2015年11月8日日曜日

中井久夫著「アリアドネからの糸」みすず書房刊pp.91-96より抜粋

一九九五年といえば、もう一つはやはりオウム事件である。天皇を弑逆し日本国に代えて別の国家を建設しようとしたのは平将門以来ではないか、私の反応は大時代かもしれぬが、暗黙の了解の大胆な侵犯という意味である。
前の政権を転覆するとか社会体制を変えようというのとはそもそも次元が違う。
オウムのこの試みは将門のように不成功に終わったと見たいが、宗教というものは何をするかわからないという一般的恐怖を後遺症としてゆめゆめ残さないようにしなければならない。
実際の宗教の圧倒的大部分は政治的・支配的野心とは無縁であろう。
しかし、この恐怖を利用しようとする勢力が出て、もし半世紀前の陸軍に対するような一般的恐怖が国を覆うならば、一九九五年は「大正デモクラシー」に比すべき「昭和後期デモクラシー」の終りの始まりということにならないか。
これに結びつき利用しようとする暗い勢力が出てくる可能性もある。
大戦下のように片言節句を聞きつけられると憲兵隊が呼び出しにくる遥か以前に、大正末期から昭和初期にすでに軍のことは触れないようにしなければならないという事なかれ主義があった。すでにマスコミを含めてこの風潮があるのではないか。われわれは恐怖を先取りして貝になりがちである。
ある時期以後は抵抗は孤立化し予め無力化されている。
二・二六事件に抵抗した昭和天皇はその結果すべて重臣のすべてを失って孤立化し、抵抗の余力を持たなかった。開戦直後の近衛もまた。何びとにもそういう状況の下では有効な抵抗を期待できないと思う。そう言い立てる論者は微妙な責任転嫁を行っているのではないだろうか。
もう一つ前、その時から「今」と思う時点は一九八九年である。冷戦の終了と昭和天皇の逝去とである。
私が生きている間に冷戦が終わるとは思っていなかった。
ましてどういう形で終わるかは想像がつかなかった。
私は一種の猶予期間を生きていた。それは私の中学一年生から五十五歳まで、すなわち実質的な一生涯に当たる期間であった。
ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。
強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した、この両極化に逆らって自由見検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。
社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。
いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長所を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。
資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義がすでにソ連に対抗して生まれたものであった。
ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。
社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生きのびるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない。)
冷戦はソ連が米国式の軍備を整えたことから終末に向う。
このような「対抗軍備」では財力と技術力とにまさっているほうがイニシアティヴをとり、劣っている側はあらゆる不利を忍んでこれに追随しなければならない。わが国が買った米国国債の力もあって、八〇年代の米国の軍事力はソ連の追随できなおものになった。
戦略防衛構想(SDI)がほんとうに有効かどうかわからなくても、万一有効だったらおおごとであるから、ソ連軍はそれに備えなければならなかった。
一九八七年だったと思うが、アフガニスタン戦争において、首都カブールから飛びたつソ連の定期旅客機が熱線誘導ミサイルを逸らすために火炎弾を投下しつつ急上昇する報道写真を見た時、私はソ連の敗北を実感した。冷戦が終わって、冷戦ゆえの地域抗争、代理戦争は終わったけれども、ただちに古い対立が蘇った。地球上の紛争は、一つが終わると次が始まるというように、まるで一定量を必要としているようであるが、これがどういう隠れた法則に従っているのか、偶然なのか。私にはわからない。もう一つ前、ここからは「今」だという時点を捜せば、それは一九〇四年から五年の日露戦争である。おまえは一九三四年生まれであって、日露戦争を知らないじゃないかといわれるかもしれない。
しかし、人は何らかの社会に生まれつく。私は日露戦争後の社会に生まれ落ちたのである。私にも日露戦争は遠い。実感がなく、錦絵のように遠景に溶け込んでいる。参戦者もおらず、実戦談も聞かなかった。江戸時代のほうが実感があるくらいだ。私の父方母方両祖父の実家の建物はいずれも私の生まれた時二五〇年を経ており、一方は取り壊されたが、他方は今なお鬼門弁天様と裏鬼門のお稲荷様とともに存在している。しかし私が小さかった頃、日露戦争は昨日のごとくであった。そのように周囲の大人たちは語り合っていた。日露戦争が敗北に終わった場合を私は想像することができない。たぶん、私の世界の中で江戸に属する部分は残るだろう。その部分はそういう硬さを持っている。今の私の中にもどこか命脈を保っているぐらいだから。しかしその他は?
漱石鷗外も日露戦争の戦後文学である。と同時に、太平洋戦争に至る過程の引き返し不能点がどこにあるかを考えた時、私は日露戦争の戦後処理に考えが行き着くのである。
ロシアに得られなかったところを中国に求めて大陸進出を考え、フィリピン領有と交換に朝鮮領有を米国に承認させる。そして一九一〇年、日本憲兵は、中国国籍をとり中国陸軍の近代化に努めていた川喜多大治郎を北京に暗殺する。この一連の過程がサイレント・マジョリティの支持を得た時、日本帝国の運命は決まったと私は思う。むろん抵抗はあったが、しかし、対中国親善外交を進めた佐分利公使が箱根に暗殺された時、外務省は彼の屍を越えて中国との関係修復を行わなかった。一人がテロリズムに倒れた時、政治方針が変るならば、テロリズムは成功といわなければならない。しかし、一人を倒しても何の変化も起さなかったテロリズムもたくさんある。テロリズムが支配層を脅かすのは支配層がすでに孤立化し、予め無力化されていた場合ではないかと私は思う。昭和天皇、近衛文麿の例ばかりでなく、昭和史はその例に満ちている。戦前の排英運動や日中戦争第一年末の南京陥落祝賀の群衆を思う時、あの勢いに誰が逆らえたかと思う。日中戦争も太平洋戦争も日露戦争ほどには私の時間を「今」と「昔」に分けるものではない。日中戦争は日露戦争の一つの帰結であって、挫折したシベリア出兵の延長である。そして太平洋戦争は日中戦争における「聖域」を叩こうとする、ベトナム戦争の「北爆」に当たるものであった。
そして私が戦後に入って行ったところは本質的には「辛うじて生き延びていた大正時代」であった。つまり日露戦争の戦後である。

「アリアドネからの糸」
ISBN-10: 4622046199
ISBN-13: 978-4622046196
中井久夫


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