2016年7月2日土曜日

20160702 創造と想起

これまで1年間ブログ記事作成を継続してきましたが、これといった変化、進化などは見受けられません・・。
おかげさまで閲覧してくださる方々は増えましたが・・。
また、一連のブログ記事作成のため、多少の無理はしたようにも思いますが、それでも心身に多大な負担をかけ、これまで一連の記事を作成してきたというわけでもありませんので、その過程の中に現在の私では認識しがたいものの、わずかながらの(良い)変化が継続、蓄積して生じていた(る)のかもしれません・・。
そうであればウレシイのですが・・(笑)。
とはいえ、そうした変化などが現在の私に対し、どのような効果、作用をおよぼしてきたのかとは主観的には認識しがたいものです。

ただ、昨年この時期の私とは、自身の文章を作成することを望みながら、それが出来ない状態であり、(おそらく)それが主要な原因で心身に苦痛を覚え、その状況を打開するため当時周囲にいた方々の勧めにしたがいブログ記事作成をはじめた次第でした。このことは以前も何度かブログ記事にて記したことがありますが・・。

そうした状況から、ここまで1年間、ブログ記事作成を継続することが出来たことは、特に称賛に値するわけではなく、もし、そうであるのならば、それ以前の私とは、日常的に細かい試料作製、機器分析をしたり、研究分野での論文などを読んでおりましたので、そちらの方がおそらく苦労したのではないかとも思います・・(苦笑)。

しかし、その一方において、自身のコトバによる文章を作成し続けたのは、まさにこの1年間でした・・。

・・公表を前提とする文章を継続的に作成するということは、もしかすると、案外とむつかしいものであり、それは創造的行為と見做しても良いのかもしれません・・(であるからといって、私の記したブログ記事全てが創造的な中身があるとは限りませんが・・(苦笑)
・・しかし他方で、全ての記事にそれがないとも思えませんが・・(笑))。

しかし、何れにせよ、私のブログ記事(特に初期~中期)に多く見られる過去に為された対話などを文章形式にて記す場合は、主に創造というよりも想起といった行為であり、そこにはあまり創造といった要素は必要としないのかもしれません・・(苦笑)。

とはいえ、では「創造」行為がどのようなものであるかと考えた場合、創造においても、その原点においては「想起」される比較的明瞭な存在が(複数)精神の中に浮きつ沈みつ存在するのではないでしょうか?

そして、そういった存在の精神内部における混淆、反応などにより、創造が為され、それに形状、文字、旋律などが付与され、様々なカタチで表出に至るのではないでしょうか?

そして、そうした存在の精神内部における実在性の強さ、認識の深さがもしかすると、創造と想像を別つものであるのかもしれません・・(ここには個人の知性、悟性?が大きく関与するのではないかと思います・・。)。

また、そのように考えた場合、前衛的なものを創造することを欲している場合においても、それが時代、地域を通じ持続的に強い印象をヒトに与えるために創造者は、その精神の内部に「想起」される比較的明瞭な存在を(複数)有している方が良いのではないかと思います・・。

また、別言すると、それが教養なるものの一側面ではないでしょうか?これを読んで頂いた方々はどのようにお考えになるでしょうか?

ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本における大地震、その後の同地域を含む九州での大雨による被災が軽微であり、大震災からの復旧、復興作業が支障がなく、速やかに為されることを祈念します。







20160701 ある思想、文学などが一般化される際に多く見られる危惧について・・エピゴーネン?

昨日記したブログ記事を読み返してみましたら、不図、以前抜粋引用したエルンスト・ユンガー著「労働者・支配と形態」(pp.149‐151)以下の一説を想起しました。

「しかしながら、人間が技術と直接的でなく間接的に結び付けられていることを認識するならば、ひとは、これと全く異なる判断に到達する。
つまり技術とは、労働者の形態が世界を動員する方法なのである。
人間が決定的に技術との関係を取り結ぶ程度、人間が技術によって破壊されるのではなく支援される程度は、労働空間において通用する言語に熟達することにほかならない。
この言語は、文法のみならず形而上学をも有するがゆえに、他のどんな言語よりも重要で深遠である。
この関連において、機械は、人間同様、二次的な役割を演じる。機械は、この言語が語られる発声器官の一つにすぎないのである。」

この抜粋引用部を現在読んでみますと、多少観念的、抽象的であると思われるフシもありますが、それでもなかなか興味深く、また、現在の我が国において参考になる部分もあるのではないかと思いますが如何でしょうか?

ちなみにエルンスト・ユンガーは、その思想の一面からナチズムの先駆者であると見做されることもあるようですが、それは多少仔細に見てみますと「大きく異なるのではないか。」と思うに至ります・・。

また、そうしたことは、ニーチェの思想(の一側面、一部分)がナチス政権ドイツに利用されたことと多少事情が異なると思われますが、それらに共通する現象とは『本来、これらの闘争的な要素を賛美する「部分」が見受けられる思想とは、それが一たび政府、権威筋により正当性を持つものであるとされ、取り上げられると、まさに『そのこと』により、本来それらの思想が有していた「良いもの」が、すり抜けていってしまうのではないか』ということではないでしょうか?

また、大抵の思想には、何かしら、そのような(危険な)傾向があるのではないかと思いますが如何でしょうか・・?

そして、もしかすると、現在、世界各地にて見られる好戦的、排他的とも見られる様々な傾向、風潮とは、その背後には、何かしらこういったメカニズムが存在、駆動しているのではないかと考えさせられます。

また、ここまで記していて不図、加藤周一著「日本文学史序説」補講(pp.63‐65)での記述を想起しましたので、下に示します。

「「万葉集を全部読むと、たしかに「防人」の歌はちょっとあるけれども、恋愛また恋愛です。最も大きなテーマは自然でさえなくて、恋愛です。その意味では、根本的には「古今集」とそう違わない。「古今集」はもっと純粋化してほかの要素を全部捨てちゃった。「万葉集」にはほかの要素もたくさん入っています。しかしいちばん大きなテーマはあきらかに恋愛、相聞です。大伴家持は「万葉集」の編纂者らしいのですが、彼の歌に戦争と天皇への忠誠などをうたっているのはどこにもない。圧倒的に恋の歌で、ごく例外的に「防人」の歌がある。「防人」の歌は全体のごく小部分です。「防人」は二つの部分から成っていて、一つは、九州を中心としたところの沿岸防備の兵隊のことで、徴兵された人たちです。その範囲は関東まで入っています。各地から徴兵でとって、兵隊として訓練して九州各地に配備した。関東から九州までは遠い。旅は大変だった、故郷を何年も離れることは、郵便制度はないですし、家族や恋人と引き裂かれるものですから、病気で死ななくても大変だった。病で死ぬことも大いにあった。
もう一つは、徴兵をする側の下士官みたいな役割の人たち。しかし「防人」の歌の大部分は徴兵される人の歌です。そういう大部分の人たちがいったいどういう歌を作っていたこというと、ああ悲しい、兵隊にとられてたまったものではない。家族や恋人と別れなければならない、一日も早く帰りたい、何でこんなひどい目に遭うのだろう、の一点張りです、ほとんど全部。天皇のために死のうなんてただの一首もない。それは調べればわかることです。ところが下士官というものは政府の下っ端役人でしょう、いやがる兵隊を捕まえて九州に連れて行く側です。はっぱをかけるために、みんなで一緒に天皇のためにたたかいましょうとかなんとかいうわけです。そういう「防人」の歌の一部分は、下士官のつくった歌なんだからそれは戦闘的です。政府の政策みたいなものです。
米国は戦争のとき、志願しなさいというので、アンクル・サムが出てきて指をさしてAmerica Needs You.なんてポスターがあった、あの要素が「万葉集」の歌なるものがそれです。
日本文学の伝統? ふざけるなといいたい。「万葉集」の伝統でさえない。デタラメも休み休み言えですよ。国民をだますにもへたなだましかたです。「万葉集」を読めばすぐわかる。どこにいくつありますか。「万葉集」全四五〇〇首のうち、一〇か、せいぜい多くて二〇首あるかもしれないという程度のことでしょう。それがナショナリズムに使われた「万葉集」です。間違えて、「万葉集」のなかに入った歌を拾ってきて、日本文学の伝統だといった。文学を研究している以上、私はそのことを一度いっておく必要があると思った。戦争中に日本文学を使って煽ったナショナリズムはその程度の話です。「ますらをぶり」といい出したけれど、賀茂真淵は偉い人です。陸軍とは違う(笑)。だけど、彼にも少し責任はある。」

さて、如何でしょう、何かしら関連性があるように思われましたでしょうか?

また、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本での大震災、その後の大雨などによる熊本をはじめとする九州での被害が軽微であること、そしてその復旧、復興作業が速やかに為されることを祈念します。







 


2016年7月1日金曜日

20160630 言語の層・相?について・・

A「最近お目にかかった複数の年長の知人から「何かしら書き続けることは良いことですよ・・。」といった意味のことをいわれました。

以前、これらの方々に対しブログ記事を作成していることをお伝えしたことはありませんので「これはもしかしたら・・」と思い、不図「現在ブログを書き続けているのですが・・。」と、聞いてみようかと思いましたが、何故だか止めておきました・・(笑)。

これらの方々が一連のブログ記事をご存じであるかどうか分かりませんが、とりあえず、ありがたいご意見として、今後のブログ記事作成の糧にさせていただきます・・。

さて、つい先日ブログにて提示しました「ウスキ」などにまつわる書籍からの抜粋とは、なかなか興味深いものではなかったでしょうか・・?

また、その背景には、たしかに何かしら歴史的事実が認められる可能性が少なからずあるのではないかと思いますが、読んでいただいた方々は如何お考えになるでしょうか?

さて、ハナシは変わりますが、本日はある機会により、以前の専攻分野にて用いた専門用語を多く交えたハナシを聴くことが出来ました・・。

不思議なもので、こうしたハナシを聴きますと、そうした専門用語の体系および観念が脳裏に想起されます・・。

こうしたことは、おそらく、いくつかの学問研究分野においても同様の現象が生じるのではなかと思います・・。

これを読まれている皆様にもおそらくそういった経験があるのではないかと思いますが如何でしょうか・・?

こうしたことは、何といいますか、各々学問研究分野特有の言語の層らしきものがあり、それが、何らかのきっかけにより、自身の精神?がその中に参入してゆくのではないかと思います・・。

精神は、そうした言語の層の中において、それら言語の操作、改変、再配列などを行い、それが思考と呼ばれるものの一側面ではないかと思われます・・。

同時に、こうしたことはブログ記事作成時の早さ、質などにも影響を与えるのではないかと思います。

とはいえ、そうであるからといって、その層の中に精神がドップリ浸漬している状態が必ずしも良いというわけでもないらしく、少なくとも私の場合、それら言語の層の境界、界面付近に精神が在るときが最も滑らかに文章が出てきているのではないかと思われます・・・。

かなり抽象的且つ感覚的なハナシにはなってしまいますが・・(苦笑)。

このように書いておりますと「では現在の私とは、何と何の言語の層の境界、界面にいるのだ?」と自問するハメになるのですが、そうしますと「哲学?と歯科理工学ではないかな・・?」
などと思った次第ですが、これを読まれている皆様は如何お思いでしょうか・・(笑)?

加えて、そのように考えてみますと、以前の私とは、こうしたハナシの仕方を現在に比べ割合多くしていたように思います・・。

これはいくつかの研究分野を横断してきた私のクセ、特徴であるのかもしれません・・(苦笑)。

これは美点あるいは欠点であるか分かりませんし、おそらくそれは、周囲の環境などによっても大きく異なってくるのではないかと思います・・。

とはいえ、ここまで記していて不図、学位取得直後、ある年長の知人に「本来修士をいくつ持っていても博士にはならないのだけれど、君の場合はまたちょっと特殊かもしれないね・・(笑)。」といった意味のことをいわれたことを想起しました・・(苦笑)。

そうした評価の意味とは、どのようなものであれ構いませんが、願わくは、将来的に、そうした「特殊性」を活かすことの出来る職に就きたいと考えております・・(笑)。

とはいえ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

また、先日来より九州南部にて大雨が降っていると聞き及びますが、この大雨による被害が無く、あるいは軽微であること、そしてさる四月に大震災のあった熊本における支援、復旧、復興作業に支障がないことを祈念します。」









2016年6月29日水曜日

谷川健一編「地名の話」平凡社刊pp.195‐198より抜粋 20160629 

A「先日来より理由はわかりませんが、西欧の方々の閲覧者が増加しております・・。
もしかしたら「英国のEU離脱の報が影響しているのでは・・?」などとも考えてみましたが、ともかくその関連性がイマイチよくわかりません・・。
とはいえ、興味を持ち閲覧してくださる方々が増えることは、記事を作成している私にとっては大変ありがたいことですので、あまり奇をてらわずに何かしら書き続けてゆこうと思います。
また、おかげさまで全体の閲覧者数は95000人を超え、このままのペースで行けば、もうじき100000人に到達するのではないかと思われます・・。
ブログをはじめてから1年1カ月あまりで100000人に到達するのは決して早い方ではないようですが、それでもこれは、どうにか継続して記事を作成してきたおかげであると思っています。
そういえば、先日のブログにて記した地名「ウスキ」について記された面白い記述を見つけましたので以下に抜粋引用します。」


「谷川 中野さんは「八幡信仰史の研究」のなかで、宇佐氏とか大神氏とか辛島氏など宇佐八幡の神職の家のことを書いておられますね。その中の大神という名前は大和三輪山の祭祀氏族である大神氏から出たといわれていますが、宇佐八幡の「託宣集」を見ますと、まず辛国の宇豆高島に降臨した八幡神が、次に大和国の膽吹嶺に移ったと書かれています。この膽吹嶺は大和にみつからないのですが、「和名抄」にある大和宇陀郡の伊福郷のことだろうと先生はお考えのようですね。

中野 私は宇陀郡をつぶさに歩いてまいりました。

谷川 私は前から伊福という地名に関心をもっているのですが、「和名抄」にのっている六ケ所の伊福という地名のうち、四カ所が銅鐸出土地なんです。そこで、古代の伊福部という氏族はおそらく鋳銅に関係をもったのじゃないか、と推測をたてましてね。伊福の福は真金吹くとか銅を吹くとかの吹くに相当して、金属を精錬する時に使用するふいごに関係のある語だと思うのです。
それで大和国の膽吹嶺を宇陀郡の伊福郷(現在の大宇陀町)に比定され、またそのとなりの菟田野町の大神という部落を、宇佐に関係のある大神氏の出身地と考えられる中野先生の御説にたいそう関心をもったわけです。じつは大神部落と目と鼻のところにある大沢とか松井という部落には水銀鉱山があり、戦後も採掘していたのですね。現在は採集をやめているようですが、そこで宇佐の八幡神がいったん大和の膽吹嶺に飛んで、また最後は宇佐に帰っていったという伝承も意味深長で、銅とか水銀とかに関係のある技術集団を、大神氏が伴って宇佐にやってきたのか、あるいは大神氏自身がそうした技術をもっていたのか、いろいろと想像してみたくなるのですね。
ところで「託宣集」にもどりますが、いったん大和の膽吹嶺に移った神は、こんどは紀伊国の名草浜に移る、とあります。紀の川下流一体が名草ですね。日前宮のある付近。

中野 そうです。紀伊国と国東・宇佐との往復は極めてはげしかったようです。

谷川 ところで私は昨年国東半島を一周してふしぎに思ったのは、キという言葉のつく地名の多いことです。ざっと見ても堅来・櫛木・岐部・富来・来浦・安岐・杵築など。

中野 ここは古い豪族の育った所で、その姓は紀伊国の紀氏が非常に多いのです。

谷川 それはどういうわけでしょう。

中野 まだはっきりわかりませんが、石清水八幡宮別当紀氏の関係かと考えましたが、もっと前からだと思われる点もあります。とにかく紀氏は紀伊国がもっとも多く、大和・和泉・河内を主とし、山城・美濃などに広がり、紀部になると中国・四国に広がっている。こういうようにみると、海上交通の関係から宇佐・国東にも入ったと思われます。

谷川 「神功紀」に紀直の祖豊耳というのも出てまいりますね。紀氏とトヨが出てくるものでへんな感じがしたことがあります。

中野 国東の古い豪族はほとんど紀氏で、後の八幡宮に所属しているのが多いのです。

谷川 その紀氏は紀州に起源をもっている?

中野 分布からみてもそうだと思います。

谷川 数年前に徳島県南部の海岸を高知県境までたどってみたことがありますが、あそこもキのつく部落が多い。牟岐・木岐・志和岐・由岐というふうに点在しています。今の阿南市の富岡もまえは牛岐といったそうです。この岐の字のつく地名は、海士のばあいも海女のばあいもありますが、例外なく海人部落なんですね。高知県に入りましても、佐喜浜という海女部落だったところがあります。ところで阿波徳島の吉野川の南は昔は長の国と呼ばれて、瀬戸内海における安曇の海人の根拠地だったところですので、この岐の字のつく海人部落も安曇氏と関係があるかな、と考えたことがあるのです。そこで最初おっしゃった豊前・豊後の安曇氏と海部の関係のことが気になるのですが・・・。」

2016年6月28日火曜日

20160628 刺激と息抜きおよび思想について・・

A「先日久しぶりに頁を開いた人文社会科学系の書籍(岩波文庫)を多少読んでみたところ、また多少自分なりに書いてみたいことが出てきました。

そういえば、そのような何か書籍を読んでみたことにより、何かしら文章を自分で書きたくなるといった経験とは以前にもありました・・。

現在ほど、そうした「思い」が明確化はされないものの、確かにそういった経験はあると思いますがこれを読んでいる皆様は如何お考えでしょうか?

また、本質的には、こうした心の動きを制度化したものが、論文ではないかと思います。

しかしながら、人によっては論文をはじめ自分の文章を書くことが、どちらかというと苦痛であると考える方々も少なからずいらっしゃるかもしれません・・。

そうした時には、現在自分の書かなければならない主題と関係のない分野の書籍を読み、そこからの着想を何かしら遊び半分で書いてみるというのも悪くはないのかもしれません・・。

さて、ここまで書いていて不図思い出すことは、研究分野での文章を何かしら書く際、それに多少煮詰まるとオーパーツ関連の書籍を好んで読んでいたことです・・(笑)。

オーパーツなどは非科学的であると思われるマジメな方々も少なからずいらっしゃるかもしれませんが、それらの中にただ一つでも、歴史的事実に裏付けられたものがあるとすれば、それはそれで価値があるのではないでしょうか・・(笑)?

また、そこからは多少マジメ(?)になりますが、私の場合、同様に煮詰まった場合、もう一つの傾向として、当時の研究分野とは全く関係のない分野での比較的マジメな書籍、論文などを読むことでした・・。

とはいえ、こうした傾向とは現在自身の表向きの専攻分野がない状態においては、比較的並列的であり、あまり「これが本職のもの、これが余技、趣味のもの・・」といった区別が為されていないように思います・・。

こうしたことは、見方によれば悲しいものであるのかもしれませんが、それと同時に、この先将来、どのようなカタチであるかは分かりませんが、何かしら役に立つこともあるのではないかと考えさせられます・・。

また、これまで作成している一連のブログ記事も同様に、そうした自分本位の(学問的)興味によって継続されているのではないかと思います。

無論、その一方で、それを読んでくださっている方々がいらっしゃるからでもありますが。

そして、そういったところでハナシはまた振出しに戻ってきました・・(笑)。
しかし、結局のところ、この話の振出しから、現在の一行前(上)までが、ここで述べたい内容であるのかもしれません。

そして結句、これまでに作成した一連のブログ記事とは、そうした要素が(不整形に)連続して積み重なったものであるかもしれません・・。

おそらく、これらを通読してみても、何かしら明確な思想らしきものは見えてこないのではないかと思います・・(苦笑)。

しかし、それと同時に、明確且つ均整のとれた思想あるいは観念の連合のみが正しいというわけではないとも思いますが如何でしょうか?

いや、むしろ明確且つ均整のとれた思想あるいは観念の連合のみが良いとされる考え、価値観こそ、人間そのものを裏切るようなものではないでしょうか? 

ともあれ、ここまで読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
また、九州南部にて大雨が降ったと聞き及びます。
どうぞ御無事で、また、この大雨により、さる四月の大地震によって被災された地域での復旧活動に支障が生ぜず、さらにその後の復興が速やかに為されることを祈念します。」





2016年6月27日月曜日

20160627 340記事到達 学問分野における才能のピーク・・?

今回の記事投稿により作成、投稿した記事数が340になります・・。300記事からこの340記事までは、何故であるか分かりませんが、とても早く感じました。

このような感じで365記事まで到達したいところではありますが、さて、今後どのようなことが生じるかもよくわかりませんので、まあ、引き続き、肩の力を抜いて、一つ一つの記事を作成してゆこうと考えております。

そういえば、先日、数年前に購入した書籍を読んでいますと、そこに記されている内容が、これまた何故であるかわかりませんが、大変新鮮に感じられ、その書籍を購入した以前の自分とは、もしかすると現在の私よりも優れていたのではないかと考えさせられました・・(笑)。

そのように考えてみますと、何であれ知識、学識、見識そしてそれらを統合したいわゆる「才能」といったものは、そのピークといったものがあり、人から聞いたハナシによりますと、理系学問分野におけるピークとは大体30代に訪れるそうで、そうした時期は、何かしら神がかっているようにも見えるということです・・。

それに対し、文系学問分野における才能のピークとは、一般的に理系学問分野のそれに比べて若干遅いということであり、まあ40代がもっとも創造的であるということです・・。

これらがどこまで科学的な意味で事実、本当であるかどうかは分かりませんが、少なくとも面白い意見であるとは思います・・(笑)。

また、たしかに理系学問分野、文系学問分野双方において才能を示す、創造的である時期は、各々の学問の性質上(理系が演繹法的、文系が帰納法的)により、何かしらの相異があり、また文系学問分野のそれは理系学問分野におけるそれよりも「遅いであろう」ということは漠然と、体感的にではありますが納得できます・・。

それ故、一つの試みとして、理系学問分野に進んだ方々は、自身が興味関心を持つことの出来る文系学問分野の一つを副専攻のような形で学び、研究するということは、知性の持続可能性を保持するという意味において、多少は有益であるように思われます。

他方で、文系学問分野に進んだ方々は理系学問分野において同様のことをするのです・・。

学問、研究、職業などの専門性が重要視される一方で、持続可能性もまた大事であると説かれている昨今ですが、これは社会、組織などといった集団に「のみ」に該当することを企図したものなのでしょうか・・?

個人の能動的な活動による知性の持続可能性(発展持続性)とは、長い目で考えてみますと、無視できない影響を社会に対しもたらすのではないかとも思われますが如何でしょうか?

とはいえ、ここまで記していて不図想起したことは、冒頭に挙げた「数年前に購入した書籍」を読んだ影響がここに出ているのではないかということです・・(笑)。

また、そのようなことを記しておりますと、今度はつい先日、抜粋引用した野上彌生子著の「迷路」下巻を想起します・・。

以前、この著作については「今後、抜粋引用することがないであろう。」と記しましたが、この箇所を面白く思い、つい書写してしまいました・・(苦笑)。

願わくは、この記事を読んだ(より多くの)方々が、その著作に興味を抱いて頂ければと思います。

また、今後機会がありましたら、冒頭に挙げた著作からも抜粋引用してみようと考えております・・。

その著者は、何度かこれまでのブログ記事に記したことがありますが、現在読んでいても「これはスゴイ!」と思える何かがあります・・。

こうした感覚とは、一体何処からくるのでしょうか・・(笑)。

ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

また、さる四月の熊本の大地震にて被災された地域の早急なる復旧それに続く復興を祈念しています。








加藤周一著「夕陽妄語Ⅰ」筑摩書房刊 pp.249‐252より抜粋 20160626

「広島の原爆は、今から四十三年前の八月の事である。日本人がその事を忘れず、毎年の八月に世界へ向かって核兵器の廃絶を訴えるのは、まことに当然である。広島では日本人自身が犠牲者であった。しかしその立場からの訴えは、みずからが加害者で、他国の非戦闘老若男女の多数を犠牲にした場合にも、その事を忘れず、その責任の自覚を失わないことによって、説得力を増すだろう。逆に犠牲者としての自分自身のみを強調し、加害者としての自己を不問に付すれば、説得力は減じる。故に「ヒロシマ」と「南京虐殺」とは絡む。


しかしそれだけではない。中国との関係が、「南京」を日本側が忘れたり、ごまかしたりすることで、うまくゆかぬだろうことは、周知の通りであり。加害者が忘れても、被害者は忘れない。またいうまでもなく、倫理的にみれば、無抵抗の市民を殺すことが罪悪であるのは、その市民の国籍とは関係がない。「ヒロシマ」の子供も、南京の子供も、ドゥレスデンやマニラやアウシュヴィッツの子供と同じように、子供である。

しかし「南京」のまえには、「旅順虐殺」があった。今日の日本人が四十三年後も「ヒロシマ」を忘れないように、「南京虐殺」当時(一九三七)の中国人は、その四十三年まえの「旅順」を覚えていたはずである―ということに、無知な私の注意を喚起してくれたのは、畏友内藤佼子さんである。私は内藤さんから貸与された資料を読んだ。旅順での事件の詳細には、不明の点もあるが、その要領はおよそ次のようになるだろう。


日清戦争で、黄海の海戦に勝ち、制海権を握った日本軍は、朝鮮半島から北上する第一軍とは別に、大山巌大将の率いる第二軍を遼東半島に上陸させ、まず金州・大連を抜き、次いで旅順を陥落させた。その陥落は一八九四年十一月二十一日である。当日旅順市街に入った日本軍は、進撃の途中、先発の日本軍戦死者の屍体が残虐に斬りきざまれているのを見て激怒し、市中の「兵民男女老弱ヲ別タズ」、四日間にわたって、中国人を殺害した。一人の兵士の従軍日記は、「支那兵ト見タラ粉ニセント欲シ、旅順市中ノ人ト見テモ皆討殺シタリ、・・人家ニ居ルモ皆殺シ、大抵ノ人家二三人ヨリ五六人死者ノナキ家ハナシ」という(窪田仲蔵「一兵士の見た日清戦争」。宇野俊一「日本の歴史26、日清・日露」小学館、一九七六、六二ページ、の引用による)。


事件を目撃したのは、当事者ばかりでなく、また欧米の従軍記者や従軍した武官たちでもあった。一八九四年十一月の欧米の新聞には、「旅順口の虐殺」の記事があらわれる。十二月一日には、「タイムズ通信者の一人」が、旅順からの帰りに広島(戦争の司令部は広島にあった)の外相陸奥宗光を訪ね、日本軍が捕虜を「縛リタル儘ニテ殺害シ」、「平民特ニ婦人マデヲ殺シタルコト」は、「欧米各新聞ガ目撃」したばかりでなく、「各国艦隊ノ士官特ニ英国海軍中将ナドモ実地ヲ見タ」ことであるといい、日本史政府の善後策を訊いている(外務省記録、五―二―二、電受第七一五号、明治二十七年十二月一日、広島陸奥宗光外務大臣より林外務次官宛、外務省外交史料館)。


十二月二十五日には、新聞ばかりでなく、米国やロシアの行使が外相に説明をもとめはじめた。この時点での陸奥は、「事実は到底取消シ能ハサルコト」と考え、「旅順口一件ハ今日ニ在テハ唯タ日本政府及ビ日本ノ輿論ハ決シテ其暴行ヲ正当ト認メズトノ一事ガ僅ニ世界に対スル申訳ケナリ」として、「時事新報」や「日本新聞」の社説のその暴行を正当とするかのような議論を鋭く批判していた(外務省記録、五―二―二、電送第六六三号、明治二十七年十二月十五日、陸奥外務大臣より鍋島外務書記官を通じて伊藤総理大臣への伝言、外務省外交史料館)。


政府は結局、責任者を追及せず、その意味での善後策をとらず、欧米各国には弁解をつづけ、日本国民には何らの真相も知らせなかった。そして世界が、殊に日本国内の人々が、その事件を忘れるのを待ったのであろう。もちろん犠牲者のことは考えていない。だから四十三年後の一九三七年に、南京での虐殺事件が起こったのである。「南京」の加害者は「旅順」を覚えていなかった。「南京」の犠牲者は「旅順」を覚えていたし、今でも覚えている(たとえば薫志正編著「旅大史話」、遼寧人民出版社、一九八四)。


今日、日本国民のすべてが、「旅順虐殺」事件を忘れ去ったとは必ずしもいえないだろう。たしかに専門家は事件を知っているし、何人かの歴史家は事件を叙述している(たとえば宇野俊一、前掲書、または藤村道生「日清戦争」、岩波新書、一九七三、など)。しかし国民の圧倒的多数は、「南京」は覚えていても、「旅順」に思い至ったのである。そうして二つの事件を比較することが、日本の近代史を、沈黙による歪曲から救い出して客観的に理解するために、役立つだろうと考えた。


二つの事件は、国際的反響の大きな出来事を日本政府が国民に報らせようとしなかったという点で似ている。そのために、世界中で知っていることを日本人だけが知らないという状態が生じた。また責任の所在をあきらかにして、しかるべき処置をとろうとしなかった点でも、酷似している。すなわち犠牲者に対しての無責任が、共通の特徴である。


しかし大きなちがいもある。「旅順」の場合には、政府内部、殊に陸奥宗光を中心とした外務省の内部で、欧米諸国の世論を問題にし、それを考慮しながら政策を決めようとする努力が際だっていたのに対し、「南京」の場合には、もはや国際世論を問題にせず―たとえ外務省がそれを問題にしたとしても、外務省には政策決定についての力はなく―、「帝国不動の方針」を貫こうとした。一九三七年の日本政府の国際世論に対する態度は、一八九四年のそれと全くちがって、基本的な政策を動かし得るものではなかった。


なぜそのようなちがいが生じたか。「日清戦争」当時の日本は、軍事小国であり、少なくとも政府はそのことを意識していたが、その後軍備を増大させた「日支事変」当時の日本は、みずからを軍事大国と空想するようになったからである。かくして軍事力の増強は、常に必ずしも国の安全を保障しないということが、よくわかる。強大な軍事力は、実にしばしば、一国の政府と国民の国際世論に対する感受性を弱め、さらには国際情勢一般の理解力を極度に低下させる。それがどれほど多くの犠牲を自他に強いるかは、日本の場合にかぎらず、今さらいうまでもないだろう。」


  • ISBN-10: 4480433384
  • ISBN-13: 978-4480433381