2016年6月5日日曜日

20160605 ブログ閲覧者数の推移について・・

A「おかげさまで昨日再度ブログの閲覧者数が1000人に達しました。
そういえば、つい先日、投稿記事数が300を越えたのですが、もしかすると、そういったことが何かしら影響しているのかもしれません・・。

とはいえ、作成している記事のクオリティーなどは以前とあまり変わっていないと思いますので、一体どのようなことが作用してこうしたこと(1日の閲覧者数が1000人を越える)が生じたのか、いささか不思議に思うところでもあります・・(笑)。

まあ、記事を作成している私からすれば、それは嬉しいことではあるのですが・・。

しかし、次に閲覧者数が1000代から10000代に行くまでは相当大変であると思いますので、これはまあ「そこまで到達すればラッキーですね(笑)。」といった、どちらかというとユルい感じで今後記事を作成し続けようと考えております・・。

また、考えてみますと投稿記事数が300に到達したのもつい最近でしたので、その後あまり意識しないうちに10記事以上作成していたことになります・・(笑)。

そうしますと、次に目指すのは400記事の投稿ということになりますが、おそらくそれより前に閲覧者数が10万人に到達するのではないかと思います。

具体的には、今現在、閲覧者数が8万人以上ですので、このまま順調に行けば今後2カ月程の間に10万人に到達するのではないかという目論見です。

閲覧者数が10万人とは、随分スゴイものだと以前(丁度一年前の私)でしたら考えるところですが、現在それが現実感を持っているというのは、大した変化ではないでしょうか・・?(笑)。

とはいえ、まだこの先に気が変わることも十分にあり得ますので、まあ今後もあまり気負うことなく記事を作成、投稿し続けて行きたいと考えております・・。

これまで興味を持って一連の記事を読んでくださった皆様、今後もどうぞよろしくお願いします。

そういえば、つい先日投稿した医療職関連の記事はおかげさまで通常より閲覧者が伸び、そのことから、これは悪くない内容であったのかもしれないと不図思いましたが、それでもあまり欲を出さず、見せずに自身の興味を持った内容のみを書いてゆこうと思います・・(笑)。

また、同様に先日投稿した医療職関連の記事に関係があるのかもしれませんが、以前大学図書館にて見つけ興味を持ち、その後購入し、さらにその後、博士課程に進学する知人に進呈した中央公論社刊の日本の近代シリーズの一冊、竹内洋著の「学歴貴族の栄光と挫折」を昨土曜日に神保町の古本屋にて程度が良く安価なものを偶然見つけ、しばらく迷った挙句購入しました。
これはまた機会を見つけ、ゆっくり読んでみたいと考えております。

そういえば、今現在ゆっくり読みたい著作といえば、みすず書房より刊行されているバートランド・ラッセル著の「西洋哲学史」全三冊(出来れば原書をも含め)と英訳版の野上彌生子著の「迷路」といったところでしょうか・・。
また、さらに付け加えさせていただくならば、今後、再度そうしたことが職務にて役に立つ、生かすことのできる職に就きたいと考えております・・。
とはいえ、今後しばらくは現在の職務に励もうとは考えておりますが・・。

今回もここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして去る四月半ばの九州、熊本における大地震にて被災された地域の早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」





20160604 修士課程の重要性についての私見・・

昨日投稿したブログ記事においては思いがけなく、いくつかの思想について書いてしまいましたが、その内容には特に新しい要素はなく、まあこれまで一般的に指摘されてきたことではないかと思います。

とはいえ、何の拍子か、こういったことが脳裏に浮かんでくるというコト自体、後になって考えてみますと何だか面白いものです・・(笑)。

私はこれまでに哲学や思想史などを自身の専攻分野としたことはありませんので、こうしたことは修士院生時代に培ったのではないかと思います。
また、その時代以外においては、そうしたことにある程度深く接する機会もありませんでした。

当時は自身の専攻分野以外にもあれこれと参考になりそうなものを読み、また異分野の方々と議論する機会が多くありましたので、おそらくそうした経験により、どうにかそうした勘所らしきものを掴み、その後の読書などにおいても、そこで培った体系らしきものにその著作を関連付けて考えてゆくクセがついたのではないかと思います・・。

また、そうした考え方をする上において私のブログにて多く抜粋引用させていただいている加藤周一著の「日本文学史序説」とは、かなり有益且つ秀逸な著作ではないかと思います・・。

先日も電車の中でこの著作を読んでおりますと、また面白い箇所を見つけ、今後折を見つけ、このブログに抜粋引用してみようと考えております・・(笑)。

そして、ここまで書いてきて不図思ったことは、多くの方々はあまり指摘することがありませんが、実は修士課程とは理系、文系を問わず、かなり重要なのではないかということです・・。

この時期を経ることにより、ある程度自身の専門性、あるいは自身の向いている職業、学問分野といったものが自分でも分かるようになり、そしてその後のことについてもより具体的に考えることが出来るようになるのではないかと思います。

そうした意味において、ここ二十年来程度の傾向である看護師、歯科衛生士など医療職種の教育育成機関の学部、学科化(四年制大学化)そして更なる修士課程、博士課程の設置、大学院進学者の増加とは、工学部などにおける同様の現象(大学院進学率の増加・工学部においては既に修士課程進学は一般的)とその背景にある事情と(あるいは)類似しており、また、同様にその背景に、さきに述べた修士課程の重要性があるのではないかと考えさせられます・・。

ともあれ、幸運なことに私は双方(医療職種の教育育成機関、工学部)のそうした事情をある程度理解できる近さにいたことから、さきに述べた変遷、現象とは、少なくとも間違いではないと考えております。

また、同時に医療系職種のうち、歯科衛生士に関しては今後、更なる専門性の向上すなわち教育育成機関の拡充が望まれるのではないかと思います・・。

そういえば、我が国における歯科衛生士という資格はアメリカ合衆国由来のものであり、彼の国において歯科衛生士とは医療専門職として広く認知されており、映画「メアリーに首ったけ」という映画のメアリー(キャメロン・ディアス)の母親が歯科衛生士という設定であり、主人公のトイレ内での危機に的確に対応したのが彼女でした・・(笑)。

また、我が国においては森見登美彦氏の小説に出てくる羽貫さんといういささか変わった酒癖を持つ登場人物が歯科衛生士という設定であったと思われます・・。

我が国においては古来より医師の著述家は多く、また歯科医師のそれも若干いるようですが、今現在、自身の研究分野以外における著述にて有名な看護師、歯科衛生士とは、あまり聞くことがありません・・(私が知らないだけかもしれないが・・。)。

しかし、これもさきに述べた現象が進行、浸透するに伴い、事情も変わってくるのではないかと思われます・・。

そういえば、ある論文によると我が国の歯科衛生士とは、1990年代においてはその約7割が20歳代であり、その後の彼女等の努力および社会での認知の変化により、教育育成機関の四年制大学化、更なる専門性の獲得、研究のための大学院の設置へと進化発展をしているとのことです。

私はおそらく、元来が文系の人間ではあるのですが、こうした変遷(それはおそらく、進化発展であると思います。)とは、一面において文系の愛好する歴史の一種でもありますので、今後、この職種の更なる展開がいささか気になるところです・・(笑)。

とはいえ、私としてはこうした流れによって、看護、歯科衛生分野のみならず、どの分野においても活気があり才気煥発な女性研究者が増えたら、もう少し色々と社会が面白くなるのではないかと思いますが如何でしょうか・・(笑)?

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

また、さきの熊本での大地震により被害を受けた地域における諸インフラの復旧、そしてそこからの復興を祈念しております。」


There's Something About Mary



2016年6月4日土曜日

20160603 「慣れ」およびいくつかの思想について・・

本日も若干帰宅が遅くなりました。
また最近は電車通勤にも以前に比べ慣れてきたのではないかと思います・・。

これは自慢できるようなことではありませんが、それでも少し前までは「これからまた電車通勤などできるのであろうか・・?」と半ば本気で考えておりました(笑)。
慣れというのはスゴイものです・・。

また、慣れといえば、私にとっては現在継続し作成しているこのブログも一面において「慣れ」の産物です・・(笑)。

そういえば、昨年の今頃は300記事どころか100記事も書けるかどうかで四苦八苦しており、また、その文体も現在に比べ、何といいますか、頑なであり、同時に敢えて硬質な文体を以って書くことに対し、よくわからない美学あるいは憧れのようなものを持っていたようです・・(苦笑)。

また、硬質な文体といえば、理系の論文などがその一つの典型であると思われますが、この文体を用いて文章を書きますと簡潔明瞭ではあるのですが、その反面、文章を書く際に生じる創造性あるいは偶然の思い付きなどの芽を摘んでしまうような傾向もまたあるのではないかと思います・・。

それ故、たとえ硬質な文章を書く際においても、まずはじめに散文的な形式にて概ね主題に沿った内容の文章を(ダラダラと)書き、そして後にそれに対し重複箇所を削除、修正したり、精確を期するよう表現に改めてゆくといったような方法を用いることにより、それらしきものは書けるのではないかと思いますが、これは不真面目な意見であるかもしれません・・(笑)。

とはいえ、一方において散文的なものには散文的なものの良さといったものもまた存在すると思います・・。

その昔、ある著述家が「小説とは一つの哲学(観念の体系)を物語形式で述べたものである。」といった意味のことを述べておりましたが、私はこの意見は間違っていないと考えます。

もっとも聖書などはどちらとも(物語、哲学書)とらえることが出来、また、それと類似した形式にて書かれたニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」なども同様(どちらともとらえることができる)であるのではないかと思います。

そういえば、ゲーテがキリストのことを「当初キリストは政治的革命を試みたが後にそれは道徳的なものとなった。」といった箴言を述べておりましたが、そのことは少し前に製作されたキリストの後半生を描いた「最後の誘惑」という映画の内容にも共通しているのではないかと思います。

また「当初キリストは政治的革命を試みたが後にそれは道徳的なものとなった。」に関しては、孔子の儒教についても同様の傾向がある(あった)のではないかと思います。

とはいえ、双方の当時の覇権に対する挑戦といったある種の主体性の強さにおいては相異があるとは思いますが、これは東西文化の違いなのでしょうか・・?

さて、ハナシをもと(とはいえ、果たしてどこが「もと」なのだろうか(笑)?)に戻し、聖書と類似した形式にて記されたニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」に関しては、その後マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などといった論文、学術書に精製、昇華されたのではないかとも思えます。

あるいはホセ・オルテガ・イ・ガゼットの「大衆の反逆」においても、それは同様あるいは類似した関係が「ツァラトゥストラかく語りき」との間にあるのではないかと考えられます。

さらに、それ(ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」をはじめとする一連の思想)はバタイユの思想とも強い関連性があり、またバタイユの思想に関しては、三島由紀夫の特に後期の思想に対して強い影響を与えたのではないかといわれております・・。

また、その三島由紀夫は1960年代の我が国において「このままでは日本は日本でなくなり、その代わり無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう・・」といったことを述べておりました。
そして、必然か偶然かこれはマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の最終章において述べられている「精神のない専門人、心情のない享楽人、この無のものは・・」へとつながるのではないかと思います・・。

加えて、私がこれまでのブログにて幾度かその文章を抜粋引用させていただいた「ビルマの竪琴」にて有名な竹山道雄とは、ニーチェの著作の翻訳においても知られております。

さきの九州・熊本での大地震にて被災された地域の今後の早期の復旧そして復興を祈念しております。

ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。

2016年6月3日金曜日

20160602 現在の意識を形成する過去、経験、記憶について・・★★★

A「本日も若干帰宅が遅かったのですが、とりあえず何か書いてみようと思い、現在またブログ記事を書きはじめました・・。

昨日は一年前の丁度今頃書かれたブログ記事との比較について記しておりましたが、記事内容に関していえば、当時(一年前)の方が現在に比べ、かつて住んでいた西日本、九州でのことを身近な記憶として保持していたように思います・・。

しかしながら、これはかつての自身が記した記事について自身が思ったことでありますので、おそらく他の方がこれらを読まれた場合は若干事情が異なるのではないかとも思いますが・・(苦笑)。

また、それと同時に不図した契機に西日本、九州のことが想起されることがあります・・。

こういったものは不思議なものであるとは思いますが、一面において、現在の私とは、良くも悪くもこれら記憶の存在によって生かされている感じを多々受けます。

それ故、これら記憶が現在の私を存立せしめている大きな要素ではあるのですが、同時にそれらが、現在の私の「普通ではない」、「少しおかしい」(苦笑)部分とも強い関連性があるのではないかとも考えさせられるのです・・(苦笑)。

無論こうしたことは、それらの地域が直接、普遍的にヒトに対してそのような影響を与えるといったものではなく、あくまでも個人的なことであることを付記しておきますが・・。

そして、その私の考える「少しおかしい」部分とは、具体的には何かしら感情的な面での「過剰性」ではないだろうかと思います・・(苦笑)。

また、さらにいいますと、この「過剰性」らしきものが、さきのブログ記事にて記した「モヤモヤとた苦しさ」そして「(どうにか)現在までにブログ記事を書き続けている」双方に共通する要因ではないかと思われます・・。

しかしながら、この「過剰性」に関し言い訳じみたことを書かせていただきますと、この「過剰性」とは、何も私のみに認められる「特に異常」なものではなく、彼の地(西日本、九州)在住時の私の周囲にも私以上にそうした傾向を有している方々が少なからずいらっしゃったのではないかと思いますが如何でしょうか・・(笑)?

とはいえ、こうした「過剰性」が文章を書き続けるための必須の要素というわけではないとも思われますが・・。

その一方において、かつて文章がよく湧いて、またそれを容易に著すことが出来ていた時期(現在に比べ)においては、さきほどの「過剰性」とは異なった層にある『何か』が作用していたのではないかと思います・・。

とはいうものの、同時に、このことは漠然としていて、今現在においては明瞭に表現、言語化出来ないことが多少歯がゆいのではありますが・・(苦笑)。

さきの九州、熊本における大地震にて被災された地域における早急な復旧そして復興を祈念します。
また、ここまで興味を持って読んでいただき、どうもありがとうございます。」



2016年6月1日水曜日

20160601 「腑に落ちる」「納得する」について・・

おかげさまで本日、ブログの閲覧者数が80000人に到達しました。

丁度昨年の6月にブログをはじめましたので1年弱の期間でこの閲覧者数となりました。

これは特に早いというわけではないようですが、それでも一つの区切りにはなるのではないかと思います・・。

また現在、昨年の今頃に作成した記事を読んでみますと、何といいますか当時は(も)自分なりに苦労して記事を作成したことが思い起こされます・・。

おそらく当時の私は一つの記事に対し、より多くの情報を詰め込もうとしていたのではないかと思います・・。

そのため現在記しているそれに比べ、内容は多少濃いのではないかと思いますが、同時にどうも硬質な文体に固執し、そのことから表出の仕方に何かしら限界を感じていたようにも思えます・・。

一方、表出する内容に関しては色々な考えが断片的に浮かんでくるといった状況であり、それはそれでモヤモヤとして苦しいものでした・・。

こうしたことを現在想起しますと、あの当時味わっていたよくわからない苦しさは、比較的リアルに思い起こすことが出来、そして、そういった時は何故だかいつも眉間に皺が入ります・・(苦笑)。

いや、もしかするとそのモヤモヤとした苦しさとは今現在もなお続いているものであり、ただ、そういったことを拙劣ながらも言語にて表現、表出できるようになったことによって、どうにかそのモヤモヤと付き合ってゆくことが出来ているだけであるのかもしれません・・。

また、そのように書いてみますと、何だかそうであるような感じがしてきました・・(笑)。

こうしたことを書いた本人が記すのもおかしなハナシではありますが、これもまたなかなか面白い現象です。

また、同時にこのことを書いておもむろに想起したのは河合隼雄が心理学についてどこかで述べていた「心理学とは客観的な分析に用いる手段ではなく、何がしかの心的現象をその本人が腑に落ちるように、心から納得出来るように用いるものである。」といった内容です。

また、そのように考えてみますと本来、心理学を含めた学問全般とは、自身の持つ(本当の)性質に合った形にて世の中を理解(腑に落ちる、納得する)してゆくための枠組み、方法のようなものであるのかもしれません・・。

ただ、その中の幾つかかが、ある種の職業に就く上においてより専門性を高めていったというのが、その原点からの流れではないでしょうか?

そして、このようなことを考えていると、次に想起するのは丸山真男著の「日本の思想」にて我が国社会の特徴として述べられているタコツボ文化です・・。

おそらくこれを読まれている方々の多くは、おそらく私より多読、博識であると思い申し述べますと、ここに述べたことは、学問分野を横断しているものの、あながち的外れな類推ではないと思いましたが如何でしょうか・・(笑)?

とはいえ、ハナシの起点となったことが極めて個人的なこと(モヤモヤとした苦しさ)でありますのでハナシ全体として考えてみると多少事情は違うのかもしれません・・。

また、同時に、ここまで書いてみて思うことは「こうした考え方、発想法とは帰納法的、あるいは文系的なものではないか?」ということです。

おそらくこれに関しては形式的なことになりますので、多くの方が納得していただけるのではないかと思いますが如何でしょうか(笑)?

そして、そのように考えてみますと、断言はできませんが、昨年の今頃に味わっていたモヤモヤした苦しさとは、自身の比較的得意とする帰納法的、文系的な論述、口述をある程度封じざるを得ない状況が続いたことによって生じたものであるのかもしれません・・。

とはいえ、そうはいいましても、私の中には大前提からはじまる演繹法的なものを好む傾向もまた存在すると考えておりますので、簡単にいいますと、自身内部における双方のバランス、調和あるいは双方による相互作用のようなものが何かを創造なり表出する際において重要であるのではないかと思いますが、実際のところはどうなのでしょうか、あるいはどのようにすれば、そうした考えを心から納得し、腑に落ちることが出来るようになるのでしょうか(笑)?

ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。
おかげさまで閲覧していただいた方が80000人に到達しました。

また、去る4月半ばの熊本における大地震にて被災された地域の早期の復旧、今後の復興を祈念しております。」









20160531 文章作成のルーチン化について・・

本日は通常に比べ若干帰宅が遅く、ほぼ日課としているブログ記事の作成を大変面倒に思い「今日は記事を投稿するのを止めようか・・。」と思いましたが、それでもとりあえず何かしら書いてみようと思い立ち、現在こうして記事を作成している次第です・・。

また、丁度今から一年程前は自身の文章を書くことが大変に困難な状況であり、自分なりに苦心惨憺しておりました・・。

こうしたことは今になって考えてみますと、何故であるかよくわかりませんが、やはり、そこには何かしらの原因があり苦しんでいたのではないかと思います・・。

そして今後もまた、そうしたスランプのようなことが起きかねないと考えております・・。

しかし、昨年の私は、そのような状況においても、書籍からの抜粋引用であれ、何かを書き続けたことにより現在どうにかブログ記事の作成が出来ているのではないかと考えております・・。

また、ブログ記事作成をはじめた当初は一日の閲覧者数が十人にも満たず、一人で勝手に落ち込み、そしてそこから開き直り、あまり閲覧者数を求めない気持ちで記事の作成、投稿を続けていたところ不思議なことに、ある程度の記事数を(多分20記事くらいであろうか・・)投稿した時期から徐々に閲覧者数が増加してゆくようになりました・・。

ここにも一体どのような理由、原因があるのか今現在を以ってよくわかりませんが、それでも何かしら書き続けていると、自然と閲覧者数は増加してゆくのではないかと思います。

こうしたことは私の場合においてもそうであったので、今後、こうした形(ブログ等)で何かしら書いてみようと考えている方々は一度試してみるのも悪くないと考えますが、如何でしょうか・・?

またブログ記事を作成、投稿していて面白いことは、それが誰によるものであるかよくわかりませんが、何かしら面白い面白い反応を見つけることが出来るということです・・。

こうしたことを人に話しますと大抵「それはAさんの気のせいではないか?」といった反応となって返ってきますが、私としてはコトはそう簡単なものではなく、大抵の場合、そうした反応から何かしらの「意図」を感じさせるのです・・。

こうしたことは少なくとも私にとっては一種の遊びでもあり、また同時にそれが後に作成するブログ記事に対しても影響をもたらしているのです。

現在人工知能の開発が進んでいるとのことですが、現状においてその人工知能が、さきに記したような意図(のようなもの)を持ち、面白い反応が出来るかということは、なかなか面白い疑問であると思います。

ともあれ、私としては、こうした一連の反応とは全て生身の人間によるものであると望み、また、そのように考えておりますが、実際のところはどうなのでしょうか・・?

しかしその反面、これまでに作成したブログ記事に対しある特定の個人による反応であると分かっていたならば、ここまで記事作成を継続できたかどうかもかなり疑問に思います・・(苦笑)。

そしてまた、ここまで書いてきて不図思い出したのは、反応ではなく、記述の方になりますが、芥川龍之介著の「河童」における河童の世界での新聞記事の作成方法、そしてジョージ・オーウェル著の「1984」における同様の記事作成方法です・・。

もし、人工知能とはいえ、機械的なものが文章を著し、それが生身の人間の精神、心に対し影響を持つことになれば、それはそれで由々しき事態ではないかと思います・・(苦笑)。

何故ならば、これまでに多少の無理をしてまでブログ記事を作成してきたことの「意味あい」(もし意味があるとすれば)が多少なりとも減じてしまうのではないかという危惧を感じるからです・・(笑)。

また、今後近い将来、文章の作成といった分野が、そうした人工知能による作業として浸透してきますと、おそらくブログなどは衰退してゆくのかもしれません・・(笑)。

とはいえ、対象となる人間による作業の種類は異なりますが、こうしたいわゆる技術の進化発展が我々の日常感覚を変化させてきたことは事実であると思いますので、もしかすると、こうした技術の進化発展とは、その反面において我々人間(精神、身体感覚)から何かを奪い続けてきたとも、いえるのかもしれません・・。

こうした意見とは、かねてよりかなり言い古され、陳腐なものではあるとは思いますが、同時にもう少し深く考えてみる価値があるものではなかとも思われますが如何でしょうか?

とはいうものの、よくよく考えてみますと、私がこれまでにブログ記事を継続的に作成して得たことは、表現の仕方にもよりますが、一面において、ある程度ルーチン化し、機械的に文章を記す技術ではなかったのだろうか?といった疑念もまた生じてきます・・(苦笑)。

そして、では生身の人間による機械的な作業を通じ生じるものと、機械により作成されるそうしたものとの間にある相違点とは如何なるものかと考えますと、それは、また陳腐なものとなってしまいますが「精神」や「記憶」ではないかと思います・・。

それ故、「歴史」や「神話」などといったものが重要となってくるのではないでしょうか?


ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうござます。

また、熊本の大地震にて被災された地域における早急な諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念します。」




2016年5月30日月曜日

20160530 いくばくかの自信らしきもの・・マトリックス

夜半に帰宅し、ブログの閲覧者数を見ておりますと、直近に投稿した記事に対し、類似あるいは強い関連性を持つ記事を様々な手段により提示してきているのではないかと考えさせられることが多々あります(私はおかしいのだろうか?)・・。

こうしたことは概ね私が考えるよりも上等のものであり、何となく遊ばれているような感じを受けることがあります・・(苦笑)。

また、これまで私はある程度の期間(明らかに)自身よりも優秀な方々に(多く)接してきたと思います・・。

そうした状況にて、かろうじて私が自信を維持できた主な理由とは、おそらく歴史、人文社会科学的な知識全般における、いくばくかの自信ではなかろうかと思います・・。

そして、それがなければ私はどこかで自信をなくし、挫折していたでしょう・・(苦笑)。

さらに、それは新たに研究を始めた学問分野における理解のための有用な道具あるいはマトリックスともなりました。

その意味において他の方がどう考えようとも、私は根っからの人文社会科学、文系の人間であると思っております・・(笑)。

また、私がそうなった主な理由、原因とは、様々な段階における周囲の環境に因るものが大きかったと考えております・・。

そして、こうしたものは、そのかなり大きな部分が「運」というものに依存しているのではないかとも最近思います。
また、一方において「これは必然であった。」と考える私もおりますので、この点においては未だに自身の中で確たる結論は出ていないようです・・(苦笑)。

それに加え、私にとって大変勉強になったのは、以前も当ブログに記した指導教授、教員といった方々によるものばかりでなく、私よりはるかに年下であり且つ私よりはるかに優秀な方々(男女問わず)によるものも少なからずあるのではないかとも思います・・。

一般的に特に我が国の男性の多くとは、自身よりも優秀な年下の方々(特に異性)に対して、どうにかして、それこそ卑怯な手段を用いても自身が優位に立たなければ気が済まないような傾向を有する方々が少なからずいらっしゃるのではないかと思いますが如何でしょうか?
(具体例としてSTAP細胞事件)
果たしてそれは自然なことなのでしょうか?

しかし、私はそのようには考えません・・むしろ、それは本当に醜いことではないかと考えます。

とはいえ、彼等、彼女等に対し、ただ理解を示すようなゼスチャーをとることもまた、同様に害悪であるとは考えますが・・。

実際に自身が感に堪えない、その才能を強く感じた時などは、それが若年・異性を問わず『正直な対応』をすることが良いのではないかと思います・・。

そして、そうであっても、そうしたことが続いたとしても、自身の内部に確たる自信を有する何かしらの分野があれば、それで良いのではないでしょうか?

私の場合、それはさきに述べたように歴史、人文社会科学的な知識あるいは見識ではないかと思います・・(笑)。

これもまた、様々な理系学問分野におけるそれと同様、なかなかその修練には時間、能動性を要するものであると思いますから・・。

しかし、私が危惧し反感を持つことは、こうしたものが簡単に自己のものとすることが出来るといった昨今流行の「心得違いな」考えであり、また、それを助長しているような現今我が国の社会です・・。

こうした現象とはニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」
マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
あるいはホセ・オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」を否応なく想起させ暗澹たる気分にさせてくれます・・。

とはいえ、先月の熊本での大地震によって被災された地域の諸生活インフラの早急な復旧そしてそれに続く力強い復興を祈念いたします。

また、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。」