2016年2月18日木曜日

Laurence Van Der Post著 「The seed and the sower」Vintage classics刊 pp.33-34より抜粋 20160218

Even when I have had to punish you, I felt you understood it was not I, Hara, who wanted it, but that it had to be, and you never hated me for it.
Please tell me now: you English I have always been told are fair and just people: whatever other faults we all think you have; we have always looked upon you as a just people.
You know I am not afraid to die.
You know that after what has happened to my country I shall be glad to die tomorrow.
Look, I have shaved the hair off my head, I have taken a bath of purification, rinsed my mouth and throat, washed my hands and drunk the last cupful of water for the long journey.
 I have emptied the world from my head, washed it off my body, and I am ready for my body to die, as I have died in my mind long since.
Truly you must know, I do not mind dying only, only, only, why must I die for the reason you give?
I don’t know what I have done wrong that other soldiers who are not to die have not done.
We have all killed one another and I know it is not good, but it is war.
I have punished you and killed your people, but I punished you no more and killed no more than I would have done if you were Japanese in my charge who had behaved in the same way.
I was kinder to you, in fact, that I would have been to my own people, believe it or not, than army rules and rulers demanded.
 If I had not been so severe and strict you would all have collapsed in your spirit and died because your way of thinking was so wrong and your disgrace so great.
If it were not for me, Hicksley-Ellis and all his men would have died on the island out of despair.
It was not my that the ships with food and medicine did not come.
I could only beat may prisoners alive and save those that had it in them to live by beating them to greater effort. And now I am being killed for it.
I do not understand where I went wrong, except in the general wrong of us all.
 If I did another wrong please tell me how and why and I shall die happy.

「The Seed and the Sower」

ASIN: B005F3GKTC

Laurence Van Der Post

20160218 求職活動時におけるカバンのハナシ

A「先日求職活動で出た際、ビジネスバッグを持っていたのですが、普段私はデイパックばかり使用しているためか、帰宅しましたら変に肩が凝っていました。
やはり、バッグなども普段使用しているものから突然変えると、何か違和感を覚えるようですね・・(苦笑)。」

B「・・はあ、求職活動での外出となりますと、背広を着ていたということになるのですか?」

A「・・ええ、そうでしたが、それが何か?」

B「うん、背広を着ている時はやはり一般的にはビジネスバッグというか、手提げカバンを用いますので、それはまあ、仕方ないのではないでしょうか?
あるいは、求職活動時の緊張によって肩が凝ったのではないですか?」

A「・・ああ、たしかにそういった要素も多少はあると思います。
しかし私のこれまでの経験から、この肩凝りの原因とは、求職活動時の対人的な緊張によるものよりも、慣れない手提げカバンを持ち、ある程度の時間歩いたことに大きく因るのではないかと思います・・。
このあたりは体感、実感的なことですので、客観的にうまく立証することは難しいのですが・・(苦笑)。」

B「まあ、それはAさんがそう仰るのでしたら、そうであると思いますが、それでも求職活動時で背広を着用している際、デイパックを背負うのは、やはり少し似つかわしくないような気がするのですが・・。」

A「・・ううむ、それはどうでしょうか?
たしかに首都圏のサラリーマンの方々などを見ておりますと、そうであるかもしれませんが、大学、特に理工系の分野では学生も教職員もデイパック率が高いように思います。
ですからそれはBさんが仰るほど特異でないとも思います。
また、さきの求職活動において私がデイパックでなく、手提げカバンを用いたことには、一種そうした首都圏の傾向を私が何となく感知したことに因るのかもしれません・・(笑)。
とはいえ、より広い視野で考えてみますと、背広にデイパックとは、そこまで特異なことではないように思われますが、どうでしょうか・・?」

B「・・たしかに理工系の先生や学生はデイパック率が高いかもしれませんね・・。
では、それはどのような理由に因るものなのでしょうか?」

A「・・これはあくまでも推測ですが、理工系の学問においては特に合理性を求める傾向が強いと思います。
そして、この傾向を携帯するカバンの種類に適用してみますと、デイパックの場合、荷物を持ちながらも両手が空いているということが合理的と認識するのではないでしょうか?」

B「はあ、そうですか・・。
しかし、ひと口で理工系といいましても工学部、理学部それに加えて農学部、医学部、薬学部、歯学部、看護学部などと様々あると思いますが、それらの中においても同様な傾向が認められるとAさんは考えるのですか?
そして、それがもしわからないのであれば、文系諸学部のそれと共にデイパック使用率を調べてみるとなかなか面白いいかもしれませんね(笑)?」

A「ああ、それはたしかに面白い試みですね(笑)。
また、それに関連して考えてみますと、降雪地帯ではさきほどの理由により、手提げカバンよりもデイパックを日常において用いる可能性が高いのではないかと思われます。
あるいはまた、こうしたことは、男女といった性差においても随分異なってくるのかもしれません。
そして、そうした学問分野のみならず、地域、世代、性差などといった要素に基づいて調査してみますと、なかなか面白く、何かが見えてくる可能性もあるかもしれません。
 
B「・・ええ、それはたしかに面白いかもしれませんね。
また、同時に海外においてはそうした事情はどうなっているのでしょうかね?」

A「なるほど、そこまで考えてみますと、それはまたそれで面白いかもしれませんね・・。
しかし、それはいいとして、こうした携帯するバッグ種類の傾向を調べて得られた結果のデータとは、一体どのような役に立つのでしょうか・・?」

B「・・そうした調査とは、何も目先の何かに対して役立つから行うというわけでなくても良いのではないでしょうか?
また、どのような学問分野においても基礎研究とは大体そういったものではないでしょうか?
昨今の社会的傾向とは、実学重視であるといいますが、一方において実学と虚学?との明瞭な境界線、マージンラインなどといったものは実際に存在するのでしょうか?
また、もしも、そうしたものが実際に存在するのであれば、それを平易な表現を用いて説明して多くの方々に納得して頂くことは可能なのでしょうか?
加えて、そうした現在の我が国における実学重視という価値観および傾向も、今後割合簡単に変わってしまうことも充分に考えられるのではないでしょうか?
そして、そうであるからこそ、実際その時代に存在した様々な傾向を資料、データとして残すということには、多くの映像資料などと比べてみても、勝るとも劣らない大きな価値があるのではないかと思います・・。
また、まさしくそこに、さきほどいいました基礎研究の価値があるのではないかと思いますが・・。」

A「・・そうですね、結果的に日の当たりやすい実学的な研究分野において大きな成果を上げられた研究者の方々の多くもまた、基礎研究の価値、重要性を説かれますね・・。」

B「ええ、ですから多分、自らの内面から湧出する知的好奇心を堰きとめたままにしておかないということが大事であるのではないかと思います・・。
また、そうした好奇心とは、当初において即物的な実利と結び付かなくとも、何かしらの形で研究、探求し続けるのが良いのではないかと思います。」

A「・・はあ、なるほど、それでしたら私が現在継続して書いている一連のブログにもそういった要素があれば良いのですが、最近はどうもよくわかりません・・(苦笑)。
ですから、今の私にできることは、とりあえず書き続け、また求職活動を続けることではないかと思います・・。」


「一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。
また、現在公募、求人等に応募しております。
現在大変困難な状況でありますので、この状況から助けていただきたく思います。
どうぞよろしくお願いします。」


2016年2月17日水曜日

北杜夫著「どくとるマンボウ航海記」新潮社刊pp.137-138より抜粋 およびスタンリー・キューブリック監督「突撃」(1957) 終幕場面 20160218 

Directed by Stanley-Kubrick
ending scene

北杜夫著「どくとるマンボウ航海記」新潮社刊pp.137-138

「翌日は出港の予定であったが、三十年来の濃霧のため河口に四十隻の船がつまってしまい、出港できぬという。結局この霧のため二日半出港がのびた。

出港がのびると酒や煙草はシールされているので不足してくるし、むろんのことベルギーの金は使いきっている。私はまだ少々ドルやマルクを持っているが、今後どういう事態が起こるかわからぬので無駄には使えない。いつ出港になるかわからぬため上陸許可が出るのは午後も遅くか夜になってからである。

私はそれでも街へ出て行って、中央駅あたりの店で二、三枚の絵はがきを買い、一ドル紙幣をくずした残りで幾刻かを過ごした。

ある午後は映画を見た。西部劇の看板のでている館にはいって行ったら、なんだか様子がおかしい。古風なフランス軍の軍服なんかきたカーク・ダグラスがしきりと呼子を吹きながら突撃している。
西部劇は次週のもので。これは第一次大戦の仏軍の物語なのである。
英語をしゃべっているのだがとてもわからず、フランス語とオランダ語らしい字幕があるがこれは目に一丁字もない。
功をあせった上官がカーク・ダグラスの将校に無理な攻撃を命じて失敗してしまうのだが、最後に三人ばかりの兵士が死刑になってしまうところがよくわからない。また捕虜みたいなドイツ娘が兵隊の前で歌など唄うがこれまた関連がわからない。どうも未だにわからない。」

「どくとるマンボウ航海記」
ISBN-10: 4101131031
ISBN-13: 978-4101131030  北杜夫
 

金関丈夫著「発掘から推理する」岩波書店刊pp.52-56より抜粋 20160217

「万葉集」の巻一に、カグ山とミミナシ山との争いを歌ったものがある。争いの原因はウネビ山を中にした恋愛の三角関係である。

しかし、山と山とが恋愛したり、喧嘩したりするということは、いったい何のことだろう。
単なる擬人法で、山の名は借りものにすぎないのだ、と片づけるとしても、まことに不可解な発想法である。この歌の意味はいまだにはっきり説明されていない。

説明の手がかりは、まず恋愛のほうにある。
一方が男で他方が女でないと恋愛は成り立たない。
現に山のうちには、山城の男山とか、日光の男体山にように、性を有するものがあり、日光の文字も二荒(ふたら)のニコウをもじった吉祥字で、もとの二荒はふたつの神山である。 その一方が男体だから、ここにはちゃんと女体山(女貌山または如宝山)がある。 紀伊や大和の妹背山、大和の二上山も北が男岳、南が女岳である。
古い記載では、「常陸国風土記」に筑波山の西峰が雄神、東峰が雌神であったり、「肥前国風土記」には、杵島の三山の一つはヒコ神、一つはヒメ神、これにはミコ神、すなわち子供まであった。ウネビ山のミホトの地名は、いつも問題になるが、ウネビが女性なら、ミホト(女陰)のあるのは当然だろう。縦に削られた山の凹みにこの名をつけて読んでいる例は朝鮮にもある。

これらの例でわかるように、山には男神と女神とがあり、山にも性があるからには、これをそれぞれ、男神女神として祀る社会があったことになる。 一つの山が男女二峰に分かれているならば、これを祀る二つの社会も全体としては二つに分かれた、一つの集団だった、と考えられよう。 国分直一教授は下関市の蓋井島で、いまも部落が男山と女山とを祀る二つの集団に分かれていることを明らかにして、日本における双分社会の存在の問題に、一つの大きな手がかりを与えた。

古い姿を想像すると、これら男女の山神は、年一、二度の両集団の合同の祭りに、それぞれ男女の姿をとって出現し、和合の神事をいとなんだものらしい。
今も日本の多くの地方で、男女神の婚交の神事をやって、年の豊穣を祈るのは、そのなごりと見られる。 

讃岐の琴平神社の十月の祭りには、上の頭司と下の頭司、すなわち二つの宮座の頭のあいだに、婚礼の盃をとりかわす式が行われて、双分社会の合同の神事が、後世の宮座のそれに影響を与えていることを暗示している。

それはそておき、それぞれに男女神を祀る二つの社会の合同の祭事は、これらの外婚性の両集団の、定時の結婚や交易-市が立つ-の機会でもあった。

さきの筑波や杵島の山々に、男女の定時の集団婚の行われた記事があるのは、この山神の祭りと無関係ではない。

しかし、和合の前には、山と山との争いの場面があった。
相聞といえば恋愛そのもののように近ごろでは考えているが、これは男女が即興的な歌のやりとりをすることで、その歌は相手をやりこめて屈服させたり、屈服されまいと争ういわば歌あらがいである。
折口信夫博士は、平安朝の女房文学の発達は、この、境界(逢坂関)における定期の歌あらがいを考えないとわからないといっている。

この争いは結局の和合を予想したものだが、しかしそれを長びかせて、できる限りのレジスタンスをすることが必要だった。 沖縄の久高島では、ついこのあいだまで「刀自覓ぎ」の風習があり、それは婚礼の席上から、花嫁は山林に逃亡する。 十日、二十日はこれをアクセレートしなければ、和合による祈念の霊力が強まらない。 結婚には、単なる個人的な人間関係でなくて、個々の場合でもこうした、集団的な、宗教的な意味があったのだ。

この行事では、男女神の和合の結果として一身に両性をそなえたミコ神が誕生する。
これが絶大な霊力をふるい、あらゆる予想的の害物を退治して、その年間の安泰と豊穣とをもたらす。これが祭りのクライマックスである。

こうした行事は、東南アジアの農耕民のあいだでは広くのこっており、ジャワでは同じく性的、外婚的双分化社会の合同祭事で生まれた男女双生神の、ひどく劇的なロマンスとなってのこり、また芳賀日出男君の報告によると、インドのベンガル地方の、バロンという神劇では、女装の英雄が悪蛇を退治して、いけにえの娘を救うという。
日本では、これはある種の神話や物語に反映してのこっている。
オロチを退治する前のスサノオノミコトは、頭に櫛をさす。これは女装を意味している。
ヤマトタケルも女装してクマソタケルを退治する。
アマテラスも神功皇后も、大事の前には男装を必要とした。五条橋の牛若や、ヒヒ退治の岩見重太郎に至るまで、みなこれである。これらの神話は、社会の害を除くのにこうした双性の霊力を必要とした思想の反映である。

この思想から、単なる女巫や男覡ではなく、一身に両性をかねた双性の神人が崇められることにもなる。
琉球では、こうした神人を尊ぶ風が今でものこり、現に女装の覡が存在している。

われわれが発掘した鹿児島県種子島広田の、弥生前期末の遺跡から、昭和三十三年に見出した一体の人骨は、その装身具を一見したところでは女性としか思われない。しかし発掘者のあいだに討論を重ねたあげく、結局男性ときまった。

男性としては非常に女らしい男だ。
ところが、おもしろいのは、この人骨が他の男性人骨にはけっして見られない、豊富な装身具を身につけていることである。
同じような装身具は、この遺跡人の風習から見て女巫を思わせる数多くの女性骨にみられるものであるが、その中でも最も豊富につけているのがこの男である。
それのみならず、その額には、他には一例も見られない特殊な装身具をつけた跡がのこっている。
それを幅広の鉢巻の正面に固定して、若いときから常用した、そのために生じた骨の変化も見られる。
装身具といっても、これらはみな呪具である。すなわち、彼は霊力もっともあらたかな人物、最も畏怖された呪師だったということになる。
南島の、今ものこる双性神人の、最も古い祖先の一人だったということになる。

「発掘から推理する」
「発掘から推理する」
ISBN-10: 4006031300
ISBN-13: 978-4006031305
金関丈夫


2016年2月16日火曜日

20160216 ブログ閲覧者数について

A「先日のブログにて閲覧者数が増加したと書かれていましたが、その後はどうなりましたか?」

B「ええ、今現在のところ凡そ300~500程度で安定しております。それでも日によって随分偏差はありますが・・。」

A「はあ、そうですか・・そうすると、以前に比べ2倍程度の閲覧者数でどうにか安定しているということですね。
それで今後の目標などは何かあるのですか?」

B「・・とりあえず現在の目標は、自身の作成記事であれ、書籍からの抜粋であれ、記事を書き続けるといったところでしょうか?
閲覧者数といった具体的な数値を目標として定めてしまいますと、どうも私の場合、あまり上手くいかないのではないかと思います・・。
といいますのは、元来私のブログとは、多くの閲覧者を集めることを企図したものではありませんし、この後に及んでそうした方向に転進(笑)するのは、良いことではないと思うのです。
しかし一方において、閲覧して頂いているということは、どこかで念頭に置いてはありますが・・。
それ故、こうした記事を作成するということには、ある種のバランス感覚のようなものが多少なりとも求められるのかもしれません。
それが私にあるかどうかは別としても・・(笑)。」

A「ううむ、まあブログなどの場合、読んでいる方々が不特定多数ですからね。
そうした中で、思想的にあまり偏らず、同時に問題となりそうな言説を避け、それでありながら何かしら主張し続けるというのは、少なくとも、そこまで簡単ではないのかもしれません・・。
とはいえ、Bさんのブログ記事を読んでいますと時折Bさんの元からの志向、思想の地金らしきものが見えたりすることもありますが・・(笑)。

B「・・私の志向の地金ですか・・たしかにそういったものはあるとは思いますが、それはAさんから見て左右どちら寄りですか(笑)?」

A「ええ、それは昔からあまり変わらず多少右寄りな感じは受けます。
しかし同時にBさんの場合、その歴史、文化的な背景に対しての実感に基づいた知識あるいは敬意みたいなものを感じますので、昨今巷で流行している右寄りの言説とはまた少し違うような感じを受けます・・。
そして、それは右寄りであると同時に左寄りとも見えることがある何とも不思議なものなのですが、どうやらそれが近代以降の日本の右寄りといわれる思想の源流における特徴であるのかもしれません・・。」

B「はあ、それはどうもありがとうございます・・。
また、これまでブログを書いてきましたが、それにより何かイヤガラセらしきものを受けたこともありませんので、特に内容的に問題のあることは書いていないのではないかと思いますが・・。
あるいは単に泳がされているのかもしれませんが・・(笑)。
いや、これは自意識過剰ですね(苦笑)。」

A「まあ今現在Bさんのブログにそこまで影響力があるとは思えませんし、またブログの内容においても特に問題があるとは思えませんので、何れにせよ大丈夫だと思います(笑)。
とはいえ、戦前の社会においては、徐々に蒸返されていった感のある「天皇機関説問題」などもありますから、まあ気をつけるのに越したことはないと思います。」

B「ああ「天皇機関説」ですか・・先日読んだ新書「丸山真男の時代」にそのことが書かれていました。
それによると当時、蓑田胸喜という方が先導的な思想家であったようですが、あのくだりを読んでいますと、どうも現在の様々な報道との類似性を考えてしまいます・・(溜息)。
つまり、我々日本人には、何か絶対的な価値観を神聖視し、それに基づいて異端分子と思われるものの排撃をはじめると、まさにそれに飽きるまで続けるような傾向があるのかもしれません・・。
また、そのやり方においては、ある程度の人気者にして泳がせておいてから、おもむろに釣上げ、苦しんでいるところをおためごかし的な意見を投げつけて楽しむといった、大変湿気の多いところもまたあるのではないでしょうか・・?
そして、このような行為とは、見方を変えれば教育にもなり、またいじめにもなるので、善悪の判断が判然としないまま、今なお曖昧模糊として存在しているのではないでしょうか?
また、このような性質とは、これまでに我が国と戦ったことのある国々においては、ある程度共通の認識となっているのではないかと思いますが・・。
それは映画でいえば「戦場のメリークリスマス」「太陽の帝国」などにおいて見受けることができるのではないでしょうか?」

A「・・まあ、たしかに我が国には、そういったところがないともいえません。
そしてまた、そういったところをことさらに「無いもの」としようとするところに、これら諸外国は益々疑念を強くするようなところがあるように思えます・・。
かつての歴史におけるそうした行為の証拠とは、何も歴史的な資料だけによるものだけでなく、英訳された戦時中を舞台とした小説、あるいは邦訳されていない同様の小説などにおいても記されており、そこから得た視座に基づき現在の我が国の様々な動向を見れば、もしかしたら、そこには何の矛盾は感じないのかもしれません・・。
そして問題なのは、先方諸外国がそうした視座を我々には明示しないものの持っている一方、我々日本人はそれに一向に気付かず、良いこと尽くめの宣伝にて観光立国として安易に外貨を得ようとしようとしていることではないかと思いますが・・。」

B「・・随分手厳しい御意見であるとは思いますが、仰ることの意味はわかります・・。
しかし、そうしたいわば全体的な傾向を改善することは大変困難ではないかと思いますが、どうでしょうか・・?」
 
一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。


Shuichi-Kato [A History of Japanese Literature] The First Thousand Years Vol.1 Kodansha international pp.91-92 20160216

The second spanning the establishment of Kyoto as capital in 794 and the discontinuation of the embassies to Tang China in 894 was a period in which imported Chinese civilization was gradually digested and submitted to a native transformation.

The results of this process had decisive significance in shaping the subsequent development Japanese culture and civilization.

Of the patterns and tendencies which emerged in the ninth century in such fields as politics, economics, society, language and aesthetics, some were preserved to the end of the Heian period, others survived to beginning or end of the Tokugawa period and some, particularly in the nature of politics and written and spoken Japanese language, are still making their presence felt today.


It is true that we can trace back the origins of the basis of the world view adopted by Japanese culture in succeeding centuries to the Nara period, but within that frame work most of the concrete manifestations of what is generally termed cultural tradition can be traced back to the ninth century only and no further.

In other words, the history of Japanese culture can be broadly divided into two-the first being the period up to the end of the Nara period, and the second from the ninth century to the present day.
The ninth century itself marks a turning point.


Looked at from a purely anthropological viewpoint, the ninth century was of no particular significance in the development of the Japanese race.

If one considers it in terms of the development from the settled agricultural society of the Yayoi period (c. 200 B.C-A.D.200) to today’s industrial society, the ninth century was not a watershed which has enormous significance.

Perhaps one of the most typical examples of the importance of the ninth century as a turning point can be seen in terms of the Japanese language.

As scholars of ancient kana-zukai (the use of the kana syllabary) such as, HashimotoShinkichi(1882-1945) have shown, the sound system of the Japanese language of the Nara period (in the Yamato region) had eight distinct vowel sounds and consonants which in some respects differ from those of today.

It was during the ninth century that the vowels were cut to the present day five and the consonants changed to approximate more closely those of today.

In other words the ninth century marks a period of substantial change and a turning point.

The ninth century also represents the period in which there was a transformation of the Japanese writing system, for it was during this time that the kana system was devised and became increasingly used in preference to the phonetically based mana system of the Nara period.

This invention of course led to the use of kana-majiri (mixed kana and Chinese characters) in the writing of literature, and although an obvious point, it is worth nothing that the writing system used in today’s newspaper fundamentally differed from that of that of the Manyoshu while the difference from that of the kokinshu, compiled in 905, is much less marked.

[A History of Japanese Literature]


  • ISBN-10: 4770029349
  • ISBN-13: 978-4770029348

  • Shuichi-kato



    2016年2月15日月曜日

    中島岳志編「橋川文三セレクション」岩波書店刊pp.51-55より抜粋20160215

    西南戦争についての一般の歴史的評価はここでくりかえさない。要するにそれは維新後における封建反動の極北を意味する大動乱であり、その終熄によって、初めて一切の封建復
    の可能性がその根を断たれたものとされている。
    このような解釈について、私は特別な異議申し立てようとは思わない。
    後述のように北一輝でさえ、それと同じ意味をこの内乱に認めている。遠山茂樹氏によれば、ここにおいて「明治維新の主体勢力であった倒幕派の政治的生命が終末し」し、明治の「絶対主義」が不動の基礎の上に打ちたてられることになるし、また井上清氏によれば、この乱における西郷の立場は、以下のように要約されることになる。
    「西郷隆盛個人は、反動ではなく、ブルジョア的改革の必要もよく承知していた。
    しかし彼は、多年生死をともにし、その力に頼って幕府を倒した士族大衆を、いまになって見すてることは絶対にできなかった。彼は叛乱が成功するとは思っていなかったであろう。しかもあえてじぶんの生命を彼をしたう士族大衆に与えたのである。
    大西郷の徳望と薩摩士族の勇猛を以ってしても、歴史の進歩にさからうものは、ほろび去るほかなかった。」
    (「日本の歴史」中)
    遠山氏のような見方が多分もっともオーソドックスな見解であり、西郷はそのまま倒幕派士族大衆の封建反動を象徴する人物と等置されることになる。

    井上氏の見解は士族大衆の封建反動という歴史的カテゴリイと、西郷個人とを切りはなしているところに微妙な含みが見られるが、その西郷個人についての見解がまだ井上氏からは述べられていないために、事情がやや曖昧である。

    率直に私の感想を述べるならば、歴史学者としての井上氏の立場からすれば、西南戦争は到底、「歴史の進歩にさからう」反動以外のものではありえず、そのシンボルとしての西郷もまた、歴史的人間として見るかぎり、たんに亡び去るにふさわしい過去の人物というほかはないはずであった。

    にもかかわらず、井上氏は、人間としての西郷に(ちょうどノーマンの嫌悪感とは逆に)、なんらかの愛着を禁じえないのではないだろうか。
    もしそうであるとすれば、私はいっそう井上氏の西郷論を聞きたいものと思う。
    それはともあれ、私の個人的な記憶をたどって見ると、西南戦争のイメージが私の中で大きく変わった契機が、やはり遠山氏の「明治維新」によってであった。
    つまり、それまでこの内乱のイメージは、錦画風の英雄挫折物語としてしか私の中にはなかったのだが、それがはじめて学問的な照明の下に浮び上がってきたという意味である。
    しかし、それだけではない。私がとくに遠山氏の著をあげたのは、実はその歴史分析の講座派的なみごとさに感心したというよりも、その西南戦争の記述の中に、私は呆然とさせるような小さなエピソードが挿まれていたからである。
    そしてそれが私の中の西南戦争のイメージときりはなせないものとなっているということがある。同書三三三頁に次のような箇所がある-
    (「此時に当り、反するも誅せらる」との窮地に追い込まれた西郷は、ついに二月、逸る部下に擁されて挙兵した。
    西郷起つの報は、自由民権派に大きなショックを与えた。熊本民権派は、ルソーの民約論を泣き読みつつ、剣を取って薩軍に投じた。)(傍点、引用者)
    この傍点部分今なお私を考えさせる。

    もちろん、西南戦争に流入したエネルギーの多様さと雑多さということを私もまた知らないわけではない。
     にもかかわらず、この内乱がルソーの名と結びつく意味をもったということは、いくらそこから非本質的な要素をとりのぞいたとしても、やはり私には刺激的なことがらであった。
    宮崎八郎の思想と経歴については、荒木精之の評伝「宮崎八郎」、この評伝を連載した「祖国」の宮崎兄弟特集号(昭和二十九年五月号)などのほか、私は知るところが少ないが、ここでは宮崎八郎その人が問題ではない。

    先にも言ったように、一般に最後の封建反動とされる西南戦争が、その参加者のあるものにおいては、ルソーの名において戦われたということをどう考えるというのが私の問題である。この事実を、事実として例外的な些事にすぎない、もしくは単純なナンセンスにすぎないとして無視するならば話はかんたんである。
    事実、当時の青年たちが、ミルにしろ、スペンサーにしろ、どんなに自己流に読んでいたかは知れたものではないと疑うとしても、そこには、幾分の理由がなくもないからである。しかし、もしそうでなかったとしたらどうなるか?
    宮崎八郎に限らず、民権派の青年で西南戦争に参加したものたちこそ、ルソーを正当に読んだとしたならどういうことになるか?
    ISBN-10: 4006002572
    ISBN-13: 978-4006002572

    『正調 田原坂』