「アリアドネからの糸」
中井久夫
当時「本を読む」ということは今とまったく違ったマイナスの意味を帯びていた。
戦前の中学校は五年制であり、卒業生は中等教育を受けた者として、まあ知識人あつかいされた。しかも、多くの中学校は生徒に「小説を読むこと」を禁じていた。漱石、鴎外も例外ではない。映画は父兄同伴である。違反は補導の対象になった。ついでにいうと、男女が連れ立って歩くことは、大人でも、警官が呼び止めて「説諭」する対象であった。実に女性は、夫婦であろうと婚約者であろうと、男性の後を何歩か遅れて歩くものであった。(何だかSF小説を書いている気がしてきた)。むろん、誰も禁断を犯さなかったわけではない。ひそかに行う読書はかえってその楽しみを増した。
小学生には小説は難しすぎようと思われたか、禁止令はなかった。映画は学校が連れてゆく「戦意高揚映画」だけである。大目に見られたのは
「講談社の絵本」や「幼年倶楽部」「少年倶楽部」「少女倶楽部」、そこに載った少年小説、少女小説、それから漫画「のらくろ」であった。これらの少年向きの本は、ずっと早くから軍国主義を美しい言葉と挿絵とで飾り、大陸進出をほめたたえていた。
戦死者の遺族には一流画家による「靖国の絵巻」というものが年一回配られた。その原画が未だに公開されていない大画家たちの戦争画である。「講談社の絵本」もやはり一流画家を起用して細部までほんものらしく描き、子供の眼には「靖国の絵巻」に勝る出来栄えであった。昆虫採集や切手集め、あるいは軍艦写真集に熱中する小学生には、細部までの精密さが何よりの価値である。
しかし太平洋戦争が始まって一年も経つと、少年雑誌や小説の戦争鼓吹の迫力が衰えた。「のらくろ」はそれより前に大尉で退役して「満州」(中国北部)に行ったが、その地にあまり適応できなかったらしく、漫画そのものが終わった。「講談社の絵本」も新刊が間遠になり、ついに開戦一年後の「大東亜戦争」でおしまいになった。美しい本が作れなくなったせいか、戦争に向かって少年を鼓舞する使命を果たしたためか、あるいは本物の戦争の前では戦争のおはなしなど色褪せてみえるゆえか。
では、戦時中の人々は本を読まなくなったか。逆である。「鉄の歴史」といった重厚な科学史が出版されている。科学と科学史の本は検閲を通過したからである。筑摩書房は一九四一年に「ヴァレリー全集」を以って出版した。リルケもよく読まれた。この二人が検閲を通ったのは検閲官の理解を越えていたからであろうが、数少ない正気の文学だった。「ヴァレリー全集」は各巻が万という部数であり、一般に戦時中の本の部数は今よりも一桁多かった。戦争史も、日露戦争だけでは種が尽きてしまい、ついには十七世紀のイギリス・オランダ海戦史まで出版された、こういう本が飛ぶように売れたのだが、書店の棚はそれでも空きが目立った。古書店が繁盛した。古い岩波文庫にびっくりする値段が付いていた。
第一次大戦下のヨーロッパでも洪水のような読書増加があったらしい。戦争の時、人は本に走る。戦いの合間でも、防空壕でも、いつ動くとも知れない停車中の混雑列車の中でも本は読める。」
ちなみにこの著作内の「いじめの政治学」はとても生々しく、その内実に肉迫していると思います。興味のある方は是非読んでみてください。
2015年9月22日火曜日
20150922 中央公論新社刊 中公クラシックス 竹山道雄著「昭和の精神史」pp.56-58より抜粋
人間は巨大な外界の中にいて、自らもその一部分である。しかし、人間はこの外界の事実の動きにただ機械的にしたがっているのではない。それに順応したり反撥したりして、意欲し行動する。これによって外の事実に新しい展開が起こり、その新しい展開に対してさらに人間は反応する。
「科学的」解釈は、歴史の中に人間の主体的意思を認めず、この事実には目を塞いで右のような交互作用による各段階の展開ということを考えない、これは硬い図式を擬制して、人間はあらゆる段階においてつねに同じ目的のために意欲して行動して、この図式を完成するとしている。複雑な現象の中からただ一つの要素のみを取り出して、これによって固定した世界像を組み立てている。
しかし、自分のはじめからの図式を完成しうるものはいない。歴史は意外な動きをする。行きすぎ、過誤、外国の反撃とそれへの抵抗、勢い、偶然・・などがからみあって、しまいにはヒョウタンから駒が出たような結果になってしまう。昭和十年ころには、誰が、対米・英・仏・蘭・・ソ連を予想していたろう!誰がその準備をしていたろう!
「大隈伯昔日譚」に維新を回顧して次の様な感想が述べてある。―「一寸先は闇の世とは是等の時機をいふならむ。明治維新を去る僅かに三四年前においては、天下の志士は啻に前途を観察する能はざりしのみならず、大概皆紛乱の場に転輾したるに過ぎざりし。・・有りのままを言へば、かかる際に処したる人は、何れも破船の激浪怒濤の中に漂ふに異ならず、眼界汪洋として東西を弁ふ能はず、彼方へ泳がむと欲して此方に流され、北に向はむとして南に却き、遂には意外の方向に於て彼岸に達するが如し。唯其賞賛すべき所は気力と忍耐と臨機の智能にすぎず。・・僅々数年間に幕府を倒して大政を奉還せしむに至るとは、夢想にも及ばざりし事ならむ」そして、維新も結局はある抗しがたい時代思潮の力だった、と感慨している。―「余は前にも断言せり、今又茲にも断言す。維新改革の原動力は薩長の手に存したるに非ず、公卿の間に出たるものにも非ず、又幕府の中に宿せしにも非ず、総て九州の端より奥羽の辺に至る迄、天下各地の青年書生の頭脳に渙発し、時勢と共に其力を養ふて遂に我国空前の偉業を奏したりと。維新の歴史を描く者は之を特筆大書すべし」
私には、これが歴史に対するセンスを持った観察だと思われる。この歴史の中で活動していた人が後年になって回顧したとき、彼は事実を枉げて図式の中に押し込むには堪えなかったのであろう。そして、この大隈伯が見たようなことを、我々も見たのではなかったろうか?
「大隈伯昔日譚」に維新を回顧して次の様な感想が述べてある。―「一寸先は闇の世とは是等の時機をいふならむ。明治維新を去る僅かに三四年前においては、天下の志士は啻に前途を観察する能はざりしのみならず、大概皆紛乱の場に転輾したるに過ぎざりし。・・有りのままを言へば、かかる際に処したる人は、何れも破船の激浪怒濤の中に漂ふに異ならず、眼界汪洋として東西を弁ふ能はず、彼方へ泳がむと欲して此方に流され、北に向はむとして南に却き、遂には意外の方向に於て彼岸に達するが如し。唯其賞賛すべき所は気力と忍耐と臨機の智能にすぎず。・・僅々数年間に幕府を倒して大政を奉還せしむに至るとは、夢想にも及ばざりし事ならむ」そして、維新も結局はある抗しがたい時代思潮の力だった、と感慨している。―「余は前にも断言せり、今又茲にも断言す。維新改革の原動力は薩長の手に存したるに非ず、公卿の間に出たるものにも非ず、又幕府の中に宿せしにも非ず、総て九州の端より奥羽の辺に至る迄、天下各地の青年書生の頭脳に渙発し、時勢と共に其力を養ふて遂に我国空前の偉業を奏したりと。維新の歴史を描く者は之を特筆大書すべし」
私には、これが歴史に対するセンスを持った観察だと思われる。この歴史の中で活動していた人が後年になって回顧したとき、彼は事実を枉げて図式の中に押し込むには堪えなかったのであろう。そして、この大隈伯が見たようなことを、我々も見たのではなかったろうか?
西洋では社会科学者は普遍化し一般化し、歴史家は個体化し特殊化して、その間にある対立があるが、今の日本では社会科学が人文に関する一切を説明しつくす全体的世界観のごときものとされているから、歴史も事象の意味の関連を求めようとする時には社会科学に呑み込まれてしまっている。
しかし、ある特定の立場から世界を体制化したものをもって、すなわち世界の全体だとすることはできない。科学は自分の領域の中にあっては偉大なものであるが、それを出てすべてを説明しつくす世界観をもって自任すると、かならず擬似宗教のようなものになってしまう。
歴史をはじめからすべての文化現象の中から、人間の心を抜いて考えるのが科学的であるとする一世紀前の独断は、もはやとうてい維持しがたきものである。これは、自分の要求に叶う世界像を論理によってえがきだして、それに耽るという、かえってこれこそ「むなしい唯心論」に堕している。
竹山道雄
歴史をはじめからすべての文化現象の中から、人間の心を抜いて考えるのが科学的であるとする一世紀前の独断は、もはやとうてい維持しがたきものである。これは、自分の要求に叶う世界像を論理によってえがきだして、それに耽るという、かえってこれこそ「むなしい唯心論」に堕している。
竹山道雄
竹山道雄著「昭和の精神史」講談社刊pp.91-98より抜粋
「それにしても、あの歴史を回顧して怪訝にたえないのは、かつてあれほど慎重周密だった日本が、どうしてあのように大局の目途もなく作戦を拡大してしまったのだろう、ということである。
ISBN-10: 4061586963
ISBN-13: 978-4061586963
竹山道雄
陸奥宗光の「蹇々録」は、日清戦争当時の苦心を記している。あのころの当局者は、外寇においてはあくまでも受動的で日本が戦争を欲しなかった体勢をとり、軍事においてはつねに機先を制して、これによって全体を有利に導くために経営惨憺した。成歓、牙山の役までは外交が指導し、まったく戦争になってから事を軍の統帥にゆだねた。
ところが今度はそういうことはまるでなかった。ことに日華事変はてんでばらばらだったらしい。ただ勢いに乗り、勢いに引かれて、ずるずるだらだらと最初からおそれられていた「ゲリラの泥沼」に足を踏み込んで、自分の墓穴を掘って行った。
あのころわれわれはしきりにニュース映画を見て、奥地の県城で髭をのばした日本兵が万歳を三唱している姿を見て、いったいこれでどうなるのだろうかと思った。
このようなことについては何も確証をもって知る事はできない。以下に記すのは、ただ、あれこれの本を読んで、それをおこった事実とつき合わせてみた推測である。
満州事変は、政府の意思には反していたが、すくなくともその勃発は、当時の描写を読むと、計画的だったことは疑えなく思われる。
しかし、その拡大の模様を、若槻氏「古風庵回顧録」に次のように記してある。―「内閣が事件不拡大方針を定め、陸軍大臣をしてこれを関東軍に通達せしめたのに、関東軍はなほその前進を止めない。陸軍大臣にそれを責めると、そのままにして置くと居留民が危害を蒙る恐れがあるからやむをえず進撃するのだと弁解する。関東軍が吉林に進んだので、政府の方針に反するぢやないかといふと、南は熈洽が大軍を擁して吉林にいて、関東軍に不安を与へるから進撃はやむをえないと答へる。関東軍が鉄道線路の西側に進出したのは、嫩江の鉄橋を守らなければならないからだといふ。それなら嫩江に止まるかと思へば(略)・・・。このやうに日本の軍隊が日本政府の命令に従はないといふ奇怪な事態となった」ここに弁解されているような目先の軍事的要求からの拡大ということはあっただろうが、しかし満州では全体的な計画はたっていたにちがいない。これが陰謀でなかったとしても、関東軍がかねてから万一の場合のために考えていたのは当然だったろう。
日華事変もやはり政府の意思には反していたが、ここには計画はなかったらしい。拡大の様相は前と似ていた。しかし本質はちがっていた。池田純久中将など多くの軍人の回想記がこれを切言しているが、事実もそれに符合するようだ。
日華事変は、ただその場その場のそのときそのときの軍事的観点によって拡大されたもののように思われる。―これも満州事変のように簡単に行くだろう。相手は弱い。もう一つたたけばよい。たたいておかないと反撃される。それによって生じる対外的影響は、政府が責を任ずることであって軍人は考えなくてもいい。そして、軍事行動は全て統帥権的天皇が許容するところである・・。
「米国戦略爆撃調査団」の報告に、
「1937年の華北進出は、大戦争になるという予想なしに行われたのであって、これは、本調査団の行った多数の日本将校の訊問によって確認された。当時、国策の遂行に責任のあった者たちがかたく信じていたことは、中国政府はただちに日本の要求に屈して、日本の傀儡の地位に自らを調整してゆくであろうということだった。中国全土を占領することは、必要とも、望ましいとも、考えたことはなかった。・・・全面的な軍事的努力は、一度も計画されたことがなかった。」
しかもパル判事が判断しているように、おそらく盧溝橋か永定河をもって本格的な全面戦争ははじまったのだろう。そして日本は、このときすでにアメリカとは部分的戦争に入っていたのだったろう。自分ではそれを自覚しないながらに。
国際関係や戦争には不幸な物理的法則ともいうべきものがあって、双方とも欲しないのに、その意思をはなれた勢いのせりあいがはじまる。こちらが手段を講ずれば、相手もそれに対抗する手段を講ずる。それに対してこちらもさらに対抗する手段を講ずる・・。この「せりあい」がはじまると、もう後へは退けない。退けば敗北である。第一次、第二次ヨーロッパの戦争も太平洋戦争も、その原因にはこの法則が大きくはたらいた。事実あの日華事変のあいだ、侵略をしていた日本人は、主観的には侵略をしているとは感ぜずに、防禦をしていると感じていた。もし勝たなかったら亡国だ、という恐怖と焦燥を持っていた。この聖戦を完遂しなければこれまでの成果は全部空しくなる。今までたくさんの人々が英霊になり国帑を費やしたのに、いまさらどうしてその犠牲をむなしくすることができよう・・。
それは致命的な悪循環だった。戦局が拡大するから、おのずから兵力の不足をつげて、それを補わなければならなくなる。まさか見殺しにはできないから、中央部はそれに引きずられて派兵派兵と兵力をつぎこまなくてはならない。するとまた現地軍は拡大―かくて派兵・・。
軍首脳も不拡大方針だった。有力な作戦部長の石原将軍は、自分が満州でやったのと同じことを北支軍もはじめたと考えて、中国側がしきりに反撃してくる北支の事情を認識していなかったということであるが、とにかくこの作戦の中枢者は熱心に局地化の努力をした。「わたしが接触した範囲では、陸軍中央部のもので・・ひとりとして、不拡大方針がくづれてゆくのを、しんけんにしんぱいしないものはなかった、とわたしは断言するにはばからない」(風見章「近衛内閣」)。ただこの悪循環を断ち切る為の国家主体がなかったのである。軍隊が自分の判断で作戦行動すれば、こうなるのがむしろあたりまえだろう。中枢神経が麻痺して、手足が勝手にあばれだしたようなものだった。
満州国の独立と共に関東軍が独立し、北支軍は目さきの局地的情勢にひきずられて本国の方針に服しなかった。陸軍大臣にもどこまで拡大するのかわからなかった。この軍に中心がなくなったということは、当時の記録に人々がしきりに慨嘆しているが、原田日記にも西園寺公が昭和11年につぎのようにいったと記してある。
「何か軍に中心があれば大変都合がいいが・・。どうも現在どこに中心があるか判らない。各種各所に中堅があるけれども、軍全体としての中心がほとんどないやうな状態になっている。嘗て斉藤前総理が来た時に、やはりいろんな陸軍の話が出て、「今の陸軍の中心はどこだ」と言ったところが、その当時から「どうも中心といふやうなものがないんで困ってをる」といふやうな話であった。それで斉藤も、「中心さえあればまたそれをどうにでもできるんだけれども、まことに困ります」と言ってをつた」
軍事と外交がばらばらで統一した国家意思がなく、強力な非有機体と化した軍隊が無限の大陸で戦争したのだから、国はまさに亡びるべくして亡びた、というべきであろう。
そしてこれはノーマン氏の想像したのとまさにあべこべの姿であり、厳粛な封建的精神や階層支配が時代によって崩れたからこそ起こったことだった。国全体が多元的なアモルフなものに解消したのだった。
そしてこれはノーマン氏の想像したのとまさにあべこべの姿であり、厳粛な封建的精神や階層支配が時代によって崩れたからこそ起こったことだった。国全体が多元的なアモルフなものに解消したのだった。
人間の意思は各局面によって変りうるし、変るのが当然である。やがて、これではならぬという反省がはじまった。種村参謀の「大本営機密日誌」によると、昭和15年3月30日に、事変処理の方針の大転換が決定された。それは昭和15年中に日華事変が解決せられなかったならば、16年初頭から大陸から撤兵を開始、18年頃までには、上海の三角地帯と北支蒙疆の一角に兵力を縮める、というのだった。そして、「陸軍省側では、今すぐからでも撤兵を開始するような剣幕であった」
後の対米開戦の前には、東条陸相は士気の関係から大陸撤兵はできないと主張したが、このときにはアメリカとの談判の結果というあたらしい要素も加わっていた。しかし、そうなる前の右の大本営の決定は実行できたにちがいない。この前にも、畑司令官は減兵をしていた。
しかし、このときに生憎ダンケルクがおこって、「バスにのりおくれるな」という機運となり、それまでには考えられたこともなかった南方各地への作戦の研究がはじまった。
あの歴史には大切なときにこのような不幸な偶然ともいうべきものがいくつかはたらいたと思うけれども、今はそれについてはふれない。(他には、たとえば松岡外相の病気、野村大使への訓電が傍受され誤訳されたこと、など)。
軍人には功名心もあったろうし、勲章のほしい人もあっただろう。しかし、それがあのような結果を生んだというのは、酷なような気がする。満州事変以来、国家意思が麻痺して、対外関係という重大なものを綜合的にきめる者は、対米戦争まではなかった。軍人はフリーハンドを与えられて、かれらは戦争をただ軍事的観点のみから見る習性をえていた。満州を保つためには北支を、北支を防ぐためには中支を。中支のためにはさらに南支を。物資が上海から入るのを止めれば広東から入るから、広東を止める、そうすれば仏印から入るから、仏印を止める。そうすればビルマから入るからビルマを止めなくてはならぬ・・。
たとえいかに現地軍が局地的判断で動いたとしても、大作戦は中央の計画だったにちがいない。大本営は、戦争を解決するためにますます戦争を拡大していった。」
ISBN-10: 4061586963
ISBN-13: 978-4061586963
竹山道雄
2015年9月18日金曜日
北杜夫著「どくとるマンボウ青春記」新潮社刊pp.153-155より抜粋
『ともあれ、私たちはかなりの愚行を重ねて日を送ってきた。あとでふりかえってみて自ら忸怩たるものがある。
しかし、すべてがあながち無駄ではなかったと思うし、それどころか、これほど吸収するところの多かった時代は、わが生涯に於いて唯一のものといってよいのではあるまいか。
しかし、すべてがあながち無駄ではなかったと思うし、それどころか、これほど吸収するところの多かった時代は、わが生涯に於いて唯一のものといってよいのではあるまいか。
私の場合、高校に入るまで、あまりに無知でそれだけ無地であったことが、むしろ幸いだったのかもしれない。
たとえば読書ひとつにしろ、現在の私は、なにかの目的に縛られて読んでいる。あるときは小説の資料のため、あるときはストレスを解かんがため、七面倒な、またはくだらぬ本を読む。それが当時は、自分が何も知らないという不安解消のためもあったが、より多くはほとんど目的なしに読んだ。
それが面白かったから読み、素晴らしかったから読み、何が何やらわからないから驚嘆して読んだのだ。空腹だったから雑草まで食べたように、精神的の飢餓が貪婪に活字を求めたのである。また、すべてが遊びの要素を含んでいた。それだけ自由であったともいえる。
たとえば読書ひとつにしろ、現在の私は、なにかの目的に縛られて読んでいる。あるときは小説の資料のため、あるときはストレスを解かんがため、七面倒な、またはくだらぬ本を読む。それが当時は、自分が何も知らないという不安解消のためもあったが、より多くはほとんど目的なしに読んだ。
それが面白かったから読み、素晴らしかったから読み、何が何やらわからないから驚嘆して読んだのだ。空腹だったから雑草まで食べたように、精神的の飢餓が貪婪に活字を求めたのである。また、すべてが遊びの要素を含んでいた。それだけ自由であったともいえる。
吉川英治の「宮本武蔵」もトルストイの「戦争と平和」も同じ基準をもって読んだ。
その挙句、「トルストイはなんたる退屈さだ」という感想を抱いても一向に差し支えなかった(私がトルストイの偉大さがわかったのはかなりの後年になる)。一方、ホールデンの「生物学の哲学的基礎」という本は当時の私に非常な感銘を与えたらしいが、いま私はその内容をまったく忘れてしまっている。それはそれで一向にかまわないことだが、現在の職業に縛られた私にとっては、その抜き書きのノートを失ったことを残念に思うことも確かで、これはなさけないスケベ心といえよう。
無目的の読書のほうが、ぞんがいその人間を豊かにするものだ。若さのもつエネルギーというものは、もともと無色無方向なことを特色とする。それは太平洋をヨットで横断もし、特攻隊となって死地におもむきもし、睡眠薬を飲んでフリーセックスもし、非合法なデモを行いもする。偉大であると共に危険であり、純粋であると共にいやらしくもある。社会から賛美されもすれば非難されもする。しかし、それが本来意識をもたぬエネルギーの本質なのだ。
その挙句、「トルストイはなんたる退屈さだ」という感想を抱いても一向に差し支えなかった(私がトルストイの偉大さがわかったのはかなりの後年になる)。一方、ホールデンの「生物学の哲学的基礎」という本は当時の私に非常な感銘を与えたらしいが、いま私はその内容をまったく忘れてしまっている。それはそれで一向にかまわないことだが、現在の職業に縛られた私にとっては、その抜き書きのノートを失ったことを残念に思うことも確かで、これはなさけないスケベ心といえよう。
無目的の読書のほうが、ぞんがいその人間を豊かにするものだ。若さのもつエネルギーというものは、もともと無色無方向なことを特色とする。それは太平洋をヨットで横断もし、特攻隊となって死地におもむきもし、睡眠薬を飲んでフリーセックスもし、非合法なデモを行いもする。偉大であると共に危険であり、純粋であると共にいやらしくもある。社会から賛美されもすれば非難されもする。しかし、それが本来意識をもたぬエネルギーの本質なのだ。
ヴァレリーの言葉
「彼がなした馬鹿なこと、彼がなさなかった馬鹿なことが、人間の後悔を半分ずつ引き受ける。」
ゲーテの言葉
「われわれは生まれつき、美徳に転じえないような欠点は持っていないし、美徳も持っていない」
大人は齢をとればとるほど若者に対しブツブツ文句をいう。
それが当然で、もし全然文句をいわない大人があったら、彼は若さを体験してこなかったのだ。
若者よ、齢とった者には安んじて文句をいわせておけばよい。
しかし、片耳でその言葉のひとかけらを聞き、片目でその生き方を見ておいても無駄にはなるまい。
それが当然で、もし全然文句をいわない大人があったら、彼は若さを体験してこなかったのだ。
若者よ、齢とった者には安んじて文句をいわせておけばよい。
しかし、片耳でその言葉のひとかけらを聞き、片目でその生き方を見ておいても無駄にはなるまい。
バーナード・ショウは、「四十歳を過ぎた男は誰でもみんな悪党である」と言ったが、悪党というものは善人よりなにかしらの智慧があるものだ。
若者よ、年寄りを侮蔑してもよい。しかし、必然的に自分もまた年寄りとなり、近ごろの若い者は、などと言い出す存在であることも忘れるな。若者よ、自信をもち、そして同時に絶望せよ。
北杜夫
どくとるマンボウ青春記
どくとるマンボウ青春記 (新潮文庫)
ISBN-10: 410113152X
ISBN-13: 978-4101131528
北杜夫
どくとるマンボウ青春記
どくとるマンボウ青春記 (新潮文庫)
ISBN-10: 410113152X
ISBN-13: 978-4101131528
北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」 加藤周一著「日本文学史序説」下巻より各々抜粋
北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.100-101より抜粋
加藤周一著「日本文学史序説」下巻 筑摩書房刊pp433-434より抜粋
だがその中でもっとも目立つのは、ナチの帽子をかぶり、チョビ髭を生やした男がヒットラーの演説をやることであった。それもチャップリンの「独裁者」のヒンケルの演説と同様、本物のドイツ語はちょっぴりで、あとはいかにもドイツ語らしく聞こえるエセ・ドイツ語である。それでも彼は得意満面、胸をはり腕をふりあげて、やたらRの音を強調して堂々と演説する。昔の医者はほとんどドイツ語教育で育ったから、本物のドイツ語とインチキドイツ語の区別がつき、そのおかしさが分かり、この男は拍手喝采を受ける。
この人物が、弱ったことに戸籍上は私の兄にあたる斎藤茂太氏なのである。
私は少年時代から、ボール紙でナチの軍帽を作るのを手伝わされた思い出がある。
その当時こそヒットラーは栄光に包まれていた。
しかし、ドイツも日本もみじめに戦争に敗れ、ヒットラーの威風もすっかり地に墜ち、悪名ばかり高まった戦後の時代になっても。
この人物はなおかつその真似を得意になってやらかすのだ。
しかも、それは新年会の名物になっているらしく、満座の人々は喝采するのである。
しかし、ドイツも日本もみじめに戦争に敗れ、ヒットラーの威風もすっかり地に墜ち、悪名ばかり高まった戦後の時代になっても。
この人物はなおかつその真似を得意になってやらかすのだ。
しかも、それは新年会の名物になっているらしく、満座の人々は喝采するのである。
私はさすがに恥ずかしくて、最初の正月のみこの演説を聞きはしたが、以来北里講堂には行かないことにした。
それからどれほどの歳月が経ったことか。つい先年のこと、私は兄にこう尋ねてみた。
それからどれほどの歳月が経ったことか。つい先年のこと、私は兄にこう尋ねてみた。
「お兄さまのヒットラーは何時頃までやったのですか?」
すると、あきれたことに兄はこう澄まして答えたのだ。
「なに。まだやっているよ」
と。
加藤周一著「日本文学史序説」下巻 筑摩書房刊pp433-434より抜粋
「自然」と「詩」に対して、見事に知的に武装していた斎藤茂吉は、歴史的な「社会」に対しては、無防備で、ほとんど小児の如くであった。30年代末の軍国主義の時代に。彼が突然、中国侵略戦争を謳歌し、東条をはじめとする軍閥の指導者たちを賛美し、戦争宣伝のために沢山の馬鹿げた歌を作ったのではない。権力がそれを求めたときに、彼にはそれを拒否するどういう理由もなかったのである。茂吉は便乗せず、まさに小児のように、信じた。それより早く、たとえば、1923年に、オーストリア・ドイツに留学していた頃、彼はミュンヘンでヒトラーの「プッチュ」に出会ったことがある。帰国後、その事件の概要を当時の手帳をもとにして綴り(1926~27)、後に追記を加えて35年に発表したのが、「ヒットレル事件」(「斎藤茂吉全集」第五巻、岩波、1973、所収)である。そこには、事件の意味が「一介の医学書生の私」にはわからぬとか、ヒットラーの全体は「一精神医の私」には決してわからぬだろうとかいう言葉が頻りにあらわれ、「ナチ」という歴史的政治的現象の、そういうものとしての分析も批判も、みられない。そのことと、45年5月にヒットラー・ムッソリーニの死を聞いて、荷風がその日記に「天網疎ならず」と書いていたとき、茂吉がその日記(「昭和20年5月2日」の条、「全集」第32巻)に、ヒットラーの死を誌しながら、一語の感想もそこに書き加え得なかったことと、決して切離しては考えることができないだろう。
中島岳志篇 「橋川文三セレクション」 岩波現代文庫刊 pp.90-93より抜粋
一体、明治期におけるナショナリズムの理念を支えた主体の構造はいかなるものであったか?
いうまでもなく、その心理的基礎の一貫性として考えられるものは、幕末の攘夷論にみられる士族的危機感にほかならなかった。
しかし、その実感としての危機感が、開国=維新の論理に旋回しえたのは、国際関係に対する一種の普遍的理念の媒介を必要とした。
つまり、鎖国と幕藩体制というスタティックな環境において形成された武士階級の思考様式の中から、全く新しい問題状況(国家と国家の交際もしくは対峙)への適応態度が展開するためには、そこのなんらかの変換軸が存在しなければならなかった。
この問題について、もっとも深い洞察を示したものは、丸山真男が「近代日本の思想史における国家理性」等で提示した解釈であろう。
その要旨は次のようなものであった。
まず旧武士階級の認識の中に列強対峙という国際社会のイメージが比較的スムーズに、リアリスティックに定着しえたのは、「日本の国内における大名分国制からの連想ではなかったろうか。
戦国時代の固定化としての大名分国制によって多年養われた国内的イメージは、国際的危機感に触発されて、いまや世界規模にまで拡大(丸山真男「開国」)されたためと考える。
また、国際的規模(国際法)の存在が同様に比較的スムーズに承認されるにいたったのは、「・・・要するに儒教的な天理・天道の観念における超越的な規範性の契機を徹底させることを通じて」(同上)実現されたものと考えられている。
この二つの仮説は、東海散士のナショナリズムを考える場合にも有効であろう。
この仮説と、先に引いた飛鳥井論文における集団―個人に関する解釈とを結びつけることによって、私は「佳人之奇遇」におけるナショナリズムの思想史上の定位を明らかにすることができると考える。
引用の部分に示されるように、亡国の遺臣たちの談話を聞いたとき、散士の胸中にあふれたものは、何よりも会津藩滅亡の回想であった。
これはいうまでもなく士族的実感の立場であり、その実感がそのままアイルランド、スペイン等々の独立問題に対する散士の論理的思考の基礎となっている。
封建的思考の次元で養われたナショナリズム(封建的忠誠)が、そのまま国際的規模に拡大されているのである。
散士は自己の身分と結びついた体験の含む普遍性について何ら疑わないばかりか、己のイメージを幽蘭や紅蓮、范卿の境涯と同一化して涙を流すのである。
ここではまさに大名分国制の中で養われた国家の対峙の感覚が、そのまま国際社会の事態にあてはめられている。
散士ばかりではない。一般に分国制のもとでの体験が強烈なナショナリズムへの媒介契機となった例は少なからず見出せる。そのもっとも有名なものの一つは、板垣退助が「自由党史」で述べている感想だろう。
彼は東征参謀として会津落城を実見したのであるが、そのさい、藩に殉じたものはわずか五千の藩士にすぎず、庶民はただ逃げ惑うのみであったといわれる。
さらに、前に見た福沢の場合でも、やはりその封建下の諸体験が、国際政治の論理的理解の基礎になっていた。
一方、士族的ナショナリズムの健全な側面として特徴的なことは、対外人コンプレックスの比較的少ないことであった。
それは、すべての人類の妥当する普遍的規範の意識がかれらにおいて健全に保たれていたことによるが、「佳人之奇遇」においてそれがもっともよく示されるのは、やはり散士と外国女性との交情においてであろう。
そこには近代的恋愛の複雑な内面関係はないかもしれないが、人間同士の恋愛の姿は、比較的、普遍的な感動を引き起こす形で描かれている。
これらの事情について飛鳥井は「佳人之奇遇」において「個人は民族の代表者としての意味を持っていた。
変革期において、個人はそのバックとする集団と本質的な矛盾を持たず、個人の運命はその集団の中に溶け込んでいた」と述べている。
これは概括的な意味では正しいであろうが、問題はその集団の統一核となる精神構造―そのイデオロギーの内容であろう。
ここでは、その点において、伝統的思考様式(教養)の果たした役割を合わせて考えることが必要であった。
「佳人之奇遇」におけるナショナリズムの士族的起源について、以上の様な考察を行ったのちには、その文体の問題は比較的容易に類推することができよう。
それは簡単にいえば「漢学趣味とロマンティシズム」の結合形態であったが、新たな国際社会へと開かれたヴィジョンは、当面、漢文くずしの文章でしかこれを表現することが出来なかった。
そのことは、透谷や樗牛、鴎外(とくにその「即興詩人」)、土井晩翠などについても一部適合する事情であったが、なぜそれ以外の文体が有効たりえなかったは、近代文章史において、より詳しく検討される必要があろう。
橋川文三セレクション (岩波現代文庫)
橋川文三セレクション (岩波現代文庫)
ISBN-10: 4006002572
ISBN-13: 978-4006002572
橋川文三
いうまでもなく、その心理的基礎の一貫性として考えられるものは、幕末の攘夷論にみられる士族的危機感にほかならなかった。
しかし、その実感としての危機感が、開国=維新の論理に旋回しえたのは、国際関係に対する一種の普遍的理念の媒介を必要とした。
つまり、鎖国と幕藩体制というスタティックな環境において形成された武士階級の思考様式の中から、全く新しい問題状況(国家と国家の交際もしくは対峙)への適応態度が展開するためには、そこのなんらかの変換軸が存在しなければならなかった。
この問題について、もっとも深い洞察を示したものは、丸山真男が「近代日本の思想史における国家理性」等で提示した解釈であろう。
その要旨は次のようなものであった。
まず旧武士階級の認識の中に列強対峙という国際社会のイメージが比較的スムーズに、リアリスティックに定着しえたのは、「日本の国内における大名分国制からの連想ではなかったろうか。
戦国時代の固定化としての大名分国制によって多年養われた国内的イメージは、国際的危機感に触発されて、いまや世界規模にまで拡大(丸山真男「開国」)されたためと考える。
また、国際的規模(国際法)の存在が同様に比較的スムーズに承認されるにいたったのは、「・・・要するに儒教的な天理・天道の観念における超越的な規範性の契機を徹底させることを通じて」(同上)実現されたものと考えられている。
この二つの仮説は、東海散士のナショナリズムを考える場合にも有効であろう。
この仮説と、先に引いた飛鳥井論文における集団―個人に関する解釈とを結びつけることによって、私は「佳人之奇遇」におけるナショナリズムの思想史上の定位を明らかにすることができると考える。
引用の部分に示されるように、亡国の遺臣たちの談話を聞いたとき、散士の胸中にあふれたものは、何よりも会津藩滅亡の回想であった。
これはいうまでもなく士族的実感の立場であり、その実感がそのままアイルランド、スペイン等々の独立問題に対する散士の論理的思考の基礎となっている。
封建的思考の次元で養われたナショナリズム(封建的忠誠)が、そのまま国際的規模に拡大されているのである。
散士は自己の身分と結びついた体験の含む普遍性について何ら疑わないばかりか、己のイメージを幽蘭や紅蓮、范卿の境涯と同一化して涙を流すのである。
ここではまさに大名分国制の中で養われた国家の対峙の感覚が、そのまま国際社会の事態にあてはめられている。
散士ばかりではない。一般に分国制のもとでの体験が強烈なナショナリズムへの媒介契機となった例は少なからず見出せる。そのもっとも有名なものの一つは、板垣退助が「自由党史」で述べている感想だろう。
彼は東征参謀として会津落城を実見したのであるが、そのさい、藩に殉じたものはわずか五千の藩士にすぎず、庶民はただ逃げ惑うのみであったといわれる。
さらに、前に見た福沢の場合でも、やはりその封建下の諸体験が、国際政治の論理的理解の基礎になっていた。
一方、士族的ナショナリズムの健全な側面として特徴的なことは、対外人コンプレックスの比較的少ないことであった。
それは、すべての人類の妥当する普遍的規範の意識がかれらにおいて健全に保たれていたことによるが、「佳人之奇遇」においてそれがもっともよく示されるのは、やはり散士と外国女性との交情においてであろう。
そこには近代的恋愛の複雑な内面関係はないかもしれないが、人間同士の恋愛の姿は、比較的、普遍的な感動を引き起こす形で描かれている。
これらの事情について飛鳥井は「佳人之奇遇」において「個人は民族の代表者としての意味を持っていた。
変革期において、個人はそのバックとする集団と本質的な矛盾を持たず、個人の運命はその集団の中に溶け込んでいた」と述べている。
これは概括的な意味では正しいであろうが、問題はその集団の統一核となる精神構造―そのイデオロギーの内容であろう。
ここでは、その点において、伝統的思考様式(教養)の果たした役割を合わせて考えることが必要であった。
「佳人之奇遇」におけるナショナリズムの士族的起源について、以上の様な考察を行ったのちには、その文体の問題は比較的容易に類推することができよう。
それは簡単にいえば「漢学趣味とロマンティシズム」の結合形態であったが、新たな国際社会へと開かれたヴィジョンは、当面、漢文くずしの文章でしかこれを表現することが出来なかった。
そのことは、透谷や樗牛、鴎外(とくにその「即興詩人」)、土井晩翠などについても一部適合する事情であったが、なぜそれ以外の文体が有効たりえなかったは、近代文章史において、より詳しく検討される必要があろう。
橋川文三セレクション (岩波現代文庫)
橋川文三セレクション (岩波現代文庫)
ISBN-10: 4006002572
ISBN-13: 978-4006002572
橋川文三
2015年9月15日火曜日
井筒俊彦著「意識と本質 精神的東洋を索めて」岩波書店刊pp.90-95より抜粋 其の2
其の1からのつづきです。
「脱然貫通」という言葉で表現される意識のこの突然の飛躍転換がいかに激烈な実存的体験であったかは、その決定的瞬間の実感を描く朱子の文章に生々と写されている。
「突如、真夜中の静寂(しじま)を劈く烈しい雷鳴(表層意識のかたく閉ざされた闇の厚みを、耳を聾するばかりの凄まじい雷鳴が貫通する)。と、見る間に、数かぎりない扉が一斉に開く(突然、深層意識が発動し、それに呼応して太極の扉が四方八方に向って開かれて、この意識と存在の原点から無数の事物が発生してくる光景を目撃する)」と。そして、この異常な体験を通じて、「無心(未発達の至極における深層意識)そのものの中にあらゆる経験的事物(已発の状態における現象界のすべて)が内含されていることを悟ったなら、その時、その人は、まさに「易」の創始者その人と面々相対して立つ(太極そのものと完全に一化している)と言っていいだろう」と朱子はこの文を結ぶ(「朱子文集」三十八。原文は詩。ここには大意を取る)。
こんな烈しい実存体験にまで人を導くはずの「窮理」の道。経験界に存在する事物について、一つ一つの「理」を探る、というが、果たして文字通りすべての物の「理」を窮め尽さなくてはならないのだろうか。程子の門下でも朱子の門下でも、それは大きな問題だった。竹一つ、椅子一つにしても、その「理」を窮めるにどれほどの時日を要するのか見当もつかない。もし本当に、ありとあらゆる事物の「理」を一つ残らず把握してはじめて「貫通」するものであれば、生命がいくつあっても足りないだろう。
ある人が伊川に問うた、「格物(窮理)を実践するためには、あらゆる物について、それぞれのその理を窮め尽さなくてはならないのでしょうか。それとも、ただ一つの物だけ取り上げて、その理を完全に窮めてしまえば、あとはそのまま万理に貫通することができるのでしょうか」。
伊川は答える、「たった一つの物の理を把握しただけで、どうして一時に万理に貫通することができよう」。だが、と彼は付け加える、そうかといってまた、天下にあるかぎりの一切の理を窮め尽せというわけではない、と。先に引用した一文(「遺書」十八)がこれに続く。曰く、「今日は一物の理を窮め、明日はまた別の一物の理を窮めるというふうに、段々に積習していくべきであって、こうして窮め終った理が多く積ると、突然、自らにして貫通体験が起こるのだ」と。つまり、あらゆる事物のあらゆる「理」を窮めなくとも、習熟の度が或るところまで来ると、突然、次元転換が起こる、というのである。
ということは、しかし、「窮理」の最終的目的からすれば、事物の「理」、すなわち一物一物の「本質」そのものがそれ自体として問題なのではない、いやそれも問題であり重要であるにしても、むしろそれより、こうした修練を通じて、事物をそういう形で、そういう次元で、見ることの出来る意識のあり方を現成させることの方が、はるかに重要なのだということである。そのような意識の次元が拓かれて、全存在世界の原点である「太極」そのものを捉えてしまえば、ひるがえってその立場から、経験的世界の個々の事物に分殊して内在する個別的「太極」を窮め尽すことなど、いともたやすいことなのである。
意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
意識と本質
井筒俊彦
「脱然貫通」という言葉で表現される意識のこの突然の飛躍転換がいかに激烈な実存的体験であったかは、その決定的瞬間の実感を描く朱子の文章に生々と写されている。
「突如、真夜中の静寂(しじま)を劈く烈しい雷鳴(表層意識のかたく閉ざされた闇の厚みを、耳を聾するばかりの凄まじい雷鳴が貫通する)。と、見る間に、数かぎりない扉が一斉に開く(突然、深層意識が発動し、それに呼応して太極の扉が四方八方に向って開かれて、この意識と存在の原点から無数の事物が発生してくる光景を目撃する)」と。そして、この異常な体験を通じて、「無心(未発達の至極における深層意識)そのものの中にあらゆる経験的事物(已発の状態における現象界のすべて)が内含されていることを悟ったなら、その時、その人は、まさに「易」の創始者その人と面々相対して立つ(太極そのものと完全に一化している)と言っていいだろう」と朱子はこの文を結ぶ(「朱子文集」三十八。原文は詩。ここには大意を取る)。
こんな烈しい実存体験にまで人を導くはずの「窮理」の道。経験界に存在する事物について、一つ一つの「理」を探る、というが、果たして文字通りすべての物の「理」を窮め尽さなくてはならないのだろうか。程子の門下でも朱子の門下でも、それは大きな問題だった。竹一つ、椅子一つにしても、その「理」を窮めるにどれほどの時日を要するのか見当もつかない。もし本当に、ありとあらゆる事物の「理」を一つ残らず把握してはじめて「貫通」するものであれば、生命がいくつあっても足りないだろう。
ある人が伊川に問うた、「格物(窮理)を実践するためには、あらゆる物について、それぞれのその理を窮め尽さなくてはならないのでしょうか。それとも、ただ一つの物だけ取り上げて、その理を完全に窮めてしまえば、あとはそのまま万理に貫通することができるのでしょうか」。
伊川は答える、「たった一つの物の理を把握しただけで、どうして一時に万理に貫通することができよう」。だが、と彼は付け加える、そうかといってまた、天下にあるかぎりの一切の理を窮め尽せというわけではない、と。先に引用した一文(「遺書」十八)がこれに続く。曰く、「今日は一物の理を窮め、明日はまた別の一物の理を窮めるというふうに、段々に積習していくべきであって、こうして窮め終った理が多く積ると、突然、自らにして貫通体験が起こるのだ」と。つまり、あらゆる事物のあらゆる「理」を窮めなくとも、習熟の度が或るところまで来ると、突然、次元転換が起こる、というのである。
ということは、しかし、「窮理」の最終的目的からすれば、事物の「理」、すなわち一物一物の「本質」そのものがそれ自体として問題なのではない、いやそれも問題であり重要であるにしても、むしろそれより、こうした修練を通じて、事物をそういう形で、そういう次元で、見ることの出来る意識のあり方を現成させることの方が、はるかに重要なのだということである。そのような意識の次元が拓かれて、全存在世界の原点である「太極」そのものを捉えてしまえば、ひるがえってその立場から、経験的世界の個々の事物に分殊して内在する個別的「太極」を窮め尽すことなど、いともたやすいことなのである。
意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
意識と本質
井筒俊彦
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