2017年7月25日火曜日

20170725 角川書店刊 会田雄次著 『日本人の忘れもの』1974 初版 pp.69-74より抜粋引用

角川書店刊 会田雄次著 『日本人の忘れもの』1974 初版
pp.69-74より抜粋引用
ASIN: B000J9OAC6
『もう一つ、古い日本のことを述べる。
たとえば、日本の失ったものという場合だが、最初は深刻な例と、それからあとはごく卑近な例をあげよう。私は今度の戦争に行ったとき、第一線の擲弾筒兵という一兵卒だったが、マラリアにかかって、ビルマのラングーンの病院へ後送された。百万坪もあるラングーン大学を接収して開設されたビルマの最根幹の大兵站病院である。そこへ連日前線からなだれを打ったように、インパール作戦その他での重傷病患者が送られてくる。無謀きわまる作戦強行で日本軍は崩壊状態に陥っていたのである。みんな幽鬼のような姿だ。
軍医さんも、看護婦さんも、衛生兵も、全然手がまわらない。そこで私たちのような軽患者ーといっても重症なのだがー使役にかり出された。私が当たったのは収容病棟の使役であった。前線からどんどんはいってくる傷病兵をいったんそこへ入れて、それから軍医さんが診断し、あるいは看護婦さんがより分けて傷病別並びに部隊別に本来の病室へ入れる。
そういう臨時の収容所である。そこの食事を運んだり、大小便の始末をしてやったり、包帯を取りかえてやったり、どんどん死んでいくものだから、死んでいく人のお墓ー穴を掘ったり、そういうことをするわけである。大学の大講堂が収容病棟に当てられていたが、そこには大理石とチーク材の床があった。天井にはシャンデリアがある。それはつかないで細々とした防空用の電灯がついている。屋根があり窓があり、床があり、三人ほど一緒に寝かせたが、とにかくベッドがある。そこへはいってきた兵隊はー私もそうだったがそんなところ、何年も見たことがないわけである。床がある、ベッドがある、屋根がある、壁がある、おまけに電灯までついているというようなところにはいった兵隊は、安心のあまり全部腰を抜かしてしまう。しかも、そこに日赤の看護婦さんがいたのだ。彼女らが、そのときは神さまみたいに見えた。婦長さんは四十五・六の人だったが、これはみごとな婦長さんだった。日常では、もう声が出なくなっている。私らに命令するときは、かすれはて判別できないような声しか出ないのだが、患者を迎え慰めるときは声が出るのである。はいってくる兵隊は、ちょうど私たちがいたときは、インパールで負けた関東の弓部隊など現役兵の兵団の兵たちが、顔じゅうぐしゃぐしゃになったといった重傷で入って来る。水虫患者というのが入院してきたので水虫で重症患者とは一体どんなのかと思ったら、直径一〇センチもある穴が二十幾つあいていて、そこへうじ虫がいっぱいたまっているという、そんなのがはいってくる。彼らは気もすさびはてているが、そういう患者の一人一人に「兵隊さん、ご苦労さんでした。もうここまで来たんだから、安心してゆっくり養生して早くよくなってちょうだいね。すぐよくなりますよ。皆元気を出して」ということを言って回られた。そんな天国で、現役兵の年齢からすればちょうど母のような女性からそういう声をかけられるものだから、みんな、涙をぼろぼろこぼす。兵隊は皆子供のように声をあげて泣いた。安堵のあまりその翌日死んでしまう兵士も多い。お母さんのもとへ帰ってやれやれ安心というようなその童心に帰った死顔の目を閉じてやりながら私は無性に悲しかった。その婦長さんは、私らが退院してしばらくたって原隊へもどって来た「追及者」から聞いた話によると、そうやって声をかけているうちにふっと声がとぎれて、へなへなとすわられたと思ったら、それでもう最後だったそうだ。まさに立往生である。平均二時間ぐらいしか寝られないで、一五〇日ぐらい頑張ったとか。そんなことをしておられたから、精も根も尽き果てたのだろうと思う。この婦長さんに接したとき、どんなに荒れすさんだ重症の兵隊も、涙を流した。担架に天幕やドンゴロスをかけたりして運んでいる重症患者でも、もぞもぞとその天幕の下が動く。全員、手がしぜんに前に行き、合わさっているのである。「婦長さんに後光がさして見えた」とあとで皆そう言った。日本の昔の女性というのは、家庭だったら、ともかく全身全霊をあげて、よいにしろ悪いにしろ、封建的道徳であるにしろ、夫のため、子のために生きたのである。母というものはそういうものかもしれぬ。フランスでも昔ではそうだったのであろう。フランスのある若死にした詩人が「お母さん」という題で「私のお母さん、私の幼いときに死んでしまったけれども、そのお母さんのまぼろしが私の前に浮かぶ。
それは全部白いかっぽう着をつけて木履をはいて、働いている姿だ。料理を作っている、ミシンを踏んでいる、掃除をしている、そういうお母さんだけれども、それは皆私たちにおいしい食事を、私たちに暖かい着物を、私たちに清潔な部屋をと働いている。自分のもの縫っていたことない。
寝てるお母さん見たことない。
まぼろしのその白いエプロンのお母さん。
その姿は円光につつまれている」と、こういう詩を書いていたのを私は記憶にある。
かつてそういうものだったのだろう。
兵隊たちが見たのもそういうものだった。
私も入院時この婦長さんの姿にはっきり認めた。
何か光につつまれている感じで、四十二度という熱にうなされながら手を合わせ涙がとどまらなかったのである。
私たちの中隊はあとから補充を合わせ三百数十人いた。
その中で生還できたのはニ十数人でしかなかった、ほとんどが栄養失調による病飢死である。
死期が近づくと皆手を合わせて、何かつぶやいている。
「またなんだかぶつぶつ言ってるぜ、もう駄目なんだ」。
私たちはそう言い合ったものだ。多くの兵士は農家出身だ。
満州事変以来何度も応召してきている。
昔の農家だとか小さな商店など、男手がなくなったらどんなみじめなものか、いやというほど思い知らされた。
勝っているときでもそうなのだ。しかも今度は負けらしい。
おれはもう死にそうだ。あとに残った子供はどうしていくだろうかという想いにとらわれたとき、兵隊は家族と一緒に写した写真を出して、「お母さん、頼みます」「女房、頼む、子供だけは頼む」と願うのだ。
はじめ、何をしているんだろうと何気なしに問い合わせた私に「貴様のような坊ちゃん学生兵隊におれたちの気持ちがわかるか」と激しい語調で友人が教えてくれたことである。
そのとき皆の両手は思わず前に合わされている。頼むと拝んでいるのだ。私たち兵隊は不信心な、いわゆる「悪いやつ」ばかりだったかも知れぬ。夫として平生の生活には母や妻にむくいることきわめて少なかったに違いない。
そういう夫たちの心の奥にやはり拝む心があった。
母の姿、妻の姿に後光がさして見えたのである。それは献身への全くしぜんな感応というべきものでなくてなんであろう。今の日本の妻も、日本の母親も、完全に後光を失っている。現在の夫の、子供の誰が妻に対して、母親に対して手を合わせるのだろうか。母は子供にとってもよき遊び相手だろう。姉さんにはなれるかもしれない。妻は夫の遊び相手、ときには相談相手になれるだろう。しかし、絶対に夫の手がしぜんに合わさるような存在ではない。今の日本はアメリカナイズされたのでろうが、今の三十代のお母さんが手にとって、子供から「お母さん」と言って、しぜんに手を合わせられるということはないだろう。封建制度の否定のもとに、日本の女性は、男の心の中、夫の心の中、子供の心の中にある後光を、もう永遠に失った。これがあるかぎり人間は、最後の破滅の前にそこへすがりつけるのである。
ゲーテのいう「永遠の女性的なるもの」もそれである。しかし、アメリカにはそれがない。「ええい、LSDを飲もうか」ということになったり、妻の殺し方というのがあって、女房に毎日ガラスの粉をちょっとずつやったら、十五年たったら死ぬというような、そんな本が出るわけである。
私たち兵隊は、冗談まじりにではあるが、万一帰還できたら、もうどんなことがあっても女房には炊事、洗たく、掃除、一切させない。
床の間に上げて、毎日拝んで暮らす、おふくろともなればもちろんのことさ、などというようなことを言っていた。
もちろん実際上そんなことは続かなかったけれど、しかし冗談にしろ床の間に上げて拝んで暮らすのだとは、当時の女性にはその円光があったために出た言葉であろう。
いまやそれを失った戦後の女性は権利としてのいろいろなものを得たが、放棄したこの後光を考えるとき、ほんとうにそれが幸福といえようか。』

2017年7月24日月曜日

20170724 駅で見かけたポスターから思ったこと【コスプレ・カラオケ】創造とは?

首都圏にて電車の乗り降りをしておりますと、アニメのポスターがやけに多いことに気が付かされます・・。

私はアニメを鑑賞する習慣がなく、またそれらに登場するキャラクターがやけにデフォルメされていることから、それらを何らかの人格的な記号としては認識出来ますが、同時にそれらを観て魅力的であると感じることはありません・・。

もとより、元来マンガ・戯画などに登場するキャラクターとは、そういったものであったのではないかと思われます。
(それが変ってきたのは江戸時代の浮世絵あたりからでしょうか?)

しかしながら、それが、さまざまな意味での興奮を惹起させるものになり得る、そして逆に、あるいはそこからさらに進んで、生身の人間の方がアニメのキャラクターに似せよう、近づこうとする(コスプレ)ことは一体どういった心的傾向に基づくものであるのかと、不思議に思うことがあります・・。

アニメに登場するキャラクターのコスプレとは、ある特定の対象に『近づきたい』、『なりきりたい』といった願望に基づいているのでしょうが、おそらくそれ(コスプレ)は、『予め理想像が提示されている』という意味において、一般的なお洒落、衣装道楽とは『外見、見栄えに凝る』といった意味では類似していると思われるものの、本質的には異なるものであるといえます。【視覚的な即物性の背後にある思想が異なる】

ではコスプレと類似したものを求めるとすれば、それは『予め理想像が提示されている』という意味においてカラオケが挙げられるのではないかと思われます。

そして御周知のことではあると思われますが、これら(コスプレ・カラオケ)とは、我が国が発祥とされており、また現在となっては我が国が世界に誇る文化であるとされております。

私はこの意見(世界に誇る文化)に対し特に批判的な意見があるわけではありませんが、ただ、それらが『予め理想像が提示されている』という意味において、何と言いますか、我が国の特徴とされる『凝集性もしくは求心性』といったことに思い至るのです。

とはいえ、無論のこと、そうであるからといって『その文化には創造性が乏しい』といった意見に単純に結節するわけでもありませんが・・。

とはいうものの、このことをもう少し考えてみますと、その『凝集性および求心性』とは(あくまでも)原理的な創造とは異なるものであり、またそこから、時折耳にする我が国の別の傾向としての『原理から離れた部分におけるさまざまな操作が巧みである』あるいは『閉じた一つの系における数学が得意である』などに対しても親和性を見出すことが出来るのではないかとも考えられます・・。
(人に対する難癖の付け方もまた、そうした傾向があるのかもしれません・・(苦笑)。)

また、もしも、それら挙げられた傾向の基層、根源において何かしら共通するものが(実際に)あるとすれば、それは古来より現代に至るまで外来文化の受容に迫られた・明け暮れた我が国特有の歴史によって培われた性質ではないかとも思われます。

そして、それがある程度妥当なものであるとすれば、おそらく『面従腹背』といったコトバにも、あるいは積極的・肯定的な意味合いを持たせることが出来るのかもしれません・・。

もちろん、あくまでもそれは自由闊達な精神の顕現ではないのでしょうが・・(苦笑)。

しかしまた、文化とは、どの国においても、概ねそういった事情を背負って成立しているものであるとは云えるのですが・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被災された地域の生活諸インフラの出来るだけ早期の回復・復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。』




















20170723 目標設定の仕方と教育について・・ブログ記事の作成から

A「昨日投稿分の記事もまた投稿翌日の割には多くの方々(32)に読んで頂けました。

読んで頂いたみなさま、どうもありがとうございます。

加えて、週末ということもあってか、昨日全体の閲覧者数もまた比較的多かったです(500以上)。

昨今における一日のブログ記事閲覧者数は200~400程度であり、以前に比べ、その数は大分少なくはなりましたが、自身の場合、あまり多くの方々に読まれていると、変に身構え、そして萎縮してしまうところがあると思われますので、この位の方々に読んで頂けるのが最適ではないかと考えます。

その一方で、これまでの通算では240000人近い方々がこのブログを閲覧されているということになり、これはなかなか(自身としては)驚くべき数値あるいは出来事であり、また、それらがどのように読まれているのかは分かりかねますが、ともかく、こうした状況の認識により、そう簡単には記事作成を止めることが困難にもなるのです・・(苦笑)。

それと多少関連することですが、今回の記事の作成・投稿によって総投稿記事数が695となり、次の区切りの良い目標である700記事まで残すところ5記事の投稿となります。

この先、特に問題なく700記事に到達することが出来ましたら数日間記事作成を休もうと考えています。

さて、無事に700記事まで到達した場合、目標とする1000記事までの道程の七割まで達したことになりますが、果たして、その先の300記事もまた、これまでと同様の投稿ペースにて書き続けることが出来るのでしょうか・・(笑)?

これに関しては、おそらくこの先800記事程度までは難なく到達することが可能であろうと漠然とながら思うところです。

しかし、その先のことになりますと正直なところ、あまり想像することは出来ません・・(苦笑)。

とはいえ、
以前の私もまた、こうした思いにて、これまでの記事作成を継続してきたと云えますので、おそらく800記事に到達することが出来れば、自ずとその次の想像可能な領域が見えてくるのではないかと幾分楽観視しております・・(笑)。

また、こうしたものは、さきに投稿したブログ記事に書いた実験および読書などにおいても、概ね似たような心情によって支えられており、自身としては、当初より無理に大きな目標を掲げる方が余程無茶なことではないかと思われますが、如何でしょうか・・?

また、あくまでも私見ではありますが、このような『目標設定の仕方』とは、人の教育においてもかなり重要であり、この『目標の設定』を上手く行うことが出来る人こそが普遍的な意味での優れた教育者ではないかと思われるのです・・。

これは、無論のこと、教える内容を熟知していると同時に、人間に関する実際的な世間知といったものをも備えていないと行い得ないことから、かなり難しく、あるいは自身の経験から、我が国の場合、理系・文系を問わず、時代(戦前は別として)が下るにつれ、こうした教育を施すことが出来る教員が徐々に減少しているのではないかと考えさせられます・・。


今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害などの大規模自然災害により被災された地域での生活諸インフラの復旧そしてその後の早期の復興を祈念しています。』








2017年7月23日日曜日

20170722 奇妙ともいえる偶然の把握および書籍からの抜粋引用(伊波普猷著 『古琉球』より)

昨日投稿分の記事も投稿翌日にしては多くの方々(30)に読んで頂けました。

読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

さて、さきほどつい先日(7/19)に投稿した『読んでいた小説から思ったこと、歴史認識の方法について・・』との関連にて昨年4月2日の投稿記事『野上彌生子著『迷路』について』を読んでおりましたら、この記事においても、さきの著作『迷路』とマンガ『はいからさんが通る』の関連性、類似性について書かれていることを見出しました。

この当時(2016年4月)の自身とは『はいからさんが通る』が2017年の11月にアニメ映画として公開されることは知らなかったと思われますので、この言及(2016年4月)とは偶然ではあるのでしょうが、同時に多少面白くも思われた次第です(笑)。

しかし、そうしたことを考えてみますと、この一連のブログ記事作成をはじめて以来、それに類するような出来事は、幾度か経験しておりますので、今回の件もまた、特に驚くべきことではなく、さきに書いたように『多少面白い』といった程度のことではないかと思われます。

とはいえ、その一方でなお、こうした出来事が発生する、あるいはそれが認識されるメカニズムに関しては少なからず興味がありますが・・。

そしてまた、そのメカニズムを把握することが出来れば、さらに理解することが出来る事象が多くなるのではないかと思われるのです。

加えて、これも未だ感覚的なことではありますが、こうした奇妙ともいえる偶然の把握とは、人によっては多少時期のズレもまたあるのかもしれませんが、年齢とも関連があるのではないかと思われ、さらにそれ(奇妙ともいえる偶然の把握)とは、何といいますか、本質的に定量化しうる要素の相対的な評価(のみ)によっては達し得ることが出来ないのではないかと思われます・・。

おそらく、そこには内発性のさらに基層にある精神と関連し、またそれは総じて創造なるものの根源にある精神とも同根ではないかとも思われるのです。

さて、ここまで書いてきた内容とは、あまり関係がないとは思われますが、先日読んでいた書籍にて面白いと思われる記述を見出しましたので、以下にそれを示します。

岩波書店刊 伊波普猷著 外間守善校訂 『古琉球』pp.58-59より抜粋引用

『琉球語では城のことをグスクというが、八重山では石垣で囲うた所をグスクといっている。
金沢(庄三郎)博士がかつて沖縄教育会で述べられた演説の一節に、
このグスクということばは、沖縄人が大和民族であることを証する好材料となるのであります。
朝鮮の古語では村のことをスキ村主のことをスクリ(宿禰と同意義)と申します。
この言葉は日本語にも這入って日本の位の名にもなっていたのでありますが、それと同意義の言葉が日本語では城と書いてシキと読んでおります。
大和の地名にシキという所がありますが、またシキシマ(敷島)という日本国の名にもなっています。
シキは城ということになります。シキという言葉を研究して見ると先ず二つに分けることが出来ます。
シは住むという意味で、キは囲の中という意味であります。即ち囲の中に住むという意になります。(中略)
然らば日本語でシキ朝鮮語でスキという事は一体どういう所を指してそういうたのであるかというと、高い所にあって石の壁で取囲まれている所という意味であります。(中略)
それで日本語のシキも朝鮮語のスキも琉球語のスクも皆城壁という意味であります。
是らの名詞で、正鵠を得た判断が出来るので、沖縄は敷島即ち日本の一部分であるという事は争うべからざる事実であります。
歴史がなくとも、伝説がなくとも、記録がなくとも、神話がなくとも、沖縄人の祖先は日本人のそれと同じくシキの中に住んでいた事が証明されます。

という事であったが、アマミキヨ種族は沖縄島に上陸して後もグスクを築いてその中にいたのである。(グスクのグは敬語である。)
佐敷はもと「狭いスキ」または「小さいスキ」ということで、これはその地勢から考えてもなるほどと思われる。(佐敷という地名は熊本辺にもあるのである。)
これらは皆沖縄人の祖先が北方の同胞と共同なる根源地に住していた事を証明する好材料である。』

*これは昨日投稿分記事の内容とは少しは関係があるかもしれません・・(笑)。

ともあれ今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被災された地域の生活諸インフラの早期の復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。









2017年7月21日金曜日

20170721 首都圏の日中の気温から思い出したこと・・【実験およびブログ記事作成の作成について】

ここ最近の首都圏は日中ほぼ毎日のように30℃以上を示しております。

そうしたなかを歩いておりますと、自身が加齢のために暑さに対して鈍感になったのか、あるいはかつて九州に在住した経験により暑さに強くなったものか、はたまた双方共々によるものであるかどうか分かりませんが、そこまで辛い・耐え難いと感じることはありません・・。

あくまでも自身の感覚に基づく意見ではありますが、体感的な日中の夏の暑さに関しては、首都圏よりも九州とくに鹿児島市街地の方が数段上をゆくのではないかと思われます。

在鹿時代の私は、不足がちな運動を補うために盛夏をも含めた通年の週末、鹿児島市街地(天文館~宇宿)を散歩しておりました。(概ね中央駅経由)

また、そのことを思い出してみますと『では、鹿児島在住初年の夏とは一体どうであったのだろうか?』と、さらに思い至るわけですが、そうしますと、しきりに実験室の流しにて頭部に水をかけていた記憶がありました・・(笑)。

当時、髪型は丸坊主であったことから、乾くのも早かったのではありますが、それでも、おそらくこの新たな習性を機に私は手拭いを腰ベルトに掛けるようになったのだと思われます・・。

また同時に、この当時取り組んでいた実験とは1000℃周辺の高温となった炉を用いるものであったことから、実験の合間での自身の冷却とはあるいは必要不可欠なものであったのかもしれません・・(笑)。

そしてまた、このことを思い出してみますと、当時はさきに書いた高温の炉、そして合金を溶かす高温のバーナーをそれこそ幼児の玩具のように扱い、また、そのおかげで実験への使用に適当と思われる試料の作製が出来るようになったのではないかと思われます・・(案外、こうした暗中模索の泥縄方式が良かったのかもしれません・・(笑)。)

この当時、私が取り組んだ実験とは、おそらく実験内容自体としては(そこまで)大したものではなかったと思われますが、その条件毎の試料数が相対的に多く、また同時に標準偏差が小さく、さらに、その結果における値が、当時欧米の類似実験内容の論文掲載値と近似していたことにより、ある程度の評価もしくは信頼を得るに至ったのではないかと思われます・・。

とはいえ、同時にこのことは、現在となっても時折お目に掛かる(こうした)実験を日常とするような先生方から、遠回しに疑問視されるところでもあるのですが、それでも、この時に得られた値とは、全て実際に自身が作製した試料より得られたものであることから、これといって気に病むこともなく『ああ、そういったツッコミをされる先生方もおられるのだな・・。』といった感じであり、当時と同じ設備、材料が揃えば、試料作製に再び慣れるまで少し時間は掛かるかもしれませんが、概ね同様の結果(値)を出せるものと考えます。

さて、ここまで書いており不図思ったことは『私とは、読んだ書籍の数、作製した試料の数、そして現在更新中のブログ記事数といったものにおいても、とりあえず、それらを継続するといった行為態度については、ある程度持っているのかもしれない・・。』ということであり、また、これ(さきに書いた行為態度)に関しては、それらを身近で見ていた方々もまた(おそらくは)納得して頂くことが出来るのではないかとも思われます・・。

そうしますと、案外単純ともいえる自身の特徴らしきものが看取されるわけではありますが、同時に『いや、それだけではないぞ!』と主張してみたくなるのです・・。

しかし、その具体的な内容に関しては、未だこれを認識出来ないでいると云えます・・(苦笑)。

あるいはこうしたとは、このブログ記事作成の継続を通じ、ある程度明瞭に認識し得るものとなってくるのでしょうか・・?

そういえば、去る7月19日にて学位取得後通算4年となりました。

その当時から現在に至るまで自身としてはあまり進化した自覚はありませんが、同時にそこで得たものが多少は現在に生かされているとも思われますので、今後は更に、もう少し多くそれを生かすことが出来る方向を模索してみようと思います。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被害を被った地域における諸インフラの復旧およびその後の早期の復興を祈念しています。

20170720 『貴族の階段』・『迷路』・『1984』から思ったこと・・時代精神

昨日投稿分の記事は投稿翌日にしては多くの方々に読んで頂けました。

読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

また、この記事にて取りあげた武田泰淳著『貴族の階段』は本日さきほど読了に至りました。

さて、この著作とは、野上彌生子著『迷路』とほぼ同時代を舞台としたものであり、且つその主人公である菅野省三とは『貴族の階段』の著者である武田泰淳と重なる経験を持っていると云えますので、この両著作の間には共通する何かしらの『感覚』があるのではないかと思われます・・。

そして、その『感覚』とは、もとより私見ではありますが武田泰淳、野上彌生子の両者が共通して経験したであろう、大々的な戦争に突入する前段階ともいえる1930年代における我が国の社会状況・様相への漠然とした不安・怖れではないかと思われます・・。

その後に勃発する大々的な戦争、太平洋戦争に至っては既にこうした状況とは過去のものとなり、またそれはそれで戦時下での経験を基に書かれた書籍・文献等に多く書かれているように苦渋に満ちたものであったのでしょうが、同時にそこでは戦時下という状況が既に所与のもの、動かし難いものであったと云えます・・。

そして、まさにその点(未だ大々的な戦争に至っていない)において冒頭に挙げた両著作に共通する感覚としての不安・怖れが一層鮮明・明確となり、現在を生きる読者たる我々に迫ってくるのではないかと思われます。

その意味において現今の我が国社会とは、果たして時宜的にこれら著作を読むに適しているのか判断は出来かねますが、それでもやはり強く訴えかける、問いかける『何か』があるのではないかと思われます・・。

そして、その『何か』とは、これまた私見ではありますがジョージ・オーウェル著『1984』読了後に強く感じる『ああ、こんな社会はイヤだなあ・・』といった心情ではないかと思われます・・。

その意味で現今の我が国社会とは、幸運なことに、そこからはまだ遠いともいえますが、しかし同時に今後、そうした方向へ社会が変化していく可能性をも(相対的に高く)秘めているのではないかとも思われます・・。

また、そのことと多少関連するのかもしれませんが、昨今『応仁の乱』という書籍が多く読まれているとのことですが、この現象とは、あるいは我が国にて特徴的ともいえる遠回し、間接的な現今の時代精神への興味の発露およびその指摘ではなかろうかとも考えさせられます。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現今に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害などの大規模自然災害により被害を被った地域での諸インフラの復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。』







2017年7月20日木曜日

20170719 読んでいた小説から思ったこと、歴史認識の方法について・・

A「昨日投稿分の記事に書きました著作は、その後かなり読み進み、おそらく本日の就寝間際の読書にて読了に至るのではないかと思われます。

その著作とは武田泰淳著『貴族の階段』であり、これは丁度2・26事件の頃(1936・昭11)の主に華族社会を舞台としたものであり、また、その書かれている世界とは、さきのブログ記事にも書いた野上彌生子著『迷路』とも類似するものであり、再読の際に、その比較を行うこともまた面白いのではないかと思われます(笑)。

ともあれ、この『貴族の階段』では、主に若い女性の登場人物たちを軸として物語が進行されるのですが、こうしたいわば『女の世界』の描写を何故、男性作家である武田泰淳が為し得ているのか、自身にはいささか不思議に思われました・・(笑)。

おそらく、これは自身の人生経験および観察力の不足によるものであると思われますが、いずれにしましても今後、自身がこうした物語を書くことはまず不可能であるように思われます・・(苦笑)。

また、2・26事件をも題材とすることから、軍隊(帝国陸軍)内の様相もまた著作内に書かれてはいるのですが、これに関しては、大西巨人著『神聖喜劇』あるいは山本七平による一連の軍隊(帝国陸軍)ものと比較しますと幾分精細に欠けるようにも思われます・・。

とはいえ、この著作とは、物語としては大変面白く、同時に、この時代の一つの様相を知る上においても有益であると思われます。

加えて、このことに多少尾鰭をつけてハナシを進めてみますと、1920・30年代(大正末~昭和初期もしくは戦間期)の概括的な歴史の流れを知るための一つの方法として、先ずマンガ『はいからさんが通る』を読み、次いでさきの『貴族の階段』に至り、そして『迷路』を読んでみるというのは、あるいはそれなりに有効ではないかとも思われますが如何でしょうか?

このことを書いてみますと、私はかねてより、こうした、どちらかというと帰納法的な方法にて歴史の流れを把握しようとする癖があるように思われます・・(笑)。

とはいえ、こうした方法によっても、ある程度の認識に達しますと、その分野の専門・学術書も特に無理なく読みこなすことが出来るようになり、またその継続によって、今度はいくつかの時代・地域に対しての認識に達しますと、次はより歴史を概括的に捉えた抽象的ともいえる哲学・思想関連のいくらかの著作をも特に無理なく自然に読むことが出来るようになるのです・・。

無論、こうした方法は時間も掛かり、面倒ではあるのですが、それでも自身としては、これが一つの歴史を知るうえの正当な手段ではないかと考えております。

また、ここまで書き、記事に登場する書籍・著者・マンガ等をリンクさせるため、インターネット検索をしていて不思議に思われたことは、さきに挙げたマンガ『はいからさんが通る』が今年の11月に新たなバージョンとしてアニメ映画化されることです・・(笑)。

あるいは私はこうした情報をどこかで見ており、ほぼ無意識ながら、このことを認識していたのかもしれません・・。

そして、こうしたこともまた、昨日投稿分の記事に書いた『シンクロニティ』と関連するものなのでしょうか(笑)?

さて、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現今に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被害を被った地域での諸インフラの復旧そしてその後の早期の復興を祈念しています。』