おかげさまで、昨日(20160324)で全期間のブログの閲覧者数が50000人に到達しました。
また、閲覧者の方々の反応を見ておりますと、私が思うよりも深く記事を読んでくれている方々がいらっしゃるようであり、それにより新しい記事を書く意欲が湧き、また「いい加減なことは書けないな・・」といった気の引き締めにもなります。
そういえば、今現在はほとんど見ることはありませんが、以前作成したSNSの記事、投稿は現在なおそのままにしてあります。
このSNSでの記事、投稿の文章とは稚拙ではあると思いますが、内容に関しては、特にいい加減、ウソを記したとも考えておりませんので、放置している次第です。
また、現在作成している一連のブログも、そのうちのごくごくわずかは削除しましたが、大部分は掲示しております。
とはいえ、以前は記事の作成自体が現在に比べ、かなり面倒くさく思っており、また自身の思ったこと、知っていることを記す、公表することに対して何かしらの抵抗感を持っておりました。
それは「私自身の持つ知識、そしてそれに基づく考えとは、私だけのものである。」といった考えに立脚するものであり、ある意味、独り占めを志向していたのではないかと思います・・。
それらの知識、考えが客観的に見た場合、それ(独り占め)に値するものであるかどうかはわかりませんが・・(苦笑)。
しかし、本質的に自分の知り得た知識、考えの独り占めを志向することは、良いことではないと私は考えます。
そのような志向を強く持つ個人、組織、国などは長い目で考えてみますと、衰亡してゆくのではないかと思いますが如何でしょうか?
読み手の方々が私の書いた記事を興味を持って読んでくださるかどうかは別として考えてみても、それでも、とりあえず自身の知識、考えを言語化、文章化して発信することには何かしらの意味があるのではないかと思います。
2016年3月25日金曜日
2016年3月24日木曜日
20160324 D2病の特徴について・・
以前作成したブログ記事にも記しましたが、2012年の私には何かしら躁的(D2病)なものがあったのではないかと思います。
そしてそれは、後から訪れる反動を勘案して考えてみますと、なかなか怖い、恐ろしいものであると思います・・。
しかし、それと同時に、そういった時期には何かしら面白いこともまた起きるのではないかと思います。
2012年に関西某所にて開催された勉強会に出席した私は、自身の発表内容の資料、レジュメを作成しました。
そして、その中にトーマス・マンの「魔の山」内の主人公ハンス・カストルプとベーレンス顧問官の会話、やりとりを抜粋、引用しました。
これは発表内容の要旨を的確に表現していると考えたため、そうした次第です。
そして、面白いことに、その翌年2013年に封切られたジブリアニメ「風立ちぬ」内において、この「魔の山」に基づいた事柄、挿話がいくつか出てきました。
こうした偶然は私自身にとってはなかなか面白く、何故そういったことが起きたのか未だに不思議に思っています。
また、このことを知人等に話しますと、概ね『それは単なる偶然だよ。』といった感じに落ち着くのですが、私としては、たとえ偶然であったとしても『何故こうした偶然が起きたのか?』ということが気になり、不思議に思うところなのです。
とはいえ、こうしたことを深く考えてみても、適切な回答を得ることは難しいのではないかと思います。
あるいは、こうした躁的な状態において、個人の精神とは、時折、何といいますか集合的無意識の層のようなものに達することがあるのかもしれません。
また、作家で精神科医の北杜夫もその著作の中で「躁の状態において人間の精神とは未来に向かって疾走する。」といったことが書かれておりましたので、何かしら、そういったものがあるのではないかとも思います。
よくわかりませんが・・。
また、そうしますと「人間の実在、本質を文字を以って迫る、描写することは可能なのだろうか?」と考えてしまうのですが、こうした疑問に対しジョセフ・コンラッドであれば否定的に考え「それでも敢えて勇気をもって表層に留まることこそが分別のある人間の姿勢だ。」といった感じになるのではないかと思います。
一方、バートランド・ラッセルやルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインであれば、人間の実在、本質に対し、文字、言語を用いてギリギリまで迫ろうとするのではないかとも思います・・。
そして、そこで思い出すのはロジ・コミックスというマンガのpp.250‐251に記されているセリフで
『深淵の縁に立たされ、想像を絶する出来事に遭遇すると、人は神秘主義者か狂人になる・・・この両者はおそらく同じものなのだ!』
となりますが、如何でしょうか?
おかげさまで本日(20160324)ブログの全期間の閲覧者数が50000人に到達いたしました。
興味を持って読んでいただいている皆様、どうもありがとうございます。
今後も出来る限り書き続けてゆこうと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.336‐337より抜粋
『ともあれ、躁鬱病になって本当に良かったと思う。
躁は未来へ向かって突き進む、鬱は過去へ向かって沈潜する。従って、私には未来も過去も分かるのだ。
古代人は過去ばかり考えていた。
ようやく二十世紀になって未来を考えるようになった。
しかし、未来よりも過去のほうがより大切である。
たびたび述べたように、近代人は未来ばかり考えているから堕落したのだ。
実はヴィンスワンガーの美しき説は、なだ君から教わった。
しかし、先日、二階の書斎の戸棚を見ていたら、なだ君も知らぬヴィンスワンガーの著者が三冊も見つかった。
医局時代は貧乏であったから、おそらく作家になってからいつの間にか買ったものであろう。
私はまだ若い頃、自分に必要な書物はなにも求める必要はない、本当に必要なときは不思議な因縁によってめぐりあえるものであると書いたが、まさしくその通りであった。』
そしてそれは、後から訪れる反動を勘案して考えてみますと、なかなか怖い、恐ろしいものであると思います・・。
しかし、それと同時に、そういった時期には何かしら面白いこともまた起きるのではないかと思います。
2012年に関西某所にて開催された勉強会に出席した私は、自身の発表内容の資料、レジュメを作成しました。
そして、その中にトーマス・マンの「魔の山」内の主人公ハンス・カストルプとベーレンス顧問官の会話、やりとりを抜粋、引用しました。
これは発表内容の要旨を的確に表現していると考えたため、そうした次第です。
そして、面白いことに、その翌年2013年に封切られたジブリアニメ「風立ちぬ」内において、この「魔の山」に基づいた事柄、挿話がいくつか出てきました。
こうした偶然は私自身にとってはなかなか面白く、何故そういったことが起きたのか未だに不思議に思っています。
また、このことを知人等に話しますと、概ね『それは単なる偶然だよ。』といった感じに落ち着くのですが、私としては、たとえ偶然であったとしても『何故こうした偶然が起きたのか?』ということが気になり、不思議に思うところなのです。
とはいえ、こうしたことを深く考えてみても、適切な回答を得ることは難しいのではないかと思います。
あるいは、こうした躁的な状態において、個人の精神とは、時折、何といいますか集合的無意識の層のようなものに達することがあるのかもしれません。
また、作家で精神科医の北杜夫もその著作の中で「躁の状態において人間の精神とは未来に向かって疾走する。」といったことが書かれておりましたので、何かしら、そういったものがあるのではないかとも思います。
よくわかりませんが・・。
また、そうしますと「人間の実在、本質を文字を以って迫る、描写することは可能なのだろうか?」と考えてしまうのですが、こうした疑問に対しジョセフ・コンラッドであれば否定的に考え「それでも敢えて勇気をもって表層に留まることこそが分別のある人間の姿勢だ。」といった感じになるのではないかと思います。
一方、バートランド・ラッセルやルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインであれば、人間の実在、本質に対し、文字、言語を用いてギリギリまで迫ろうとするのではないかとも思います・・。
そして、そこで思い出すのはロジ・コミックスというマンガのpp.250‐251に記されているセリフで
『深淵の縁に立たされ、想像を絶する出来事に遭遇すると、人は神秘主義者か狂人になる・・・この両者はおそらく同じものなのだ!』
となりますが、如何でしょうか?
おかげさまで本日(20160324)ブログの全期間の閲覧者数が50000人に到達いたしました。
興味を持って読んでいただいている皆様、どうもありがとうございます。
今後も出来る限り書き続けてゆこうと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.336‐337より抜粋
『ともあれ、躁鬱病になって本当に良かったと思う。
躁は未来へ向かって突き進む、鬱は過去へ向かって沈潜する。従って、私には未来も過去も分かるのだ。
古代人は過去ばかり考えていた。
ようやく二十世紀になって未来を考えるようになった。
しかし、未来よりも過去のほうがより大切である。
たびたび述べたように、近代人は未来ばかり考えているから堕落したのだ。
実はヴィンスワンガーの美しき説は、なだ君から教わった。
しかし、先日、二階の書斎の戸棚を見ていたら、なだ君も知らぬヴィンスワンガーの著者が三冊も見つかった。
医局時代は貧乏であったから、おそらく作家になってからいつの間にか買ったものであろう。
私はまだ若い頃、自分に必要な書物はなにも求める必要はない、本当に必要なときは不思議な因縁によってめぐりあえるものであると書いたが、まさしくその通りであった。』
2016年3月23日水曜日
20160323 続「専門知識」とは・・
A「理系学問分野においては、あるコトバ(専門用語)が指し示す対象とは、概ね実在するものです。
それに対し、文系学問分野におけるコトバ(専門用語)とは、往々にして、その対象が実在するものではなく、時代によって解釈、定義が異なる概念あるいは事物であったります。
また、それに加えて、近代以降の我が国における学問全般とは、西欧から輸入されたものであり、その方法論、考え方などにおいて現在なお強い影響を受けています。
そして、それはたとえ民俗学などのような近代以前の我が国の文化、習俗などを研究対象とする学問においても同様であり、その記述法、用いる方法論において、西欧から輸入された手法を用いざるを得ないのが現状であるといえます。
また、そのような手法に拠らなければ、現代の我が国において学問として認められる文章(主に論文)は書くことができないのではないかと思います。
それほどまでに近代以降の我が国の学問全般とは、西欧からの影響を強く受けているといえます。
しかし、理系学問分野においては、その多くが実際の生活に資することが多いこと、つまり、強い必要性により、あまりこういったことは考慮されず、どちらかといえば、所与(アプリオリ)のものとされる傾向があったのではないかと思います。
また、それに加えて、古来より我が国は自然環境が豊かであることから、そうした要素(理系学問分野)に対する感受性は鋭く、近代以降に流入した西欧的な自然科学をはじめとする理系学問分野の学問体系も比較的容易に咀嚼吸収できるような文化的背景があったのではないかと思います。
さらに理系学問全般とは、再現可能性、つまりその知識、見解の普遍性を大変重視します。
そうしますと、基本的に、理系学問分野においては東西文化の相違とは、あまり考慮される(べき)ものではないと思われます。
それでは、その一方において、文系学問分野におけるコトバ(専門用語)および、それにより体系化された知識の価値とは一体どのようなモノなのでしょうか?
それは現在のような時代であるからこそ、今一度真剣に学び、考えてみる価値があるのではないかと思います。
そして、その結果として、文系学問分野とは小価値であると認定するに至っても、そこに至るまでの学び、考えてみる過程こそが既に小価値ではないと私には思われるのです。
そして、そうした学び、考える過程とは、各々個々人が実際に経験してみないとわからないということが、先ほど述べた理系学問全般における知識、見解の普遍性と大きく異なる点ではないかと思います。
そして、現在のような個人の経験、体験を代行してくれる便利な道具が増えてゆくにしたがい、こうした文理間の異なる点もまた、ボヤけてくるのではないかと思います。
こうしたことは実のところ進化なのでしょうか?
あるいは退化なのでしょうか?
まあ、単純に割り切れるようなことではないと思いますが、そういった面倒でカネにならないようなことを時折考えてみるのもまた価値のあることではないかと思います・・。」
それに対し、文系学問分野におけるコトバ(専門用語)とは、往々にして、その対象が実在するものではなく、時代によって解釈、定義が異なる概念あるいは事物であったります。
また、それに加えて、近代以降の我が国における学問全般とは、西欧から輸入されたものであり、その方法論、考え方などにおいて現在なお強い影響を受けています。
そして、それはたとえ民俗学などのような近代以前の我が国の文化、習俗などを研究対象とする学問においても同様であり、その記述法、用いる方法論において、西欧から輸入された手法を用いざるを得ないのが現状であるといえます。
また、そのような手法に拠らなければ、現代の我が国において学問として認められる文章(主に論文)は書くことができないのではないかと思います。
それほどまでに近代以降の我が国の学問全般とは、西欧からの影響を強く受けているといえます。
しかし、理系学問分野においては、その多くが実際の生活に資することが多いこと、つまり、強い必要性により、あまりこういったことは考慮されず、どちらかといえば、所与(アプリオリ)のものとされる傾向があったのではないかと思います。
また、それに加えて、古来より我が国は自然環境が豊かであることから、そうした要素(理系学問分野)に対する感受性は鋭く、近代以降に流入した西欧的な自然科学をはじめとする理系学問分野の学問体系も比較的容易に咀嚼吸収できるような文化的背景があったのではないかと思います。
さらに理系学問全般とは、再現可能性、つまりその知識、見解の普遍性を大変重視します。
そうしますと、基本的に、理系学問分野においては東西文化の相違とは、あまり考慮される(べき)ものではないと思われます。
それでは、その一方において、文系学問分野におけるコトバ(専門用語)および、それにより体系化された知識の価値とは一体どのようなモノなのでしょうか?
それは現在のような時代であるからこそ、今一度真剣に学び、考えてみる価値があるのではないかと思います。
そして、その結果として、文系学問分野とは小価値であると認定するに至っても、そこに至るまでの学び、考えてみる過程こそが既に小価値ではないと私には思われるのです。
そして、そうした学び、考える過程とは、各々個々人が実際に経験してみないとわからないということが、先ほど述べた理系学問全般における知識、見解の普遍性と大きく異なる点ではないかと思います。
そして、現在のような個人の経験、体験を代行してくれる便利な道具が増えてゆくにしたがい、こうした文理間の異なる点もまた、ボヤけてくるのではないかと思います。
こうしたことは実のところ進化なのでしょうか?
あるいは退化なのでしょうか?
まあ、単純に割り切れるようなことではないと思いますが、そういった面倒でカネにならないようなことを時折考えてみるのもまた価値のあることではないかと思います・・。」
2016年3月22日火曜日
20160322 D2病について
私事になってしまい恐縮ですが、先日人と話していたところ、去る2012年に久々に私と会ったその方は、彼が知る私は2012年当時で大きく変化していたとのことでしたが、これは今となって思い返してみますと、たしかに、そのように感じるのが自然であったのではないかと思います・・。
あの当時の自身を思い返しますと、やはり少し変であったのではないかと思います・・。
そして、まさしく当時の私こそがD2病真っ只中であったのではないかと思います・・(苦笑)。
そのようにして思い返してみますと、さらに以前の2008年当時の私とはM2病をかなり強く引きずっていたのではないかと思います・・。
そして、この当時もなかなかイタイ行為をしていたような記憶がウッスラとあります・・(苦笑)。
とはいえ、言い訳となってしまいますが、ある程度のいい年をして相当イタイことを無意識のうち(ここが大事です(笑))に出来るという場所が大学院ではないでしょうか?
また、様々な分野における研究などは、そういった精神的、文化的土壌においてのみ、能動的、創造的に活動することができるのではないかと思います。
それ故、このイタサは致し方ないものではないかと思います。
特に理系学問分野においては、より多額の研究資金を獲得することが重要であるのですが、それにのみ強く縛られてしまいますと、能動性、創造性の源泉たる精神の自由をもなくしてしまうおそれがあるのではないでしょうか?
つまり、大学院などでは、はたから見て多少(自然に)おかしくなっている状態の方が主観的には面白く、有意義に過ごすことができるのではないかと思います・・。
しかし、現在、もし私が再びそういった精神状態に戻ることが出来るということであれば、それはかなり真剣に悩むと思いますが・・。
あの当時の自身を思い返しますと、やはり少し変であったのではないかと思います・・。
そして、まさしく当時の私こそがD2病真っ只中であったのではないかと思います・・(苦笑)。
そのようにして思い返してみますと、さらに以前の2008年当時の私とはM2病をかなり強く引きずっていたのではないかと思います・・。
そして、この当時もなかなかイタイ行為をしていたような記憶がウッスラとあります・・(苦笑)。
とはいえ、言い訳となってしまいますが、ある程度のいい年をして相当イタイことを無意識のうち(ここが大事です(笑))に出来るという場所が大学院ではないでしょうか?
また、様々な分野における研究などは、そういった精神的、文化的土壌においてのみ、能動的、創造的に活動することができるのではないかと思います。
それ故、このイタサは致し方ないものではないかと思います。
特に理系学問分野においては、より多額の研究資金を獲得することが重要であるのですが、それにのみ強く縛られてしまいますと、能動性、創造性の源泉たる精神の自由をもなくしてしまうおそれがあるのではないでしょうか?
つまり、大学院などでは、はたから見て多少(自然に)おかしくなっている状態の方が主観的には面白く、有意義に過ごすことができるのではないかと思います・・。
しかし、現在、もし私が再びそういった精神状態に戻ることが出来るということであれば、それはかなり真剣に悩むと思いますが・・。
2016年3月21日月曜日
20160321 専門知識と教養について・・
現在色々と取り沙汰されておりますが、専門知識とは一体何でしょうか?
これは医学などの理系学問分野などにおいては、その職務を行う上において必要不可欠な知識であると云えます。
一方、文系学問分野の中で、特に法学・会計学以外の分野などにおいては、その専門知識とはどういったものであるかとは分かり難いのではないかと思われます。
他方で古くからの文系学問分野、具体的には思想史・歴史系の分野においては、単に自身の専門分野での知識のみならず、それを理解するために膨大な様々な領域における周辺知識が必要とされます。
そうした周辺知識に支えられ、はじめて自身の専門知識が生き、それを読み、聞いている方々が内容の意味の深みを知り、そして述べる内容に説得力が付与されるのではないかと思われます。
また、その周辺知識とは「教養」とも称することができるのではないかと思います。
この「教養」とは、特に理系学問分野の場合、直接的に専門知識とは結び付かず、あるいは(これまた直接的には)経済的利益もたらさないことから、此岸性を重視する傾向が著しく強い我が国の社会においては、表面的な扱いはともかく、本質的に「教養」を軽視、あるいは、その真価、存在意義の重さ、深さを見誤り続けてきたのではないかと思われます。
その結果、近代、特に戦後以降の我が国における「教養」とは、さきほど述べたように経済的利益と直接に結び付かないことから、そうしたことに情熱を持つことができる少数の方々によって細々と半ば私的に研究され続けてきたといった側面が強いのではないかと思われます。
そしてこれまで細々とこの「教養」に携わってきた方々が現在巷において見受けられるの歴史、教養、勉強ブームを見ると、それは「我が意を得たり!」といった感じになるのでしょうか?
これは医学などの理系学問分野などにおいては、その職務を行う上において必要不可欠な知識であると云えます。
一方、文系学問分野の中で、特に法学・会計学以外の分野などにおいては、その専門知識とはどういったものであるかとは分かり難いのではないかと思われます。
他方で古くからの文系学問分野、具体的には思想史・歴史系の分野においては、単に自身の専門分野での知識のみならず、それを理解するために膨大な様々な領域における周辺知識が必要とされます。
そうした周辺知識に支えられ、はじめて自身の専門知識が生き、それを読み、聞いている方々が内容の意味の深みを知り、そして述べる内容に説得力が付与されるのではないかと思われます。
また、その周辺知識とは「教養」とも称することができるのではないかと思います。
この「教養」とは、特に理系学問分野の場合、直接的に専門知識とは結び付かず、あるいは(これまた直接的には)経済的利益もたらさないことから、此岸性を重視する傾向が著しく強い我が国の社会においては、表面的な扱いはともかく、本質的に「教養」を軽視、あるいは、その真価、存在意義の重さ、深さを見誤り続けてきたのではないかと思われます。
その結果、近代、特に戦後以降の我が国における「教養」とは、さきほど述べたように経済的利益と直接に結び付かないことから、そうしたことに情熱を持つことができる少数の方々によって細々と半ば私的に研究され続けてきたといった側面が強いのではないかと思われます。
そしてこれまで細々とこの「教養」に携わってきた方々が現在巷において見受けられるの歴史、教養、勉強ブームを見ると、それは「我が意を得たり!」といった感じになるのでしょうか?
2016年3月16日水曜日
20160316 文章が湧き出す源泉とは・・
これまでしばらく独白形式の文体を用いてブログ記事を書いてきましたが、この場合、記事作成者、つまり私が、読んでくださっている方々に対し、直接語りかけ、問いかけるような感じになると思います。
私のブログを読んでくださっている方々とは、否応無く、その殆どが不特定多数となりますので、もしも今後私が何かしら筆禍らしきことをしてしまいますと、炎上等が生じる可能性もあります(もちろん私はそれを望みませんが(笑))。
そして、それは作成者である私が自身の名前、写真等を示してブログ記事を書いていることにより容易に可能となります。
そして、そうしたことを多少なりとも認識してブログ記事を書いておりますと、やはり何かしら「圧力」を感じるのもまた自然ではないかと思われます・・。
また、そうしたことをも勘案し、著述業に携わる多くの方々とは筆名、ペンネームを用いているのではないでしょうか?
これを当ブログ記事作成者に適用してみますと、それは単なる自意識過剰であり、不必要であると思われますが、同時に、これまでの対話形式のブログ記事においてA、Bといった登場人物がおり、それらの会話という形式をとってきましたので、今後の作成するブログ記事も、その伝に倣い、A、B何れかの発言という形式にしてみようと思います。
こうしたわずかな変化によって、何かしら、今後の文章、文体に対し影響、変化は生じるのでしょうか?
また、そうしたことが生じるとしても、それが自他にとって良いものであるかどうか判断することはなかなか難しいのではないでしょうか?
ともあれ、ここまで記事を書いてきましたので、この記事の冒頭にA「そして最後に」を入力してみようと思います(笑)。
また、ここで不図思い出したのはゲーテの言葉で「心身を蘇らす泉とは自身の内部になければ心身を蘇らすことはできない。」あるいは「自身のハートから出たコトバでなければ他者のハートを引寄せることはできない。」ですが、何故それらを思い出したのかはよく分かりません・・(笑)。
とはいえ、私の場合、そういったものは自身の内部に本当に存在するのでしょうか?
また、こういったものは理系、文系問わず重要なのではないかと思います。
言語とは、コトバとは、文章とは一体何でしょうか・・(笑)?
何れにしても、今後もその多くは拙いとは思いますが、何かしら書き続けてゆこうと思います。
どうぞよろしくお願いします。」
私のブログを読んでくださっている方々とは、否応無く、その殆どが不特定多数となりますので、もしも今後私が何かしら筆禍らしきことをしてしまいますと、炎上等が生じる可能性もあります(もちろん私はそれを望みませんが(笑))。
そして、それは作成者である私が自身の名前、写真等を示してブログ記事を書いていることにより容易に可能となります。
そして、そうしたことを多少なりとも認識してブログ記事を書いておりますと、やはり何かしら「圧力」を感じるのもまた自然ではないかと思われます・・。
また、そうしたことをも勘案し、著述業に携わる多くの方々とは筆名、ペンネームを用いているのではないでしょうか?
これを当ブログ記事作成者に適用してみますと、それは単なる自意識過剰であり、不必要であると思われますが、同時に、これまでの対話形式のブログ記事においてA、Bといった登場人物がおり、それらの会話という形式をとってきましたので、今後の作成するブログ記事も、その伝に倣い、A、B何れかの発言という形式にしてみようと思います。
こうしたわずかな変化によって、何かしら、今後の文章、文体に対し影響、変化は生じるのでしょうか?
また、そうしたことが生じるとしても、それが自他にとって良いものであるかどうか判断することはなかなか難しいのではないでしょうか?
ともあれ、ここまで記事を書いてきましたので、この記事の冒頭にA「そして最後に」を入力してみようと思います(笑)。
また、ここで不図思い出したのはゲーテの言葉で「心身を蘇らす泉とは自身の内部になければ心身を蘇らすことはできない。」あるいは「自身のハートから出たコトバでなければ他者のハートを引寄せることはできない。」ですが、何故それらを思い出したのかはよく分かりません・・(笑)。
とはいえ、私の場合、そういったものは自身の内部に本当に存在するのでしょうか?
また、こういったものは理系、文系問わず重要なのではないかと思います。
言語とは、コトバとは、文章とは一体何でしょうか・・(笑)?
何れにしても、今後もその多くは拙いとは思いますが、何かしら書き続けてゆこうと思います。
どうぞよろしくお願いします。」
2016年3月15日火曜日
20160315 対話形式から独白形式に変更した理由について・・
どのような心境、考えの変化により、これまでの対話形式から独白形式に変えたのかは実際よくわかりません。
ただ、伝えたい内容をより直接的に発信するという意味では、現在の独白形式の方が優れているように思います。
このことを異言すると、コトバ、文章の機能を「情報伝達のための手段」であると考えてみると、独白形式の方が対話形式よりも優れているということになります。
では何故、これまで私は対話形式を用いてブログ記事を作成し続けたのでしょうか?
それは、以前の対話形式のブログ記事においても記されていましたが、先ず、対話形式を用いることにより「著者の考え=文章の内容」とならないことにより、生じるかもしれない批判、非難そして炎上をかわすことが出来ると考えたためです。
次に、独白形式の優れている点の逆となりますが、間接的(他者による対話)に読んでくださる方々に対して発信することにより、その受けとられ方が若干柔らかになるのではないかと考えたためです。
これらの私の考える対話形式の優れた点とは、全般的に発信する内容、情報を柔らかく、なめらかになるということではないかと思います。
加えて、書かれている内容、情報の推敲の過程を独白形式の文体よりも詳細に表現することができるという点も挙げられると思います。
さらにまた下世話な話になりますが、対話形式を用いることにより文字数をカサ増し、増量することが独白形式の文体に比べ容易であるということもまた挙げられると思います。
とはいえ、これらはあくまでも記事を書いた私の意見であり、読んでくださっている方々の意見ではありませんので、断定、断言することはできません。
また単純に、読んでいて、どちらの形式の方が(まだ)面白く読めるかというのもまた、私一人で判断できることはありませんので、今後適当な判断材料を見つけ、考えてみたいです。
一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。
ただ、伝えたい内容をより直接的に発信するという意味では、現在の独白形式の方が優れているように思います。
このことを異言すると、コトバ、文章の機能を「情報伝達のための手段」であると考えてみると、独白形式の方が対話形式よりも優れているということになります。
では何故、これまで私は対話形式を用いてブログ記事を作成し続けたのでしょうか?
それは、以前の対話形式のブログ記事においても記されていましたが、先ず、対話形式を用いることにより「著者の考え=文章の内容」とならないことにより、生じるかもしれない批判、非難そして炎上をかわすことが出来ると考えたためです。
次に、独白形式の優れている点の逆となりますが、間接的(他者による対話)に読んでくださる方々に対して発信することにより、その受けとられ方が若干柔らかになるのではないかと考えたためです。
これらの私の考える対話形式の優れた点とは、全般的に発信する内容、情報を柔らかく、なめらかになるということではないかと思います。
加えて、書かれている内容、情報の推敲の過程を独白形式の文体よりも詳細に表現することができるという点も挙げられると思います。
さらにまた下世話な話になりますが、対話形式を用いることにより文字数をカサ増し、増量することが独白形式の文体に比べ容易であるということもまた挙げられると思います。
とはいえ、これらはあくまでも記事を書いた私の意見であり、読んでくださっている方々の意見ではありませんので、断定、断言することはできません。
また単純に、読んでいて、どちらの形式の方が(まだ)面白く読めるかというのもまた、私一人で判断できることはありませんので、今後適当な判断材料を見つけ、考えてみたいです。
一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。
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