2022年12月20日火曜日

20221220 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.78-79より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.78-79より抜粋 ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

しかし、このような中で1850年代末に入ると、反動の濃霧はようやくうすれ出し、19世紀前半以来の現状変革の諸運動は諸国において次第に復活して動きはじめるのである。その点で特に注目すべきものは、イタリアおよびドイツ地方における民族的統一運動の進展であった。前者はサルディニア王国の中心として、後者はプロイセン王国を中心として行われることになったが、しかも、両者はその過程において幾つかの民族解放戦争をひき起こしつつ、それらを通して進展することになった。

 そもそも、ウィーン会議以後19世紀前半期においては、バルカン半島を除くヨーロッパは久しきにわたって平和が保たれてきた。ヨーロッパにかくも長く平和が維持されたのは、1494年以来未だかつてなかったといわれている。それは一つには、ウィーン会議前後において将来の国際平和の永続が願望された既述の諸事情がその後維持したことに起因するといってよい。しかし、1848年にいたってプロイセンとデンマークがシュレスヴィッヒ=ホルシュタイン(Schleswig-Holstein)問題で戦火を交え、またサルディニアがイタリアの民族的統一を意図してオーストリアに宣戦するに及んで、久しきにわたって保たれてきたヨーロッパのこの平和も遂に破れたのであった。そして、その後1854年から56年にかけてクリミア戦争(Crimean War)が行われたが、それはヨーロッパ史上ナポレオン戦争以後で最大の戦争であった。ところで、このクリミア戦争の惨害は久しきにわたって大戦争を経験しなかったヨーロッパの人心に深い印象を与えた。そして、この戦争に終止符をうつことになったパリ平和会議(1856年)は、このような人心を背景として、次のような言葉を含む議定書を採択したのであった、「各全権委員会は各自の政府の名において以下のごとき希望を表明することを躊躇しない。すなわち、重大な紛争に陥った国家は、武器をとるに先だち事情の許すかぎり友邦に斡旋を求めることが望ましい。各全権委員はこの会議に列していない諸国もまたこの議定書の精神に同意することを希望するものである」。

 しかし、その後の歴史の進行は、パリ会議の以上のような希望の表明も一片の空文にすぎないことを証拠だてるに終わった。すなわち、クリミア戦争の後、イタリアおよびドイツの民族的統一を目標とした民族解放戦争が次々に爆発することになった。

2022年12月11日日曜日

20221211 【空想】新たな医療介護系専門職大学の立地について

ここ最近寒くなってきたためであるのか、先日少し体調を崩してしまい、直近数日間はブログ記事作成はしませんでした。とはいえ、先日述べた目標である「年内での1920記事到達(±5程度)」を達成するためには、さらなる記事作成を要します。また、以前にも述べました通り、引用記事にて、あと10数記事作成して1920記事まで到達することも可能ではありますが、さらに先もあることから、ここは自らの文章による記事作成にて進めた方が良いと考えました・・。現在は特にスランプでもなく、単に体調が万全ではない程度であり、作成を始めれば、どうにか波に乗ることは出来るであろうと踏んで始めた次第ですが、はじめの勢いにて、この程度まで作成することが出来れば、とりあえずは及第であると云えます。

さて、以前に何度か当ブログにて述べてきたことではありますが、今後、高齢化が進む社会への対応にくわえ、国際的な競争力向上のためにも、我が国は、その国民性とも云える此岸的性質を善導して、英語あるいは中国語を用いることが出来る、より多くの医療介護専門職の養成を行うことが効果的な施策であると考えます。

とはいえ、既存のそれら専門職の養成機関である大学や専門職大学や専門学校が、軒並み、新たな学部や学科を新設することが可能であるかと考えますと、それは困難であると思われます。そこで、ツイッターで私の固定ツイートにて述べている「半官半民での学費が安価な医療介護専門職大学の新設」が(もう少し)検討されても良いのではないかと思われるのです・・。

そして、ここからは空想になりますが「では、その専門職大学は何処に設置するのか?」と考えてみますと、先ずは学費を安価にするため、教員の多くは、若手の成りたての研究者と、一度、定年退職をされた大学研究者・臨床家の先生方に就いて頂くのが良く、またその立地は、国内の比較的温暖で温泉があり、また近隣に学生の臨床実習のための医療・介護施設が既にある場所が適当ではないかと思われます。

そうしますと、その具体的な候補としては、静岡県東部の伊豆地域と、南紀白浜を含む紀伊半島南部地域が挙げられるのではないかと思われます。これら地域のうち伊豆地域では既に医療系学部がいくつか点在しておりますが、それらの大学にて養成を行っていない専門職の養成であれば、地域的にも、既存大学側としても、あまり問題はないと思われます。むしろ、進学先の候補ともなる地元の高校生にとっては喜ばしいことであると思われます。またもう一方の南紀地域は、私自身がそこで何年間か在住した経験から、この地域は近代以降より高等教育機関が乏しく、大都市圏と云える大阪に比較的近く、県庁所在地がある和歌山市以南では、たしか中紀の御坊市に和歌山工業高等専門学校が立地するのみであったと記憶しています。

くわえて、古くからの温泉地である南紀白浜に隣接する自治体の一つが紀伊田辺であるのですが、この紀伊田辺はあまり多く聞くことはない地名であるかもしれませんが、江戸期においては、徳川御三家の一つ紀州徳川家の御附家老である安藤氏が治める3万8千石の城下町であり、また近代以降においては、我が国が誇る博物学者である南方熊楠(和歌山市出身)が後半生を研究活動をしつつ過ごした場所でもあります。

つまり、その仔細な地域の精神的背景は未だ明確には分かりませんが、私の感覚として、当時の紀伊田辺は、あまり大きくない地方の街としては立派な書店がいくつかあり、また城下町の一つの特徴と云える地域にある老舗の和菓子店(織豊期以降の武家文化と茶道には親和性があり、そして茶道があれば和菓子店が必要となる)もあり、ありきたりな表現となってしまいますが「古き良き日本」がいまだ遺っている地域であると云えます。

こうした地域と高等教育機関である大学との相性は、おそらく、少なくとも悪いものではなく、また、さきに述べましたとおり、中紀の御坊以南に高等教育機関が存在しない県南部は、そうした新たな試みとなる高等教育機関を設けるのに適切な立地であると思われるのです。

さらに、この紀伊田辺と類似した背景(紀州徳川家の御附家老云々)を持つのが紀伊半島南部の東側に立地する新宮市です。こちらは街の規模としては紀伊田辺の半分以下となっていますが、田辺市は以前に周辺自治体との大規模な合併がありましたので、その主要な市街地部の規模としては、紀伊田辺と新宮では、大きくは変わらないかもしれません。

ともあれ、そのようなこともあり、新宮にも、そうした高等教育機関を設けても良いのではないかとも思われましたが、ちなみに、こちらは少し南に行ったところに南紀勝浦温泉があります。

勉強や研究を終えた学生や教員が気軽に温泉に浸かりに行くことが出来るような自然環境と市街地とのバランスが取れて、そして、古来からの土着の優れた文化が生きている地域に新たな試みとしての医療介護系専門職大学を設置するのは、我が国の高等教育にとっては良い効果を齎すのではないかと私には思われるのですが、さて実際のところはどうなのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。













2022年12月8日木曜日

20221207 類似する主旨の既投稿ブログ記事があっても特に気に留めない理由

 1000記事到達以前に作成、投稿したブログ記事を読んでみますと、文章的には練れていないと思われるものの、そこに書かれている考え方の向性やアイデアが現在にまで繋がっていることが理解出来ます。端的には、最近投稿のブログ記事の論旨も以前に投稿した当ブログ記事を読んでいくと、それと同様とまでは行かなくとも、かなり類似した内容の記事を看取することが出来るように思われます・・。

しかし、であるからといって、もはやブログ記事の作成には新奇性はなく、継続しても無意味であるということにはならないと考えます。多くの作業に云えることですが、作業の初期においては多少大雑把であろうと、とりあえず多くの量を扱うことが大事になります。そしてその手法にて大雑把にて出来るところまでいくと、徐々に作業を慎重に行い、そして最後の完成に至るまで進めるといった流れとなります。

そこから敷衍しますと、当ブログは1000記事を過ぎて、現在(どうにか)1900記事にまで至ることが出来ました。体感からしますと、この1000記事から1900記事までの期間のブログ記事作成は、当初から1000記事作成までの2倍とまでは行きませんが、少なくとも、それ以上の作成上の苦労はあったと云えます・・。ともあれ、その中で(どうにか)継続して、つい先日1900記事に到達しても、達成感や高揚はなく、またそこから引き続いて記事作成を行い、現在の目標としては年内にて1920記事への到達を目指しています。

その意味にて1000記事到達を折り返し地点として考えてみますと、今現在、実感はないものの、締めくくりと云える1900記事から2000記事への到達に至るまでは、これまでとはまた異なった感じのスランプが訪れるのでしょうか・・。幸い今現在、スランプとまでは行かない状態ですが、私の場合、スランプの多くは3、4日間継続して引用記事を作成しますと、多少良くなる傾向があることが、ここ最近(ようやく)分かりました。引用記事は、労力が多い割にあまり意味がなく「読めば分かる」であろうとお考えかもしれませんが、キーボードにて書籍にある文章を入力しますと、その過程で、その内容の理解が以前よりも深まり、そしてまた、その記述内容が比較的記憶に残るようになります。そしてツイッターなどで流れてきたツイートに、内容的に関連があり面白そうな以前に作成したブログ記事を投稿することは、私としては、それなりに面白く、また知的な営みであると思っています。

あるいは当ブログで今後(どうにか)2000記事まで到達出来ましたら、その次は引用記事を主体として、ある程度の期間、記事作成を行ってみたいとも考えています。引用記事のみで1000記事継続して、適宜それらを連携投稿してみるのも、それなりに面白く、また何か新たな発見もあるかもしれません。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。









2022年12月6日火曜日

20221206 中央公論新社刊 福間良明著「司馬遼太郎の時代」歴史と大衆教養主義pp.120-124より抜粋

中央公論新社刊 福間良明著「司馬遼太郎の時代」歴史と大衆教養主義
pp.120-124より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121027205
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121027207

司馬は1970年の三島事件についても、驚愕と嫌悪感をもって受け止めた。

11月25日、作家の三島由紀夫は主宰する「楯、東部方面総監・益田兼利陸将を椅子に縛って監禁した。三島はバルコニーで自衛官に向けて演説を行い、日本国憲法に縛られた戦後体制を打破すべく、決起を呼びかけた。結果的に自衛官の同調は得られず、三島は庁舎内で割腹自殺を遂げた。

 三島は右傾化した言動でも知られていたが、「潮騒」「憂国」「美徳のよろめき」など文学作品の評価が高く、ノーベル文学賞候補にも挙がっていた。それだけに、三島によるクーデター未遂事件とその最期は、社会に衝撃を与えた。新聞・雑誌でも、緊急特集が続々と組まれた。

 司馬は早くも、事件当日の「毎日新聞」(1970年11月26日)に、「異常な三島事件に接して」と題した論説を寄せている。司馬はその冒頭で、「三島氏のさんたんたる死に接し、それがあまりにもなまなましいために、じつをいうと、こういう文章を書く気がおこらない」と陰鬱な心情を吐露しつつ、「ただこの死に接して精神異常者が異常を発し、かれの死の薄よごれた模倣をするのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く」と記している(「歴史の中の日本」)。

 先に触れたように、司馬は新聞記者時代に金閣寺放火事件(1950年)を取材し、修行僧の宗門への不満があったことをスクープした。その事件を題材に取った三島の「金閣寺」(1956年)は、文壇で高い評価を獲得し、読売文学賞を受賞している。また、司馬の短編「人斬り以蔵」(1964年)を参考に制作された映画「人斬り」(五社英雄監督、69年)では、三島が薩摩藩刺客・田中新兵衛を演じた。そうした奇縁も、司馬が三島事件を重く受け止めることにつながったのかもしれない。

 司馬がこの論説のなかで強調するのは、「思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである」ということだった。

 思想は思想自体として存在し、思想自体にして高度の論理的結晶化を遂げるところに思想の栄光があり、現実はなんのかかわりもなく、現実とかかわりがないというところに繰りかえして云う思想の栄光がある。(「歴史の中の日本」)

 しかし、三島は抽象的な「思想」「美」を現実の「政治」に結び付けようとした。その過程で道連れにされたのが、楯の会の青年たちだった。

 三島氏はここ数年、美という天上のものと政治という地上のものとを一つのものにする衝動を間断なくつづけていたために、その美の密室に他人を入りこまざるを得なくなった。楯の会のひとびとが、その「他人」である。

「天上のもの」を「政治という地上のもの」に結び付けることで、歯止めの利かない暴力が生み出される。その危うさを、司馬は三島事件のなかに読み込んでいた。

 司馬のこうした議論は、三島のライフコースとの相違をも反映していた。三島は1925年1月生まれであり、司馬の一学年下でしかなく、ともに戦中派世代に属している。だが、両者の歩みは大きく異なっていた。三島(本名・平岡公威)は農商務省官僚・広岡梓の長男として、東京四谷に生まれている。学習院初等科に入学し、高等科まで進んだ三島は、10代前半から小説執筆に目覚め、19歳で小説集「花ざかりの森」を刊行している。

 その後、東京帝国大学法学部に進み、戦場に駆り出されることのないまま終戦を迎え、卒業後は大蔵省に入省した。すでに「早熟の新人」として川端康成らから評価されていた三島は、一年足らずで大蔵省を退職し、文筆活動に専念する。以後、「仮面の告白」(1949年)、「潮騒」(54年)、「金閣寺」(56年)など次々と著し、早々に作家としての地位を確立した。

 こうした経歴は明らかに「一流」であり、「二流」のキャリアを歩んだ司馬に比べて、三島はそのすべての面でエリートだった。

 もっとも、エリートに対する司馬の幻滅が、三島事件の評価にどれほど投影されていたのかは定かではない。事件を評した「異常な三島事件に接して」にも、文学者・三島への敬意はあれ、三島のエリート性への言及はない。だが、司馬の三島事件への批判には、イデオロギーの過剰に対する嫌悪とともに、自らを疑うことのないエリートの威丈高さへの不快感を読み込むこともできるだろう。

2022年12月4日日曜日

20221204 先日連携投稿した二記事の関連性から思ったこと

おかげさまで先日投稿した千葉雅也による「現代思想入門」の引用記事は、比較的多くの方々に読んで頂き、また、それと連携投稿をした2016年1月の引用記事である照屋佳男著「コンラッドの小説」pp.117-119もまた随分以前の投稿記事としては伸びました。これらを読んで頂いた皆さまどうもありあとうございます。引続き私事を述べますと、こうした思想関連の書籍にて述べられている、ある主旨の類似性などの関係性を認識出来た時は、現在となってもやはり嬉しいものであり、また歴史などの過ぎ去った時代を扱う歴史学などの諸分野おいては、こうした背景の類似性などの関係を見出し、それらを比較検討して、その結果をさらに大きな次元にて検討や考察をすることにより、何と云いますか、その時代の「時代精神」といったものを見出していくことが出来るではないかと思われるのです。その意味において、歴史学などの人文系諸分野は、どれほど優れた既存のテキストがあっても、自らの手を用いて課題である個別の各々の対象を認識していかなければならない、いわば帰納的な方法が為されない限り、年数を経る毎に上からの演繹的なものとなっていき、遂には思想教育的なものになってしまうのではないかと思われます。

そして、そうしたいわば硬直化を防ぐための効果を持つのが「議論」ではないかと思われるのです。議論での論争により、その論旨が徐々に明らかなものとなり、また論点を理解するためには、当然といえば当然ですが、それまでの過程、文脈を(音声・記述問わず)言語にて記録したものが必要となります。あるいは異言しますと、現代を生きる我々が、古代の人々が述べたさまざまなことを知り、理解することが出来るのは、こうした記録があることによると云えます。

つまり、これは先日の引用記事の内容とも関連するのでしょうが、古今東西を問わず、そこで記録・遺されたもの(事物)の内容を、それぞれを認識しつつ比較検討をくわえ、さらに他の分野での知見や考え方を視座として、それら事物について考えてみますと、またそれまでとは異なった新たな見解、考えなども生じるのではないかとも思われるのです。

そしてそこで、ハナシは冒頭の二引用記事に戻り、こうした異なった意見、見解などでの議論が行われるからこそ、広く世の中にて生じている時代の推移が社会全体に感知され、そして、それを原動力として徐々に、より大きな時代の相(フェーズ)のようなものが変化していくのではないかと思われるのです・・。

その意味から現在の我々の社会はどのような状況にあると云えるのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。












2022年12月3日土曜日

20221202 株式会社講談社刊 千葉雅也著「現代思想入門」 pp.116-118より抜粋

株式会社講談社刊 千葉雅也著「現代思想入門」
pp.116-118より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065274850
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065274859

哲学とは長らく、世界に秩序を見出そうとすることでした。世界のなかに混乱を見つけて喜ぶような哲学は、あるとしても異端。そういう意味で、混乱つまり非理性を言祝ぐ挙措を哲学史において最初にはっきりと打ち出したのは、やはりニーチェだと思います。

「悲劇の誕生」(1872)という著作において、ニーチェは、秩序の側とその外部、つまりヤバいもの、カオス的なもののダブルバインドを提示したと言えます。古代ギリシャにおいて秩序を志向するのは「アポロン的なもの」であり、他方、混乱=ヤバいものは「ディオニソス的なもの」であるという二元論です。

 ギリシャには酒の神であるディオニソスを奉じる狂乱の祭があったのですが、それが抑圧され、もっと調和のとれたかたちに収められていった。アポロン的なものというのは形式あるいはカタであって、そのなかにヤバいエネルギーが押し込められ、カタと溢れ出そうとするエネルギーとが拮抗し合うような状態になる。そのような拮抗の状態がギリシャの「悲劇」という芸術だ、というわけです。

 こういう暴れ出そうとするエネルギーとそれを抑えつける秩序との闘いに劇的なものを見る、言い換えれば、善と悪、光と闇の対立があるところに、どちらかをとるのではなく、その拮抗状態にこそ真のドラマを見る、なんていうのは今日のコンテンツではよくあるもので、みんなそういうドラマ性を当り前だと思っていると思いますが、それをはっきり形式化したのはニーチェなんです。

 まずディオニソス的エネルギーが大事であって、しかしそれだけでは物事は成り立たず、アポロン的形式との拮抗において何かが成立する。僕のドゥルーズ論である「動きすぎてはいけない」という本のタイトルも、動くというのがエネルギーの流動性を表しているとするなら、そこにある抑制がかかることで何事か成り立つという意味で会って、そういう意味では、ニーチェ的なダブルバウンドが僕の仕事にも、あるいはドゥルーズにも継承されているということになります。

 ここで重要なのは、「秩序あるいは同一性はいらない、すべてが混乱状態になればいい」と言っているわけではないということです。しばしば現代思想はそういうアウトローを志向するもののように勘違いされることがありますが、そうではないのです。確かに混乱こそが生成の源なのですが、それと秩序=形式性とのパワーバランスこそが問題なのです。ですからここでも二項対立のどちらかをとるのではなく、つねにグレーゾーンが問題であるという脱構築的発想が働いているわけです。

ニーチェは古典文献学者として、24歳の若さでバーゼル大学教授に就くのですが、その後、「悲劇の誕生」によって学者たちの不興を買うことになります。ニーチェは、堅実な研究者として生きるのでは満足できなかった。「悲劇の誕生」は、本来なら丹念な歴史研究をすべきところ、大ざっぱな図式を打ち出し、かつギリシャ悲劇を当時ニーチェが入れあげていたワーグナーの音楽に結びつけ、ワーグナーの革新性を謳うもので、研究というより今日風に言えば「批評」的な著作でした。当時の文化状況に一石を投じたいという野心があったのです。こいつは学者の道を踏み外した、と思われたことでしょう。

 批評的な仕事が、大学=アカデミアの学者から、いわば「出すぎた」ものとして反発を受けるというのは今もあって、批評の世界すなわち論壇と大学にはときに対立が生じます。ニーチェはそういう対立を生んだ生きたパイオニアだと言えるでしょう。

2022年12月1日木曜日

20221201 株式会社ランダムハウス講談社刊 アリス・W・フラハティ著 吉田 利子訳 茂木 健一郎解説「書きたがる脳 言語と創造性の科学」 pp.110-112より抜粋

株式会社ランダムハウス講談社刊 アリス・W・フラハティ著 吉田 利子訳 茂木 健一郎解説「書きたがる脳 言語と創造性の科学」
pp.110-112より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4270001178
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4270001172

ライターズ・ブロックの表れ方も原因もいろいろだろうが、ライターズ・ブロックになった作家に共通する特徴が二つある。知的には問題がないのに書けないこと、それに書けなくて苦しんでいるということだ。この定義は単純だが、ライターズ・ブロックとは重要な点で異なるいくつかの状態をあぶりだしてくれる。

 ある意味ではライターズ・ブロックの対極にあるのがハイパーグラフィアだ。しかし驚いたことにこの二つの脳の状態はまったく正反対というわけではなく、相互補完的で、だから一人の作家がハイパーグラフィアとライターズ・ブロックのあいだを揺れ動くことが可能になる。それどころか、ハイパーグラフィアで同時にライターズ・ブロックだという場合さえある。小説の執筆を先延ばしにしているあいだに、ジョゼフ・コンラッドが友人に書いた熱っぽい手紙がその一例だ。

 ぼくは毎朝、敬虔な気持ちでデスクに向かう、八時間座り続けるー座っているだけだ。この八時間の労働時間中、三行の文章を書き、デスクを離れる前に絶望して消す。ときには、頭を壁に打ち付けたくなるのをあらん限りの力を振り絞って我慢する。口から泡を吹いて泣き喚きたいが、赤ん坊と妻を怯えさせると思うからそれもできない。こんな絶望的な危機に落ち込んだあとは、何時間もうとうとするが、そのあいだも書こうとして書けない物語が意識から離れない。そして目覚め、再び試み、へとへとになってベッドに入る。こうして何日も過ぎ、何も書けない、夜、眠る。朝、目覚めると、またも徒労の一日に耐えなければならないかと恐怖と無力感に苛まれる・・・。 

 ぼくは文体も感覚をすべて失った気がするが、それでも文体も必要性に憑かれている。書こうとして書けない物語は、ぼくが見るもの、話すこと、考えること、読もうとするすべての本の行にまとわりついている・・ぼくは自分の脳を感じる。頭にあるものははっきりと意識する。ぼくらの物語はそこに揺らめいているーかたちが定まらない。それをつかめない。確かにあるんだーいまにも破裂しそうなのに、だが水を握ろうとしても握れないように、どうにもそれがつかまらない・・・。

 決してゆっくりと書こうというつもりはない。文章は勝手な速さでやってくる。ぼくはそれを書きとめようと待ち構えている・・だが困るのは、一行を、一語を、待ち続けなければならないことがあまりにも多いんだ・・・最悪なのは、こうやってなす術もなくいるあいだもぼくの想像力がすさまじい勢いで活動し、すべてのパラグラフ、すべてのページ、すべての章がぼくの頭を通り過ぎていくってことだ。すべてがそこにあるんだよ。描写、会話、想念、すべてがあるのに。ただ信念だけが、ペンを原稿に置くために必要な唯一のものだけがない。ぼくは一日、膨大なことを考え、疲れ果て、気分が悪くなってベッドに入る。疲労困憊し、一行も書けずにだ。ぼくのこの努力ときたら、山のごとき傑作が生まれても不思議はないくらいなのに、ときどき馬鹿げたネズミがちょろちょろと現れるだけなんだ。 

 この長い文章ー原文はもっと長いーには、ライターズ・ブロックの苦しさがまざまざと表れている。だがこの饒舌ぶりはそれがハイパーグラフィアとごく近い関連があること、少なくとも作家によっては、ライターズ・ブロックが書きたいという圧倒的な欲望と同居している場合があることを示している。

 ライターズ・ブロックを、作家当人が望むより少なくしか(はるかに少なくしか)書けない状態と定義すれば、世間並みの執筆量であっても、当人は書きたいと思うほど書けないのでライターズ・ブロックだと強く感じる場合も考えられる。たとえばここに引用した痛ましい文章にもかかわらず、コンラッドは定期的に本を出版していた。彼らほど作品数が多くないわたしたちは、そんなものは真のライターズ・ブロックではないと不満に思うかもしれないが、このライターズ・ブロックの感覚は真のそれにきわめて近いのであり、この二つは一緒に考えるべきだろう。