A「最近男性五人組の人気アイドルグループの解散を匂わせるニュースがありましたけれど、あれは実際大したことなのでしょうかね?
テレビ報道などでは結構大々的にやっていたようだけれど、ああいった報道は、この時機に他の何かに目をそらせることを目的にしているのではないかな・・?」
B「私はテレビのニュースはあまり観ませんが、ネットのニュースでもそのことは大きく取上げられていましたので、一応知っています・・。
また、それが何か目くらましの目的を持っているのではないかという御意見も、それは充分あり得ると思います。
しかし、実際問題として、そのニュースがもたらす影響とは、テレビ離れが進行している現今我が国社会においてそこまで大きいものなのでしょうか・・?」
A「なるほど・・それもたしかに一理ありますね。
また、そう考えますと、このアイドルグループの解散危機の報道とは、テレビ離れを食い止める一つの策であるのかもしれませんね・・。
それに何故そして誰が、その解散危機を報道のネタにするのでしょうか?
他にもそういったグループはいくらでもあると思うのですが・・。」
B「ええ、それは昨今のネット社会の進行により、そうしたウラ事情の存在を考えさせるようになったのではないでしょうか?
その意味において、ネット社会の進行とは、情報リテラシーの向上にある程度寄与しているのかもしれませんね・・。
とはいえ、さきの報道の真相は相変わらず分かりかねますが・・(苦笑)。
まあ、いずれにしてもそれは我々を含めた多くの方々にとって、あまり関係のないことであるのではないかと思いますが(笑)。」
A「・・それはたしかにそうだけれど、そういった報道から何かしらの真相なり傾向を感知できるのではないかと考えるのも、また一つの情報リテラシーであると思いますので、そういった意味では、これはこれで有意義であると私は考えますが・・。」
B「まあ、そうですね・・(笑)。
しかし、様々なところで述べられていることですが、現代の情報化社会とは、報道も何もかもショー、見世物化しているということですが、こうした社会において、実際の日常的な職業上の経験、必要性以外において付加的に必要とされる情報リテラシーがネット社会の進行により向上するということは、良いことであるとは思いますが、一方においてそれは、何かしら負の要素もあるのではないかとも思いますが・・?
あたかもジェイコブスの怪談「猿の手」あるいは「イーリアス」のトロイの木馬のように・・。」
A「ううむ、そういった危惧とは、たしかに私も時折考えることですが、いずれにしてもテレビの情報媒体としての重要性が以前に比べ低下していることは明らかであると思いますので、相対的に見て今後大きな問題になるのは情報媒体としてのネット社会における自律性ではないかと思いますが、これもかなり難しい問題ではないかと思います・・。」
B「そうですね・・ここ20年程度における情報媒体に対する価値比重の大きな変化とは洋楽の「ラジオスターの悲劇」を彷彿とさせますが、とにかくこうした情報媒体とは、我々の日常生活に対し大きな影響を与えるという意味において大変重要であると考えますが、それでも今後のネット社会の進展に関しての具体的な予測は難しいですね。」
A「日常性に対する影響ですか・・たしかにそうですね。
そしてそのように考えると、様々な情報媒体が発信する内容とは、それを受け取る側にとって、いわば精神の食物にあたるのではないでしょうか・・?
現在、具体的な食物に対しては食育などもあり、情報媒体が発信する内容に関しては情報リテラシーがそれに相当するのではないかと思うのですが、このことに関しては最終的に「美味しい」とか「安全」などで片付けることが出来る食物と異なり、より何というか意識的、形而上的そして継続的な思考が重要視され、また、その際のある種の枠組み、土台となるものが、おそらく宗教であると思うのですが、これに関して我が国とは、欧米諸国に比べ大分事情が異なるのではないかと思います・・。」
B「うーん、たしかに欧米諸国に関しては、その日常的な意識において持つ宗教および宗教概念が少なくとも我が国に比べて大きな影響力を持っていると思いますからね・・しかし、それだからといって今後我が国が何等かの宗教を持つべきであるとは思えませんし。それ以前に無理であると思います・・(苦笑)。
何故ならば、そういった文化とは、自然な歴史的経緯によって培われるものですから・・しかし、おそらく明治以降の我が国とは、現代に至るまで、外国からの様々な文化の導入をその存立のために行わざるを得なかったのしょう・・。
これはAさん御存知のように夏目漱石が述べていたことですが・・。」
A「ええ、そのようにして成立している我々の日常性が何らかの原因により自身が持っている現実的な意識と合致、適応しないようになると、それに伴い自身が用いる言葉、言語が何というか現実味がない、味気ないものになってしまうのではないかと思います。
そして他者とは、そういったことを敏感に感じ取るものではないかと思います・・。
その意味において昨今のテレビ離れとは、こういったところにもまた原因があるのではないでしょうか?
加えて、これは教育現場などにおいても同様であるかもしれません・・。
さらに、その意味において書籍、ブログなどの面白さも、大きくそういった要素に依存しているのでしょう。」
B「ううむ、それはたしかにそうなのだけれど、一方において昨今流行の読書ブームやブックカフェみたいなものも結局何というかカーゴカルト的なものに思えてしまうこともありますので、Aさんのいう他者が、その解釈、つまり何を根拠にしてそれらの良し悪しを判断しているのか大変疑問に思うことがあるのです・・。
そして、そこから一歩進めると、それこそが日常性と現実的な意識が合致していないことを示しているのではないかと考えさせられるのです・・。
しかし、実際こうした意見をいうと「ではお前は日常性と意識は合致していて、十全に用いている言語、言葉、考え、思想を理解しているのか、あるいはそこまで偉いのか?」といった出る杭式の批判が生じるのが我が国の特性、傾向であると思うのです・・(苦笑)。
そして、これは多分改善されないどころか、ネット社会の進化により、益々その傾向を強めてゆくのではないかと思いますね・・。
それ故、さきほどの「猿の手」トロイの木馬を例として挙げたような危惧をおぼえるのです。」
A「・・まあ、たしかにそういわれるとそうですね・・。
歴史を知らないと歴史的因果律から脱却することは困難ですが、そういった認識を強要することは出来なく、またその一方において、これも重要ではあるのですが、西欧に直接的始原、基礎に持つ精緻に構築された物質文明に基づき存立している現今我が国の状態が、これもまた西欧に直接的起源があるネット社会の更なる進行により、今後どのような変化を遂げるのかとは、大変興味深いです・・。」
A「最近また寒い日が続きますが、どうですか、元気でやっていますか?」
B「どうでしょうか・・それにしてもやはり首都圏、関東は寒いですね・・。
また、こう寒いと、どうも気分が滅入ってくることが時折あります。」
A「そうですね、寒いと色々と心身に対してマイナスなことが多いですね・・(苦笑)。
しかしAさんは北海道にも住んでいたことがあるのですよね?
その当時は大丈夫だったのですか?」
B「・・あの当時はまだ若く、あまりマイナスなことを考えることも無かったと思うのですが、それでも北海道はやはり冬季では日光量が少なく、そのせいか多少鬱気味になったような気もしました・・。
その経験から私は日光量が少なく、寒く、積雪量が多い場所は体質的に合わないことを知りました・・(苦笑)。」
A「そうでしたか・・しかし、そういったことは案外重要であると思いますので、求職活動などでは留意した方がいいと思いますよ。
それはそうと、求職活動の方はその後どのようになっていますか?」
B「そちらの方は相変わらず動いてはありますが、今後の動向はイマイチ読めませんね・・まあ、求職活動など概ねはそういったものであるとは思いますが(笑)。」
A「・・先が読めないといえば、日本の景気や高等教育を巡る環境などは今後どう変化してゆくのでしょうかね・・?」
B「・・それは少子高齢化の進行に伴い日本の経済的力は衰退し、また高等教育を巡る状況も同様な方向に変化してゆくのではないかと思います・・。
しかし、その対策として理系および資格系の教育を拡充し、それに加えて高等教育初期の導入部における教養教育を充実させることにより、どうにか乗越えることができるのではないかと考えますが・・。」
A「まあ、理屈的にはそうなのでしょうが、しかし理系、資格系の件は置いておいて、教養教育の充実などはそう簡単にいくものであると思えませんけれどもねえ・・。
つまり教養教育の真髄である学問研究への能動性を生じさせることは、一朝一夕に出来ることではないと思うのですが・・。
また、このことはこれまでの様々な歴史が、その証拠を我々に多く与えてくれていると思うのですがねえ・・・。」
B「ええ、それは仰るとおりであると思うのですが、同時にそれは地道に漸進的に行っていく以外にないのではないかと思います。
まさに「学問に王道なし。」といったところであると思いますが、これを改善する具体的な施策として、小規模の理系、資格系に加え教養系の学費の安い公立大学を増新設することではないかと思います・・。
このたとえは変であるかもしれませんが、アメリカでいうコミュニティーカレッジみたいなものに相当するのではないかと思います・・。」
A「理系、資格系と教養が併存する小規模の学費の安い公立大学ですか・・。
そうしたものがアメリカにはすでにあるのですか?」
B「ええ、あちらでは看護師、歯科衛生士などの資格や高等教育導入部における教養教育などで有名なコミュニティーカレッジ多く存在しますので、現在の大学が有している機能を分割し、その一部をこれらに移譲することができれば案外上手くゆくのではないかと思いますが・・?」
A「しかし、現在の大学がいわば既得権益として保持しているそうした機能をその新増設した小規模大学に移譲しますかね・・?
我々の国で行われるそうした改革とは、これまでのところ結局、既得権益保持層と、何というか原理的改革派との抗争によってその意義、本質が換骨奪胎されて、改革としての意味を為さないように作用してしまうのではないかと思うのですが・・。
それこそBさんがこれまでブログで何度か書いている大岡昇平の「俘虜記」における収容所社会でかなり明晰、痛烈に描かれていると思うのですが・・。
しかし、そう考えると、実は本当に問題なのは、そうしたかねてよりの我が国社会における普遍的な社会問題を示唆する文学、著作がいくつも存在するにもかかわらず、そういった問題が一向に明瞭化されないところなのかもしれませんね・・?
私は別に我が国が嫌いではなく、むしろ好きであると自覚しているのですが、そうであるからこそ、この一面において凝集性が強く、識字率が古来より高い我が国の社会が、そういった文学、著作に目を向けないで、またその内容、テーマを共感を持って理解しようとしないことが不思議で不思議で仕方ないのです・・。
また、我が国においては文学者、著述家で政治的意見を持つ方の多くが嘲笑、批判の対象になることには、それと同じような原因があるのではないかと思うのです・・。
そういったことから、私を含め我が国の国民性の一つとして自己愛性パーソナリティー障害に近いものがあるのではないかと考えさせられるのです・・(溜息)。
これは特に海外の著者が描く我が国国民性において多く見られ、それらは戦前、太平洋戦争中での体験に基づいているものであるのですが、こうした性質とは体制が変化してもそう簡単に変化するものであるとは思えませんので精神的古層、持続する重低音のように、現在なお強く示唆するものがあるのではないかと思うのです。
そして欧米の方々は、そうした方法をも用いて冷静、客観的に対象国に対する対応、政策を考えていることは今更いうまでもありません・・。
加えて、我が国の組織におけるモラハラ的なものも、その多くはこうした自己愛的な性質に由来しているのではないかとも思います。」
B「ええ、仰ることの意味はよく分かります。
そうした性質を搦め手より徐々に改変、進化することを試みるものが、さきほどの理系、資格系そして教養教育の充実なのですが・・どうでしょうかね?」
A「うーん、現在の我が国における既得権益層と改革派との抗争は、言い換えると世代間の抗争になるのでしょうか?
それとも、かつて時代のブルジョアジーとプロレタリアート間の階級闘争のような枠組みになるのでしょうか?」
B「・・それは何ともいえませんが、とにかく何らかの実効性を持つ改革は今後必要不可欠なのではないかと思えますが・・。」
A「Bさんは色々な分野を横断してきましたけれど、その中で特に何が面白かったですか?」
B「・・全て面白かったとは思いますが、自分の作成した試料で行った実験により新しい知見が構築されてゆく過程は、なかなかゾクゾクするような面白さがありましたね・・。
それと民俗学のフィールドワークで自分が薄々予期していた知見、あるいはそれを裏切るような知見に出くわしそうな丁度ギリギリのところも、なんともいえず興奮するものだと思います・・。
それに加えて、数十年前に刊行された古墳に関する書籍に基づいて古墳を探しに出て、野山をかき分け、それを見つけた時の興奮もなかなかのものですよ(笑)。
ああいった時は概ね単身行動なのですが、野山の中でも不思議なことに怖いとかそういう感覚はキレイにすっ飛んでいましたね・・。」
A「そうですか・・それはなかなか面白そうですね(笑)。
ともあれ、私は実験などを行ったことはありませんが、ああいった学問分野もはまると、とても面白いのでしょうね。」
B「ええ本質を得るために最適な試料の形状、治具、実験速度などを試行錯誤しているような時は、時間が経つのがかなり早かったように思いますね・・。
そして、ある程度既存の信頼できる知見と矛盾なく、さらに新たな知見を得ることが出来そうな感覚が湧くと、さらにそこから時間経過の早さが増すような感じがしましたね・・。
そうした感覚とは、このところかなり御無沙汰ではありますが、またどこかでそういった気持ちで何かに取組めるのではないかと思います。」
A「なるほど、多分ああいう時はなんというかハイになっているのでしょうね?
あるいは、そういうのをフロー状態というらしいです・・。
加えて、それはたとえば部活の試合や議論あるいは文章の作成時などにおいても同様の状態になることが出来るのではないかとも思います。」
B「そういわれますと、たしかにかつて時間を忘れて議論をしていた時や、夏真っ盛りの部活の練習などにおいてもそういった感覚をおぼえたことがありましたね・・(笑)
あれは多分何かしら脳内麻薬みたいなものが影響しているのではないかと思いますが・・多分年齢がある程度までいくと、この脳内麻薬に対する耐性が出来てしまい、なかなかそういったフロー状態?に入ることができなくなってしまうのではないでしょうか?」
A「・・・はたしてそうでしょうか?
私も現在色々文章や様々な資料を作成したりしていますが、興が乗ってきますと、まだまだ周囲を気にしないで自身の作業に没頭してしまうことがありますけれど・・それはフロー状態とは違うものなのでしょうか?」
B「それはたしかにわかります。
しかし、問題となるのは、その新鮮さではないでしょうか?
私はこれまでいくつかの分野に身を置いてきましたが、幸いなことにその時々で、その分野特有であると思われる、そういった疾走感をおぼえることができたのではないかと思います。
そしてそれは能動性を持って何かしら未知のことに取組んでいる時におぼえる特有なものなのではないかと思うのです・・。
そうしますと、自身の分野に対して、馴れて、ある程度の知見を得た状態になりますと、その疾走感を得ることが困難になってくるのではないかと思います。
そして馴れから生じる惰性を戒めるために世阿弥の「初心忘るべからず」という言葉があるのではないかと思いますが・・。」
A「ふーん、そうしますと一つの分野に長年従事していると、疾走感をおぼえることが困難になるのではないかというのがBさんの持論ということになりますが、私はそうは思いません。
あるいはそういったことは、個々人の性質に大きく由来するものなのではないでしょうか?」
B「はあ、なるほど、そういわれますと、たしかに一つの分野に長年従事してきている人でそうした感覚を忘れていない方々も多く見受けられるとも思いますので、これは私の個人的な経験に基づいた意見あるいは偏見であるのかもしれません・・(苦笑)。
つまり私は一つの分野に長年携わった経験がないことから、そのような結果が導き出されるのかもしれません・・。
しかし同時に私は正式に研究とはいわれなくとも、書籍は読み、またその内容に関してはある程度考えているのではないかと思います。
そのことから自身の知性に対する少なくとも最低限の訓練は継続しているのではないかと思いますが・・。
また、ここ半年は周囲の方々からのすすめもあり、ブログを作成し続けておりますが、これはなかなか自身にとってはなかなか良いトレーニングとなっているのではないかと思います。
そして願わくは、そうしたこれまでの行為が比較的容易に結節することが出来る職務に就きたいと考えております・・(笑)。」
A「ははあ、なるほど・・たしかにBさんのブログは内容の面白さなどにはブレがありますが、それと同時に何というか学問を修めた人であることは伝わってきますので、そうした発信は自他何れのためであれ、今後も続けられた方がいいと思います・・。
そして、そういった発信、アウトプットがある程度までいきますと、何かしら良いこと、面白いことが起きるのではないかと思います。
とはいえ、Bさんにブログをすすめた周囲の方々とは一体誰なのですか?」
B「ああ、それは何人かいるのですが、以前もブログで書きましたが不思議なことにほぼ同時期にいわれましたので、ブログ作成をはじめた次第なのです(笑)。
個人特定されてしまいますので、具体的にはここではお教えできませんが・・。
それでもそのお陰でどうにかここまで来ることが出来たのではないかと思います。
その意味において私はかなり幸運なのではないかと思うことがあります。
とはいえ、現在、私のブログの投稿記事数は193であり、その三分の一以上が自身の書いた文章であり、今後はその数を増加させてゆきたいと考えております。」
A「・・そうしますと、もうすぐBさんのブログ記事も200に到達するということになりますが、そこまでいきますと、実際に何か起きるのでしょうかね?
それは少し楽しみですね・・(笑)。」
B「いえ、そういったことはよくわかりませんので、まあ動画の投稿を除いて200記事に到達するまで、あるいは別の目安ですと、表示回数が10万を越えるまではとりあえず、あまり考えず書いて投稿し続けてみようと思っています。」
A「なるほど、そうですか・・それで表示回数は現在どうなっていますか?」
B「ああ、それは大体91000程度ですので、感覚としては、こちらの方が投稿記事数200に到達する前に達成できるような気がします・・。」
A「それは楽しみですね・・今後また何か面白いことがありましたら御連絡ください。」
B「ええ、了解しました。」
A「最近のブログの閲覧具合で何か変ったことはありましたか?」
B「いえ、特に大きな変動は見られませんね・・。
ただ、つい先日一日の閲覧者数がまた200人を超えました。
このところ大体一日100台前半でしたので、これは多少嬉しかったですね・・。
それと表示回数も90000を越えました。
たしか昨年末(12/29)の時点で80000程度でしたので、この表示回数増加の程度は悪くないのかもしれません。」
A「そうですか・・一日の閲覧者数が200人を越えましたか・・。
それはBさん御自身の文章が主体となっている現在の状況においては、なかなか良い傾向なのではないかと思います。
それでも、やはり閲覧者が増えやすい記事と、そうでない記事がやはりあるのではないでしょうか?」
B「・・そうですね、近い時期に投稿した記事でも、その閲覧者数が大きく異なるものがありますので、おそらくそれは、読みやすさ、読んでいる方々から見た記事内容の充実度などによるのではないかと思います・・。
しかし、であるからといって、今後書く記事の傾向を変えようとは思いませんし、また意識して変化させるからといって、必ずしも閲覧者数が増えるとも思われません、そしてそれ以前に私のブログとは元来閲覧者数を伸ばすことが目的ではじめたものでもありませんので・・(笑)。」
A「・・しかし、それでもやはりブログを続けていると、閲覧者数などは気になってしまうものではないですか?」
B「ええ、それはそうなのですが、これは以前もブログにて書きましたが、そういったことを気にしだすと、文章自体を書くことが困難になり、何かしら理由を考えてブログの作成自体が苦痛、億劫になってしまうのではないかと思うのです。」
A「そういった葛藤は多分様々なことにおいて当てはまると思いますが、ブログをはじめた時の気持を保持しつつ、良い記事・・いや良い記事を書くことを目的にしてもダメなのでしょうが、とにかく書き続けることが重要なのではないでしょうか?」
B「・・まあ、そういったところであると思います。
そして、こういったことは案外難しいものであると最近思います・・。
ただ、ブログをはじめた頃は一つの記事を書く際の苦労も現在に比べ格段に大きく、結構身構えて作成していたような気がします。
しかし、それをどうにか書籍の抜粋引用などを行いつつ継続することで、徐々に自身の記事を書くことが重荷ではなくなっていったように思います。
こうした記事を作成する際の心情の変化と作成したブログの内容の面白さ、充実度がパラレルな関係であれば良いのですが、どうもそれは一概にはいえないようですね・・(笑)。」
A「そうですか、やはりそういった変化があったのですね・・。
それでも私はBさんのブログ開設当初の記事よりも、最近書かれたものの方が読みやすく、またその内容も面白いと思いますけれどもね・・。」
B「はあ、そういっていただけますと、助かります。
しかしそれら記事を作成している私にとっては、そういったことが読み比べてみても、イマイチどうも分からないのです・・。」
A「まあ、そういったことは、やはりどうしても主観から脱することは難しいと思いますよ・・。
ですから、とりあえず書き続けることが重要なのではないかと思います。」
B「・・なるほど、そうですね。
それにしても本当に書き続けていると、良い記事が書けるようになるのでしょうかね?
いえ、それ以前に「良い文章が書けるようになる」というような理想を掲げてがんばること自体がどうもダメなような気もしますね・・。
つまり、本当に私自身が記事を書くことが好きであるならば、あまりそういったことは気にする必要もないのかもしれません・・。
しかし、一方において、何かしらの目的を設定し、それに向けて様々な努力を行うということは、何かしら美質らしきものとして一般的に認識されてもいますので、こういったことはなかなか難しいのではないかと思います。」
A「・・何だかその意見は夏目漱石の「現代日本の開化」を彷彿とさせますね(笑)。
たしかに我々には活力の消費を好んで行う傾向とそうでない傾向が併存していると思います・・。
そしてBさんのブログ作成が好んで活力を消費する傾向に分類されるものであれば、継続して行うことが出来ると思いますし、またそうでない場合は苦痛に感じるようになってゆくのではないでしょうか・・?」
B「ええ、それはたしかに仰るとおりであるとは思いますが、同時にブログ開設当初は実際記事の作成が苦痛、億劫であり、また現在も時折そう感じながら作成することもあります・・。
ですから、それは精確にはシロクロが判然としたようなものではないと考えます・・。
しかし、それをどうにか継続することにより、徐々に記事作成が苦痛、億劫ではなくなり、まあ日常的な行動の一つとして定着してゆくのではないでしょうか?
そして、そういったことは様々な勉強、修練においても同様なのではないでしょうか?
ただし、そういったことを行うにあたっても、やはりその根底においては動かしがたい性質、特性による向き不向きがあるのではないかと思います・・。
そして、その向き不向きといったものが、その人が持つ個性の根源であり、本質なのではないかと思います。
無論、それだからといって、当初苦痛に感じる勉強、修練に意味がないとは思いませんが、一方それに偏重した社会とは、結局のところ持続可能性がないのではないかと思います・・。」
A「・・まあ、Bさんの言わんとすることはよくわかります。
それは個人の問題として極言すると「生まれか育ちか?」ということになると思うのですが、近代以降の我が国の社会とは、特に育ちや個人の努力といった後天的な要素を重要視しますからね、そしてそれは過去の歴史からの反省に立脚していると思うのですが、ただ、我が国の場合、そういったこと、つまりそれまでの経緯をあまり理解しないままで現在の社会になっているように思うことがあります・・。
そして、それが先程あげた夏目漱石の「近代日本の開化」あるいは「三四郎」冒頭部の三四郎と広田先生との列車内での会話につながるのではないかと思います・・。」
B「そうしますとスケールは大きくなりますが「我が国の個性の根源、本質は一体どういったものであるか?」ということになるのでしょう。
しかし、それは我々が考えるよりも他国の人々、研究者などの方がよく見ているのではないかと考えさせられることがありますね・・。」
A「ええ、しかしそうであるからといって、我々日本人画が意識して、その根源、本質を変えることは出来ないしまた、してはいけないと思うのですが・・。
そうすると、余計事情が悪くなり広田先生曰く「滅びるね。」になるのではないかと思います・・。」
A「何だか私のブログに関しても今の御意見は参考になりそうな気がしますね、どうもありがとうございます。」
また、現在公募、求人等に応募しております。
現在大変困難な状況でありますので、この状況から助けていただきたく思います。
どうぞよろしくお願いします。
A「先日久しぶりに市川崑監督で渥美清主演の「八つ墓村」の動画を少し観たのですが、ああした映画の舞台背景とは、私が幼い頃に見た風景、景色に近いものであり、何となく入り込めるのですが、一方最近の邦画などでは、どうもそれが難しいような気がします・・。
単純に時代が変り、風景の構成要素も変ったのだと思いますが、どうもこうした感覚をおぼえると自分の年齢、年代などを意識してしまいますね・・まだ、そんな年ではないはずなのですが(苦笑)。」
B「ええ、ああいった映画でも自分が実際に経験したものに近いと、その風景の空気の香りなど色々な要素が想像できて、そこから映画の内容に入り込み易くなりますよね・・。
私もその作品は幼い頃に観ましたが、当時の私にとっては、ほとんどホラー映画でしたね(笑)。」
A「それは私も同じ経験を持っております。
しかし、そういわれますと邦画のホラーは、洋画のそれに比べ、まだ面白いというか怖いと感じるものが多いような気がします。
そうしますと、恐怖という感情とは、もしかしたら、文化の東西で違い、そのことから我々はやはり日本人であることを自覚するのかもしれませんね・・。
ちなみに私が邦画で「これは怖い」と感じたのは前世紀末に制作された「女優霊」という映画でしたが、これは今観ても多分かなり怖いと感じると思います・・。
洋画でしたら、スティーブン・キング原作でスタンリー・キューブリック監督の「シャイニング」という作品が怖かったですが、この怖さはどちらかというと邦画のそれに近いのではないかと思います。
加えて、この映画作品に描かれる周囲の環境により主人公が徐々に狂気に陥っていく過程とは、シェイクスピアの「マクベス」にも通じる要素があるのではないかと思います・・。
また、そのように考えますと、この「マクベス」を原作とした黒澤明監督の「蜘蛛巣城」も時代劇ではありますが、同時に一種のホラー映画としても見ることができるのではないかと思います。」
B「・・ううむ、たしかにホラー映画に関しては私もまだ邦画の方を支持しますね。
その「女優霊」はまだ観たことがありませんが、たしか「リング」と同じ監督で、その出世作といわれるものではなかったですか?
また、映画「シャイニング」と「マクベス」あるいは「蜘蛛巣城」の間における恐怖の質の類似性とはなかなか面白い指摘ですね・・。
それらは実際誰にでも生じる可能性があるという意味で説得力があり、また、どれも物語冒頭においては主人公は謹厳実直、真面目なキャラクターとして描かれているのですが、それが徐々に狂気に陥ってゆく過程、そしてその先にある悲劇がこれらに描かれる恐怖の本質なのではないでしょうか?
しかし、そう考えてみますと、こうした悲劇性および恐怖の質とは、文化の東西を問わず古代神話の時代から受け継がれているものではないかなあ・・?」
A「・・・たしかにそうですね。
では、これらの恐怖の本質とは案外普遍性があるのかもしれませんね・・。
そうしますと、我々が感じる恐怖の感情における東西文化の相違とは、気のせいであるのかもしれません・・。
いや、しかしホラー映画におけるそれを考えてみますと、やはり邦画、洋画間に何かしら違いがあるのではないかとも思えますが・・。」
B「ううん、それは全般的に恐怖を感じさせる要素が観客にとって明示的であるか暗示的であるかといった違いではないでしょうかね・・?
邦画ホラーにおいては心霊、幽霊などの存在は暗示的であることが多く、それに対し洋画ホラーにおいてはジョーズや様々なモンスターと同様、その存在が明示的というか具体的存在が強調されるものが多いのではないかな。」
A「・・なるほど、そしてそう考えますと前に示した「シャイニング」、「マクベス」そして「蜘蛛巣城」における恐怖の質とは概ね暗示的であり、その意味において日本の伝統的な怪談に近い要素があるのかもしれません。
しかし一方において、そういった暗示的な恐怖とは、少なくとも洋画ホラーにおいては、主流ではなく、あるいは多く見受けることが出来ず、逆に邦画ホラーにおいては、概ね主流であるといっても良いということになるのでしょうか?」
A「・・たしかにそうであるかもしれないね。
そして、そう考えるとたしかにホラー映画のおける東西文化の相違はあるのかもしれませんね。
具体的には、日本のそれは何というか、より運命的、不可避なものであり、それに対し欧米のそれはまだ選択の余地、冒険的な要素があり、時にはハッピーエンドになることもあるけれど、そういったことがあるのではないかな?
そのように考えると、映画におけるホラー、恐怖の定義自体が多分、若干東西文化で違うのではないかと思えますね・・。」
B「そうしますと、邦画ホラーとは意識、無意識を問わず、伝統的な怪談からの系譜を引くものであり、それに対し洋画ホラーの系譜とは、少なくとも我々のそれとは当然ながら異なり、そうではあるものの時には類似したような恐怖を持つ作品もある。
といったところでしょうかね?」
A「ええ、とりあえずそんなところではないでしょうか。
また、そう考えると洋画ホラーの根底に流れる諸文化およびその構成要素の比率、特徴などを検討してみるのもなかなか面白い研究であるかもかもしれませんね(笑)。」
B「多分、その専門家は既にいるとは思いますが、たしかにそれは面白そうですね・・。
今の私にはその任は多少重いですが、今後必要性が生じたらやってみたいとも思いますね・・。
また、その際にここでAさんとの会話の検証をまた行うことが出来るとも思います。」
A「そうですね、まあ機会があったら是非やってみてください。
そうしたらまた、そのネタで話してみましょう。」
また、現在公募、求人等に応募しております。
現在大変困難な状況でありますので、この状況から助けていただきたく思います。
どうぞよろしくお願いします。
A「ここ最近また寒い日が続いていますが、どうですか求職活動などは順調にいっていますか?
あとブログは継続されているようですが、何か面白いネタになりそうなことはありましたか?」
B「求職活動は相変わらずです・・色々と動いて、またオファーなども時折ですが、いただいております。
また、最近はつい先日はブログでも書きましたが、何かを書く仕事に就いてみたいと考えております。
まあ、この先どうなるかわかりませんが・・。」
A「はあ、そうですか・・。
そういえばBさんのブログはたしかにBさんらしい文体で書かれているとは思いますよ、内容の面白さなどに関してはブレがあるとは思いますが・・。」
B「・・私のブログには私らしい個性を持った文体を感じることができますか?
いえ、丁度最近そのことを不図自分で考えましたので、それは多少気になります・・。
それで私の文体の特徴とは、一体どのようなものでしょうか?
別にどのような表現でも構いませんので、今後の参考のブログいや文章作成のためにお教えいただけますでしょうか?」
A「・・うーん、そういわれますと多少難しいですが、何といいますか、私の主観ではありますが、どうも民俗学っぽいような感じを受けますね・・。」
B「・・はあ、民俗学ですか・・それはどうも漠然としていますね・・。
ともあれ、特に問題があるというわけでもなさそうですので、どうもありがとうございます、参考になりました(笑)。
そして今後機会があれば、もう少し何かを意識して文章、文体を練ってみようと思います。
具体的には、もう少し断言調などを入れた方が良いのでしょうか?」
A「それは私にはわかりませんし、Bさんの好きなようにするのが一番良いのではないかと思います。
そして私が先ほどお伝えしたのはあくまでも感想であり、その後の示唆を含めたつもりはありません。
私としてはいずれにせよブログを読み「ああBさんは元気なんだな」と思うことの方が多いですから・・(笑)。
しかしだからといって、別にブログがつまらないというわけでもないですので、まあ、とりあえず今の調子で書き続ければ良いのではないかと思います・・。」
B「はあ、そんなものですか・・。
あと、そういえばブログの一日の閲覧者数はこのところあまり変化はありませんが、投稿した対話形式のブログの中でも閲覧者数が伸びているものと、そうでないものがあります・・。
それで先日、これらの間にはどのような相違があるのかと思い、双方を比べて読んでみたのですが、どうもイマイチその違いがわかりませんでした・・(笑)。
ちなみに普段私は一度投稿したブログはあまり読まないようにしていますが、何度か読み返してみるとその原因が何かわかるのでしょうか?」
A「・・うーんBさんが投稿する以前に、どの程度文章の推敲、見直し、加筆訂正をしているのかわかりませんが、細かい間違いなどを除き、内容に関しては特に大きな間違いはないと思いますが・・。
また、私個人としてもBさんが書いた対話形式ブログの間に閲覧者数に関与するような大きな違いはないように思えますけれども・・。
しかしBさんのことを直接知らない方々がそれらを読んでみると、また受ける感じも変ってくるのかもしれませんね(笑)。」
B「それでしたら閲覧者は海外からも割合多いようですので、そこでの視点、好みがもしかしたら影響しているのかもしれません・・。
しかし、そうであるとすれば、ほぼ日本語で書いている一連の投稿の良し悪しをどのように判断しているのかは多少気になるところですね・・。」
A「・・なるほど、それでしたら単純に彼等にとって読みやすいとかそういった要素が影響しているのかもしれませんね(笑)。」
B「はあ、そんなものでしょうかね・・?
ところで私の書いた文章とは読みやすいのでしょうか?
これまでの一連の文章、文体もつまるところ偶然の産物なのですが、これで良いのでしょうか・・?」
A「ええ、それは特に問題ないと思いますよ、また内容に関しても今のところ特に問題ないと思いますが・・。
しかし、それにしてもたしかに外国の方々はBさんのブログをどのように読んでいるのでしょうかね?
また以前たしかブログで書かれていましたがマッキントッシュユーザーの閲覧者が多いというのも、どのような理由によるものなのでしょうかね・・?」
B「ええ、それもこれまでに大きな変化はありません。
今後書き続けてゆくと何か分かるのでしょうかね?
また、それに加えて、どのように読まれているのかも多少気になるところです。」
A「・・あまりそういうことを強く気にし出すと、またスムーズに文章を書くことができなくなるのではないですか(笑)?」
B「あ、そうでしたね・・何だかこういうのは世阿弥の「風姿花伝」の「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず。」みたいですね(笑)。」
A「ええ、まあそんなところですが、同時に同著者でしたら「初心忘るべからず。」も現在のBさんにとってはなかなか示唆的なのではないでしょうか(笑)?」
B「はあ、なるほど・・たしかにいわれてみますとその通りですね(笑)。
まあ、とりあえず現在はあまりそういった数やデータに惑わされずに書き続けることが大事なのでしょう・・。
それで、この会話も面白かったので、個人特定の要素を除きブログのネタにしようと思いますが、問題ないですか?」
A「・・そうですね、特に問題ありませんよ。」