B「いえ、特に大きな変動は見られませんね・・。
ただ、つい先日一日の閲覧者数がまた200人を超えました。
このところ大体一日100台前半でしたので、これは多少嬉しかったですね・・。
それと表示回数も90000を越えました。
たしか昨年末(12/29)の時点で80000程度でしたので、この表示回数増加の程度は悪くないのかもしれません。」
A「そうですか・・一日の閲覧者数が200人を越えましたか・・。
それはBさん御自身の文章が主体となっている現在の状況においては、なかなか良い傾向なのではないかと思います。
それでも、やはり閲覧者が増えやすい記事と、そうでない記事がやはりあるのではないでしょうか?」
B「・・そうですね、近い時期に投稿した記事でも、その閲覧者数が大きく異なるものがありますので、おそらくそれは、読みやすさ、読んでいる方々から見た記事内容の充実度などによるのではないかと思います・・。
しかし、であるからといって、今後書く記事の傾向を変えようとは思いませんし、また意識して変化させるからといって、必ずしも閲覧者数が増えるとも思われません、そしてそれ以前に私のブログとは元来閲覧者数を伸ばすことが目的ではじめたものでもありませんので・・(笑)。」
A「・・しかし、それでもやはりブログを続けていると、閲覧者数などは気になってしまうものではないですか?」
B「ええ、それはそうなのですが、これは以前もブログにて書きましたが、そういったことを気にしだすと、文章自体を書くことが困難になり、何かしら理由を考えてブログの作成自体が苦痛、億劫になってしまうのではないかと思うのです。」
A「そういった葛藤は多分様々なことにおいて当てはまると思いますが、ブログをはじめた時の気持を保持しつつ、良い記事・・いや良い記事を書くことを目的にしてもダメなのでしょうが、とにかく書き続けることが重要なのではないでしょうか?」
B「・・まあ、そういったところであると思います。
そして、こういったことは案外難しいものであると最近思います・・。
ただ、ブログをはじめた頃は一つの記事を書く際の苦労も現在に比べ格段に大きく、結構身構えて作成していたような気がします。
しかし、それをどうにか書籍の抜粋引用などを行いつつ継続することで、徐々に自身の記事を書くことが重荷ではなくなっていったように思います。
こうした記事を作成する際の心情の変化と作成したブログの内容の面白さ、充実度がパラレルな関係であれば良いのですが、どうもそれは一概にはいえないようですね・・(笑)。」
A「そうですか、やはりそういった変化があったのですね・・。
それでも私はBさんのブログ開設当初の記事よりも、最近書かれたものの方が読みやすく、またその内容も面白いと思いますけれどもね・・。」
B「はあ、そういっていただけますと、助かります。
しかしそれら記事を作成している私にとっては、そういったことが読み比べてみても、イマイチどうも分からないのです・・。」
A「まあ、そういったことは、やはりどうしても主観から脱することは難しいと思いますよ・・。
ですから、とりあえず書き続けることが重要なのではないかと思います。」
B「・・なるほど、そうですね。
それにしても本当に書き続けていると、良い記事が書けるようになるのでしょうかね?
いえ、それ以前に「良い文章が書けるようになる」というような理想を掲げてがんばること自体がどうもダメなような気もしますね・・。
つまり、本当に私自身が記事を書くことが好きであるならば、あまりそういったことは気にする必要もないのかもしれません・・。
しかし、一方において、何かしらの目的を設定し、それに向けて様々な努力を行うということは、何かしら美質らしきものとして一般的に認識されてもいますので、こういったことはなかなか難しいのではないかと思います。」
A「・・何だかその意見は夏目漱石の「現代日本の開化」を彷彿とさせますね(笑)。
たしかに我々には活力の消費を好んで行う傾向とそうでない傾向が併存していると思います・・。
そしてBさんのブログ作成が好んで活力を消費する傾向に分類されるものであれば、継続して行うことが出来ると思いますし、またそうでない場合は苦痛に感じるようになってゆくのではないでしょうか・・?」
B「ええ、それはたしかに仰るとおりであるとは思いますが、同時にブログ開設当初は実際記事の作成が苦痛、億劫であり、また現在も時折そう感じながら作成することもあります・・。
ですから、それは精確にはシロクロが判然としたようなものではないと考えます・・。
しかし、それをどうにか継続することにより、徐々に記事作成が苦痛、億劫ではなくなり、まあ日常的な行動の一つとして定着してゆくのではないでしょうか?
そして、そういったことは様々な勉強、修練においても同様なのではないでしょうか?
ただし、そういったことを行うにあたっても、やはりその根底においては動かしがたい性質、特性による向き不向きがあるのではないかと思います・・。
そして、その向き不向きといったものが、その人が持つ個性の根源であり、本質なのではないかと思います。
無論、それだからといって、当初苦痛に感じる勉強、修練に意味がないとは思いませんが、一方それに偏重した社会とは、結局のところ持続可能性がないのではないかと思います・・。」
それは個人の問題として極言すると「生まれか育ちか?」ということになると思うのですが、近代以降の我が国の社会とは、特に育ちや個人の努力といった後天的な要素を重要視しますからね、そしてそれは過去の歴史からの反省に立脚していると思うのですが、ただ、我が国の場合、そういったこと、つまりそれまでの経緯をあまり理解しないままで現在の社会になっているように思うことがあります・・。
そして、それが先程あげた夏目漱石の「近代日本の開化」あるいは「三四郎」冒頭部の三四郎と広田先生との列車内での会話につながるのではないかと思います・・。」
B「そうしますとスケールは大きくなりますが「我が国の個性の根源、本質は一体どういったものであるか?」ということになるのでしょう。
しかし、それは我々が考えるよりも他国の人々、研究者などの方がよく見ているのではないかと考えさせられることがありますね・・。」
A「ええ、しかしそうであるからといって、我々日本人画が意識して、その根源、本質を変えることは出来ないしまた、してはいけないと思うのですが・・。
そうすると、余計事情が悪くなり広田先生曰く「滅びるね。」になるのではないかと思います・・。」
A「何だか私のブログに関しても今の御意見は参考になりそうな気がしますね、どうもありがとうございます。」
現在大変困難な状況でありますので、この状況から助けていただきたく思います。
どうぞよろしくお願いします。
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