以前作成したブログ記事にも記しましたが、2012年の私には何かしら躁的(D2病)なものがあったのではないかと思います。
そしてそれは、後から訪れる反動を勘案して考えてみますと、なかなか怖い、恐ろしいものであると思います・・。
しかし、それと同時に、そういった時期には何かしら面白いこともまた起きるのではないかと思います。
2012年に関西某所にて開催された勉強会に出席した私は、自身の発表内容の資料、レジュメを作成しました。
そして、その中にトーマス・マンの「魔の山」内の主人公ハンス・カストルプとベーレンス顧問官の会話、やりとりを抜粋、引用しました。
これは発表内容の要旨を的確に表現していると考えたため、そうした次第です。
そして、面白いことに、その翌年2013年に封切られたジブリアニメ「風立ちぬ」内において、この「魔の山」に基づいた事柄、挿話がいくつか出てきました。
こうした偶然は私自身にとってはなかなか面白く、何故そういったことが起きたのか未だに不思議に思っています。
また、このことを知人等に話しますと、概ね『それは単なる偶然だよ。』といった感じに落ち着くのですが、私としては、たとえ偶然であったとしても『何故こうした偶然が起きたのか?』ということが気になり、不思議に思うところなのです。
とはいえ、こうしたことを深く考えてみても、適切な回答を得ることは難しいのではないかと思います。
あるいは、こうした躁的な状態において、個人の精神とは、時折、何といいますか集合的無意識の層のようなものに達することがあるのかもしれません。
また、作家で精神科医の北杜夫もその著作の中で「躁の状態において人間の精神とは未来に向かって疾走する。」といったことが書かれておりましたので、何かしら、そういったものがあるのではないかとも思います。
よくわかりませんが・・。
また、そうしますと「人間の実在、本質を文字を以って迫る、描写することは可能なのだろうか?」と考えてしまうのですが、こうした疑問に対しジョセフ・コンラッドであれば否定的に考え「それでも敢えて勇気をもって表層に留まることこそが分別のある人間の姿勢だ。」といった感じになるのではないかと思います。
一方、バートランド・ラッセルやルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインであれば、人間の実在、本質に対し、文字、言語を用いてギリギリまで迫ろうとするのではないかとも思います・・。
そして、そこで思い出すのはロジ・コミックスというマンガのpp.250‐251に記されているセリフで
『深淵の縁に立たされ、想像を絶する出来事に遭遇すると、人は神秘主義者か狂人になる・・・この両者はおそらく同じものなのだ!』
となりますが、如何でしょうか?
おかげさまで本日(20160324)ブログの全期間の閲覧者数が50000人に到達いたしました。
興味を持って読んでいただいている皆様、どうもありがとうございます。
今後も出来る限り書き続けてゆこうと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.336‐337より抜粋
『ともあれ、躁鬱病になって本当に良かったと思う。
躁は未来へ向かって突き進む、鬱は過去へ向かって沈潜する。従って、私には未来も過去も分かるのだ。
古代人は過去ばかり考えていた。
ようやく二十世紀になって未来を考えるようになった。
しかし、未来よりも過去のほうがより大切である。
たびたび述べたように、近代人は未来ばかり考えているから堕落したのだ。
実はヴィンスワンガーの美しき説は、なだ君から教わった。
しかし、先日、二階の書斎の戸棚を見ていたら、なだ君も知らぬヴィンスワンガーの著者が三冊も見つかった。
医局時代は貧乏であったから、おそらく作家になってからいつの間にか買ったものであろう。
私はまだ若い頃、自分に必要な書物はなにも求める必要はない、本当に必要なときは不思議な因縁によってめぐりあえるものであると書いたが、まさしくその通りであった。』
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