2015年10月13日火曜日

小泉八雲著 平川祐弘編「日本の心」講談社刊pp.274-279より抜粋

高き屋に
登りて見れば
煙立つ 民の竈は
にぎはひにけり

                           仁徳天皇  

およそ三百年近く前のこと、イギリス東印度会社の船隊を率いて日本を訪れたジョン・セーリス船長は、大都市大阪について次のように書いた。

大阪は大変大きな町である。
城壁に囲まれたロンドンの市内と同じくらい広く、テムズ川ほどの川幅の川が流れ、高さのある立派な木造の橋がたくさんかかっている。
立派な家もあるが、その数は多くない。大阪は日本の主要な海港の一つである。素晴らしく大きく堅固な城郭も擁している。

十七世紀の大阪についてセーリス船長の述べたことは、ほとんどそのまま、現在の大阪にも当てはまる。
今日でも大阪は大都市であり、日本の主要な海港の一つであるし、西洋の見方による「立派な家」も建っている。
「テムズ川ほどの川幅の川」、すなわち淀川には、「立派な木造の橋」(今では鉄鋼や石でできた橋もあるが)がたくさんかかっている。
また秀吉が漢時代の要塞の造りにならって築いたという「素晴らしく大きく堅固な」大阪城もあって、今も軍事工学者の驚嘆の的になっている。
もっとも、高い櫓はなくなり、豪壮な本丸の御殿も一八六八年に焼失してしまったが―。

大阪は二千五百年余の歴史を持ち、日本でも最も古い都の一つに数えられる。
現在の名は、大きな川の高台という意味の「大江の坂」が縮められたもので、せいぜい十五世紀以降の呼び名と考えられている。
それ以前は難波(なにわ)とよばれていた。日本の存在がヨーロッパに知られる何世紀も前から、大阪はこの国の商業、経済の一大中心地であったし、それは今も変わっていないのである。
長い封建時代を通じて大阪の商人は、日本全国の大名諸侯にとっての銀行業者、貸し方の役目をしてきた。
諸侯のもとに納められた米を金銀に交換したり、軍資金を用立てたり―。
何マイルにもわたって立ち並ぶ大阪商人の耐火性の蔵の中には、全国の穀物、綿、絹などが蓄えられていたのである。
秀吉は大阪を軍事上の根拠地としたが、慎重で抜け目のない家康は、この町を恐れ、経済力のある富豪達の富を減らす必要があると考えた。

一八九六年現在の大阪は、広大な面積と約六十七万の人口を持っている。
広さと人口の上からは日本第二の都市とされるが、最近大隈伯がその演説でも述べたように、金融、工業、商業面では今でも東京を凌いでいるのである。
実際、堺、兵庫、神戸などは大阪の外港にすぎず、中でも神戸は近年めざましく発展を遂げて、横浜以上の港に成長しつつある。
大阪という町はすぐれて商才を持つ人間を日本全国から引き寄せる力があるので、神戸はいずれ外国貿易の第一港になるであろうと、日本人、外国人ともに確信を持って予言している。
現在のところ、大阪における輸出入取引きは、年間約一億二千万ドルで、国内の取引も莫大な額にのぼる。
誰もが買いたいと思うような品物は、ほとんどすべて大阪で作られているし、また、快適な暮らしを営んでいる家庭で、その家具、調度、備品に大阪の工業が全く寄与していないような住居は、日本国中探してもほとんど存在しないであろう。
これは恐らく、東京のできるずっと以前からのことと思われる。
「出船千艘、入船千艘」という繰り返しのある古い歌が残っているが、その歌のできた頃、港に入るのは平底の帆船ばかりであったに違いない。今日では、蒸気船も来れば、外洋航路用の様々の大型船も来る。
波止場に沿って人力車に乗って行くと、船のマストと煙突が、どこまでも果てしなく続いて行くのかと思われるほど、何マイルにもわたってずらりと並んだ光景を目にすることができるであろう。
もっとも、太平洋航路の定期船やヨーロッパからの郵便船などは、喫水が深すぎて入港できず、大阪向けの積み荷を神戸におろしているのだが、幾つかの汽船会社も擁している、この活気に満ちた都市大阪は、千六百万ドルの費用をかけての港の改修工事を現在計画中である。
人口二百万、年間の外国貿易高三億ドル以上―今後半世紀の間に大阪がそんな都市に成長することは、決して実現不可能な夢ではない。
大阪が大きな商業組合の中心であることは、今さら言うまでもないことである。
ここには四百以上の商事会社がある。紡績会社の本社もあり、その工場では、一日二十四時間のうち二十三時間をわずか一度の交替で操業し続け、一錘当りの製糸量は英国の工場の二倍、ボンベイの工場の三十から四十パーセント増しとなっている。

世界の大都市はその住民にそれぞれ独特の性格を与えるものと考えられているが、日本においても、大阪の人はほとんど一目見ればそれとわかると言われている。
私が思うに、首都東京の人の性格は大阪人に比べて特徴が際立っていないようだ。
それはちょうど、アメリカでもニューヨークやボストンの人よりシカゴの人の方が見分けやすいのに似ている。
大阪の人間は呑込みが早く、エネルギッシュで、時勢に決して遅れを取らぬ、あるいは流行の少し先を行く雰囲気さえ漂わせているが、これは商工業界での相互競争の結果と見て良い。
何しろ商売上の経験にかけては、大阪の商工業人は首都東京の競争相手よりはるかに長い伝統を受継いでいるのである。
得意店回りの外交員としての大阪人の優秀さに定評がある理由の一つは、おそらくここに存在するのであろう。
彼らは近代的な日本人で、幾つかのタイプが目につく。
例えば汽車や汽船などでの旅行中に、一緒に少し話をした後でもなお、どこの国の人なのか決めかねるような、一人の紳士と偶然知り合いになることがあるかもしれない。
その紳士はきわめて趣味の良い、上質で最新の洋服を着こなし、英語、フランス語、ドイツ語のいずれを用いても同じように立派に話ができる。
礼儀作法も申し分ないが、それと同時に、どんな人物を前にしても相手に順応する能力を備えているだろう。
ヨーロッパも知っているし、こちらが訪ねたことのあるような極東の各地については勿論のこと、名前さえ聞いたこともないような土地についても驚くほどの情報を提供してくれる。
また日本に関してならば、この紳士は各地方の特産物に詳しく、その由来や他と比較しての長所まですべて心得ているのだ。
顔立ちも感じが良い。
鼻筋が通り、場合によっては幾らか鷲鼻で、口元は豊かな黒の口ひげにおおわれており、この顔の持ち主が東洋人であることを思い出させるのは、わずかに瞼のみである。
―と、大体以上に述べたような人物が、大阪の販売外交員一八九六年型とでも言うべき一タイプであり、日本の平均的小役人とは王子と家来ほどの差が見られる。
この同じ人物にもし大阪で出会ったとしたら、恐らく彼は和服を、それを高尚な趣味がなくてはできないような洗練された様子で着こなしているに違いない。
その姿は、日本人と言うよりも、むしろ変装したスペイン人かイタリア人のように見えるのである。

生産、流通の中心地として知られる大阪のことであるから、きっと日本の都市の中でも最も近代的で、日本的特色の最も少ない都市であろうと想像される向きもあろうが、事実は全く反対である。
日本の大都市で大阪ほど洋服姿の少ない都市は稀だし、大阪ほど人々の着物が魅力的で町並みの美しいところはない。

大阪は流行を生む所と考えられている。
そして現在の流行では、様々の色が用いられるという好ましい傾向が見られる。
私が初めて日本に来た頃、男性の服装は濃い色、中でも紺色が主流であったので、男性が集まるとそこには大抵この色の集団が出来上がったものだった。

日本の心

日本の心

  • ISBN-10: 4061589385
  • ISBN-13: 978-4061589384


  • 小泉八雲

    平川祐弘

    小泉八雲著 平川祐弘編「日本の心」講談社刊pp.209-212より抜粋

    大きさはいかようであれ、純神道風の社殿の建築はみなすべて同じ古風な様式に則っている。
    典型的な神社の社殿は、塗料を用いない、白木で出来た長方形の窓のない建物で、前へ深く突き出た急勾配の屋根がついている。正面は切妻の壁で、いつも閉ざされたきりで開いたことのない扉の上の部分は木製の格子作りとなっている。それは通常、直角に交叉する木格子をしっかりと組み合わせたものである。たいていの場合、建造物は地面よりも多少上に、木の柱で持ち上げられている。前方から見ると屋根の尖ったこの正面全体は奇妙である。兜の面頬ににた隙間があり、切妻の角の上に梁が奇怪な形をして突出していて、ヨーロッパから来た旅行者には屋根窓の中にある種のゴチック的な形態を思い起こさせる。
    人工的な着色はいっさい施されていない。自然木(たいていは檜であるが)は、日光や雨風にさらされて、自然の灰色に変っている。それは表面がそれだけ外気にさらされたかによるが、樺の木の樹皮の銀色を帯びた明るい色調から玄武岩の暗灰色にいたるまでの幅である。そのような形と色をした、田舎にぽつんと孤立した社は、建具師の拵えたものというより、その土地の一風物のような感じがする。岩や木が自然と密接に結びついているのと同じくらい自然と密接に結びついた田舎の姿という感じがする。その土地の原始時代の神であった大地神the Earth-God の顕示として存在するにいたったなにか、という感じがするのである。
    なぜある種の建築の形態を見る人の心中に不思議な、この世のものならぬ気持を呼び起すのか、その問題について私はいつか理論づけしてみたいと思う。

    いま差しあたり言えることは、神道建築はそのような感情を呼びさます、ということだけである。そしてその感情は、神社と接する機会がふえればふえるほど、減るどころか逆に増大する。そして民間信仰のことをいろいろ知るにつれ、その感情はどうもますます強くなる。こうした奇妙な建築物の形を言葉で十分描き尽くすためには英語は語彙が不足している。ましてやこうした奇妙な形が作り出す不思議な印象を人に伝えるだけの言葉はないといっていい。

    私達西洋人がtemple とかshrineとかいう英語を使っておおまかに英訳している神道上の言葉は、実際は翻訳不可能なものである。私がそういう意味は、日本人がそうした言葉に結びついている観念や含蓄は、そうした翻訳では伝達不可能だ、という意味である。

    神のいわゆる「やしろ」は、語の古典的な意味におけるtempleであるよりは、「死者の霊の出入りする部屋」haunted room とか「霊の部屋」spirit-chamberとか「霊の家」ghost-houseと呼ぶべきだろう。というのも大神ではない多くの神々は実際は霊ghostだからである。

    多くの神々は立派な武人や英雄や統治者や人の師で、何百年何千年前に生き、愛し、そして死んだ人々の霊なのである。私はこんな風に考える。神道の宮とか社がもつ不思議な性格についてなにか漠然とした観念を西洋人に伝える際には、宮とか社とかをshrineとかtempleとかいう言葉で訳すよりもghost-houseと訳した方が意味がよく伝わるのではないか。というのは宮とか社とかには、あの永遠の薄暗がりの中に御本体といっても象徴とかおしるし―おしるしといっても多分紙でできたなにかであろう―以上に実体的なものはなにも蔵されてはいないからである。

    そして面頬に似た正面の背後にあるこの空虚な空間こそいかなる物質的なるものにもまして暗示的・示唆的な空間である。
    そして何千年もの長きにわたって何百万人という人々がこうした社の前で自分たちの中の偉大な死者たちを崇拝してきたこと、そしてこうした社の建築の中には目にこそ見えね意識のある人が住んでいると一民族のすべてがいまなお信じ続けていること、そうした事実を読者もよく考えるなら、こうした信仰を不合理ときめつけることがいかに難しいことかおわかりのことかと思う。

    それどころか、こうした考え方に対する西洋的反撥にもかかわらず―またそうした体験について後になって勝手な事をなんと言おうと、言うまいと、ともかく読者自身、神社の社頭に立てば、こうした可能性に対して恭しい敬意の態度を一瞬取らざるを得なくなる。単に冷淡に理屈をこねてみても、そうそう反対の態度を取れるものではない。

    読者も御承知のように世の中には見えもせず、聞こえもせず、感ぜられる実体が沢山ある。そうしたものは力として存在する。それは恐るべき力として存在する。
    それにまた読者は四千万の国民の信仰を―その信仰が読者自身の身辺に空気のごとく揺れ動く時、それを愚弄することはできない。

    読者は大気が読者の肉体的存在に圧力を加えているのと同じようにその信仰が読者の精神的存在に圧力を加えていることを自覚しているからである。
    私自身についていえば、私は自分一人で神社の社頭に立つ時、自分がなにかにつかれているような感じを受ける。それだけにそこに目に見えず現れたものの知覚作用という可能性を考えずにはいられない。そしてそうなるとついこうした事も考えずにはいられない。畏れ多い話だがもし私自身がかりに神となり、石の獅子に護られ、聖なる杜の影の中、とある丘の上のどこか古い出雲の社に住んだならば、私はどのように感じるだろうか、私の知覚作用はその際どのようであろうか、と。

    2015年10月11日日曜日

    20150927 コトバの読み方について・・

    A「どうもお久し振りです。最近だいぶ涼しくなりましたがお元気でしょうか?」

    B「やあ、こっちはどうにか元気だよ。そういえば最近君のブログの投稿数が100になった様だね。時々君のブログを読んでいるけれど中には面白いものがあるね・・。それで20150707のブログを以前読んだけれども、ここに書かれていた騎射場と喜捨と八幡宮の関係はなかなか興味深いんじゃないかな・・。その後、たまたま尋ねてこられたその騎射場近くの大学で勤めていた知人に聞いてみたら「それは大変興味深く面白い視点ですね。」って云われたよ(笑)。」

    A「はあ、それはどうもありがとうございます。私もその件につきましては特に深く考えないで書いてしまいましたが、もしかしたら、これも初の指摘、発見であるのかもしれません。しかし、何れにしても今の私にとって、そういったことはあまり利するところはないのですが・・。」

    B「まあ、何れにしても書き続けるのは良いことだよ。多分君がブログで書いた事のなかに一つは新しい発見はあると思うよ。断言はできないけれどね・・。
    それはそうと最近私も小さいけれども面白い発見があってね、まあちょっと聞いてくれ給えよ。」

    A「ええ、それは是非お聞きしたいです。それで、その内容とは何ですか?」

    B「うん、最近色々な形で「太平記」を読んでいるのだけれど、知っているかもしれないけれど正中の変で幕府側に捕縛されて佐渡に流罪となり処刑された南朝方の公卿日野資朝の息子が、その仇を討ちに京都から佐渡に渡り、まあ、どうにかその仇の親類を討ち取り無事に船で渡海、逃亡するのだが、この息子の名前が「阿新」と書いて「くまわか」と読むのだよ。これは多分「阿」の字が「くま」で「新」の字が「わか」と読ませるのだと思うけれど、ここで面白いのは、今の時代では「阿」を「くま」と読むことは一般的ではないけれど、当時ではそういった読み方で通じていたということだろうね。そしてそうすると、最近ニュースで時折聞く熊本の「阿蘇」・「あそ」の読み方にこれを合わせてみると「くまそ」(熊襲)になるよね。これは当を得ているかどうか分からないけれども、いや、それ以前に元々の阿蘇の語源すら私は知らないけれど、なかなか面白くはないかね?」

    A「ええ、それは大変面白いですね!西日本、特に九州などでは古い文化が自然な形で残されていることがあり、時折「ハッ!」と気付かされることがあります。私が鹿児島在住の際に思ったことは多くありますが、先ほど御指摘頂いたブログの騎射場、喜捨そして八幡宮との関係以外で今すぐに思い出すのは、大隅半島の山、確か高隈山(たかくまやま)登山の際、途中にあった山小屋、休憩小屋のことです。これが確か「さしば小屋」と書いてありまして、当時の自分の研究分野が研究分野でしたので「さしば」に反応したのです。
    「なぜこれが「さしば」なのか?」という感じで(笑)。」

    B「うん、そこの場所で「さしば」は少しおかしいね。で、その意味は何だったんだい?」

    A「ええ、その後しばらくして偶然読んでいた金関丈夫著の「発掘から推理する」内の竹原古墳奥室の壁画の記述にて「さしば」という言葉を見つけたのです(前掲著作p.133を参照されたし)。この「さしば」とは、漢字で翳(実際書きながら)と書きまして、昔の偉い人の後ろでお付きの人がよく持っている大きな細長い団扇の様なものであり、日除けなどに使うものです。そして先ほどの高隈山の「さしば小屋」の「さしば」も意味合いで考えますと、おそらくこれが適当ではないかと思うのです。そして、この様な現在では日常生活にて使わない古い言葉を大隅半島などで見聞き、発見しますと、どうも面白いのです。
    しかし同時にそれはよく考えてみれば少しも不思議ではないのです。何故ならば、御承知とは思いますが、琉球、沖縄の言葉とは古い奈良時代頃迄の日本語が基にあると既に判っていることから、その伝播径路の途中である鹿児島において存在することはある意味当然なのです。」

    B「うん、なるほどねえ、今の推測はよくわかるよ。私も大分前だけれど伊波普猷の著作をいくつか読んだことがあったけれども、それらの中で琉球の言葉の語源についていくつか述べられていたけれど、それとも矛盾しないね。」

    A「ええ、琉球、沖縄のことでしたら、最近もう一つ面白いことを見つけました・・。
    昨今ニュースなどで時折聞きます沖縄の地名「辺野古」(へのこ)ですが、これはその音(へのこ)ですが、昔の日本語で男性のシンボル、陽の物を意味しまして、以前どこかで見聞きしたお裁きものの落語で出てきたのでぼんやりと憶えていました。また、この辺野古は地理的には大浦湾南側に突き出た半島状になっています。そして、その一方において半島の英語訳であるpeninsulaとは、もともとラテン語の尾、男性のシンボルを意味するpenisが語源です。そうしますと、この辺野古(へのこ)とは、偶然にもその語源においてラテン語、英語などの印欧語の半島の意味と共通している可能性が高いと思われるのです・・・。」

    B「うーん、そういうことを真面目に云われるとちょっと驚くけれども、これは確かに単なる下ネタ、笑い話として片付けられないね。うん、なかなか面白いね・・今度それを人に話してみてもいいかね?」

    A「ええ、是非お話してみてください。これは話し方で、結構評価が分かれる可能性がありますので、できるだけ真面目に話された方が良いかと思います・・。」

    B「やあ、どうもありがとう。それでも私も大勢を相手に説明したり書いたりする仕事は割合長くやってきたと思うから多分大丈夫だと思うよ・・。」

    A「ああ、これは失礼しました・・。」

    B「いや、気にしないでいいよ。それよりも面白い話をどうもありがとう。」

    若槻禮次郎著「明治・大正・昭和政界秘史」講談社刊pp.196-201より抜粋

    大正三年の夏の夜のこと、早稲田の大隈邸で臨時閣議が開かれた。
    それは第一次ヨーロッパ戦争の最中で、イギリスからわが国に、膠州湾にいるドイツの軍艦があばれて、イギリスの商船などがやられて困るが、日本の海軍で、ドイツの軍艦を追っ払ってくれんかといって、申し込んできたということを、加藤外務大臣が報告した。
    そしてわが国とイギリスとの関係は、日英同盟にあるけれども、その成文からいって、日本は必ずしもイギリスの注文に応じなければならん義務はない。しかし同盟の情誼からいって、一方が苦しんでいる際に、これを助けるのが正常だと思うが、閣僚諸君のお考えを伺いたいというのであった。そしてつけ加えて、わが国は三国干渉でひどい目にあったが、膠州湾に手をつけるのは、それに報いるいい機会だと思うといった。それに対して、みな賛成な様子であった。だが私だけは、おいそれと返事ができなかった。
    いざ戦争となれば、軍部大臣、内務大臣、大蔵大臣が一番責任が重い。大蔵大臣がこれに賛成すれば、財源を作って戦費を調達しなければならん。それは容易なことではない。先の先まで考えると、非常にくるしい。閣議は夜の十二時に及んだ。結局私は、たとい戦局が拡大するにしても、ドイツの海軍が日本を攻めて来ることも、日本がそれに屈服するなどということも、有り得ない。そう莫大な軍費を要することはないと結論づけて、私は最後にこれに同意した。閣議の終わったのは、夜中の二時ごろだったろう。
    それでイギリスへは、申し込みに応じる旨の返事を出した。しかし加藤も私も、元来戦争は好きじゃない。大ていの方針はそれでいいが、どうにかして戦をせんで済む方法があれば、そうしようということで、その翌日、私は加藤を訪ねて、二人で話し合った。夜であったが、室内は暑苦しいので、開け放しのベランダへ出て話した。そこでの話は、ドイツへ最後通牒を送るのに、普通は二十四時間の期限で出すが、二十四時間でなければ機会を失うというような事柄じゃない。戦をしても、せんでもいいのだから、これは一週間ぐらいの期間で申し込もう。その間にドイツがよく研究して、日本を敵としない、日本のいうことを聴くといえば、戦をするに及ばず、こんないいことはないので、そう決めた。
    その最後通牒の要旨は日本の玄関前にドイツが坐り込んでいるのはよろしくないから、膠州湾の海軍は東洋から撤退しなければならん。それから租借地と鉄道は、ドイツが権利を放棄して、中国へ戻されねばならんが、ドイツと中国とで直接授受するとなると、どんな密約をするかわからんから、これはいったん日本に渡して、日本の手からシナへ渡すというので、そうすることにした。だんだん話が決まったので、政務局長の小池(張造)を電話で呼んで、通牒の文案を書かせた。ところがヨーロッパに戦争が始まっているので、交通が絶えている。どうしてドイツへ渡すかいろいろ考えて、ロンドンとか、ストックホルムとか、ハンブルグとか、なんでも四ヶ所に電文を送って、それか一つがいけばよいということにした。後で聞くと、案外早く届いて、ベルリンの船越代理公使(光之丞)が、ドイツの外務省へそれを持って行った。ドイツとしては、それは非常な侮辱であったから、握ったまま、返事をしなかったことは周知の通りである。この事について、イギリスの外務大臣サー・エドワード・グレーは、その後、自分は日本に戦争参加を求めたのではない。
    ただドイツの軍艦を追い払ってもらいさえすれば、それでいいといっただけだと言って、日本の戦争参加は早まり過ぎたといわんばかりのことを言ってきたという。それにたいして加藤は、ドイツの軍艦を打ち払えば、戦になるじゃないか。軍艦を打ち払って、それで戦争しないというには無理だ。今に至って戦争参加を求めるつもりはなかったなどは、加藤はイギリスの奴隷だから、加藤外交はイギリス外交だといって、加藤の外交非難をしていた。こんな批評は、ただ抽象的にけちをつけようとする、単なる悪口にすぎないのである。

    対支二十一箇条
    この大隈内閣は、一年間に四度も帝国議会を開いた。
    最初の臨時議会は、昭憲皇太后の御大葬費。
    次の臨時議会は、前にいった軍艦建造費。
    その次の臨時議会は日独開戦に伴う経費の要求。
    その次は通常議会であった。
    そして日独開戦の経費は、陸軍は一個師団に少しばかりの特別部隊をつけて、青島に兵を出した、その費用であった。海軍は、東洋にいるドイツの海軍を追い払うのみならず、引き続いて起こる戦争の費用をも要求した。そしてこれには、新たに駆逐艦を作らなければ、やっていけんという、大蔵省では、このくらいの戦争をするのに、新たに駆逐艦を作らんでもよかろうと、一応反対した。ところが海軍次官の鈴木貫太郎、これは終戦当時の総理大臣であり、その後亡くなったが、この鈴木が大蔵省へやって来た。次官の浜口(雄幸)が応接すると、鈴木が蒼くなって、この駆逐艦の建造は認められなければ、戦ができんといって、非常に力んだので、たしか七、八艘造ることになった。これは青島の外に、ドイツには太平洋の真ん中に属島がある。ここを根拠地にして、日本を見張られてはかなわん。これを日本に取り込み、この機会に南進しようという肚で、戦費を要求したのであった。日独戦争は知っての通り、勝敗に疑いのあるような戦争じゃなかった。日本は青島をも、太平洋の群島をも、軍事占領した。ここで大ていの形勢は、もう東洋のことには、欧米諸国が嘴をいれることのできないような形勢になっておった。日本としては、この戦争によって得た地位を、固めておく必要があった。それでまだ戦争中ではあったが、中国に向って交渉を開いた。これがいわゆる対支二十一箇条というのであるが、その主なものの中の第一は、既に期限の迫っている旅順、大連の租借の延長ということであった。
    この事については、こういう話がある。
    第三次桂内閣の組閣後、加藤は英国から帰って、外務大臣になったが、彼は帰朝に先立って、暇乞いのために、イギリス外務大臣サー・エドワード・グレーを訪ね、自分が帰国すれば多分外務大臣に任ぜられると思う。
    それについて、ここに一言申しておきたいことがある。
    それは日本は、日露戦争の結果、旅順、大連の租借地を譲り受けたのであるが、日本は日露戦争のために、十万人の血を流し、数十億の戦費を費やした。
    旅順、大連の租借権は、二十五年の期限になっているけれども、日本がこれを譲り受けたときは、すでに十数年を過ぎており、余すところいくばくもない。
    しかし日本人は、この期限がくれば、すぐにこれを中国に返さねばならんとは思っていない。このことは、英国において記憶しおかれることを望む、と言明したところ、グレーはこれに対して、満州には日本人の血が流されているということは、考うべきことである。
    貴下のただ今の一言は、英国外務省の文書に記録しておくようにする。
    と答えたということである。私は加藤の帰朝後間もなく、この話を直接彼から聴いた。
    また桂内閣が総辞職して、山本権兵衛内閣が出来、牧野伸顕伯が外務大臣になって、事務の引き継ぎをする際、加藤は牧野に向かって、引継事項中には重大なものがあるから、外務大臣ばかりでなく、総理大臣にも引き継いでおきたいから、山本首相も立ち会われたいと言って、山本、牧野両大臣の面前で、右のグレーとの対話を引き継いでおいたと、これも加藤が私に話した。すなわち大隈内閣の外務大臣として、加藤が対支交渉にあたって、最も力を注いだのは、この租借権の期限延長であったのである。

    明治・大正・昭和政界秘史
    明治・大正・昭和政界秘史
    ISBN-10: 406158619X
    ISBN-13: 978-4061586192
    若槻禮次郎






    加藤周一著「日本文学史序説」上巻筑摩書房刊pp.22-26より抜粋

    中井久夫著「アリアドネからの糸」みすず書房刊pp.134-137より抜粋とあわせて読んでみてください。

    日本文学の著しい特徴の一つは、その求心的傾向である。
    ほとんどすべての作者は、大都会に住み、読者も大都会の住民であって、作品の題材は多くの場合に都会生活である。
    たしかに地方には口伝えの民謡や民話があった。
    しかしそういう民謡民話に集められ、記録されたのは都会においてである。
    たとえば八世紀に編纂された「古事記」、殊に「風土記」は、多くの地方伝説や民謡を含んでいたが、そういう官選の記録が、中央政府の命令によって作られたことはいうまでもない。
    地方を舞台にした多くの話を収録している説話集についても、「日本霊異記」から「今昔物語」を通って、「古今著聞集」や「沙石集」に至るまで、同じことがいえるだろう。
    中国では日本でのように一時代の文化が一つの都会に集中してはいなかった。
    大陸の文人は、国中を旅して、各地の風物を詠じている。
    たとえば杜甫の場合に典型的なように、唐の詩人はその吟懐を必ずしも長安の街頭に得たのではない。摂関時代の歌人が、行ってみたこともない地方の名所・歌枕を、歌につくりなしてしたのとは、大いに異なる。欧州の文学では、その遠心的な傾向が、中国の場合よりさらに徹底していた。
    欧州の中世は、吟遊詩人の時代であり、各地の大学を渡り歩いてラテン語の詩をつくっていた学生たちの時代である。
    近代になっても、独・伊語の文学的活動が、一つの大都会に集中したことは一度もないといってよいだろう。
    パリを中心に発達した近代フランス文学は、その意味では、欧州文学のなかにおける例外である。しかしそのフランスの場合さえも、プロヴァンスはその地方語による大詩人ミストラルを生んだ。日本の場合には、人麿以来斎藤茂吉に到るまで、地方語による大詩人はあらわれなかった。 文学が大都会に集中する傾向は、九世紀以来、京都において徹底した。 律令制権力は中央政府に集中していたけれども、奈良はまだ経済的にも文化的にも大都会ではなかった。 政府と大寺院が大陸文化の輸入の中心であったにすぎない。
    経済が大都会を支えるに足るところまで成長し、政治的権力の独占に文化的活動の独占が伴うようになったのは、平安時代以後である。 少なくとも文学に関するかぎり、その中心としての京都の位置は、十七世紀に商業的中心としての大阪が擡頭するまで、いかなる地方都市の活動によっても挑戦されなかった。 十八世紀以後江戸文学がさかんになったが、そのとき文化の中心は、京都・大阪から京都・江戸へ移ったので、京都がその中心であることをやめたわけではない。 そして明治以後の東京中心時代。今日なお著作家の圧倒的多数は、東京とその周辺に住み、出版社の大部分も東京に集中している。 ただ読者層だけが全国的に拡がったのは、文学作品のみならず、ほとんどすべての商品について、全国的な市場が成立するようになったからである。 東京が方向を決め、全国の地方がそれに従う。その意味で、文化、殊にここでは文学の求心的傾向は、江戸時代におけるよりも、今日においてさらに著しいのである。 文学活動の中心であった大都会で、文学と係りをもった社会的階層は時代によって交替した。 今かりに文学作品の創作・享受のいずれかに関与する階層を文学的階層とよぶとすれば、文学的階層の時代による交替は、日本の場合が西洋に似ていて、中国の場合と対照的である。 中国の文学的階層は「士」であった。「士」とは唐・宋の昔から清朝の末まで一貫して、ほとんどそのまま高等教育を受けた中国人と同義語であり、官吏または元官吏であって、彼らだけが文学的言語を読み且つ書くことができたのである。中国の詩文は、「士」の事業であり、彼らのみの事業であった。
    そのことは、古典文学の形式の想像を絶した強い伝統と、その伝統に反して新しい形式や主題を発見することの困難を意味する。 日本の文学的階層は、奈良時代にはまだ充分に固定していなかった。 「万葉集」は、主として七・八世紀の歌を集めているが、その作者は、貴族ばかりでなく、僧侶・農民・兵士などであり、また無名の民衆でもあった。しかしおよそ100年の後、10世紀のはじめの「古今集」では、歌人の圧倒的多数が、九世紀の貴族と僧侶であった。平安時代には独占的な文学的階層が成立する。 しかしそのことは、先にも触れたように、京都の支配層以外のところに、口伝えの文学がなかった、ということを意味しない。 おそらくは豊富な伝説や民話や民謡があった。その片鱗は、貴族社会が収集し記録した説話集の類いから、今なお推量することができるのである。
    文学的階層としての平安貴族には二つの特徴があった。 その第一は、傑作を生み出した作者に、下級の貴族が多かったということ、その第二は、また女性が多かったということである。 別の言葉でいえば、貴族権力の中心からではなく、その周辺部から、時代を代表する多くの抒情詩や物語が生みだされた。その理由を想像することは、困難ではない。下級貴族は、宮廷生活を観察するためには充分にその対象に近く、そこでの権力闘争にまきこまれないためには対象から充分に離れていた。 地方官として地方へ赴いたときには、宮廷外の社会との接触の機会も多かったはずである。宮廷の女たち(女房)についていえば、経済的配慮、政治的野心、半公用語としての中国語の教養の必要の、いずれからも自由であって、彼らの私的な感情生活を母国語で表現するのに、甚だ好都合な立場にあった。平安時代の文学は必ずしも「女房文学:ではない。しかしこの時代の京都においてほど、女が一時代の文学の重要な部分を担ったことは、おそらく古今東西にその例が少ないだろう。
    日本文学史序説 (上)
    日本文学史序説 (上)
    ISBN-10: 4480084878
    ISBN-13: 978-4480084873
    加藤周一







    加藤周一著「日本文学史序説」下巻筑摩書房刊pp.504-509より抜粋 20151007

    敗戦後の日本には、占領軍の強制により、政治社会制度の大きな変化がおこった。
    その一つは、軍国日本の「非軍事化」であり、(憲法第九条の戦争放棄条項)、もう一つは、天皇制官僚国家の「民主化」である(天皇の法的権限の縮小、議会民主制、政党および労働組合の活動の自由、言論表現の自由など)。
    しかし政治制度の急激な変化に、政治的な意識と行動様式の変化がただちに伴ったのではない。
    権力と人民との関係においては、伝統的な「官尊民卑」の風習が残り、今日なお日本社会は、市民革命を経過した社会と異なる。
    中央と地方との関係においても、明治以後の中央集権的傾向がそのままひきつがれて、地方自治は極めて弱い。
    社会生活一般について、四五年以後のおそらく最大の変化は、家庭でも、学校での、企業でも、集団内部の上下関係の厳格さが崩れ、平等主義が普及したことである。
    しかし集団帰属性を強調する価値観が、四五年を境として変ったのではない。
    四五年以後の日本社会は、以前と同じように集団志向型の社会であった。
    すなわち敗戦と被占領後に出現したのは、個人の人権と少数意見の尊重に鈍感で、しかし高度に平等主義的であり、集団相互および集団の成員相互の競争が激しく、個人の集団への組込まれが常に強かった社会である。
    対外関係での最大の変化は、もちろん、被占領から始まった日米関係である。
    かつての「枢軸国」は、一転してアメリカとの同盟関係に入った。
    アメリカの圧倒的な影響は、政治・経済・軍事・情報・学問・大衆文化の、ほとんどあらゆる領域にわたる。
    これほど広汎な領域で、日本国が特定の外国へ依存したことは、一九四五年以前にはなかった。
    古代日本への大陸文化の影響は、はるかに広く、はるかに深いものではあったが、中国側からの軍事的・経済的な圧力を伴わない。
    一九世紀の「開国」は、たしかに軍事的な圧力のもとで行われたが、その後の「西洋化」の過程は、手本とする先進国が一国に集中していなかった。
    またその影響が大衆の風俗習慣に及ばなかったという点でも、戦後三〇年の状況とは大いに異なる。
    経済的にみれば、この三〇年を二つの時期に分けて考えることができる。
    前半の一五年間は、初めはアメリカの援助、後には朝鮮戦争景気を利用して、日本経済が戦争の荒廃から立ち直った時期である。
    五〇年代の半ばに一人当りの実質国民所得は、戦後の水準を恢復した。しかし日本人はまだ貧しく(一九五六年の一人当り国民所得二二六ドル、これはアメリカ合衆国のおよそ一〇分の一、西ヨーロッパ諸国にも遠く及ばない)、TVと乗用車と海外旅行はまだ大衆化していなかった。
    戦時中の鎖国状態の後で、国外の文物への知的好奇心は強く、翻訳の欧米文学が読まれ、「西洋事情」の紹介は盛んであった(福沢諭吉「西洋事情」初篇刊行一八六六年の後およそ八〇年である)。
    後半の一五年間は、日本経済の高度成長期である。工業製品の国外および国内の市場は、劇的に拡大した。
    日本人の生活程度は、かなり高くなった(一九六九年の一人当り国民所得は、一三〇四ドル、これはアメリカ合衆国のおよそ三分の一、西ヨーロッパ諸国の水準にほとんど追いつこうとしていた)。
    TVはほとんどすべての家庭に普及し、乗用車は大衆化し、海外への団体旅行は盛んになった。同時に翻訳文学への好奇心は後退し、西洋の知的遺産への関心は薄くなったようにみえる。第一に、ヴェトナム戦争、第二に、「新左翼」の学生運動が、青年たちの関心をひきつけたのは、この時期である。学生運動は、管理された消費社会への成功しない反抗であった、といえるだろう。三〇年間の日本の文学は、経済的復興の前半に活発で、経済的繁栄の後半に独創的な活気を失った。その事情は、第二次世界大戦のもう一つの敗戦国西ドイツの場合とおそらく対称的である。西ドイツの経済的復興は早かったが、その時期に、文化的創造力はほとんど全く麻痺していた。文学芸術の領域での創造的な活動が始まったのは、六〇年代になってからである。日本の戦後文学の主要な条件は、その前半一九六〇年までの時期には、戦争体験と「第二の開国」であり、六〇年以後の後半期には、ヴェトナム戦争と高度成長の消費社会であった。そういう条件が文学にどう反映してきたか。それがここでのわれわれの問題である。


    戦争体験について

    中国侵略から太平洋戦争へかけて、戦争体験と日本型「ファシズム」の経験とを切り離して考えることはできない。敗戦後にあらわれた日本型「ファシズム」の日本人による自己理解の試みは、その経済的背景の分析から国家論まで、社会心理学的説明から伝統的文化の批判まで、多岐にわたった。そのなかで、思想的領域での分析と叙述が、もっとも周到で、またおそらくもっとも深い影響を戦後の青年たちに及ぼしたのは、丸山真男(一九一四~九六)の「現代政治の思想と行動」(上、一九五六、下、一九五七)に収める諸論文、殊に「超国家主義の論理と心理」(一九四六)、「日本ファシズムの思想と行動」(一九四七)、「軍国支配者の精神形態」(一九四九)である。
    丸山はそこで、日本型「ファシズム」を、ナチの体制および歴史と比較し、その特徴を指摘した。すなわち「イデオロギー」における家族国家・農本主義・大アジア主義、運動形態における既存の国家機構の保存・大衆組織の欠如、担い手における小工場主・小地主・下級官吏などの積極性(都会の俸給生活者や「インテリゲンチャ」の消極性)、発展の型における下からの「ファシズム」が上からの「ファシズム」へ吸収される過程などである。
    このような特徴の背景には、ドイツと較べての工業化段階および民主主義の後れがあり、したがってドイツ型とはちがう日本型の「ファシズム」が生じたとする(「日本ファシズムの思想と運動」)。民主主義において後れた天皇制国家の基本的な構造は、国家主権がそれ自身に超越する絶対価値へ「コミット」していないということである。
    「国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に占有する結果は、国家活動はその内容的正当性の基準を自らのうちに(国体として)持っており、従って国家の対内及び対外活動はなんら国家を超えた一つの道義的基準には服しないということになる」(「超国家主義の論理と心理」。すなわち「主権者自らのうちに絶対的価値が体現している」(同上)。
    国家の正統性legitimacyは合法性legalityに解消されず、規範的な内容をもつ。したがって人民は国家に奉仕するためにあるので、国家が人民に奉仕するためにあるのではない。
    しかもその国家の指導者が彼らの決定について責任をとらぬという、単に個人の道義的な傾向ではなくて、体制そのものに内在する仕組がある。ニュールンベルグ裁判における被告との対比において、東京裁判の被告の態度の特徴は、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」の二点に要約されるという(「軍国支配者の精神形態」)。

    前者は、「みんなが望んだから私も」主義である。
    みんなが望んだことは、「成りゆき」であり、事の「勢い」であり、「作りだされてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起こって来たもの」(同上)である。
    東京裁判の被告の言い分によれば、日本軍国主義の指導者たちは、誰一人として太平洋戦争を望んでいなかったにも拘らず、太平洋戦争を始めたということになる。
    特徴の後者は、指導者のなかに誰にも、特定の決定について、権限がなかったという主張である。
    日本文学史序説 (下)
    日本文学史序説 (下)
    ISBN-10: 4480084886
    ISBN-13: 978-4480084880
    加藤周一









    2015年10月10日土曜日

    「小林秀雄対話集」講談社文芸文庫pp.223-229より抜粋

    知識過剰ですかな。言語過剰かね。美なんて非常にすぐそばにあるもので、人間はそういうものに対して非常に自然な態度がとれるものなんですよ。
    生活の伴侶ですから。
    だけど、さて現代文化における美の位置というような考え―、美の日常性に関する経験がないから、そんな考えから出発するほかはない。すると言葉しかもうないということになる。そういうところからきているのじゃないかな。
    まあとにかく、ジャーナリズムでは小説が盛んでしょう。しかも小説も大変批評的なものになっていましょう。そのほか、論文とか報道とか、みんな知識の誇示だ。片方では政治的な行動的傾向が強いでしょう。政治的経験というものは、美的経験というものと全然関係がないからな。(中略)
    美の日常性がなくなったんだね。
    伝統という問題も理屈からすると、むずかしいことになるでしょうがね。そういうものをキャッチできるという経験には、たしかにはっきりとしたものがあるのですよ。
    たとえばね。永仁のツボの騒ぎがあるでしょう。ああいう騒ぎというものが起こることは、美とはなんの関係もないということを、騒ぐ人たちが全然考えてないんですよ。
    あれは虚栄心とか名誉心とか、商売上の問題とか、要するに本物、にせ物という言葉しか騒ぎのなかにはないんですよ。
    騒ぎのなかには焼き物の経験なんてものはないんですよ。
    あれだけの騒ぎが起こって、このなかには実物の焼き物の経験なんてものは一つもないということに気が付いている人が、実に少ないのではないか、ということをぼくはしきりに考える。
    気が付いている人はだまっているんです。
    そしてだまっている側に伝統は流れているんです。
    だから伝統というものをキャッチすることのむずかしいことは、いま決して伝統なんてものはなくなっちゃったからではないのだな。むしろ、伝統を経験している人々がいるか、ということに気が付くと、これが大事なんだな。
    どこに捜すこともない。ただ、ふつうの書画好き、道具好きのなかにいるのですよ。
    いわゆる書画骨董の世界というもののなかに、たいへん、なんというか時代錯誤的な、たいへん複雑な形で現に生きているのです。
    断っておきますが、時代錯誤的なものというのは、知的な評価なのです。
    審美的な評価ではない。
    伝統が今日も生きているということが時代錯誤と見えるのは、傍観者の知的な目です。
    好き者には、そんな目はない。
    伝統を内側から見ますから。そういう目に伝統の命が見えている。
    これは日に新たなはずのものなのです。
    いったんこれを見てしまった人には、これは消そうといったって消えるものではない。そんな不自然なことができるものではない。


    私は鍔に手を出したときに、こんなばかなことを考えたんだ。
    鍔の世界にはまだ見残しがあるだろうと。
    収集家が騒いでいるものは、たいがい新しいところなのです。
    もっと古いところにいきますと、まだ見残しがあるだろう、という感じを持ったことがあるのです。
    やってみると、そんなばかなことはないんだよ。これは瀬戸物の世界と全く同じなんだよ。いわゆる本物、にせ物の混合世界です。
    それから本物とにせ物との間に無数の段階があります。
    さっき言ったように、工芸の世界は模倣でできている。みんなイミテーションの長い歴史なんだ。
    イミテーションのでき、不できに無限のニュアンスがあるが、いじる人は、イミテーションの動機なんて考えるもんじゃありません。そんなものはいりません。
    現に目の前にある姿をたしかめることで手一杯なのです。
    手一杯でそれが楽しいのです。
    この手一杯の経験を何百年の間重ねてきているわけです。
    だから同じものは何十万度、何百万度見られたか分からない。
    どういうふうに評価されたか実にまちまちな、不思議な評価をされてきた。
    その間に、永仁事件なんか何度あったか分かりはしません。
    たまたま犯人が見つかる場合は何パーセントでしょうかね。
    見つからない場合の方が、むろん多いわけですよ、それはみんな、本物の中に入ってしまっているんです。
    それでちっともかまわないです。
    見つかる場合なんて一番低級な場合なんです。論ずるに足りない、興味のない問題なんです。
    いわゆる好き者から、つまり尋常な状態から見ますとね。
    だいたい本物、にせ物の見分けより、本物同士の間に上下をつける方が、むずかしくおもしろいことなのだ。
    そんなこと何百年もやっている間に、この雑然たる世界に、動かせない秩序が生まれてくるのだね。
    鑑賞というものは、その秩序を許容しておのれを失うことなのです。
    生意気なことをこちらから勝手に言う、そんなものじゃないんです。あの世界の経験は。
    ただ、あの世界に入らない人は、美術なんてものは「私」の鑑賞でどうにでもなる、と思う。
    ことに現代人はそうです。
    芸術家というと、なんでも造れるような顔をしている、それが芸術家です。
    鑑賞もこれに似て、自分の解釈評価次第で一万円のものを五十円ということもできる。
    そんな気でいるのです。自己主張が好きなんだな。
    おのれの主張とか、解釈とか、そんなものに美があると思っている。
    そうじゃない、美はいつも人間が屈従するものです。

    物に自分をまかせる。そういう経験のうちに、伝統の流れというものが、まざまざと見えてくる、こんなことは分かり切った話ですけれども、インテリがなかなかそれに気が付かないということがある。
    たとえば、わたしのところに、現代の美術や音楽に大変関心を持った人が来る。
    美を論ずる種はいくらでも持っているのです。鍔が少しばかり置いてあるのを見ると、全く関心を示さない。
    古い道具が置いてあると思うだけなのです。実に不思議な気がします。これはもう一種の現代審美病なのです。

    小林秀雄対話集 (講談社文芸文庫)

    ISBN-10: 4061984160
    ISBN-13: 978-4061984165

    小林秀雄 (批評家)