2016年1月23日土曜日

20160123 足袋、手ぬぐい、演技などについて

A「最近近所で室内用スリッパを購入したのですが、これを年中室内で用いている紺足袋の下に履くと、なかなかいいものです(笑)。」

B「Aさんは室内で足袋を履いているのですか?
足袋というとあの下にゴムが貼ってあるものですか?」

A「いえ、Bさんが仰るのは地下足袋でして、私が履いているのはコハゼ以外全て綿布(裏地はネル)で出来ているものです。
これは夏でもなかなか快適で和歌山、鹿児島在住時でも用いていました。
そして外出の際、面倒になりますと、靴下に履き替えず、足袋の下に靴を履いて出たこともありましたが、これはさすがに蒸れて往生しましたので、そのためユニクロの雪駄を購入しようと思いましたが、何故だかやめました・・(笑)。
それでも足袋はなかなかいいものですよ、Bさんも機会がありましたら履いてみては如何でしょうか?」

B「ふーん、この時代に足袋を普段着のように履いている人はこれまであまり見たことがありませんでしたが、いわれてみると案外いいものかもしれませんね(笑)。」

A「ええ、これこそ本当の意味でのクール・ジャパンではないかと思いますが・・(笑)。(足袋は通気性が良い)
加えて私は手ぬぐいを愛用しているのですが、これも温暖湿潤な我が国の気候に適したものではないかと思います。
鹿児島在住時、実験の際はよく手が汚れて、それを通して作成試料に異物が混入するとコトですので、手ぬぐいをベルトの後ろ側に半分にして垂らして、手を洗ったあとすぐに拭けるようにしていました・・。
あれは実用的で大変良かったと思いますが、一方今考えると実用に偏し過ぎ、多少外観を損ねていたかもしれません・・とはいえ、もとから大した外観でもありませんし、また白洲次郎も「腰手ぬぐいは実用的でいい。」と、どこかでいっていましたので、まあ存外悪くはないのではないかと思います・・(笑)。」

B「夏前に銀座の高級文具店などに行くと、よく手ぬぐいがキレイにディスプレイされて並んでいますが、本当の携帯方法、用途はAさんの方が伝統に即しているのかもしれませんね・・(笑)。」

A「ええ、それでも、そうした使用法などは実用性、合理性をほぼ無意識にて考えた結果、自然にそうなったのではないかと思います・・。
しかし、そういわれますとたしかにそういったのはどうも不思議ですね・・。
それでも洋服であれ、ほぼ無意識レベルでの実用性、合理性に基づいた着方が最も格好良いと私は思いますけれど・・。
それこそ、意識したものを無意識化した時の格好、着方が一番自然なのではないでしょうかね・・?
そういった意味において俳優という職業はとても難しいと思います・・。
加えて過去を舞台としたものを演じる時などは、身体の動かし方、話し方なども変えなければなりませんので、その苦労は大変なものであると思います。
その一方において、現代の若者などの間で見受けられるコスプレなどは、概ね架空の世界のキャラクターをモデルとしてますので、ある意味融通無碍であり、これはこれで苦労することもあるとは思いますが、前者に比べますと、割合楽になりきった感じを得ることが出来るのではないかと思いますが・・。」

B「・・ええ、私などから観ますと、最近の太平洋戦争ものの映画などを観ますとストーリー以前に俳優の方々の身体の動かし方、話し方などで大変残念ながら観る気を大分削がれてしまうことが多いですね・・。
一方、欧米などでは特に向こうの時代物、つまりシェイクスピアの劇などを演じる俳優などは知識階級に属するようでして、第二次世界大戦時にナチスが侵攻した際に東欧のどこかの国、地域で知識階級を処刑する指令が出て、それで俳優も処刑されることになったのですが、その中に現在は既に引退し、もうその面影を留めない老人が、処刑、生き残りを振り分けるナチス将校の前で堂々とシェイクスピアの劇の役を演じ、矜持を持って処刑される側に入れられたという話をかつて何かの書籍で読んだ記憶があります。
あれはたしか加藤周一のではなかったかと思いますが・・?
ともあれ、こうした俳優を日本に置き換えますと歌舞伎、能役者などになるのかもしれませんが、何れにせよ、こうした事情は、向こうとは若干異なるようです。
また、コスプレなどはカラオケも同様なのですが、古来より我が国ではアイドルなどのまさしく偶像的な存在を一つの職分とみなし、対象化、客観化して楽しむのと同様に、そうした存在の一挙手一投足を真似して同一化しようとする傾向もまた大変強いのではないかと思います。
そしてその真似が上手く、堂に入っていれば、それはそれでオリジナルと同程度の価値を持つというような傾向もまたあるのではないでしょうか?
そして、そういった傾向、性質とは、古代より続き、近代における西洋化という名の近代化のなかにおいても遺憾なくその才能が発揮されたのではないかと思います・・。
しかし、そういった真似とは、様々な事物の普及、一般化においては大変力を持つのですが、一方において、そのオリジナルが保持していた唯一の価値といったものの維持、持続、発展にはあまり効力を持たずに、たとえ普遍的に良いものであっても数代の後には忘れ去られ、辺境地域の遺物、文化としてかろうじて存続するなどといったことになるのかもしれません・・。
現在の地方活性化などにもそういった含みがあれば、それはそれで面白いのかもしれませんが、私から見ますと若干ニュアンスが異なるようにも思えますが・・実際のところどうなのでしょうか?」

A「随分手厳しいですが、おっしゃることは大体理解できます・・。そして、我が国の場合、たしかに客観化、対象化では事足りずに、どうも同一化を試みる傾向、性質が強いようにも思えます・・。しかし、そうした一挙手一投足までを視野に入れる同一化の欲求から発露される一種の即物性こそが再現可能性を最重要視する自然科学、理系学問分野における我が国の国際的優秀さ、高い評価の大きな要因であるような気もするのですが・・。」

B「ええ、それはたしかにそうであるかもしれませんね・・。そうしたデータの普遍性が最も大きな意味を持つ理系学問分野においてはそれで良いかもしれませんが、我々の日常生活とは、そういったもののみで構成されているわけではありませんからね・・。」

2016年1月22日金曜日

20160122 ブログ継続のために 文体の変化、オッカムの剃刀など

A「Bさん御自身の対話形式のブログも続いているようですが、その内容に関して何か思うことはあるのですか?」


B「・・正直あまり内容に関しての自信はあまりありません。
また、内容的に重複しているもの、あるいは記事内容が稚拙と思われるものもあると思います・・。
しかしながら、とりあえず現在はこれを書き続けることが大事であると思うのです・・。
というは私のブログでも一日概ね100人程度、そして海外から読んでくださっている方々もおられるようですので、たとえ現時点であまり自信がなくとも、とにかく書き続けた方が良いと考えるのです。
これは特に深刻な思いでもありませんが、同時にこのブログでも様々な意味において低迷、衰退しつつある現今我が国社会の状況を映す何かがあるのではないかとも考えています・・。
そして、それらを国内外からの閲覧者が読み、何かを感じ、考えていただけたら、それはそれで意味があるのではないかと思います。
そうした意味において、これまでに投稿した様々な書籍からの抜粋引用なども同様あるいはそれ以上に意味があるのではないかと考えます・・。」


A「・・なるほど、そうしますとBさんはブログの記事を書くことによって何といいますか、歴史に参加している感じを得ることが出来ているといったところでしょうか?
それはともかく、私個人はBさんのブログを楽しんで読ませていただいていますから、あまり肩肘を張らずに内容の重複、稚拙さへの心配などをしないで書き続ければいいのではないでしょうかね・・?」


B「はあ、そんなものでしょうかね・・。
私としてはあまり肩肘を張っているつもりはないのですが、それでもAさんをはじめ、私のブログを読んで頂いている方々には何かしらの新知見、視点あるいは考えるヒントなどを得ていただけたら、こちらも書いた意味を見出すことができますし、そして何より新しい記事を作成するエネルギーにもなりますからね・・(笑)。」


A「なるほど、力まずにしかも良いブログを作成するというのはなかなか難しいことのようですね・・そして、その難しいという意味は、読者の存在を意識しながらもあえて良い記事を作成しようと試みないで、それでいて何かしら意味がある記事を作成するというようなことなのでしょうか・・?」


B「ええ、いってみればそのような感じであるかもしれません。
そしてそれは、何だか中島敦の「名人伝」を想起させますね(笑)。
しかし、ああいった精神論的なものはかつて体育会に所属していた頃は何となく理解していたつもりではありましたが、現在ではどうもよくわからなくなってしまいましたね・・(苦笑)。
ただ、わからなくなったからといっても、そういった身体の記憶とは、何かしらあると思いますので、それは言い換えると意識したことを無意識化したともいえますので決して無駄であったとは思いませんが・・。」


A「そして現在はブログ記事の作成を行っているということですか・・。
しかし、それはそうと、かつてBさんは現在のように文章を書くことが出来ていたのですか?
あるいはまた現在のようにある程度の期間書き続けることが出来ていましたか?」


B「・・そうですね、多分現在のようにコンスタントに何らかの文章を書いていた時期はこれまでになかったと思います・・。
そしてこれは、やはりブログをはじめて、そしてある程度読んでくれている方々がいらっしゃったことにより、はじめて可能であったのではないかと思います・・。
その意味において、このブログが昨年六月から半年以上継続出来たことは私だけの力によるものではないと考えております。
また、以前ブログにも記しましたが、様々な良い意味での刺激を与えてくださる反応があることにより、記事作成の意欲を継続して持ち続けることが出来たのではないかと思います。」


A「なるほど・・200記事にはもう少しありますけれども、その調子で書き続けてください。
そして200記事まで到達しましたら、次はどうしますか?」


B「そういったこともあまり考えていませんし「先のことをいうと鬼が笑う」などともいいますので、とりあえず200記事到達まで書き続けてみます(笑)。
その先はその先で、また自身の文章が向上するか、あるいは多少こういったことに自信がつくのではないでしょうか?
ともあれ、この半年くらい継続的に文章を書き続けたことはこれまでにありませんでしたので、もう既にブログ作成をはじめた頃よりかは幾分か成長しているのではないかと思いますが、どうでしょうか・・?
そしてまたある程度の数の記事を作成しましたら、ブログをはじめた当初の頃の記事と比べてみようと思います・・。
そして、もしかしたら、そこから何かしらの発見があるかもしれません(笑)。」


A「それはなかなか面白そうですね・・(笑)。
それでもBさんは今後また論文のような硬質な文体で文章を書いてみたいと考えているのですか?」


B「・・論文のような硬質な文体は大抵どの分野においてもオッカムの剃刀の洗礼を受けなければなりませんので、あれは何度もやっていると、その要点の把握は出来るようになるのですが、同時に今現在の段階においては文章を書く楽しみのようなものが減衰してしまうのではないかと思うのです。
ブログをはじめた当初は、そうした考えに凝り固まっていたようで、そのためか文章を書くことを大変苦痛に感じていました・・(苦笑)。
そして、その苦痛が徐々に解きほぐれていったのは、現在のような口語体、対話形式に変えてからであるので、この間には私の思考が文語体から口語体への、あるいは文字言語から音声言語への変化が生じたのではないかと思います。
また、これはあたりまえの話なのですが、人間とは言語習得にあたり、はじめに口語体、音声言語を体得しますので、その意味において原始的なスタイルに戻ることにより文章作成の息を吹きかえすことができたのではないかと思います。
また、そうした原始的、未知の領域との間の揺れを通じて様々な能力とは進化してゆくのではないかと思います。
そしてこのことは案外重要であり、人間のある時期、年齢における教育の仕方などにおいても同様のことがいえるのではないかと思います。」


A「なるほど、それは面白い意見ですね、様々な領域への揺れを通じて人間の能力、感性は伸び、洗練されてゆくというのは、なんとなくわかります。
その意味において特に我々戦後の日本人とは、教育においては、どちらかというとそうした何というか動的、ダイナミックな要素よりも静的、スタティックな状況を好んでいたように思いますね・・。」


B「ええ、そうした静的、スタティックな環境、状況とは、どうしても熱というかエネルギーひいては創造性が発生しにくいのではないかと思います(笑)。」

2016年1月21日木曜日

20160121 テレビ、情報リテラシー、ラジオスターの悲劇などについて

A「最近男性五人組の人気アイドルグループの解散を匂わせるニュースがありましたけれど、あれは実際大したことなのでしょうかね?
テレビ報道などでは結構大々的にやっていたようだけれど、ああいった報道は、この時機に他の何かに目をそらせることを目的にしているのではないかな・・?」

B「私はテレビのニュースはあまり観ませんが、ネットのニュースでもそのことは大きく取上げられていましたので、一応知っています・・。
また、それが何か目くらましの目的を持っているのではないかという御意見も、それは充分あり得ると思います。
しかし、実際問題として、そのニュースがもたらす影響とは、テレビ離れが進行している現今我が国社会においてそこまで大きいものなのでしょうか・・?」

A「なるほど・・それもたしかに一理ありますね。
また、そう考えますと、このアイドルグループの解散危機の報道とは、テレビ離れを食い止める一つの策であるのかもしれませんね・・。
それに何故そして誰が、その解散危機を報道のネタにするのでしょうか?
他にもそういったグループはいくらでもあると思うのですが・・。」

B「ええ、それは昨今のネット社会の進行により、そうしたウラ事情の存在を考えさせるようになったのではないでしょうか?
その意味において、ネット社会の進行とは、情報リテラシーの向上にある程度寄与しているのかもしれませんね・・。
とはいえ、さきの報道の真相は相変わらず分かりかねますが・・(苦笑)。
まあ、いずれにしてもそれは我々を含めた多くの方々にとって、あまり関係のないことであるのではないかと思いますが(笑)。」

A「・・それはたしかにそうだけれど、そういった報道から何かしらの真相なり傾向を感知できるのではないかと考えるのも、また一つの情報リテラシーであると思いますので、そういった意味では、これはこれで有意義であると私は考えますが・・。」

B「まあ、そうですね・・(笑)。
しかし、様々なところで述べられていることですが、現代の情報化社会とは、報道も何もかもショー、見世物化しているということですが、こうした社会において、実際の日常的な職業上の経験、必要性以外において付加的に必要とされる情報リテラシーがネット社会の進行により向上するということは、良いことであるとは思いますが、一方においてそれは、何かしら負の要素もあるのではないかとも思いますが・・?
あたかもジェイコブスの怪談「猿の手」あるいは「イーリアス」のトロイの木馬のように・・。」

A「ううむ、そういった危惧とは、たしかに私も時折考えることですが、いずれにしてもテレビの情報媒体としての重要性が以前に比べ低下していることは明らかであると思いますので、相対的に見て今後大きな問題になるのは情報媒体としてのネット社会における自律性ではないかと思いますが、これもかなり難しい問題ではないかと思います・・。」

B「そうですね・・ここ20年程度における情報媒体に対する価値比重の大きな変化とは洋楽の「ラジオスターの悲劇」を彷彿とさせますが、とにかくこうした情報媒体とは、我々の日常生活に対し大きな影響を与えるという意味において大変重要であると考えますが、それでも今後のネット社会の進展に関しての具体的な予測は難しいですね。」

A「日常性に対する影響ですか・・たしかにそうですね。
そしてそのように考えると、様々な情報媒体が発信する内容とは、それを受け取る側にとって、いわば精神の食物にあたるのではないでしょうか・・?
現在、具体的な食物に対しては食育などもあり、情報媒体が発信する内容に関しては情報リテラシーがそれに相当するのではないかと思うのですが、このことに関しては最終的に「美味しい」とか「安全」などで片付けることが出来る食物と異なり、より何というか意識的、形而上的そして継続的な思考が重要視され、また、その際のある種の枠組み、土台となるものが、おそらく宗教であると思うのですが、これに関して我が国とは、欧米諸国に比べ大分事情が異なるのではないかと思います・・。」

B「うーん、たしかに欧米諸国に関しては、その日常的な意識において持つ宗教および宗教概念が少なくとも我が国に比べて大きな影響力を持っていると思いますからね・・しかし、それだからといって今後我が国が何等かの宗教を持つべきであるとは思えませんし。それ以前に無理であると思います・・(苦笑)。
何故ならば、そういった文化とは、自然な歴史的経緯によって培われるものですから・・しかし、おそらく明治以降の我が国とは、現代に至るまで、外国からの様々な文化の導入をその存立のために行わざるを得なかったのしょう・・。
これはAさん御存知のように夏目漱石が述べていたことですが・・。」
A「ええ、そのようにして成立している我々の日常性が何らかの原因により自身が持っている現実的な意識と合致、適応しないようになると、それに伴い自身が用いる言葉、言語が何というか現実味がない、味気ないものになってしまうのではないかと思います。
そして他者とは、そういったことを敏感に感じ取るものではないかと思います・・。
その意味において昨今のテレビ離れとは、こういったところにもまた原因があるのではないでしょうか?
加えて、これは教育現場などにおいても同様であるかもしれません・・。
さらに、その意味において書籍、ブログなどの面白さも、大きくそういった要素に依存しているのでしょう。」

B「ううむ、それはたしかにそうなのだけれど、一方において昨今流行の読書ブームやブックカフェみたいなものも結局何というかカーゴカルト的なものに思えてしまうこともありますので、Aさんのいう他者が、その解釈、つまり何を根拠にしてそれらの良し悪しを判断しているのか大変疑問に思うことがあるのです・・。
そして、そこから一歩進めると、それこそが日常性と現実的な意識が合致していないことを示しているのではないかと考えさせられるのです・・。
しかし、実際こうした意見をいうと「ではお前は日常性と意識は合致していて、十全に用いている言語、言葉、考え、思想を理解しているのか、あるいはそこまで偉いのか?」といった出る杭式の批判が生じるのが我が国の特性、傾向であると思うのです・・(苦笑)。
そして、これは多分改善されないどころか、ネット社会の進化により、益々その傾向を強めてゆくのではないかと思いますね・・。
それ故、さきほどの「猿の手」トロイの木馬を例として挙げたような危惧をおぼえるのです。」

A「・・まあ、たしかにそういわれるとそうですね・・。
歴史を知らないと歴史的因果律から脱却することは困難ですが、そういった認識を強要することは出来なく、またその一方において、これも重要ではあるのですが、西欧に直接的始原、基礎に持つ精緻に構築された物質文明に基づき存立している現今我が国の状態が、これもまた西欧に直接的起源があるネット社会の更なる進行により、今後どのような変化を遂げるのかとは、大変興味深いです・・。」

2016年1月20日水曜日

20160120 高等教育と我が国社会の特質について

A「最近また寒い日が続きますが、どうですか、元気でやっていますか?」

B「どうでしょうか・・それにしてもやはり首都圏、関東は寒いですね・・。
また、こう寒いと、どうも気分が滅入ってくることが時折あります。」

A「そうですね、寒いと色々と心身に対してマイナスなことが多いですね・・(苦笑)。
しかしAさんは北海道にも住んでいたことがあるのですよね?
その当時は大丈夫だったのですか?」

B「・・あの当時はまだ若く、あまりマイナスなことを考えることも無かったと思うのですが、それでも北海道はやはり冬季では日光量が少なく、そのせいか多少鬱気味になったような気もしました・・。
その経験から私は日光量が少なく、寒く、積雪量が多い場所は体質的に合わないことを知りました・・(苦笑)。」

A「そうでしたか・・しかし、そういったことは案外重要であると思いますので、求職活動などでは留意した方がいいと思いますよ。
それはそうと、求職活動の方はその後どのようになっていますか?」

B「そちらの方は相変わらず動いてはありますが、今後の動向はイマイチ読めませんね・・まあ、求職活動など概ねはそういったものであるとは思いますが(笑)。」

A「・・先が読めないといえば、日本の景気や高等教育を巡る環境などは今後どう変化してゆくのでしょうかね・・?」

B「・・それは少子高齢化の進行に伴い日本の経済的力は衰退し、また高等教育を巡る状況も同様な方向に変化してゆくのではないかと思います・・。
しかし、その対策として理系および資格系の教育を拡充し、それに加えて高等教育初期の導入部における教養教育を充実させることにより、どうにか乗越えることができるのではないかと考えますが・・。」

A「まあ、理屈的にはそうなのでしょうが、しかし理系、資格系の件は置いておいて、教養教育の充実などはそう簡単にいくものであると思えませんけれどもねえ・・。
つまり教養教育の真髄である学問研究への能動性を生じさせることは、一朝一夕に出来ることではないと思うのですが・・。
また、このことはこれまでの様々な歴史が、その証拠を我々に多く与えてくれていると思うのですがねえ・・・。」

B「ええ、それは仰るとおりであると思うのですが、同時にそれは地道に漸進的に行っていく以外にないのではないかと思います。
まさに「学問に王道なし。」といったところであると思いますが、これを改善する具体的な施策として、小規模の理系、資格系に加え教養系の学費の安い公立大学を増新設することではないかと思います・・。
このたとえは変であるかもしれませんが、アメリカでいうコミュニティーカレッジみたいなものに相当するのではないかと思います・・。」

A「理系、資格系と教養が併存する小規模の学費の安い公立大学ですか・・。
そうしたものがアメリカにはすでにあるのですか?」

B「ええ、あちらでは看護師、歯科衛生士などの資格や高等教育導入部における教養教育などで有名なコミュニティーカレッジ多く存在しますので、現在の大学が有している機能を分割し、その一部をこれらに移譲することができれば案外上手くゆくのではないかと思いますが・・?」

A「しかし、現在の大学がいわば既得権益として保持しているそうした機能をその新増設した小規模大学に移譲しますかね・・?
我々の国で行われるそうした改革とは、これまでのところ結局、既得権益保持層と、何というか原理的改革派との抗争によってその意義、本質が換骨奪胎されて、改革としての意味を為さないように作用してしまうのではないかと思うのですが・・。
それこそBさんがこれまでブログで何度か書いている大岡昇平の「俘虜記」における収容所社会でかなり明晰、痛烈に描かれていると思うのですが・・。
しかし、そう考えると、実は本当に問題なのは、そうしたかねてよりの我が国社会における普遍的な社会問題を示唆する文学、著作がいくつも存在するにもかかわらず、そういった問題が一向に明瞭化されないところなのかもしれませんね・・?
私は別に我が国が嫌いではなく、むしろ好きであると自覚しているのですが、そうであるからこそ、この一面において凝集性が強く、識字率が古来より高い我が国の社会が、そういった文学、著作に目を向けないで、またその内容、テーマを共感を持って理解しようとしないことが不思議で不思議で仕方ないのです・・。
また、我が国においては文学者、著述家で政治的意見を持つ方の多くが嘲笑、批判の対象になることには、それと同じような原因があるのではないかと思うのです・・。
そういったことから、私を含め我が国の国民性の一つとして自己愛性パーソナリティー障害に近いものがあるのではないかと考えさせられるのです・・(溜息)。
これは特に海外の著者が描く我が国国民性において多く見られ、それらは戦前、太平洋戦争中での体験に基づいているものであるのですが、こうした性質とは体制が変化してもそう簡単に変化するものであるとは思えませんので精神的古層、持続する重低音のように、現在なお強く示唆するものがあるのではないかと思うのです。
そして欧米の方々は、そうした方法をも用いて冷静、客観的に対象国に対する対応、政策を考えていることは今更いうまでもありません・・。
加えて、我が国の組織におけるモラハラ的なものも、その多くはこうした自己愛的な性質に由来しているのではないかとも思います。」

B「ええ、仰ることの意味はよく分かります。
そうした性質を搦め手より徐々に改変、進化することを試みるものが、さきほどの理系、資格系そして教養教育の充実なのですが・・どうでしょうかね?」

A「うーん、現在の我が国における既得権益層と改革派との抗争は、言い換えると世代間の抗争になるのでしょうか?
それとも、かつて時代のブルジョアジーとプロレタリアート間の階級闘争のような枠組みになるのでしょうか?」

B「・・それは何ともいえませんが、とにかく何らかの実効性を持つ改革は今後必要不可欠なのではないかと思えますが・・。」

20160119 知的訓練とフロー状態について・・

A「Bさんは色々な分野を横断してきましたけれど、その中で特に何が面白かったですか?」


B「・・全て面白かったとは思いますが、自分の作成した試料で行った実験により新しい知見が構築されてゆく過程は、なかなかゾクゾクするような面白さがありましたね・・。
それと民俗学のフィールドワークで自分が薄々予期していた知見、あるいはそれを裏切るような知見に出くわしそうな丁度ギリギリのところも、なんともいえず興奮するものだと思います・・。
それに加えて、数十年前に刊行された古墳に関する書籍に基づいて古墳を探しに出て、野山をかき分け、それを見つけた時の興奮もなかなかのものですよ(笑)。
ああいった時は概ね単身行動なのですが、野山の中でも不思議なことに怖いとかそういう感覚はキレイにすっ飛んでいましたね・・。」


A「そうですか・・それはなかなか面白そうですね(笑)。
ともあれ、私は実験などを行ったことはありませんが、ああいった学問分野もはまると、とても面白いのでしょうね。」


B「ええ本質を得るために最適な試料の形状、治具、実験速度などを試行錯誤しているような時は、時間が経つのがかなり早かったように思いますね・・。
そして、ある程度既存の信頼できる知見と矛盾なく、さらに新たな知見を得ることが出来そうな感覚が湧くと、さらにそこから時間経過の早さが増すような感じがしましたね・・。
そうした感覚とは、このところかなり御無沙汰ではありますが、またどこかでそういった気持ちで何かに取組めるのではないかと思います。」


A「なるほど、多分ああいう時はなんというかハイになっているのでしょうね?
あるいは、そういうのをフロー状態というらしいです・・。
加えて、それはたとえば部活の試合や議論あるいは文章の作成時などにおいても同様の状態になることが出来るのではないかとも思います。」


B「そういわれますと、たしかにかつて時間を忘れて議論をしていた時や、夏真っ盛りの部活の練習などにおいてもそういった感覚をおぼえたことがありましたね・・(笑)
あれは多分何かしら脳内麻薬みたいなものが影響しているのではないかと思いますが・・多分年齢がある程度までいくと、この脳内麻薬に対する耐性が出来てしまい、なかなかそういったフロー状態?に入ることができなくなってしまうのではないでしょうか?」


A「・・・はたしてそうでしょうか?
私も現在色々文章や様々な資料を作成したりしていますが、興が乗ってきますと、まだまだ周囲を気にしないで自身の作業に没頭してしまうことがありますけれど・・それはフロー状態とは違うものなのでしょうか?」


B「それはたしかにわかります。
しかし、問題となるのは、その新鮮さではないでしょうか?
私はこれまでいくつかの分野に身を置いてきましたが、幸いなことにその時々で、その分野特有であると思われる、そういった疾走感をおぼえることができたのではないかと思います。
そしてそれは能動性を持って何かしら未知のことに取組んでいる時におぼえる特有なものなのではないかと思うのです・・。
そうしますと、自身の分野に対して、馴れて、ある程度の知見を得た状態になりますと、その疾走感を得ることが困難になってくるのではないかと思います。
そして馴れから生じる惰性を戒めるために世阿弥の「初心忘るべからず」という言葉があるのではないかと思いますが・・。」


A「ふーん、そうしますと一つの分野に長年従事していると、疾走感をおぼえることが困難になるのではないかというのがBさんの持論ということになりますが、私はそうは思いません。
あるいはそういったことは、個々人の性質に大きく由来するものなのではないでしょうか?」


B「はあ、なるほど、そういわれますと、たしかに一つの分野に長年従事してきている人でそうした感覚を忘れていない方々も多く見受けられるとも思いますので、これは私の個人的な経験に基づいた意見あるいは偏見であるのかもしれません・・(苦笑)。
つまり私は一つの分野に長年携わった経験がないことから、そのような結果が導き出されるのかもしれません・・。
しかし同時に私は正式に研究とはいわれなくとも、書籍は読み、またその内容に関してはある程度考えているのではないかと思います。
そのことから自身の知性に対する少なくとも最低限の訓練は継続しているのではないかと思いますが・・。
また、ここ半年は周囲の方々からのすすめもあり、ブログを作成し続けておりますが、これはなかなか自身にとってはなかなか良いトレーニングとなっているのではないかと思います。
そして願わくは、そうしたこれまでの行為が比較的容易に結節することが出来る職務に就きたいと考えております・・(笑)。」


A「ははあ、なるほど・・たしかにBさんのブログは内容の面白さなどにはブレがありますが、それと同時に何というか学問を修めた人であることは伝わってきますので、そうした発信は自他何れのためであれ、今後も続けられた方がいいと思います・・。
そして、そういった発信、アウトプットがある程度までいきますと、何かしら良いこと、面白いことが起きるのではないかと思います。
とはいえ、Bさんにブログをすすめた周囲の方々とは一体誰なのですか?」


B「ああ、それは何人かいるのですが、以前もブログで書きましたが不思議なことにほぼ同時期にいわれましたので、ブログ作成をはじめた次第なのです(笑)。
個人特定されてしまいますので、具体的にはここではお教えできませんが・・。
それでもそのお陰でどうにかここまで来ることが出来たのではないかと思います。
その意味において私はかなり幸運なのではないかと思うことがあります。
とはいえ、現在、私のブログの投稿記事数は193であり、その三分の一以上が自身の書いた文章であり、今後はその数を増加させてゆきたいと考えております。」


A「・・そうしますと、もうすぐBさんのブログ記事も200に到達するということになりますが、そこまでいきますと、実際に何か起きるのでしょうかね?
それは少し楽しみですね・・(笑)。」


B「いえ、そういったことはよくわかりませんので、まあ動画の投稿を除いて200記事に到達するまで、あるいは別の目安ですと、表示回数が10万を越えるまではとりあえず、あまり考えず書いて投稿し続けてみようと思っています。」


A「なるほど、そうですか・・それで表示回数は現在どうなっていますか?」


B「ああ、それは大体91000程度ですので、感覚としては、こちらの方が投稿記事数200に到達する前に達成できるような気がします・・。」


A「それは楽しみですね・・今後また何か面白いことがありましたら御連絡ください。」


B「ええ、了解しました。」

2016年1月18日月曜日

20160118 ブログ作成の継続と文体の進化・・

A「最近のブログの閲覧具合で何か変ったことはありましたか?」


B「いえ、特に大きな変動は見られませんね・・。
ただ、つい先日一日の閲覧者数がまた200人を超えました。
このところ大体一日100台前半でしたので、これは多少嬉しかったですね・・。
それと表示回数も90000を越えました。
たしか昨年末(12/29)の時点で80000程度でしたので、この表示回数増加の程度は悪くないのかもしれません。」


A「そうですか・・一日の閲覧者数が200人を越えましたか・・。
それはBさん御自身の文章が主体となっている現在の状況においては、なかなか良い傾向なのではないかと思います。
それでも、やはり閲覧者が増えやすい記事と、そうでない記事がやはりあるのではないでしょうか?」


B「・・そうですね、近い時期に投稿した記事でも、その閲覧者数が大きく異なるものがありますので、おそらくそれは、読みやすさ、読んでいる方々から見た記事内容の充実度などによるのではないかと思います・・。
しかし、であるからといって、今後書く記事の傾向を変えようとは思いませんし、また意識して変化させるからといって、必ずしも閲覧者数が増えるとも思われません、そしてそれ以前に私のブログとは元来閲覧者数を伸ばすことが目的ではじめたものでもありませんので・・(笑)。」


A「・・しかし、それでもやはりブログを続けていると、閲覧者数などは気になってしまうものではないですか?」

B「ええ、それはそうなのですが、これは以前もブログにて書きましたが、そういったことを気にしだすと、文章自体を書くことが困難になり、何かしら理由を考えてブログの作成自体が苦痛、億劫になってしまうのではないかと思うのです。」


A「そういった葛藤は多分様々なことにおいて当てはまると思いますが、ブログをはじめた時の気持を保持しつつ、良い記事・・いや良い記事を書くことを目的にしてもダメなのでしょうが、とにかく書き続けることが重要なのではないでしょうか?」


B「・・まあ、そういったところであると思います。
そして、こういったことは案外難しいものであると最近思います・・。
ただ、ブログをはじめた頃は一つの記事を書く際の苦労も現在に比べ格段に大きく、結構身構えて作成していたような気がします。
しかし、それをどうにか書籍の抜粋引用などを行いつつ継続することで、徐々に自身の記事を書くことが重荷ではなくなっていったように思います。
こうした記事を作成する際の心情の変化と作成したブログの内容の面白さ、充実度がパラレルな関係であれば良いのですが、どうもそれは一概にはいえないようですね・・(笑)。」


A「そうですか、やはりそういった変化があったのですね・・。
それでも私はBさんのブログ開設当初の記事よりも、最近書かれたものの方が読みやすく、またその内容も面白いと思いますけれどもね・・。」


B「はあ、そういっていただけますと、助かります。
しかしそれら記事を作成している私にとっては、そういったことが読み比べてみても、イマイチどうも分からないのです・・。」


A「まあ、そういったことは、やはりどうしても主観から脱することは難しいと思いますよ・・。
ですから、とりあえず書き続けることが重要なのではないかと思います。」


B「・・なるほど、そうですね。
それにしても本当に書き続けていると、良い記事が書けるようになるのでしょうかね?
いえ、それ以前に「良い文章が書けるようになる」というような理想を掲げてがんばること自体がどうもダメなような気もしますね・・。
つまり、本当に私自身が記事を書くことが好きであるならば、あまりそういったことは気にする必要もないのかもしれません・・。
しかし、一方において、何かしらの目的を設定し、それに向けて様々な努力を行うということは、何かしら美質らしきものとして一般的に認識されてもいますので、こういったことはなかなか難しいのではないかと思います。」


A「・・何だかその意見は夏目漱石の「現代日本の開化」を彷彿とさせますね(笑)。
たしかに我々には活力の消費を好んで行う傾向とそうでない傾向が併存していると思います・・。
そしてBさんのブログ作成が好んで活力を消費する傾向に分類されるものであれば、継続して行うことが出来ると思いますし、またそうでない場合は苦痛に感じるようになってゆくのではないでしょうか・・?」


B「ええ、それはたしかに仰るとおりであるとは思いますが、同時にブログ開設当初は実際記事の作成が苦痛、億劫であり、また現在も時折そう感じながら作成することもあります・・。
ですから、それは精確にはシロクロが判然としたようなものではないと考えます・・。
しかし、それをどうにか継続することにより、徐々に記事作成が苦痛、億劫ではなくなり、まあ日常的な行動の一つとして定着してゆくのではないでしょうか?
そして、そういったことは様々な勉強、修練においても同様なのではないでしょうか?
ただし、そういったことを行うにあたっても、やはりその根底においては動かしがたい性質、特性による向き不向きがあるのではないかと思います・・。
そして、その向き不向きといったものが、その人が持つ個性の根源であり、本質なのではないかと思います。
無論、それだからといって、当初苦痛に感じる勉強、修練に意味がないとは思いませんが、一方それに偏重した社会とは、結局のところ持続可能性がないのではないかと思います・・。」

A「・・まあ、Bさんの言わんとすることはよくわかります。
それは個人の問題として極言すると「生まれか育ちか?」ということになると思うのですが、近代以降の我が国の社会とは、特に育ちや個人の努力といった後天的な要素を重要視しますからね、そしてそれは過去の歴史からの反省に立脚していると思うのですが、ただ、我が国の場合、そういったこと、つまりそれまでの経緯をあまり理解しないままで現在の社会になっているように思うことがあります・・。
そして、それが先程あげた夏目漱石の「近代日本の開化」あるいは「三四郎」冒頭部の三四郎と広田先生との列車内での会話につながるのではないかと思います・・。」


B「そうしますとスケールは大きくなりますが「我が国の個性の根源、本質は一体どういったものであるか?」ということになるのでしょう。
しかし、それは我々が考えるよりも他国の人々、研究者などの方がよく見ているのではないかと考えさせられることがありますね・・。」


A「ええ、しかしそうであるからといって、我々日本人画が意識して、その根源、本質を変えることは出来ないしまた、してはいけないと思うのですが・・。
そうすると、余計事情が悪くなり広田先生曰く「滅びるね。」になるのではないかと思います・・。」


A「何だか私のブログに関しても今の御意見は参考になりそうな気がしますね、どうもありがとうございます。」

また、現在公募、求人等に応募しております。
現在大変困難な状況でありますので、この状況から助けていただきたく思います。
どうぞよろしくお願いします。