私事になってしまい恐縮ですが、先日人と話していたところ、去る2012年に久々に私と会ったその方は、彼が知る私は2012年当時で大きく変化していたとのことでしたが、これは今となって思い返してみますと、たしかに、そのように感じるのが自然であったのではないかと思います・・。
あの当時の自身を思い返しますと、やはり少し変であったのではないかと思います・・。
そして、まさしく当時の私こそがD2病真っ只中であったのではないかと思います・・(苦笑)。
そのようにして思い返してみますと、さらに以前の2008年当時の私とはM2病をかなり強く引きずっていたのではないかと思います・・。
そして、この当時もなかなかイタイ行為をしていたような記憶がウッスラとあります・・(苦笑)。
とはいえ、言い訳となってしまいますが、ある程度のいい年をして相当イタイことを無意識のうち(ここが大事です(笑))に出来るという場所が大学院ではないでしょうか?
また、様々な分野における研究などは、そういった精神的、文化的土壌においてのみ、能動的、創造的に活動することができるのではないかと思います。
それ故、このイタサは致し方ないものではないかと思います。
特に理系学問分野においては、より多額の研究資金を獲得することが重要であるのですが、それにのみ強く縛られてしまいますと、能動性、創造性の源泉たる精神の自由をもなくしてしまうおそれがあるのではないでしょうか?
つまり、大学院などでは、はたから見て多少(自然に)おかしくなっている状態の方が主観的には面白く、有意義に過ごすことができるのではないかと思います・・。
しかし、現在、もし私が再びそういった精神状態に戻ることが出来るということであれば、それはかなり真剣に悩むと思いますが・・。
2016年3月22日火曜日
2016年3月21日月曜日
20160321 専門知識と教養について・・
現在色々と取り沙汰されておりますが、専門知識とは一体何でしょうか?
これは医学などの理系学問分野などにおいては、その職務を行う上において必要不可欠な知識であると云えます。
一方、文系学問分野の中で、特に法学・会計学以外の分野などにおいては、その専門知識とはどういったものであるかとは分かり難いのではないかと思われます。
他方で古くからの文系学問分野、具体的には思想史・歴史系の分野においては、単に自身の専門分野での知識のみならず、それを理解するために膨大な様々な領域における周辺知識が必要とされます。
そうした周辺知識に支えられ、はじめて自身の専門知識が生き、それを読み、聞いている方々が内容の意味の深みを知り、そして述べる内容に説得力が付与されるのではないかと思われます。
また、その周辺知識とは「教養」とも称することができるのではないかと思います。
この「教養」とは、特に理系学問分野の場合、直接的に専門知識とは結び付かず、あるいは(これまた直接的には)経済的利益もたらさないことから、此岸性を重視する傾向が著しく強い我が国の社会においては、表面的な扱いはともかく、本質的に「教養」を軽視、あるいは、その真価、存在意義の重さ、深さを見誤り続けてきたのではないかと思われます。
その結果、近代、特に戦後以降の我が国における「教養」とは、さきほど述べたように経済的利益と直接に結び付かないことから、そうしたことに情熱を持つことができる少数の方々によって細々と半ば私的に研究され続けてきたといった側面が強いのではないかと思われます。
そしてこれまで細々とこの「教養」に携わってきた方々が現在巷において見受けられるの歴史、教養、勉強ブームを見ると、それは「我が意を得たり!」といった感じになるのでしょうか?
これは医学などの理系学問分野などにおいては、その職務を行う上において必要不可欠な知識であると云えます。
一方、文系学問分野の中で、特に法学・会計学以外の分野などにおいては、その専門知識とはどういったものであるかとは分かり難いのではないかと思われます。
他方で古くからの文系学問分野、具体的には思想史・歴史系の分野においては、単に自身の専門分野での知識のみならず、それを理解するために膨大な様々な領域における周辺知識が必要とされます。
そうした周辺知識に支えられ、はじめて自身の専門知識が生き、それを読み、聞いている方々が内容の意味の深みを知り、そして述べる内容に説得力が付与されるのではないかと思われます。
また、その周辺知識とは「教養」とも称することができるのではないかと思います。
この「教養」とは、特に理系学問分野の場合、直接的に専門知識とは結び付かず、あるいは(これまた直接的には)経済的利益もたらさないことから、此岸性を重視する傾向が著しく強い我が国の社会においては、表面的な扱いはともかく、本質的に「教養」を軽視、あるいは、その真価、存在意義の重さ、深さを見誤り続けてきたのではないかと思われます。
その結果、近代、特に戦後以降の我が国における「教養」とは、さきほど述べたように経済的利益と直接に結び付かないことから、そうしたことに情熱を持つことができる少数の方々によって細々と半ば私的に研究され続けてきたといった側面が強いのではないかと思われます。
そしてこれまで細々とこの「教養」に携わってきた方々が現在巷において見受けられるの歴史、教養、勉強ブームを見ると、それは「我が意を得たり!」といった感じになるのでしょうか?
2016年3月16日水曜日
20160316 文章が湧き出す源泉とは・・
これまでしばらく独白形式の文体を用いてブログ記事を書いてきましたが、この場合、記事作成者、つまり私が、読んでくださっている方々に対し、直接語りかけ、問いかけるような感じになると思います。
私のブログを読んでくださっている方々とは、否応無く、その殆どが不特定多数となりますので、もしも今後私が何かしら筆禍らしきことをしてしまいますと、炎上等が生じる可能性もあります(もちろん私はそれを望みませんが(笑))。
そして、それは作成者である私が自身の名前、写真等を示してブログ記事を書いていることにより容易に可能となります。
そして、そうしたことを多少なりとも認識してブログ記事を書いておりますと、やはり何かしら「圧力」を感じるのもまた自然ではないかと思われます・・。
また、そうしたことをも勘案し、著述業に携わる多くの方々とは筆名、ペンネームを用いているのではないでしょうか?
これを当ブログ記事作成者に適用してみますと、それは単なる自意識過剰であり、不必要であると思われますが、同時に、これまでの対話形式のブログ記事においてA、Bといった登場人物がおり、それらの会話という形式をとってきましたので、今後の作成するブログ記事も、その伝に倣い、A、B何れかの発言という形式にしてみようと思います。
こうしたわずかな変化によって、何かしら、今後の文章、文体に対し影響、変化は生じるのでしょうか?
また、そうしたことが生じるとしても、それが自他にとって良いものであるかどうか判断することはなかなか難しいのではないでしょうか?
ともあれ、ここまで記事を書いてきましたので、この記事の冒頭にA「そして最後に」を入力してみようと思います(笑)。
また、ここで不図思い出したのはゲーテの言葉で「心身を蘇らす泉とは自身の内部になければ心身を蘇らすことはできない。」あるいは「自身のハートから出たコトバでなければ他者のハートを引寄せることはできない。」ですが、何故それらを思い出したのかはよく分かりません・・(笑)。
とはいえ、私の場合、そういったものは自身の内部に本当に存在するのでしょうか?
また、こういったものは理系、文系問わず重要なのではないかと思います。
言語とは、コトバとは、文章とは一体何でしょうか・・(笑)?
何れにしても、今後もその多くは拙いとは思いますが、何かしら書き続けてゆこうと思います。
どうぞよろしくお願いします。」
私のブログを読んでくださっている方々とは、否応無く、その殆どが不特定多数となりますので、もしも今後私が何かしら筆禍らしきことをしてしまいますと、炎上等が生じる可能性もあります(もちろん私はそれを望みませんが(笑))。
そして、それは作成者である私が自身の名前、写真等を示してブログ記事を書いていることにより容易に可能となります。
そして、そうしたことを多少なりとも認識してブログ記事を書いておりますと、やはり何かしら「圧力」を感じるのもまた自然ではないかと思われます・・。
また、そうしたことをも勘案し、著述業に携わる多くの方々とは筆名、ペンネームを用いているのではないでしょうか?
これを当ブログ記事作成者に適用してみますと、それは単なる自意識過剰であり、不必要であると思われますが、同時に、これまでの対話形式のブログ記事においてA、Bといった登場人物がおり、それらの会話という形式をとってきましたので、今後の作成するブログ記事も、その伝に倣い、A、B何れかの発言という形式にしてみようと思います。
こうしたわずかな変化によって、何かしら、今後の文章、文体に対し影響、変化は生じるのでしょうか?
また、そうしたことが生じるとしても、それが自他にとって良いものであるかどうか判断することはなかなか難しいのではないでしょうか?
ともあれ、ここまで記事を書いてきましたので、この記事の冒頭にA「そして最後に」を入力してみようと思います(笑)。
また、ここで不図思い出したのはゲーテの言葉で「心身を蘇らす泉とは自身の内部になければ心身を蘇らすことはできない。」あるいは「自身のハートから出たコトバでなければ他者のハートを引寄せることはできない。」ですが、何故それらを思い出したのかはよく分かりません・・(笑)。
とはいえ、私の場合、そういったものは自身の内部に本当に存在するのでしょうか?
また、こういったものは理系、文系問わず重要なのではないかと思います。
言語とは、コトバとは、文章とは一体何でしょうか・・(笑)?
何れにしても、今後もその多くは拙いとは思いますが、何かしら書き続けてゆこうと思います。
どうぞよろしくお願いします。」
2016年3月15日火曜日
20160315 対話形式から独白形式に変更した理由について・・
どのような心境、考えの変化により、これまでの対話形式から独白形式に変えたのかは実際よくわかりません。
ただ、伝えたい内容をより直接的に発信するという意味では、現在の独白形式の方が優れているように思います。
このことを異言すると、コトバ、文章の機能を「情報伝達のための手段」であると考えてみると、独白形式の方が対話形式よりも優れているということになります。
では何故、これまで私は対話形式を用いてブログ記事を作成し続けたのでしょうか?
それは、以前の対話形式のブログ記事においても記されていましたが、先ず、対話形式を用いることにより「著者の考え=文章の内容」とならないことにより、生じるかもしれない批判、非難そして炎上をかわすことが出来ると考えたためです。
次に、独白形式の優れている点の逆となりますが、間接的(他者による対話)に読んでくださる方々に対して発信することにより、その受けとられ方が若干柔らかになるのではないかと考えたためです。
これらの私の考える対話形式の優れた点とは、全般的に発信する内容、情報を柔らかく、なめらかになるということではないかと思います。
加えて、書かれている内容、情報の推敲の過程を独白形式の文体よりも詳細に表現することができるという点も挙げられると思います。
さらにまた下世話な話になりますが、対話形式を用いることにより文字数をカサ増し、増量することが独白形式の文体に比べ容易であるということもまた挙げられると思います。
とはいえ、これらはあくまでも記事を書いた私の意見であり、読んでくださっている方々の意見ではありませんので、断定、断言することはできません。
また単純に、読んでいて、どちらの形式の方が(まだ)面白く読めるかというのもまた、私一人で判断できることはありませんので、今後適当な判断材料を見つけ、考えてみたいです。
一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。
ただ、伝えたい内容をより直接的に発信するという意味では、現在の独白形式の方が優れているように思います。
このことを異言すると、コトバ、文章の機能を「情報伝達のための手段」であると考えてみると、独白形式の方が対話形式よりも優れているということになります。
では何故、これまで私は対話形式を用いてブログ記事を作成し続けたのでしょうか?
それは、以前の対話形式のブログ記事においても記されていましたが、先ず、対話形式を用いることにより「著者の考え=文章の内容」とならないことにより、生じるかもしれない批判、非難そして炎上をかわすことが出来ると考えたためです。
次に、独白形式の優れている点の逆となりますが、間接的(他者による対話)に読んでくださる方々に対して発信することにより、その受けとられ方が若干柔らかになるのではないかと考えたためです。
これらの私の考える対話形式の優れた点とは、全般的に発信する内容、情報を柔らかく、なめらかになるということではないかと思います。
加えて、書かれている内容、情報の推敲の過程を独白形式の文体よりも詳細に表現することができるという点も挙げられると思います。
さらにまた下世話な話になりますが、対話形式を用いることにより文字数をカサ増し、増量することが独白形式の文体に比べ容易であるということもまた挙げられると思います。
とはいえ、これらはあくまでも記事を書いた私の意見であり、読んでくださっている方々の意見ではありませんので、断定、断言することはできません。
また単純に、読んでいて、どちらの形式の方が(まだ)面白く読めるかというのもまた、私一人で判断できることはありませんので、今後適当な判断材料を見つけ、考えてみたいです。
一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。
2016年3月14日月曜日
20160314
原因はわかりませんが、先月十日頃から、ペンで文字を書いたり、PCで文字を入力する際、つまり現在もそうなのですが、この時に利き手側、つまり私の場合、左腋下から左肩甲骨下部あたり一帯が少し痺れるような感じがするようになりました。
特に痛みなどはなく、また筆記、入力作業に支障はありませんので、そのままにしております。
とはいえ、その原因を自分なりに考えてみますと、この症状?が出はじめた二月十日とは、ブログの閲覧者数が急増した時期ですので、この間には何か関係、関連があるのかもしれません。
そして、それに関係、関連があるとすれば、それは一体どのようなものであるのかとは、多少気になるところです・・。
しかし残念ながら、現在の私には、それを検証する術、知識がありません・・。
さて、話は変りまして、ここ数回の投稿記事とは、これまでの対話形式を用いないで書いてきましたが、私としては、これはなかなか新鮮で面白いです。
私のブログを読んでくださっている方々の中で、これまでの対話形式に慣れ親しんでくださった方々もいらっしゃるかもしれません。
期間は分かりませんが、今後また思い出したかのように対話形式を用いる、戻ることになるかと思いますので、今しばらくは現在の文体におつき合いいただけましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いします。
また、それに加えて、これまでの対話形式を一端止め、現在の独白的?な文体を用いることにより伝えたい内容を、読んでくださっている方々に対し、直接的、ダイレクトに発信することが出来ることを今更ながら気がつき、もしくは再認識しました(笑)。
こうしたことを考えてみますと、小説、物語、散文、論文などにおける対話部分、著者の独白部分の全体に対する割合などにより、その作風、受ける感じ、分かり易さなども大分異なってくるのではないかと思いましたが如何でしょうか?
とはいえ、対話形式の論文といったものは、これまでに見聞きしたことがありませんので、こうしたことは、文体の定義(ここでは独白の表現の仕方、著者の立ち位置、スタンス)にも関与する性質であるのかもしれません。
特に痛みなどはなく、また筆記、入力作業に支障はありませんので、そのままにしております。
とはいえ、その原因を自分なりに考えてみますと、この症状?が出はじめた二月十日とは、ブログの閲覧者数が急増した時期ですので、この間には何か関係、関連があるのかもしれません。
そして、それに関係、関連があるとすれば、それは一体どのようなものであるのかとは、多少気になるところです・・。
しかし残念ながら、現在の私には、それを検証する術、知識がありません・・。
さて、話は変りまして、ここ数回の投稿記事とは、これまでの対話形式を用いないで書いてきましたが、私としては、これはなかなか新鮮で面白いです。
私のブログを読んでくださっている方々の中で、これまでの対話形式に慣れ親しんでくださった方々もいらっしゃるかもしれません。
期間は分かりませんが、今後また思い出したかのように対話形式を用いる、戻ることになるかと思いますので、今しばらくは現在の文体におつき合いいただけましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いします。
また、それに加えて、これまでの対話形式を一端止め、現在の独白的?な文体を用いることにより伝えたい内容を、読んでくださっている方々に対し、直接的、ダイレクトに発信することが出来ることを今更ながら気がつき、もしくは再認識しました(笑)。
こうしたことを考えてみますと、小説、物語、散文、論文などにおける対話部分、著者の独白部分の全体に対する割合などにより、その作風、受ける感じ、分かり易さなども大分異なってくるのではないかと思いましたが如何でしょうか?
とはいえ、対話形式の論文といったものは、これまでに見聞きしたことがありませんので、こうしたことは、文体の定義(ここでは独白の表現の仕方、著者の立ち位置、スタンス)にも関与する性質であるのかもしれません。
2016年3月13日日曜日
20160313 温泉について・・
何故か私はこれまでに温泉のある場所に住むことが多かったです。
とはいえ、日本列島とは、火山と温泉が多い地域であるので、あまり深い意味はなさそうです。
私がはじめて入った温泉とは、おそらく祖父母の家があった伊豆のものであると思います。
この伊豆を含めた伊豆半島一帯とは、関東および他の隣接する地域と、属するプレート(地球表面を覆う岩盤)が異なり、また温泉も湧出することから、何となく、植生、風土も異なり一種独特の感じを受けます。
また、これと類似した感じを受けたのは南紀白浜であり、伊豆に比べて、さらに南方的要素を濃厚にしたような植生、風土でした。
南紀白浜に隣接する田辺市等を含めたこの地域一帯とは、本州にありながらも大変南国的な気候風土であり、さらに西日本、関西の文化圏にも連なっているという意味において、大変興味深い地域ではないかと思います。
また、おそらく熊野信仰などもそういった土壌により育まれていったのではないかと考えさせられます。
加えて、南紀においては万葉集に登場する歴史的人物の逸話も数多くあり、これは万葉の時代より南紀白浜温泉(牟婁湯)が人々に認知、愛好されていたことをしめします。
とはいえ、こうした逸話とは何も南紀白浜温泉のみに限らず、有馬温泉、別府温泉、道後温泉などにおいても同様に見出すことができます。
おそらく古代の人々は、こうした温泉に何かしら蘇生あるいは不老長寿の効能を認めたのではないかと思います。
そして、そうした生死観に連なる考えとは、その土地の葬送文化つまり古墳文化などに対しても何かしらの影響を与えているのではないかと思われます。
また、こうした温泉と古墳の関連で私が想起するのは砂蒸温泉で有名な鹿児島県指宿市にある弥次ヶ湯古墳であり、これは薩摩半島において、その存在が大変珍しい古墳であり、造営された時代は6世紀代とされていますが、その様式、背景文化等についての詳細はあまり知られていません。
「一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。」
とはいえ、日本列島とは、火山と温泉が多い地域であるので、あまり深い意味はなさそうです。
私がはじめて入った温泉とは、おそらく祖父母の家があった伊豆のものであると思います。
この伊豆を含めた伊豆半島一帯とは、関東および他の隣接する地域と、属するプレート(地球表面を覆う岩盤)が異なり、また温泉も湧出することから、何となく、植生、風土も異なり一種独特の感じを受けます。
また、これと類似した感じを受けたのは南紀白浜であり、伊豆に比べて、さらに南方的要素を濃厚にしたような植生、風土でした。
南紀白浜に隣接する田辺市等を含めたこの地域一帯とは、本州にありながらも大変南国的な気候風土であり、さらに西日本、関西の文化圏にも連なっているという意味において、大変興味深い地域ではないかと思います。
また、おそらく熊野信仰などもそういった土壌により育まれていったのではないかと考えさせられます。
加えて、南紀においては万葉集に登場する歴史的人物の逸話も数多くあり、これは万葉の時代より南紀白浜温泉(牟婁湯)が人々に認知、愛好されていたことをしめします。
とはいえ、こうした逸話とは何も南紀白浜温泉のみに限らず、有馬温泉、別府温泉、道後温泉などにおいても同様に見出すことができます。
おそらく古代の人々は、こうした温泉に何かしら蘇生あるいは不老長寿の効能を認めたのではないかと思います。
そして、そうした生死観に連なる考えとは、その土地の葬送文化つまり古墳文化などに対しても何かしらの影響を与えているのではないかと思われます。
また、こうした温泉と古墳の関連で私が想起するのは砂蒸温泉で有名な鹿児島県指宿市にある弥次ヶ湯古墳であり、これは薩摩半島において、その存在が大変珍しい古墳であり、造営された時代は6世紀代とされていますが、その様式、背景文化等についての詳細はあまり知られていません。
「一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。」
2016年3月12日土曜日
20160312 紀伊、和歌山の古墳について・・
昨日のブログにて述べた和歌山県和歌山市の岩橋千塚古墳群ですが、ここでの古墳造営期間は主に4世紀末~6世紀代を通じてであり、7世紀以降からは既存墳墓への追葬などは行われたようですが、新たな墳墓の造営は急速に行われなくなりました。
こうした古墳時代末期(7世紀~)における葬送文化の変化とは、6世紀半ばの朝鮮半島百済からの仏教伝来により大和国、畿内を中心に徐々に葬送観念そして文化に変化が生じたことによるものと考えられています。
一般的に古墳時代とは3世紀中葉から7世紀初頭までと区分されています。
また、それと同時にこの時代区分とは、地方、地域によって独特の傾向あるいは偏差(地域性)が見られます。
こうした傾向、偏差(地域性)を岩橋千塚古墳群にあてはめて考えてみますと、造営された墳墓の多くが、古墳時代中期以降~後期(5世紀後半~6世紀代)の期間に集中しているということが挙げられます。
また、それに加えて、造営された墳墓の主な造営様式が古墳時代後期を特徴付ける横穴式石室であることも挙げられます。
さらに加えて、ここでの横穴式石室の造営様式とは、朝鮮半島を経由して九州北部に定着した横穴式石室の墳墓が関西、近畿に東漸、定着した最初期に属するということもまた挙げられます。
しかし、それ以前においても古墳群自体は存在しており、奈良県橿原市の新沢千塚古墳群は4世紀~7世紀にかけて古墳造営が為され、その期間は岩橋千塚に若干先行しており、またその主流な墳墓造営様式は竪穴式石室となっています。
ともあれ、横穴式石室が主流である岩橋千塚古墳群とは、現在の我々から見て観察に適したものであるのではないかと思います。
また、この全古墳に対する横穴式石室の割合の高さとは、和歌山県、紀伊国全域の古墳全般についても同様の傾向が認められます。
しかしながら、こうした傾向とは、ある程度の古墳数を有する地域、都道府県内においても概ね共通するものであり、むしろ初期~中期の古墳が多い場所とは、何かしら特別な歴史的意味合いを持っているのではないかと考えさせられます。
こうした古墳時代末期(7世紀~)における葬送文化の変化とは、6世紀半ばの朝鮮半島百済からの仏教伝来により大和国、畿内を中心に徐々に葬送観念そして文化に変化が生じたことによるものと考えられています。
一般的に古墳時代とは3世紀中葉から7世紀初頭までと区分されています。
また、それと同時にこの時代区分とは、地方、地域によって独特の傾向あるいは偏差(地域性)が見られます。
こうした傾向、偏差(地域性)を岩橋千塚古墳群にあてはめて考えてみますと、造営された墳墓の多くが、古墳時代中期以降~後期(5世紀後半~6世紀代)の期間に集中しているということが挙げられます。
また、それに加えて、造営された墳墓の主な造営様式が古墳時代後期を特徴付ける横穴式石室であることも挙げられます。
さらに加えて、ここでの横穴式石室の造営様式とは、朝鮮半島を経由して九州北部に定着した横穴式石室の墳墓が関西、近畿に東漸、定着した最初期に属するということもまた挙げられます。
しかし、それ以前においても古墳群自体は存在しており、奈良県橿原市の新沢千塚古墳群は4世紀~7世紀にかけて古墳造営が為され、その期間は岩橋千塚に若干先行しており、またその主流な墳墓造営様式は竪穴式石室となっています。
ともあれ、横穴式石室が主流である岩橋千塚古墳群とは、現在の我々から見て観察に適したものであるのではないかと思います。
また、この全古墳に対する横穴式石室の割合の高さとは、和歌山県、紀伊国全域の古墳全般についても同様の傾向が認められます。
しかしながら、こうした傾向とは、ある程度の古墳数を有する地域、都道府県内においても概ね共通するものであり、むしろ初期~中期の古墳が多い場所とは、何かしら特別な歴史的意味合いを持っているのではないかと考えさせられます。
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