念に近いものがありますね。
あと、それは男性のみに対し適応される考えなのでしょうか?」

B「いえ、女性に関してはよくわからないので、とりあえず言及しませんでした。
しかし一方、日本の各地方、地域における文化の基盤を継続して守ってきたのは多く女性に拠ると考えますので、やはりいくら男女平等とはいいましても、性差による適した職能分担とは自然発生的に存在すると思います。
それ故、男女共に異性を真似しあえばいいといった簡単なものではないと思います・・」。

A「はあ、なるほどです。
たしかに男性に比べ女性の方が色々な意味で真面目ですから、それに伴って適した職能とはあってもいいのかもしれませんね。」

B「ええ、これも私個人の意見ですが、医療系専門職の特に臨床部門については男性よりも女性の方が適しているのではないかと思います。
それに対して男性とは概して外を動き回ったり、体をより多く使う職に就いた方が良いのではないかと思います。
しかし、こういった考えはかつての職業分類におけるホワイトカラー、ブルーカラーなどと結び付き易く、特に文化の後進、停滞地域においては、こういった傾向は著しく、そのことが将来の我が国において必要な産業構造の変化を阻害しているのではないかとも思えます・・。
同時に今後それが改善される要素も見当たりませんが・。」

A「Bさんはこれまでに様々な学部を見てきましたから、それらの学部における何と云いますか、背景文化、価値観を見聞きしてきたと思います。
そして、今の御意見とは、そういったところから出たものなのですか?」

B「ええ、確かにそういった部分もありますが、それ以前に私の認識する本質的に存在すると思われる性差に因る傾向に基づき、それに経験を付加させたものであるとした方が適切かもしれません・・。」

A「はあ、なるほどです・・。
あと、それで話は変りますが、いや、もしかしたらつながるのかもしれませんが、前のブログにて書かれていたフェリーニの「ローマ」ですが、あれと同じ様な映画を現在の日本、東京を舞台として制作することは難しいのではないかと思います。
何故ならば、あの映画の中で描かれる種類の権威に対する皮肉、批判とは現在の日本では絶対にできそうにないと思うからです。
また、平将門から太田道灌、徳川将軍家、天皇家など東京に縁のある、根付いている歴史的要素を包括し、一つの映画作品の中に置き、描く物語を作ることは、私も含め今の日本人では難しいのではないかと思います・・。
ああいった歴史物語であり、そして芸術作品でもあるものとは、要素への分解、再配列などで簡単に制作できる類いのものではないと思います・・。
ですから、ああいったものは、現在の日本の枯渇、あるいは忘却された創造性の中では作ることは難しいのではないかと思います・・。
そして、ここから少し乱暴な意見になりますが、その原因とは、端的にいうと、マンガ、スマホそしてPCではないかと思います・・。
マンガとは日本の誇るべき文化であるというのが我が国社会におけるパラダイムです。
私はそれに対し特に否定はしません。
しかし同時にマンガにより生じた想念、考え、アイデアと活字により生じたそれ等とは、次元、相が違うのではないかと思うのです。
そしてマンガにより生じたそれ等が社会において主要なものとなり多数、主流派になりますと、社会は劣化、脆弱化し、文化は単純化、浅薄になると思います・・。
そして諸外国は、そういったことは多分十分知っているのではないかと思います。
しかし同時に彼らは日本がそうなってくれた方が諸事都合が良いことも知っていますので絶対に注意はしません。
そして、こういったことを指摘すると逆に非難されるというのは現在の我々の社会なのではないでしょうか?
これが単なる杞憂であることを願います。
そして楚の屈原の悲劇性とは、こういったところにあったのかもしれません。」

B「はあ、なるほどです。
「悪貨は良貨を駆逐する」ですかね?
ともあれ、私もテレビゲームはあまり良いものであるとは思えませんね・・。
書籍もテレビゲームも極言すれば時間つぶしの道具ではあるのですが、私は頭の中が旧式なもので、テレビゲームがもたらす思考の特性が書籍のもたらすそれに比べ、決して良いものであると未だ現在認められないのです(笑)。
しかし、たしかに、こういったことによって国の未来とはまた変っていくのかもしれませんね・・。」

2015年11月9日月曜日

20151109 東京を舞台とした映画 地霊との融和・・

A「どうも、お久し振り、お元気ですか?」

B「ああ、いえ求職活動をしていますが、特に元気ではないです。最近は少し胃が痛むようになってきました・・。」

A「そうですか・・職探しの時期は辛いものがあると思いますが、まあ、どうにか無事に乗り切ってください。
そういえば、こないだ久しぶりに映画の「戦争の犬たち」を観ました。
あの頃の映画は現在の戦争、アクション映画よりも何だかドスがきいていますね・・。
まあ、フォーサイス原作の映画はどれもかなり男くさいですけれど・・(笑)。」

B「「戦争の犬たち」ですか・・たしかにあれはかなり面白かったですね(笑)。
ああいった映画は最近なかなかないですね・・。
それでも私はどちらかというと「ジャッカルの日」の方が当時のヨーロッパの空気、雰囲気が伝わってくるので好きですね。」

A「ええ、あのあたりの映画はマンガ「パイナップルアーミー」や「マスターキートン」やアニメ「カリオストロの城」などに影響を与えているのではないかと思っています。
あと「ジャッカルの日」は同じくスナイパーによる暗殺を主題としたアメリカ映画の「山猫は眠らない」と比べ、確かに全体的にヨーロッパ文化の色彩が濃厚であり、背景の街並みなどを見ていてもフェリーニの「ローマ」の様でもあり面白いと思います。
ちなみに現在の東京でフェリーニの「ローマ」を観たらけっこう興味深く観ることができるのではないかと思います。
さらに東京を舞台にして、こうした映画を制作してみるのも案外面白いのかもしれません・・。」

B「それでしたら「帝都物語」という映画が以前ありましたが、あれはどうも意味がよくわからないままでした(笑)。
しかしそれでも、そのアイデアは面白いかもしれませんね・・。
かつての東京の残影と共にオリンピックを前にした狂騒の様子を記録映画とすることは、後年その価値が認められるのではないかと思います。」

A「帝都物語」はかなり懐かしいですね(笑)。
あれは関東大震災のシーンが結構リアルであったことが印象的でしたが、私も映画の内容、意味はよくわかりませんでしたがね・・。
それでさっきいった映画の題名はそうですね「Tokyo 2015 The past and future」なんてどうですかね(笑)。」

B「ああ、それは面白いかもしれませんね。
それでも私が少し気になるのは新しく建設する国立競技場の場所なのですが、あそこは太平洋戦争中に学徒出陣の壮行会が行われたところですよね・・。
そういった過去を清め、鎮めるために、あの場所はキチンと祀った方が良いのではないかと思いますが、どうなのでしょうか・・?」

A「ええ、あまり迷信的なのもどうかと思いますが、一方でそういわれますと今度は映画「シャイニング」を思い出しますね・・。
あの映画のオチの一つは、舞台となったホテルの建っている場所はかつてネイティブ・アメリカン達の墓地であったのですが、ああいうのは本当に何か関係あるのでしょうかね・・?
しかし、そういわれると、さきほどの帝都物語の伏線でも大手町にある平将門の首塚が出てきましたが、あそこは移転、移設できないいわれがあるとのことですから、まあ、何かしらあるのかもしれませんね・・。」

B「平将門の首塚は有名ですが、あと「耳なし芳一」の壇ノ浦も有名ですね・・。
そういえば、話しは変りますが先日、木下順二の「子午線の祀り」という戯曲を読みましたが、これは「平家物語」を下地においたものですが、かなり面白かったです。
「シェイクスピアが平家物語をベースに戯曲を書いたらこんな感じになるのかな・・。」と思いましたが、これは一度読んでみる価値があると思います。
また、この戯曲も現代に再び劇として上演してみたら面白いのではないでしょうか?」

A「Bさんは戯曲も読むのですか・・。
私はシェイクスピアの作品はいくつか読んだことがありますが、日本の作品はこれまでにあまり縁がありませんでした。
それでその「子午線の祀り」はどう面白いのですか?」

B「ええ、これは加藤周一がどこかで書いていたのですが、歌舞伎などの劇での科白とは、その内容が個別的であり、そこに普遍的な意味、内容を持つものが少ないことからあまり面白くないとのことでしたが、この「子午線の祀り」は科白がシェイクスピアの作品の様で普遍性を持ち、活き活きとしていて面白いのです。
今度機会がありましたら、ブログに載せてみようと思いますので一度読んでみてください。」

A「はあ、そうですか。では今度拝読させて頂きます。
それにしても何ですか、その地霊というのは本当にいるのでしょうかね・・?
そして、もし、いるとしたらこの国立競技場にいる地霊達は一体何を今の東京、日本に思っているのでしょうかね?
こういうことは一時期三島由紀夫が書いたりしていましたが、実は現在の日本こそ、彼が心配した日本社会の未来の様相を体現しているのかもしれませんね・・。」

B「ええ、今仰ったことは抽象的ではありますが、同時によくわかりますし、時折私も考えることです・・。
上手くいえませんが、何だか日本いや世界中どこの地域、国の人間社会において男系と女系の抗争は常時為されており、その何れかが優勢劣勢であるかを示すのが、社会に生じる様々な出来事、事象、傾向ではないかと思います・・。
何だかAさんの発言よりもよほど抽象的ですが、そんな感じがします(笑)。」

A「男系と女系の抗争ですか・・確かにそういわれてみるとそうかも知れませんね・・。
それで、現在の日本社会とは、どちらが優勢であるとBさんは思っているのですか?」

B「ええ、全体的にですが、これまで圧倒的に優勢であった女系的な要素がかげりを見せているのが現在の日本の状況ではないかと思います・・。
しかし、いずれにしても、男女共に異性をバカにしてしまっては、後が恐いということを、もう少し早く学ぶべきではなかったのかなと思います・・。
まあ、それでも、どちらかというと女性恐怖症であった私がいえることではないかもしれせせんが・・(苦笑)。」

A「Bさんは女性恐怖症だったのですか!?
あまりそうは見えませんが・・。」

B「ええ、それは多分、若い時分での経験が原因ですね(笑)。そして、それがどうにか良い方向に変化・治癒していったのが、一連の西日本での生活経験によるものでしたので、現在あまり首都圏の文化に拘泥、固執していない理由の根源とは、そういったところにあるのではないかと思っています。」

A「はあ、なるほどそうだったのですか・・。
それははじめてお聞きしました。」



Trailer "Roma" (Fellini, 1972)


Trailer The Day of the Jackal




2015年11月8日日曜日

中井久夫著「アリアドネからの糸」みすず書房刊pp.91-96より抜粋

一九九五年といえば、もう一つはやはりオウム事件である。天皇を弑逆し日本国に代えて別の国家を建設しようとしたのは平将門以来ではないか、私の反応は大時代かもしれぬが、暗黙の了解の大胆な侵犯という意味である。
前の政権を転覆するとか社会体制を変えようというのとはそもそも次元が違う。
オウムのこの試みは将門のように不成功に終わったと見たいが、宗教というものは何をするかわからないという一般的恐怖を後遺症としてゆめゆめ残さないようにしなければならない。
実際の宗教の圧倒的大部分は政治的・支配的野心とは無縁であろう。
しかし、この恐怖を利用しようとする勢力が出て、もし半世紀前の陸軍に対するような一般的恐怖が国を覆うならば、一九九五年は「大正デモクラシー」に比すべき「昭和後期デモクラシー」の終りの始まりということにならないか。
これに結びつき利用しようとする暗い勢力が出てくる可能性もある。
大戦下のように片言節句を聞きつけられると憲兵隊が呼び出しにくる遥か以前に、大正末期から昭和初期にすでに軍のことは触れないようにしなければならないという事なかれ主義があった。すでにマスコミを含めてこの風潮があるのではないか。われわれは恐怖を先取りして貝になりがちである。
ある時期以後は抵抗は孤立化し予め無力化されている。
二・二六事件に抵抗した昭和天皇はその結果すべて重臣のすべてを失って孤立化し、抵抗の余力を持たなかった。開戦直後の近衛もまた。何びとにもそういう状況の下では有効な抵抗を期待できないと思う。そう言い立てる論者は微妙な責任転嫁を行っているのではないだろうか。
もう一つ前、その時から「今」と思う時点は一九八九年である。冷戦の終了と昭和天皇の逝去とである。
私が生きている間に冷戦が終わるとは思っていなかった。
ましてどういう形で終わるかは想像がつかなかった。
私は一種の猶予期間を生きていた。それは私の中学一年生から五十五歳まで、すなわち実質的な一生涯に当たる期間であった。
ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。
強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した、この両極化に逆らって自由見検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。
社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。
いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長所を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。
資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義がすでにソ連に対抗して生まれたものであった。
ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。
社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生きのびるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない。)
冷戦はソ連が米国式の軍備を整えたことから終末に向う。
このような「対抗軍備」では財力と技術力とにまさっているほうがイニシアティヴをとり、劣っている側はあらゆる不利を忍んでこれに追随しなければならない。わが国が買った米国国債の力もあって、八〇年代の米国の軍事力はソ連の追随できなおものになった。
戦略防衛構想(SDI)がほんとうに有効かどうかわからなくても、万一有効だったらおおごとであるから、ソ連軍はそれに備えなければならなかった。
一九八七年だったと思うが、アフガニスタン戦争において、首都カブールから飛びたつソ連の定期旅客機が熱線誘導ミサイルを逸らすために火炎弾を投下しつつ急上昇する報道写真を見た時、私はソ連の敗北を実感した。冷戦が終わって、冷戦ゆえの地域抗争、代理戦争は終わったけれども、ただちに古い対立が蘇った。地球上の紛争は、一つが終わると次が始まるというように、まるで一定量を必要としているようであるが、これがどういう隠れた法則に従っているのか、偶然なのか。私にはわからない。もう一つ前、ここからは「今」だという時点を捜せば、それは一九〇四年から五年の日露戦争である。おまえは一九三四年生まれであって、日露戦争を知らないじゃないかといわれるかもしれない。
しかし、人は何らかの社会に生まれつく。私は日露戦争後の社会に生まれ落ちたのである。私にも日露戦争は遠い。実感がなく、錦絵のように遠景に溶け込んでいる。参戦者もおらず、実戦談も聞かなかった。江戸時代のほうが実感があるくらいだ。私の父方母方両祖父の実家の建物はいずれも私の生まれた時二五〇年を経ており、一方は取り壊されたが、他方は今なお鬼門の弁天様と裏鬼門のお稲荷様とともに存在している。しかし私が小さかった頃、日露戦争は昨日のごとくであった。そのように周囲の大人たちは語り合っていた。日露戦争が敗北に終わった場合を私は想像することができない。たぶん、私の世界の中で江戸に属する部分は残るだろう。その部分はそういう硬さを持っている。今の私の中にもどこか命脈を保っているぐらいだから。しかしその他は?
漱石、鷗外も日露戦争の戦後文学である。と同時に、太平洋戦争に至る過程の引き返し不能点がどこにあるかを考えた時、私は日露戦争の戦後処理に考えが行き着くのである。
ロシアに得られなかったところを中国に求めて大陸進出を考え、フィリピン領有と交換に朝鮮領有を米国に承認させる。そして一九一〇年、日本憲兵は、中国国籍をとり中国陸軍の近代化に努めていた川喜多大治郎を北京に暗殺する。この一連の過程がサイレント・マジョリティの支持を得た時、日本帝国の運命は決まったと私は思う。むろん抵抗はあったが、しかし、対中国親善外交を進めた佐分利公使が箱根に暗殺された時、外務省は彼の屍を越えて中国との関係修復を行わなかった。一人がテロリズムに倒れた時、政治方針が変るならば、テロリズムは成功といわなければならない。しかし、一人を倒しても何の変化も起さなかったテロリズムもたくさんある。テロリズムが支配層を脅かすのは支配層がすでに孤立化し、予め無力化されていた場合ではないかと私は思う。昭和天皇、近衛文麿の例ばかりでなく、昭和史はその例に満ちている。戦前の排英運動や日中戦争第一年末の南京陥落祝賀の群衆を思う時、あの勢いに誰が逆らえたかと思う。日中戦争も太平洋戦争も日露戦争ほどには私の時間を「今」と「昔」に分けるものではない。日中戦争は日露戦争の一つの帰結であって、挫折したシベリア出兵の延長である。そして太平洋戦争は日中戦争における「聖域」を叩こうとする、ベトナム戦争の「北爆」に当たるものであった。
そして私が戦後に入って行ったところは本質的には「辛うじて生き延びていた大正時代」であった。つまり日露戦争の戦後である。

「アリアドネからの糸」
ISBN-10: 4622046199
ISBN-13: 978-4622046196
中井久夫


20151108 英語学習遍歴について

A「どうも、最近は何か面白い本や映画を見つけましたか?」

B「いえ、最近は求職活動も少し複雑になってきまして、本もあまり集中して読んでいませんし、映画はここ最近めっきり観ていません。
実際これではマズイと思って、本を読んだり、映画を観ようとすると逆効果であるかもしれないので、まあ現在はこれでいいのかもしれません・・。
しかし同時に時折胃が痛むようになったのは多分この不安定な状況からくるストレスではないかと思います。
それでまあ、最近は牛乳を飲むようにしました(笑)。」

A「求職活動期間のストレスは確かにありますね・・。
人によっては髪の毛が抜けたり、白髪が急に多くなったりす
るのを見たことがあり、あとは食べ過ぎたりする人もいますね・・。」

B「私もタバコを止めてから太るかと思いきや、現在のところそうでもありませんね・・。
ただ、以前に比べ食べ物が美味しく感じるようになりましたので、もしかしたら今後太るかもしれませんので、気をつけます(笑)。」

A「ええ、タバコを止めると太るというのはよく聞きますので、もう少し継続して気をつけた方がいいかもしれませんね。
あ・・あと英論文や洋書なども継続して読まれていますか?」

B「ええ、一応読んでいます。
こういったのは続けていないと私の場合すぐに錆びてきてしまいますので・・。
しかし現在読んでいるものは文系分野の著作です。
しかし、これは著述の仕方が文系っぽくなく、理系に近いと思いますので結構飽きずに面白く読めています(笑)。」

A「もともと文系のBさんが英語は理系の文章の方が読み易いというのは何だか面白いですね(笑)。」

B「ええ、これは多分刷り込みみたいなものだと思いますが一番読み易いのは理系の文体で書かれた歴史に関する著作ではないかと思いますね・・(笑)。
これでしたら書いてある内容が日本語にて知っているものが多いので、英語を読みながら「これはこのことを書いてあるのだろうな。」などと推測しながら読むことが出来、そして「英語ではこういった表現でこのことを説明するのか。」などと感心しながら読み進めることが出来ます。」

A「ええ、それはよくわかりますね(笑)。
ある程度自分が知っている分野の洋書、英文などを読みますと、大体の意味は分かり、そしてそれを何冊か続けると、以前に比べ少し成長した様な感じを得ることが出来ますよね。
そして、そういうのを積み重ねますと、まあ、どうにかモノになるのではないかと思えるようになります(笑)。
ですから、私個人の意見としては、英語云々よりも先ずはじめに自分の専門分野におけるある程度の知識を持てば、自然とその延長として英語は習熟していくのではないかと思うのですが・・どうでしょうか?」

B「ええ、それは私も仰る通りであると思います。
もちろんグラマーも単語も会話も大事であるとは思いますが、それ以前に自分の専門あるいは得意分野を持てば、自然とその分野の英語でのコミュニケーションはある程度出来るようになるのではないかと思います。」

A「その点、近代日本における自然科学分野、理系全般とは、その始原が概ね欧米にありますので、習熟に伴い自然と現在の公用語としての英語に接する機会が増えていくと思います。
その意味で、専門分野を介して公用語である英語に接する我が国の自然科学分野の学問とは、文系に比べ、やはりノーベル賞などの世界規模での評価において多少有利な場所にいるのではないかとも思えます・・。」

B「確かにノーベル文学賞で候補にのぼる日本人の作家とは、海外での翻訳が多く為されている方ですよね・・。
そういえば先日読んだ夏目漱石の「三四郎」の英訳版の巻頭言をその作家が書かれていましたが、大変読み易い英語でした。
しかし、そういえば私は英語に関しては色々とありましたね・・。
二歳から五歳までスイスで過ごしたのですが、この時通っていた幼稚園がインターナショナルスクールでしたので、当時は英語を話していたようですが、帰国後、日本語に習熟するにしたがい英語は忘れてしまったようです(笑)。
その後、中学、高校、大学にて英語は多少得意な時期もありましたが、大体の期間は平凡な成績でした。
そして就職後、ホテルフロント勤務にてインバウンド(海外からの宿泊客)の担当をさせられることが多く、必要に迫られ辞書、電子辞書を引張出し、独習らしいことをしていたのが南紀在住時でした・・(笑)。
その後入学した文系院では学生人数が決して多いわけではないのですが、英語の講義は複数ありましたので、毎週予習をしておかないとみっともないことから、必要に迫られ勉強しました。
その後の歯科技工学校においては講義で歯科に用いる基本的英語を習いましたが、それに飽き足りず、家にあった本を読んだりして多少能動的な努力もしました。
そして歯系院では担当教授が所属院生、修了生を集め英論文の輪読会を毎週水曜日の朝八時から開催されていましたので、これも予習をしておかないとみっともないので必要に迫られ勉強しました。
そして、この時以来、多少能動的になり、本屋の洋書コーナーやアマゾンなどで洋書、古書を少しずつ購入する様になりました。
また、講座の准教授の先生と歯科理工学に特化した洋書の輪読会も行いましたが、これも大変勉強になりました・・。
その様な状態を経て、帰郷後に出席を許された都内大学大学院の外国人留学生向けの英語による国際関係論の講義は大変面白く感じることができました・・。
そしてその後職を得た九州においては留学生、外国人教員、PDが多く、今考えてみますと大変良い環境であったのではないかと思います・・。
ともあれ、現在また求職活動を継続しておりますが、どの様な場所においても、自身の用いる言語、文体、思想を客観視するための道具としての英語とは、なかなか重要ではないかと思います。
しかしながら、現在小学校低学年あるいは小学校就学以前から英語を勉強させようとする風潮は「少し違うのではないか?」と思いますが、どうなのでしょうかね?」

A「どうもありがとうございます・・(笑)。
Bさんの英語遍歴については以前伺ったものと同様でした。さて、私もたしかに英語を勉強する前段階において、とりあえず母国語である日本語に習熟する必要があるのではないかと思います・・。
正直、以前は漢文や古文などはカビの生えたような役立たずの代物と思っていましたが、何だか現在の様な御時勢になるのであったら、もう少し敬意と熱意を持って勉強しておけば良かったと思いますね・・(苦笑)。
しかし、こういった風潮で思い出すのは決して誹謗、中傷のつもりではないのですが、ハングル文字により漢字の記憶を大幅に失ってしまった韓国です。
それはそれで歴史の流れであり仕方ないのかもしれませんが、そうなるとPCなどの普及は確実且つ急速に我々の漢字の記憶を風化させていますね・・(苦笑)。」

B「たしかにそうですね・・そして、それは仕方ないことなのでしょうか?」


2015年11月3日火曜日

20151103 辺縁 温泉 地鎮 神社 武力について

A「どうも、お久しぶりです。その後お元気でしょうか?」

B「うん、まあどうにか元気でやっていますよ。
とはいえ最近はずいぶん寒くなり朝晩が少し辛くなってきました・・まあ、毎年のことだけれども(笑)。」

A「ええ、私も様々なところに住んできましたが、どこでも冬の寝起きが辛いことには変わりがありませんね(笑)。」

B「まあ、よほど南の方に行けば、また話は別かもしれないけれど、そうすると今度は昼間の暑さが辛いことになりかねないからねえ・・(笑)。」

A「ええ、そうですね。
そう考えますと、案外日本列島は特別に寒くも暑くもない、すごし易いところなのかもしれませんね。」

B「そうだね。
多分地域によって若干のブレはあるかもしれないけれども大体はそうじゃないかな。
あと前の君のブログに書いてあったけれども日本列島は火山が多くて、その副産物・副次的要素として温泉も多いのだけれど、この季節になるとまた温泉が恋しくなるね(笑)。」

A「そうですね・・私も鹿児島市在住時は週末に市内の温泉に行っていました。鹿児島は県内に多く温泉があり、市内中心部に近いところにもあります。ただ、それが愛媛、松山の道後温泉の様に古来より高名であったり観光地化されていないことから、何といいますか、地元の人々の日常生活に溶け込んでいるのです。ですから、これが今後観光地化してしまいますと、おそらく地元の人々は反対するのではないかと思います・・。」

B「へえ、鹿児島で温泉と云えば霧島や指宿が有名だけれども、市内にも温泉があるんだね。」

A「ええ、そうです。しかし道後温泉ほど古いものではないと思います。
それに特に九州南部はある程度の深さの穴を掘ると温泉が出るいわれていますから・・。
しかし現在の状況に立ち戻りますと、そこまで遠くなくていいですので、伊豆あたりの温泉に行ってみたいですね・・・(溜息)。」

B「伊豆ですか・・いいですね。
そういえば伊豆半島はフィリピン海プレートに属していて、これは日本列島でもここだけなんだよね。
それが原因かどうか分からないけれどもあそこはまた自然風土が何だか独特だよね(笑)。」

A「ええ、科学的ではないかもしれませんが、一般道で小田原、真鶴あたり通過し、静岡県に入りしばらく走りますと何だか空気が違ってくるような気がします・・。
そして同時に植生もまた南方的な横溢さを示すようになるのではないかと思います。」

B「なるほど確かに伊豆半島の空気や植生は関東とはどうも違うよね・・。そういえば前の君のブログでも似たようなことが書かれていなかったかな?」

A「あ、そうですね!
それで今思い出しましたけれど、関係ないかもしれませんが、古代律令制で朝廷に認識されていた神社(式内社)の数は伊豆諸島を含む旧伊豆国が他に比べ有意に多いのです。
これはたしか西郷信綱の論考にありましたけれども、それによると平安時代中期頃の朝廷の支配領域の辺縁、辺境と認識されている地域に外敵侵入の阻止、地鎮の意味を込めて多くの神社を設置したのではないかとのことでした・・。
しかし、こういった考えは世界各地に類例を見ます。
具体的にはローマ帝国北方辺境におけるハドリアヌスの壁、中国歴代王朝が北方辺境に築いた万里の長城などです。
そしてこのことを約言すると、実質的な防衛機能を持つ城砦を築くのが彼等の手法であり、一見実質的でない呪術的な意味での防衛機能を持つ施設、つまり神社を築くのが我々の祖先の手法ではないかということです。
しかしながら以上の分類の仕方はあくまでも表層的なものであり、よく考えてみると事情はもう少し込み入っていると思います・・。先を続けてもいいですか・・?」

B「ああ、どうぞ、今までの話は大体わかったから、その込み入った事情とやらを是非聞いてみたいね(笑)。」

A「どうもありがとうございます。
それでは続けます。
ところでBさんは奈良県天理市の石上神宮は御存知ですか?」

B「・・もちろん知っているよ。
大分前だけれど参拝にも行ったよ。
あの神社はたしか神武東征に出てくる神剣の布都御魂(ふつのみたま)が御神体で、あとは百済王から贈られた七支刀が納められているのではなかったかな?」

A「専門の分野と違っていてもさすがによく御存知ですね・・(笑)。」

B「なあに、私が幼い頃の子供向け読本なんていうのは戦争期に出版されたのも普通にあったからね・・。
それで、そういう本にはそういった神話はごく普通に書かれていたものだよ・・。
それでまあ、後から得た知識やらを肉付けしたり、修正し易いんだろうね(笑)。」

A「ははあ、なるほどです。
あ、それで石上神宮ですが、この神社は仰る通り朝廷にとって神聖とされる武器が納められていることで有名なのですが、その考えを敷衍、拡張して、ここは古代大和朝廷の武器庫としての役割、性質をも持っていたと考えられています。
そうしますと、前にいいました我が国の古代において辺境地域に神社を設置する傾向とは、当時、神社が武器庫でもあるならば、それはそれで呪術的一辺倒でもなく実質的な意味合いも有していたと考えられるのです。
さらにこの考えを補強する要素として、石上神宮は物部氏の氏神を祀っているのですが、伊豆国をはじめとした東海地域の諸国造もまた物部氏に出自を持つものが多いことが挙げられます。」

B「ああ、それはたしか前に君のブログに書かれていたような気がしますね。」

A「ええ、それは確か銅鐸に対しての興味からの抜粋ですが、仰るとおりです。
そして、この考えに銅鐸、銅剣、銅矛などの青銅製鋳造祭器を要素として加えて考えてみると、これがまた面白いのです。
つまり、これらの青銅製祭器とは辺縁、辺境における地鎮の役割も持っていたと考えられているのです。
そうしますと、本来地鎮の役割を有していた青銅製祭器が廃れ、それが武器庫としての神社となり、さらにそこから社会の安定化に伴い、武器庫的要素が薄れ、現在の神社の様になっていった過程がまあ何となく理解できるような気がするのです・・。
しかし、これはあくまでも古代朝廷から見た辺縁、辺境地域における神社の性格、傾向であって、全部が全部そうではありません・・。」

B「ふーん、何だか面白いね・・あと、そういうのは日本だけでなく他の国においてはどの様な傾向があるのか調べてみたら、もしかしたら、もっと興味深いものが見つかるかもしれないね。」

A「ええ、そうですね。
それは確かに面白そうですね。
機会があれば是非もう少し深く追究してみたいですね・・。」