2016年2月14日日曜日

20160214  昨今の社会における不祥事について

A「最近はどうも閣僚、国会議員の不祥事による辞任、かつての野球スター選手の逮捕など、どうも社会全体が慌しいですね・・。
そして、これらの事件は何故この時期に集中しているのでしょうか?」


B「・・さあ、それは何故かわかりません。
しかし、それらを扱った報道、情報番組での取り扱いを動画サイトで見ますと、出演されている方々にあまり変わった意見もなく、また、おためごかし的、あるいは「騙された!」といった発言が多く見られ、あまり良い気分はしませんでした・・。」


A「ああ、それは私も同感ですね、しかしテレビといった芸能業界とは昔からそのような不祥事がつきものですから、彼等がどんなに声高にそういった主張をしてみても、どうも観ている一般の我々からすると空々しく観えてしまうのではないでしょうかね?
それよりも私は一連の事件について見聞きしますと「魏志倭人伝」に記されている「持衰」あるいはフレーザーの「金枝篇」における「殺される王」の記述を想起してしまいますね・・(苦笑)
そしてそういった一連のマツリを催しているのがテレビなどのマスメディアなのでしょうが、現今のネット社会の進化、発展により相対的に彼等(マスメディア)は自らの影響力の衰えを感じ、それでこうした一連のマツリ、事件を催しているようにも見えるのですが。」


B「・・はあ、それはかなり穿った見方ですが、たしかに一理あるかもしれませんね。
果たして彼等は何をもってそれらの事件を大ニュース(であるかのよう)に仕立てるのでしょうか?
また、現今のテレビをはじめとするマスメディアがインターネット上の様々なコンテンツにより圧迫を受け、その反応として一連の事件が大々的に取上げられるというのは、読者、視聴者が、より強い刺激を求めているという彼等側の架空の命題に応じる姿勢によるものではないかとも考えさせられますね・・。」


A「ええ、以前の彼等以外の情報発信媒体が存在しない時代においては、彼等はまさに「向かうところ敵なし」の状態であったのでしょうが、現在は海外メディアのサイト、あるいは国内メディアとは異なるものの、たしかな情報源となり得るような存在が独自で広く情報を発信することが出来る仕組みが存在しますからね・・。
そういった意味において現在の国内メディアとはある意味ジリ貧の状態なのではないでしょうか?
加えてテレビの報道、情報番組に出演されている多くの芸能人の方々の発言を聞いていても、インターネットなどで情報を得ている我々一般の人間とあまり変わりないような感じを強く受けますので、こうしたことからも、やはり何といいますか現在のテレビ業界をはじめとするマスメディア全般とは困難な状態に置かれているのかもしれません・・。」


B「はあ、なるほど・・そして今のお話を聞いて不図思ったのですが、現在のテレビ番組に出演されている方々は、その番組が動画サイトにて保存され全世界から視聴される可能性があることから、あまり変わった意見などを云えず、ありきたりな反応しか出来なくなってしまったのかもしれませんね・・。
そうすると、たしかにテレビ番組とは動画サイトといったインターネット上のコンテンツに押されているということになりますね・・。
また、そのような状態に立たされたテレビ等のマスメディアに係る方々は、自らの立場を有利にするために一体どのようなことをするのでしょうか・・?」


A「そうですね・・視聴者があまり疑問を感じないような状態になるように仕向けるか、あるいはインターネット上の様々なコンテンツとの共存をはかるのではないでしょうか?
しかし、これらコンテンツの中には国内マスメディアでは手に負えないような国際的な組織もありますから、それはそれで大きな負の側面もまたあるのではないでしょうか?」


B「なるほど、昨今の時代的潮流である国際化の影響により、国内のマスメディアも窮地に立たされつつあるというわけですか・・。
そうしますと、こうしたことは我々からは随分縁遠いハナシであると思っていましたが、案外そうでもないようですね・・。」


A「ええ、なかなか難しい時代になりつつあるのではないかと思います・・。
そして、そこで重要になるのが、情報リテラシーではないかと思うのです。
無論こうしたことは一朝一夕に身につけることは難しいと思います。
また私も仕事柄色々と考えることはありますが、それでも「自分は情報リテラシーを持っている!」と胸を張って主張することはできません(苦笑)
ですから、やはり歴史などの人文社会科学的な教養といったものを能動的に持続して学び続けるような態度が必要になるのではないでしょうか?」


B「まあ、多少Aさんの御専門の我田引水気味の主張のようにも聞こえますが、それでも仰ることには同意できます。
しかし、現在書店などに行きますと、ハウツー本のコーナーに「教養」「歴史」と表題した書籍が並んでいる状態は「どうも違うのでは?」と思うのです。
そして現在のいわゆる勉強ブームとは、これまでと同様、一過性の「様々な意匠」に過ぎないのではないかとも思いますが・・。」


A「ええ、たしかにそうであるかもしれません・・。
しかし、こうしたことはたとえ無意味である可能性が高いからといって、やらないよりかは、やった方が良いと思いますので、それでも良いのではないかと私は思っています。
ただ、それと同時に、上からの柔らかな圧力、世間体、空気などから生じる、いわゆる「優等生病」とは、近代以降の我が国を滅ぼしてきた一つの大きな原因であるとも思いますので、何とも難しいところですね(苦笑)
その意味において140年、139年前の「神風連の乱」、「西南戦争」に立ち上がった方々とは、現在の我々に比べて、少なくとも自身の信条に対しては忠実であったのではないかと思うことがあります・・。
そして彼等が政府軍の前に敗れたということは、日本近代の精神史にとって、どのような影響があったのであろうかとは、この時期になると不図考えてしまいますね・・。」

2016年2月13日土曜日

20160213  ネット、出版界における文字、文章について

A「ここ数日でブログの閲覧者数が増えたのですが、そうした背景に基づき、新たに記事を書こうとすると、どうも「何かマズイことを書いてしまうのではないか?」などと考えてしまい、スムーズにペンが進まなくなってしまうようです・・(苦笑)
つまり、文章を書く上で感じるプレッシャー、圧力が閲覧者の増加に伴い強くなり、それが記事作成に際し、悪影響を与えたのではないかということです。
しかし、それはあくまでも私がプレッシャー、圧力として認識しているだけであり「閲覧者の増加」とは直接的にはプレッシャー、圧力ではなく、単なる数字の変化です。
そして、それをプレッシャーあるいは励起を促す要素の何れかと認識するのは私自身の問題です。
そして、そのように事態を認識すると、記事作成に際し、あまり肩肘を張らず、また特に深刻になることもなくなるのではないかと思った次第です・・。
ですから、現状において大切なことは、現状を認識しつつ、あわてず、落ち着いて書き続けることではないかと思います・・。」


B「まあ何でも大勢の前で自身のつくったものを発表、公表するのは緊張するものですからね・・。
また、それを見る人が増えれば、なおさら緊張の度合いは高まるものかもしれません・・。
そうした状況とは、学会のポスター発表で自身の発表ポスターの前に人があまり集まらないのでトイレに行き、帰ってきてみたら黒山の人だかりが出来ていたような感じでしょうか()
それでも私から見ればAさんのブログに1日に200人程度の閲覧者がいること自体が不思議ですね・・。」


A「ええ、それは私自身も不思議に思います・・(苦笑)
とはいえ、私の書いた記事が1200人以上に読んでいただいていることは単純にうれしい側面もあります()
しかしまた、それらがどのように読まれているのかということも若干気になるところですね・・。」


B「うん、そうした感じは私もよくわかります()
これまでに何冊か執筆、分担執筆などしてきましたが、自分が係った書籍が書店で並んでいるのを見るとやはりうれしいものです・・。
そして、その売行き、評価なども多少気になってしまうものです・・()。」


A「はあ、なるほど・・私はこれまでに書いた文章が書籍になったことはありませんが、ブログの記事といったネット上での文章とは、書籍と比べ、どちらかというと消費される文章であり、あまり記憶されるような文章、コトバではないような気がします・・(苦笑)
とはいえ、過分な望みであるかもしれませんが、私は自身の書いた文章がネット上のものであるにも係らず、読んで頂いた方々に良い意味で記憶されることを心の片隅で希望しながら書いております・・。
そして、そうした行為の絶対数が多くなるにしたがい出版業界をはじめ様々な分野での変化が生じ、社会全般における文化、知識の発展に寄与できるのではないかと思います。
多少大風呂敷であったかもしれませんが、実際の現状況とは、そうした方向に進んでいるのではないかとも思います()。」


B「ええ、ネット上でのブログをはじめ、様々なコンテンツの充実に伴い、出版業界なども変化しつつあると聞きますから、たしかにそういった方向に進んでいる一面はあるのではないかと思います・・。
そして、今後ネット社会と実際の書籍がどのような形で折り合いをつけるのかはわかりません。
しかしながら、特に文系の学術書、古典などについては、まだまだ実際の書籍の重要性が維持され、加えて、これは古本についても同様ではないでしょうか?」


A「・・それはたしかにそうですね・・。
また、それは大切なことではないかと思います。
といいますのは、学問、研究などにおいて実際の書籍を資料として用いる経験は必要不可欠ではないかと思うからです・・。
それは実際の辞書でコトバの意味を調べられないで、電子辞書で調べるという行為とは、人間として何といいますか致命的な退化ではないかと感覚的に思うからでしょうか・・。
また、こうしたことは様々な実験、分析機器などにおいても同様であり、私のお師匠の一人は御自身の院生時代に機器操作で苦労された話を周りの弟子どもによくされて、基礎の重要性を説かれていました・・。
そして、私がどうにか歯学分野にて学位を取得することが出来たのは、畢竟、機器の進化により、それらの操作がし易くなったことに因るのではないかと思います・・(苦笑)。
その意味で、私の基礎とは、あくまでも文系ではないかと思います・・。
そして同時に、その修練の過程、方法とは、理系学問分野のそれとは若干性質が異なるのではないかと思われます。
とはいえ、それはそこまで簡単なものではないと思います。
また、そうであったからこそ、様々な場面において、どうにか応用をきかすことができたのではないかと思います・・。
しかし、だからといって、私は「文系が理系よりも上である。」とは考えていません。
ただ「文系には文系の深みもある。」ということを理系の方々に知って頂きたいとは常々思っているところです・・。
そして私の一連のブログ記事とは、一面において、そうした思いの発露であるのかもしれません・・(苦笑)
しかし今後、私がもし理系分野の職に就くことが出来ましたら、またそこでの勉強をして、応用をきかすことが出来るようになりたいと考えております・・(笑)。」


B「まあ、どのような学問分野であっても基礎は大事ですからね・・。
とはいえ、Aさんの場合、背景知識の質、量は認めますが、同時にかなり特殊ではないかと思います・・(笑)。
そして今後、御自身のこれまでに得た知識、経験などの多くを生かすことができる職種に就くことを願っております。」


A「ええ、それは私もそのように願っております(笑)。」

2016年2月12日金曜日

20160212 作成したブログについて

A「最近はまた自作の対話形式の記事が続いていますが、Bさんはブログ記事のネタに行き詰るようなことはありますか?」

B「・・ええ、行き詰まり感は始終感じながら記事を書いております・・(苦笑)
ただ、そういった時は、その時の心情を書いておりますと、徐々に行き詰まり感が解消されてゆき、まあ何とかネタらしきものが見えてくる、浮き上がってくるといった感じが多いようです・・。
とはいえ、そのようにして生み出された記事が閲覧者数を集めやすいか、そうでないかとは、また別問題のようです・・(苦笑)。」

A「・・はあ、そうすると、苦労して書いたにも係らず、多くの閲覧者を得られないこと、あるいはその逆もあるということですか?」

B「ええ、大体そのようなところです。
ですから、ブログの記事を含め、文章とは、絵画や釣りと同様、とりあえず始めてみないとわからないものではないかと思います。
とはいえ、苦労の多寡に係らず、投稿した記事が多くの閲覧者数を得ることはなかなかうれしいものです。
そして、そのことにより私はこれまで継続して記事を作成することができたと思っています・・。
そうしますと、創造の際において必要な能動性とは、あくまでも第一義的に重要ではありますが、同時に創造されたものを発信した後の反応、リアクションによっても、その後の能動性とは、ある程度変化するものではないかと思うようになりました・・。
こうしたことはリゴリスティックに考えれば堕落であるのかもしれませんが、実際問題、こうしたこと(発信の反応による自身の鼓舞)がなければ、これまでの記事作成を継続することができませんでした。
その意味において私は弱い人間であることを認めます。
また、一方において、生前はあまり評価されず、死後に大きく評価されるようになった創造者の方々も大勢おりますので、そうした方々の周囲の反応などは意に介さない創造に対する意欲、熱意とは、その源泉が如何なるものであったとしても、偉大なものであったと思います・・。
その点、私などの場合、ブログ開設当初は閲覧者数が伸び悩む時期があり、記事の作成を疎ましく思うことが多くありましたが「ここでブログの更新を止めたら後で後悔し、また私にブログの作成を勧めてくれた方々に対しても悪い。」と思い、断続的であったかもしれませんが、どうにか続けることができた次第です・・。」

A「・・はあ、なるほど、そんなことがあったのですか。
ブログなどの場合、閲覧者数が伸び悩むと、やはり能動性、記事を書く気が削がれるものなのですか?」

B「ええ、正直そうですね。
閲覧者がいないで投稿するということは、何といいますか、壁に話しかけているような、何ともいえないやるせない気分になるものです・・(苦笑)
また、それに加えて、ブログによる発信とは、論文や学会誌などと異なり、誰かしら類似の研究をしている方々に読んでいただけるというわけではありませんので、何といいますか、より根源的な自身の価値を判断されてしまうのではないかというおそれもあるのではないでしょうか?
そして、そうしたおそれが実際にあったことから、周囲の方々から勧められるまで、はじめようとしなかったのではないかと思います・・(苦笑)。」

A「そうしますとBさんはブログ作成をすすめてくださった方々に感謝しなければなりませんね()。」

B「まあ、たしかにそうですが、それでも今後私のブログがどうなるかわかりませんので、とりあえずは感謝の念を抱きつつ、何かしら書き続けることが今の段階においては重要なのではないかと思います・・。
ですから、とりあえず当面は自身の作成記事数を100にすることを目標にします。
そのあとは全体の記事数に対する自身の作成した記事の割合を半分(50%)にすることでしょうか・・。」

A「まあ、自身の作成する記事にこだわるのもいいですが、一方において書籍の抜粋記事もなかなか面白いのがありますよ・・。
ああいったものを読んでも、その抜粋者の書籍、文章に対するセンス、感性らしきものは伝わってくるとも思いますので、それはそれで続けてみてはどうですか?」

B「ええ、残念ながら多くの閲覧者数を得るのは書籍からの抜粋が多いので、それはおっしゃるとおりであると思います・・(苦笑)
しかし、これは私の実体験から得た教訓なのですが、書籍の抜粋を続けていると自身の文章が書けなくなるのです・・。
あるいはまた、大御所、ビッグ・ネームの著作抜粋とは、いかにも権威主義的であり、また抜粋の後、自身の記事を作成する時に否応無く比較してしまい、その出来の浅薄さにどうもいたたまれなくなるのです・・(苦笑)
まあ、こうした理由により出来るだけ自身の作成記事を投稿しようと考えているわけですが、それでも書籍からの抜粋は今後も併行して続けるつもりです・・。
これは閲覧者の増加を望む心情からというよりも「こんな面白いことが書いてある書籍があるのだ!」ということを示したいがためと、お考えいただけたらありがたいです()。」

A「・・なるほど、それはわかりました。
それはそうと、最近のBさんの作成した記事で多くの閲覧者数を得ているのはどれですか?」

B「ううむ・・それは20160207の「真田丸」を題材にした記事でしょうか・・?
あの記事は既に閲覧者数が100以上となりました。
この閲覧者数は周辺日時に投稿した他の記事に比べ、数倍の数です。
そして、自分なりにその理由を考えてみますと、歴史的な小ネタが多く、且つ何といいますか、話のオチがそこそこ整っているからではないかと思います。」

A「ああ、たしかにBさんの作成する記事には歴史などの小ネタをはさんだものが多いですね・・それでああいった記事が受けるのですか?」

B「さあ、それはよくわかりませんし、ああいった歴史などの小ネタを入れて実際に広く対話できたのは、それこそ文系院時代の議論だけであり、それ以外の場所では衒学的だとか、堅苦しいとか、文系は理屈っぽい・・などといった反応がほとんどでした・・(苦笑)
とはいえ、そうした用語を用いた会話を文章にすると受けるというのはなかなか面白い現象であるかもしれません・・。
加えて、文系院での議論とは、そういった小ネタの使い方で、相手の思考、こころざしの方の志向、知識レベルなどが明らかになるといった傾向がありますので、当初の議論においては、用いている用語、専門用語の意味などを突っ込まれることが多くありました。
そして口惜しい思いをして後で図書館、書店などで色々と調べたりしたものです・・(苦笑)。
しかし、ああいった切磋琢磨のようなものがなければ、現在書いているようなブログの記事は書けていないと思います・・。
そして、そうした状況を対話形式の文章にするといった行為には、もしかしたら少なからず負の側面もあるのかもしれません・・。
まあ、単なる自意識過剰であるとは思いますが・・()。」

A「うん、帰納論的な発想をすることが多い文系学問分野においては、特にそうした個々の用語の意味の認識は大事であり、加えて「神は細部に宿る」などともいいますから、たしかにその意味はよくわかります・・。
そして、そのように考えますと、現在の何というか言語ばかりが躍っている、この状況とは、昭和初期の日本浪漫派が流行していた頃を彷彿とさせますね・・。
また、これからの社会では英語が大事であるというのはわかりますが、それも何だか現在のところ空回りしているような感があります。
こういったものは今後どうなってゆくのでしょうかね?」

B「・・さあ、どうなるのでしょうか・・?
しかし日本社会においては定期的にそうしたブームが起きているのではないでしょうか?
そして、その先にあたるのが現在の社会ですので、それを漸進的な進化の結果であると見るのか、あるいは双方共に同じ軌道を描いている一つのパターンと見るかで変わってくると思います。
願わくは前者であることを望みますが、残念ながら現在の私では、これらの現象が、その何れであるかは判然としません・・。」

A「ええ、言語が躍るのであれば、それに対応する意味もまた同時に躍ってくれないと、それは一過性の空虚な言葉遊びに終ってしまうのではないかと思います・・。」

B「ええ、それは今後の私の作成するブログ記事に対する戒めとさせていただきます・・()。」

2016年2月11日木曜日

20160211 三寒四温、転居について

A「最近風の冷たさも随分和らいでいるように感じますが、それでもやはり夜間は冷えますね。」


B「ええ、冬の寒さの底はどうにか過ぎたのではないかと思います。
丁度今頃か、もう少し後の時期が「三寒四温」といわれる春への過渡期ですから・・。
とはいえ、二月の半ば過ぎでも雪が降った記録もあります。
たとえば80年前の1936(昭和11)226日は都心で大雪でしたし、また139年前の1877(明治10)215日は鹿児島市で雪が降っていたと記録されていますから・・。」


A「ああ、はじめの1936年は226事件の日ですね、あとの方は西南戦争ですか?」


B「ええ、1877年の215日とは西郷隆盛の軍勢が鹿児島を出立した日です。
鹿児島といえば一般的に温暖な気候風土のイメージがありますが、それでも冬は普通に寒かったです。
しかし一方、不思議なのは鹿児島では丁度この先の春の時期に花粉症が発症しないことでした・・。
そのことから「花粉症は大気の状態によるものなのだ。」と痛感しました。」


A「ああ、そういえば寒さが過ぎると今度は花粉症に悩ませられるのでした・・。
それでBさんは鹿児島在住以前は花粉症持ちだったのですか?」


B「ええ、それはなかなかひどいものでした・・。
当時はいつも鼻をかんでいたために鼻の頭が赤くなっていました(苦笑)。
また、同じ原因で時折耳の調子もおかしくなっていたくらいです・・。
そしてこれは不思議なことに空気がキレイな和歌山、南紀においても同様でした。
ですから、一概に空気がキレイであるからといって、花粉症を発症しないというわけでもなさそうです。
あるいは他の個人的な要因が作用していたのかもしれませんが・・。」


A「はあ、なるほどそれはBさん御自身を実験材料にして得た感想ですので、そこには何かしらの原因はあると思います。
私の場合は何かの用事で一時的に首都圏の外に出る程度ですから、残念ながらあまりそういった感想はありませんね・・。
また、その他にそうした面白い話などはありますか?」


B「・・そうですね、そういえば鹿児島在住時は運動不足を補うために毎週末に5キロ以上10キロ未満程度歩いていました。
これは季節を問わず続けていたのですが、やはり鹿児島の真夏の日差しは強烈でして10分も歩かないうちに汗が吹き出てくるような感じでした・・。
こうした感覚は未だ上手く言葉にできないのですが、とにかく夏の暑さの次元、日差しの強さが少なくとも関東とは違うと思います・・。
私はそうした気候風土の中に身を置いた後、いきなり関東に転居することになったため、その後、少し心身に変調をきたしたのではないかと思います。
こうしたことはあまり我が国の社会において重要視されませんが、実は案外重要なことなのではないでしょうか?
また、それで思い出すことは最近時折耳にする腸内細菌の重要性ですが、私が鹿児島に転居してしばらくの間、便秘に苦しみましたが、これもそうした変調の一つなのではないかと思います。
しかし、しばらく我慢して地域特有の「何か」?を得ると、そのあとは徐々に楽になってゆくのではないでしょうか・・。
そして、年齢を重ねるごとにこの「何か」を得るために消費する体力が大きくなり、場合によっては転居が寿命を左右するということにもなりかねないのではないでしょうか?」


A「はあ、それは何だかBさんお気に入りのコンラッドの「闇の奥」に対する科学的な考察とも聞こえますが、たしかにそういった要素は少なからずあるかもしれませんね・・。
ともあれ、転居に伴う環境の変化により生ずる心身の変調とは、我が国ではあまり聞きませんが、今後重要視される可能性もあるかもしれませね・・。」


B「ええ、しかし、そうするとこれを腸内細菌といった細菌学、分子生物学などだけで判断することも出来ないと思います。しかしその一方、心療内科などでも判断することは難しいと思います。
それ故、こうしたことは包括的に見て考察、判断されるべきものであると思いますが、そうすると一歩間違えると疑似科学的なものと見做されてしまう可能性もあるのです・・。」

A「ううむ・・たしかにそうですね・・。
しかし、そうした観察、考察を続けて何かしらの普遍性を示すデータが継続的に出て来ることによって、また文系の社会学、あるいは医系の公衆衛生学などと関連性をもった新しい学問分野が出て来る可能性もありますね・・。」


B「ええ、そして、そうしたことの歴史的な裏付けとなるものが民俗学、地域学などではないかと思います。
しかし、難しいのは民俗学、地域学とは、あくまでも表層的な知識、あるいは地域における統計学的な傾向を得ることが目的ではないと私は考えています・・。
それは、その地域に暮らし、日常的な生活文化を知り、そこにとけ込むことにより、はじめてその真髄に近づくことができるのではないでしょうか・・?
そして、ここが難しいのですが、それが理系と文系の間にある学問に対する姿勢、スタンスの本質的な違いではないかと思います。」


A「・・なるほど、それは徹底的な合理化による生活の利便性の向上をよしとする理系学問分野と、判然とし得ない形而上的な事象の本質的理解といった観念性、あるいは理想を追求する傾向がある文系学問分野との間にある溝といったところでしょうか?」


B「実際的な生活に資するという意味においては、圧倒的に理系学問分野の方が重要視されるのですが、それがどういった目的、理想に立っているかを様々な歴史、文化的な文脈、系譜に基づき考察するのが文系学問分野ですので、やはり左右の両輪のように安定した社会の進化のためには双方重要ではないかと思いますが、こういったところでもまた、国民性などがあらわれるのかもしれません・・。」


A「まあ、左右でなくとも、前後両輪でも良いと思いますが、たしかにそのたとえは悪くないですね・・。
そしてそれが本質をとらえていると思いたいところですが、その実態とは実際のところどうなのでしょうかね?」

一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。



2016年2月10日水曜日

20160210 自身のブログ文章について

A「これまでいくらかブログ記事を作成してきましたが、それらの中でもやはり閲覧者数が多いものと、そうでないものがあります。

こうしたことは、既に認識してきたことではありましたが、その原因については特に考えたことはありませんでした。

しかし先日、ブログの記事投稿が200を越え、また閲覧者数が若干増加しつつある現状を考えますと、多少はそういった要素について思いを巡らせても良いのではないかと考えるようになりました。

そのような経緯により、閲覧者数の多寡の原因を私なりに考えてみたところ、先ず書籍の抜粋においては、軍事関連などの硬質な書籍においては閲覧者数が伸びにくい傾向を示すことがわかりました。

その一方において近現代史、あるいは同時代の思想、また考古学、古代史などを扱った書籍からの抜粋に関しては比較的多くの閲覧者を得やすい傾向があることがわかりました。

そして自身の作成した対話形式のブログの場合、色々と対話内容が飛んではいるものの、何かしらまとめとしてのオチがあるものが比較的多くの閲覧者を得ている傾向があることがわかりました。

私がこれまでの一連のブログ作成において考えたことの一つを挙げますと
「現在の私は短編から長編まで物語、小説などを書く能力はなく、そうした現状において、手持ちの知識を含めた能力を用いて書くことのできるものは一体何であろうか?・・それは、これまで学んできた具体的な内容を日常的にどのような形で使用して会話をしているかを示すことではないだろうか・・。」
ということであり、その結果、多少の試行錯誤を経て現在の対話形式の文章となりました。

一連の対話形式の文章作成においては、当初自身の記憶をどのようにして蘇らし、文章化するかに重点を置いてきましたが、ある程度の期間が経つと、文章作成に際し用いる実際の記憶が減り、それと共に自身による創作的な部分が多く湧出してくるようになりました。

しかし同時に、これには波があり、比較的最近に書いたものの中においても、その多くが実際の記憶に多く基づいて作成されたものもあります。

ただ、全体的な傾向としては、作成記事が多くなるにつれ、つまり最近作成のブログになるにつれて、自身による創作的な部分が多い記事が多くなっているといえます。

また、一つの記事の作成に費やす時間ですが、これは大体1時間程度ですが、それ以前に様々なところで思いついたことをブログのネタとしてノートに記していますので、その時間を含めますと、もう少し長くなるのではないかと思います。
とはいえ、実際こうした自分なりの記事作成の方法が確立する以前は、もっと時間をかけて且つ、多少無理しても様々な要素を詰め込もうとしていた感があります。

これは初期に作成したブログ記事において、その傾向が強いのではないかと思います。

そして同時に、さきに述べました初期に書かれたブログ記事の方がより実際の対話での記憶に基づいている傾向があることを加味しますと、たしかにかつて私共が行っていた対話あるいは議論とは、ある程度内容の濃いものであったと思います。

そうしたものを活き活きと文章によって蘇らせることが出来たならば、それは一つの記録として、現在の私にとって満足できる成果であると考えております。

しかし、私が過去の有益であると思われる記憶を文章化により、鮮明に蘇らせたという自己満足的な感覚を得たとしても、それを良いものであると判断するのは、残念ながら私自身ではありません。
それを判断するのは読んでくださっている方々です。

ですから、どのような文章であれ、文章とは本質的に意味が不明瞭な美辞麗句で飾り立てず、言語とそれが示す対象が精確に対応しており、それを基礎として思考、対話が成立し、積み上げられてゆき、それが読み手に的確に伝達され、さらにその内容が何かしらの感銘、感動あるいは知的好奇心なりを惹起させるものが良いものとして認識に価する文章ではないかと思います。

この点において論文、散文、詩文などであっても全て同様であると考えます。

その中において、現在私は散文に近い対話形式の文章を選択し、これまでの記事に用いていております。

それらがどのように読まれ、またどの程度影響力を持っているのかとは、さきに述べた通り、残念ながら私にはわかりません。

そうした状況において、どのような記事が多く読まれているかを知るということは、閲覧者数を増やすという実際的な目的であると共に、どのような文章が良い文章であるのかを知るための方策でもあります。

ブログ作成当初においてあまり多くの閲覧者数を期待しておりませんでした。

それは現在においても概ね同様ですが、同時に、最近、自身が上記の意味で良い文章を作成するための実際的な指針がここにあるのではないかと思うに至りました。

それを言い換えると、私が閲覧者の多寡という評価を信頼するに至ったということです。

今後はそれを参考としつつ、これまで同様の対話形式を用いて引き続きブログ記事を作成してゆきたいと考えておりますが、それが成功、功を奏するかどうかは不明です。

ただ、そのようにして作成された記事が、より多くの閲覧者に対して、何かしらの良い効果を促すものであれば、記事を書いた私にとっては僥倖であり、また実際に私と対話した方々にとっても同様であると考え、継続してみます。
 
 
しかし、それは一体どのようにしてわかるのでしょうか?」
 
 
「つい先日(2/9)全期間のページ・ビュー(PV)が30000を越えました。一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。」