2017年8月5日土曜日

20170804 昨日との関連:部分と全体:歴史と思想、文系学問全般さらには理系学問も?

A『本日の首都圏もまた気温が上がらずに比較的過ごし易い一日でした。

また、本日は比較的遠くへ出かけたためか、今現在多少疲れています・・。

実際、こうした日とは恒例となっているブログ記事作成を多少面倒に感じるわけですが、書き始めた以上、ある程度書き、本日分の記事作成を行わなければならないと思うのですが、なかなかその記事作成は思うようには捗ってはくれません・・(苦笑)。

さて、昨日分の投稿記事『全体の文脈から考える【書籍からの抜粋引用および歴史について】』もまた投稿翌日にしては多くの方々(36)に読んで頂けました。

くわえて、本日は日中のブログをチェックしない時間帯に比較的多くの方々(120程度)に記事を読んで頂き、冒頭に書いた疲れている日に、こうした現象が生じることは『皮肉ではあるまいか?』と思う一方、新たな記事作成の意欲も湧いてきます・・(笑)。

そうした次第で、本日分の作成記事に関しては、昨日分投稿記事と関連することを書いてみようと思います。

これまでにブログ記事作成にて行った書籍からの抜粋引用と引用元書籍全体内容との関連について考えてみますと、概ね『そこまでは的外れではない』と考える一方で『果たして(本当に)それで良いのか・・?』とも考えることがあります。

そしてそれは部分と全体の関連全般についてもいえることであり、自身の身近なところで考えてみますと、歴史についてがまさしくそれに該当するのではないかと思われます。

また自身は、これまでにそうしたことを(ほぼ無意識ながら)疑問に持ち、考えつつ(ある程度)歴史に関する書籍を読んできたのではないかと思われます。

それはつまり『この時代・地域の歴史に関しては(読書にて)何となく分かったが、他の時代・地域との関連とはどうなっているのであろうか・・?』といった興味・疑問であり、これが積み重なってきますと、それら一つ一つが鎖の輪のようなものとなり、全体としての鎖のようなものを認識出来るようになり、さらに今度は他の鎖(全体像)との関連に思いが及ぶようになるのです・・。

以上の経緯にて、全体としての鎖(歴史の流れ)にまで考えが及びますと、その内容とは、包括的な内容を扱うものの多くがそうであるように、ある程度抽象的なものとなり、歴史というよりも思想・哲学といったものに近づいていくのではないかと思われます・・。

当初、私はこの思想・哲学といったものが全く分からず、また人に聞いてみても、自身の理解力のなさ故にか要領を得ることが出来ませんでした・・(苦笑)。

しかし、さきに書いたように、ある程度歴史に関しての知識・知見を得るようになりますと、ごく自然な流れとして、歴史を題材とした思想・哲学に関しての著作を読むことが出来るようになっていきました(20代前半頃であったと思う)。

また、多くの思想・哲学とは、その知識背景の多くを歴史的なものに負っているのではないかと考えます。

その意味においては、おそらく経済学・社会学・政治学・民俗学など全てもまた、そうではないかと思われます・・。

端的に、それらは『我々人間の蓄積された営み【歴史】に対するアプローチの仕方の相違』といったものに還元し得るのではないかと考えます。

そして、ここからは、さすがに極端な意見ではあるかもしれませんが、自身の場合、その後専攻した歯科理工学においても概ねそのようなアプローチにて臨みましたが、これは同時に【まさしく】目に見えて現在進行形の歴史【加工製作技術の進化発展】そのものであり、そこにさまざまな実験を以って参入することが面白く且つ、遣り甲斐のあることと感じていたのではないかと思われます・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。』












2017年8月3日木曜日

20170803 全体の文脈から考える

本日の首都圏もまた昨日、一昨日と同様にあまり気温が上がらず過ごし易いといえば過ごし易いのですが、同時に『八月初旬でこの程度の気温で大丈夫であるのか?』とも考えてしまいます・・(笑)。

さて、昨日投稿分記事も投稿翌日にしては多く方々(27)に読んで頂けました。

そして本日の作成記事は、電車での移動の際にノートに書き留めた着想に基づき書き進めていきます。

これまでに自身が投稿したブログ記事のなかで、書籍・文献からの抜粋引用が占める割合は低くはないと云えます。

また、これはブログ記事作成を始めた当初の時期においては、より高い割合を占めていたと云えます。

そうした当時の状況にて時折(私のブログ記事作成を知る)知人と話しておりますと以下のようなご意見を頂くことがしばしばありました。

『たしかに書籍内の面白い記述をブログ記事として抜粋引用するのは面白い試みであると思いますよ、しかし、その記述が書籍全体の中で、どういった意味合い、どの程度の重みを持つものであるのかが、記事を読んでいる方々には往々にして伝わらないと思いますので、そのことは今後もう少し考えてみても良いのではないかと思いますが・・。』

このご意見とは、至極真っ当なものであり、また現在自身も時折、そうしたことを考えることがあります。

つまり書籍全体の文章の流れ、文脈のなかで、果たしてその(抜粋引用)『部分』が如何なる意味を持つのであるかとは、それが当初から恣意的な操作であることから、より注意して行う必要があるのだといえます。

また、当然といえば当然ですが、これまでに抜粋引用に用いた書籍とは、その殆どが(以前に)通読したものであり、またその選択とは、ある程度(自分なりに)注意して行っているとは考えますので、おそらくその大半においては、抜粋引用部をブログ記事にて読んだ方々が、抜粋引用元書籍の大意、全体の文脈を(大きく)誤解されることは少ないのではないかと考えます・・。

とはいえ、それも結局のところ自身の恣意的な操作に基づく希望的観測であるといえますので、最終的には何ともいえないところではあるのですが・・(苦笑)。

また、多少ハナシは変わって、こうした認識の仕方とは歴史全体においても同様のことがいえ、たとえある時代・地域の歴史が分かったという自覚を得たとしても、それが歴史全体については必ずしも応用可能ではないということです。

そして、そうしたことから竹山道雄著『昭和の精神史』に述べられている『全体を包括する大前提のような教義・ドグマを以って個々を認識していくと、必ず間違った認識の方向に行く』という意見の意味合いが認識され得るのだと思われます・・。

しかしながら、おそらく我が国においては少なからず、こうした(一見)便利とも云える『全体を包括する大前提のような教義・ドグマ』を(半ば無意識的に)有難がる、大事にするような傾向があるのではないかと思われます・・。

それはおそらく、本質的あるいは深層において、ある事態・事物に対して能動的に考えることが面倒である場合における態度・対応であり、あるいはまた、そうした心的傾向が少なからず我が国の早急な近代化あるいは戦後の急速な復興を推し進める力であったのではないかとも思われます・・。

しかし、そうしたことは御周知のとおり、何も新しい意見ではなく、夏目漱石の講演に基づいた著作『現代日本の開化』にて明治の時代に既に述べられていることなのです・・。

そして、そうしたことを踏まえ、現在の我が国にて生じているさまざまな出来事を見聞きしておりますと、かなり悔しいことに、つじつまが合ってしまうことが多いのです・・。

これが自身の浅学非才より生じる(無意識ながらの)全体を包括する大前提のような教義・ドグマへの妄信に基づく間違った考えであれば本当に良いのですが・・(苦笑)。

とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。』









20170802 昨日・一昨日投稿の記事と関連して【共感力に関してか・・?】

A「本日首都圏では午前中に何度か小雨が降り、また日中を通して曇り気味の天気であったことからか気温はこの時期にしてはあまり上昇しませんでした。

また昨日も気温に関してはこのような感じであったと思いますので、ここ数日の気温とは例年に比べ若干低いのではないかと思われます。

さて、昨日投稿分の記事は投稿後の改題によってか投稿翌日のわりには多くの閲覧者数(33)を得ることができました。
また、そこで書かれていることと関連してか、一昨日分投稿記事の閲覧者数(43)もまた同様に増加しました。

そうした状況を鑑みますと、ブログ記事を含めた文章一般、またそれに加え、話す言語においても、用いる言語の選択が重要であるということに少なからず興味を抱かれている方々も少なからずいるのかもしれないと考えさせられます。

さて、以前投稿したブログ記事においても書いた記憶がありますが『ある程度対話をしていると、その人のさまざまな背景が分かってくる』といったことがありますが、おそらく、こうしたことは言語の運用が大きな要素となる文系学問分野において特にその傾向が顕著ではないかと思われます。

しかしながら自身は以前、このことに対し懐疑的、否定的な見解を持っていましたが、どうした事情、理由によるものか、いつのまにか自身もまた、この意見を分かるようになり、そしてこれを肯定するようになっていました。

具体的には時折観るテレビ内での会話、広告に書かれているコトバ、あるいは街中で聞こえてくる会話などから、何といいますか、その軽薄さらしきものがどうも鼻についてしまうというような、どちらかというと否定的なニュアンスから、この意見を分かるようになり、また肯定できるようになったとも云い得ます・・。

あるいはこうしたことは年齢とも多少関連があるのかもしれません(苦笑)。

そして、そうしたことを自身において慎むためにも、半ば無意識的ながら言葉数が少なくなっていくのかもしれません・・(苦笑)。

しかし、それはどちらかというと消極的な逃げの姿勢であり、本来であれば、用いる言語を精確にし且つ多作多弁であるというのが理想的であるのかもしれませんが(笑)。

その意味において、現在継続しているこのブログ記事の作成とは多少は効果的であるのかもしれないと自己弁護・肯定的な考えもまた脳裏に浮かんできます(笑)。

ともあれ、それでも不思議に思うことは、さきに書いた『ある程度対話をしていると、その人のさまざまな背景が分かってくる』という現象であり、そこで得られた感覚に関しては時折は反省することもありますが、大体はそれを信じることが多いように思います。

つまり、そこで得られたものは直感的なことであると云えるのですが、こうした感覚を得るに至る経緯とは、おそらく各個人により、その過程が異なると云えるものの、何故そうしたことを前提としてさまざまな議論が出来、そしてまた、場合によっては、ある程度普遍的な見解の共有にまで至ることが出来るのかとは、考えてみますと、なかなか不思議且つ面白いことであるのかもしれません。

そしてまた、こうしたことは読書などの際にも生じることから、あるいは時代をも超える現象であるのかもしれません・・。

さて、本日に関しては一度休んでからの記事作成ということもあってか、また観念的な内容となってしまいました・・(苦笑)。

ともあれ、今回もまたここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害などの大規模自然災害により被災された地域の諸インフラの復旧、そしてその後の早期の復興を祈念しています。』










2017年8月1日火曜日

20170801 『神ってる・神憑っている』の違いから思ったこと、どちらが適当であるのか?

A「本日の首都圏は午前中は雨が降ったり止んだりを繰り返し、午後を過ぎる頃になるとか、なり本格的に雨が降りはじめたように思います・・。

そして、今現在においてはその雨もあがり、また気温はこの季節のこの時間帯にしては涼しいように思われます。

さて、昨日投稿分の記事はいくつかの音声動画と関連付けたためか、その閲覧者数は増加し今現在の時点にて28となっています。

この昨日分の投稿記事を読んでおりますと、この『いみじくすぐれたるもの』というコトバが幾分不自然ともいえる感じにて用いられておりますが、このコトバとは、たしか本居宣長著『古事記伝』にて神・迦微・カミの意味について書かれているところのものであり、端的に我が国におけるカミとは、欧米・西アジアにおけるような超越的な唯一神といったものではなく、さきの『何かしらすぐれたもの』(いみじくすぐれたるもの)全てがカミと見做されていたような社会であり、それこそ山・海・川あるいは岩・木などにも存在するものであるとされていました・・(自然崇拝・アニミズム)。

そして、その名残とは、現在においてもさまざまな神社の御祭神・ご由緒などを調べてみると分かるのではないかと思います。

また同時に、このように、我が国とは、かねてより神の数が多いことから、現在においてもカリスマと称される方々が量産され続け、また『神ってる』などというコトバが普通に使われるようになるのかもしれません・・(笑)。

そういえば、この『神ってる』というコトバを既存のコトバに直しますと『神憑っている』と概ね同じ意味になると思われるのですが、このコトバ(『神ってる』)とは、今後どの程度まで社会に定着し一般的に使われるようになるのでしょうか・・?

くわえて、この『神憑っている』というコトバからカミが(憑代に)憑依することにより、それが一般的な人間をはじめ事物とは異なった次元(カミに近いあるいはカミそのもの)の存在になるといった考えを物語っているのではないかとも思われます。
その点において、さきの『神ってる』とは、語義的にそうした『憑依』の観念が見出せないことから、微妙に『神憑っている』とは、示す内容・事情が異なるのかもしれません。

また、こうした言語の運用から、我が国全般において『カミが憑代に憑依する』といった古来からの観念を忘れつつあることを示しているのではないかとも思われます。

そうした場合、あるいは昨日投稿分の記事に書いたような『(継続的な文章の作成のためには)日常に用いる言語とは、口語・文語を問わず慎重を期して精確に選ばなければならない』に対して、あるいは多少の意味を付与することが出来るのではないかとも考えられます・・。

しかしその一方において、昨今これまた以前投稿のブログ記事に書いたようにアニメ、映画あるいはCMなどにおいて(安易に)過去の歴史へのタイムリープ・タイムスリップといった背景が盛り込まれることは、どうしても『道具が進化すれば(自動的に)精神も(自動的に)進化する』といったような、我が国の近代社会を特徴付けるような、あるいは具定例を挙げるならば夏目漱石著『三四郎』冒頭の広田先生との汽車内での会話のような経緯そしてそれに付随する解釈を想起してしまうのです・・(苦笑)。

とはいうものの、他方において、畢竟それもニーチェ著『ツァラトゥストラかく語りき』内の『永遠回帰』の思想、もしくはカミュ著『シューシュポスの神話』に記されている思想、あるいは和辻哲郎著『風土ー人間的考察』内のモンスーン地域における特徴的な精神風土の所産であると断じることも可能であるのかもしれませんが、しかしながら、如何なる論法によっても、そのようにして事態を認識・整理仕切ったと『思いたがる』ところこそが、見方によっては断捨離に象徴されるような『キレイ好き』といった性質に基づくものではあるのかもしれませんが、同時にそれが我が国の(普遍的な)弱点であるようにも考えられます・・(苦笑)。

とあもれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被害を受けた各地域の諸インフラの復旧・回復およびその後の出来るだけ早期の復興を祈念しています。』






20170731 ブログ記事を含む文章の継続的な作成に必要なものとは・・

A「昨今、仕事にてよく歯科医院に行くことがあるのですが、そうした中の不図した会話にて『・・この先生は私のブログを読んでいるのではあるまいか?』と思うことが時折あります・・。

おそらく、それらの大半あるいは全てが私の自意識過剰によるものであると思われるのですが、それでも時折は際立って『・・やはり読んで頂いているのではなかろうか?』と強く感じさせることがあるのです・・(苦笑)。

こうしたことは、あまり考え過ぎますと(自縄自縛的であり)精神衛生上良くないと思われますので、ここに書くだけ書いて、その後はあまり考えないようにしようと思いますが、あるいはこうした考え過ぎもまたブログ記事作成を継続することによって生じる(あまりありがたくない)余禄であるのかもしれません(笑)。

とはいえ、そうしたことは決してマイナス面(変に考え過ぎる)ばかりでもないようであり、他面においては、以前に読んだ著作を新たに読む際、かつてよりもその書かれている内容を(より)考えながら、あるいは以前と異なった読み方が出来るようになるのではないかとも思われるのです。

いやしかし、こうした感覚とは、ここに特筆するまでのことでもなく、多くの方々が日常において感じていることではないかと思われるのですが、それは対書籍であるならば、そうした機に応じ、多面的に興味深く読むことが出来る著作であることを発見・認識するに至るといったことになるのでしょうが、これが冒頭に書いたように対人間である場合は、必ずしもそうとは云えず、むしろ変に意識してしまい円滑なコミュニケーションを阻害することも少なからずあるのではないかとも思われます・・(苦笑)。

そして、こうしたことは、あるいは女性よりも多く男性に多く見受けられるのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

(年齢を重ねる毎に徐々に無口になっていく方とは、あるいはこうしたメカニズムが作用しているのかもしれません。
そして、それは一種の成熟と評しても良いのかもしれない。)

また、その意味において、やはり日常に用いる言語とは、口語・文語を問わず慎重を期して精確に選ばなければならないのではないかと思われるのです。

私見ではありますが、このことは、ブログ記事をも含む継続的な文章の作成を行う際に、最重視するべきことではないかと考えます。

現時点では上手く伝えることが出来ませんが、おそらくこのこと、こうした感覚が口語・文語を問わず相手に対し微妙に伝わってしまうのではないかと思われるのです・・。

さらにまた、これまた私見ではありますが、こうした感覚を認識することは、主体的な努力というよりも、おそらく自身が発見した何と云いますか『いみじくすぐれたるもの』に対する献身を通してしか認識、そしてそれに近づくことは出来ないのではないかと思われるのです。

さて、本日も一旦休んでから記事を作成したためか観念的な内容になってしまいましたが、これもあとになって読んでみて多少は思うところがあるのかもしれません・・(笑)。

そして、今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害の大規模自然災害により被災された地域の諸インフラの復旧およびその後の早期の復興を祈念しています。』





2017年7月30日日曜日

20170730 7月で最も多く読まれた記事から思ったこと【書籍からの抜粋引用あり】谷川健一著「魔の系譜」より

7月も終わりに近づき、おそらく今月中に書かれた記事の閲覧者数も大きく変動することはないと思われることから、今月内で最も多く読まれた記事を取り上げます。

それは7月13日投稿分の「結社の地域性 自由民権運動および玄洋社から思ったこと」でありその閲覧者数(95)は次点の7月3日投稿分の「昨今の都議選から思ったこと・・『抑圧移譲』」閲覧者数(62)の1.5倍程度を示していました。

しかし、相変わらずのことながら、この7月13日投稿記事の閲覧者数が際立って伸びた理由とはよく分かっておりません・・(苦笑)。

また、この記事を投稿したことによって特に変な出来事が生じることもないことから、まあ、そこまできわどい、キケンな考えは書かれていないのではないかと思われます・・。

くわえて、その書かれている内容とは、思ったところを率直に述べつつも、かつてお世話になった九州に対して礼を失するといったものではないとも思われますので、あるいは、こうしたことが多くの閲覧者数に結び付いた要因であったのかもしれません・・(ちなみに昨日の投稿記事『地域特性≒在地土着女性の性質・・?【巫女】』もまた投稿翌日にしては比較的多くの方々(27)に読んで頂けました。)

何れにしましても、これらを興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

さて、ここまで書いていて、不図思い起こされた書籍の記述がありましたので、以下に抜粋引用します。

講談社刊 谷川健一著 『魔の系譜』pp.185-186より抜粋引用ISBN-10: 4061586610
ISBN-13: 978-4061586611

『わたしがここでいいたいことは、ただ一つである。
それは地方には地方を主体とした信仰と伝承の歴史とがあって、それは郷土史家や郷党のせまい視野や独善をはなれてみるとき、いわば地霊の叫びとして私たちに訴えてくるということである。
それは今にはじまったものではない。たとえば九州には磐井の反乱があった。
磐井という大豪族は蝦夷がそうであったように、九州中北部の民衆の代表者であったのだろう。
もとより支配者としての性格はもっていたが、それにとどまらなかった。
原田大六氏が述べているように、官軍が磐井の墓にある石人石馬をさんざんうちこわしたそのたたりとして、「古老伝えていう『上妻(かみつやめ)(上八女)の県に多く篤き疾(やまい)あるは、けだしこれによるか』」という『筑後国風土記』の文章は、この「篤き疾」を「深い恨み」「深い悲しみ」という意味をこめて考える必要があるのであったろう。
「地元側の報告を集めた風土記も所詮官選の記録であるから、逆賊あつかいにしてきた磐井の真実を語ることも載せることもできなかったろう。
しかし民間では真実の悲劇英雄物語が語りつがれていったのであろう。
八女郡地方の住民に岩戸山古墳を媒介として語りつがれた真実は、磐井への同情ではあっても、逆賊としてではなかったろう。」(原田大六『磐井の反乱』)
沖縄の八重山のオヤケ赤蜂は、首里王朝の遠征軍のためにやぶれ殺された。
その碑はいま石垣島の公園に立っている。その碑文を書いたのは同島の喜舎場永珣氏であるが、それによると、オヤケ赤蜂は自由のためにたたかった民権の士となっている。
私はそこに辺境に住む人びとのいつわらぬ心情をみる気がした。
歴史が中央と頂点の権力によって偽造されていくことを否定する地霊の叫びを聞いた気がしたのである。』

私見ではありますが、こうした記述の意味をより深くから理解するためには、おそらくその地にしばらくの間(数年以上)住んでみる必要があるのではないかと考えます・・。

くわえて、抜粋引用部の『地霊の叫び』を理解していく過程とは、各々微妙に異なるのでしょうが、いずれにしても、数日間の旅行程度では到底理解することが出来るようなものではないと思われるのです・・。

しかしその一方で、我々の生とは有限であり、且つ何所かに定住し生きて行かねばなりませんので『畢竟、そうしたものは一種の道楽のようなものである』と断じることから、中央・地方間の相互理解・意思疎通が上手く行かないのではないかと思われます(これはなかなか奥が深い問題ではないかと思われます・・。)。

さらには、こうした事情とは国内に限らず国際関係においても同様ではあるまいかとも思われますが・・。

また、そうした不可避とも云える事情を視野に置き、思うことは、これまでに何度かブログ記事に書いていることでもありますが、日本近代史上最大の悲劇英雄である西郷隆盛をテレビドラマ化することは、さきの抜粋引用部末尾に書かれていた『歴史が中央と頂点の権力によって偽造されていく』ではあるまいかと危惧されることです・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害など大規模自然災害により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早い復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。









20170729 地域特性≒在地土着女性の性質・・?【巫女】

昨日の記事投稿によって1000記事到達までの残りの記事数が299となりました。

また、同時に全体(1000記事)の7割以上に至ったということになりますが、相変わらず実感や達成感らしきものはありません・・(笑)。

おそらく記事作成がほぼ惰性といっても良いほどに習慣化、日常化していることから、そのように感じられる(ない)のではないかと思われますが、これは果たして良いものか、そうでないのかとはイマイチよく分かりません(苦笑)。

くわえて、先日の投稿記事に『700記事到達後しばらく記事作成を休止する』と書いたにもかかわらず、今現在こうして文章を作成していることもまた、同様にイマイチよく分かりません(笑)。

さて、昨日分の投稿記事も投稿翌日にしては多くの方々に読んで頂けました。

これは投稿記事と関連付けた動画が功を奏したものであるか分かりませんが、この手法とは、その選択が適切である場合は悪くないのかもしれません・・。

また、この投稿記事内容と多少関連するのではないかと思われますが、これまでに何度か古の『巫女』についての記事を書き、また書籍からの抜粋引用を行ってきましたが、こうした考えとは、西日本に在住する年を重ねる毎に徐々に凝固、結晶化されていき、そして、それを時折お目にかかる知人の方々にまさに『放談』の如く下に示すような感じで市内喫茶店にて述べていた記憶があります・・(笑)。
(くわえて、この時期はおそらくD2病真っ只中でした・・(苦笑)。)

A『地域文化とは云いますけれども、その主要な部分を形成そして保持しているのは、我が国の場合、おそらく大体の地域において在地土着の女性たちではないかと思いますね・・。
ええ、私は関東の出身ですが、その異郷人から見て、そうした特徴、違いといったものはやはり地域毎にあるのではないかと思います。
その点、個人的な意見ですが九州、鹿児島の地域性即ち、それを維持している女性達とは、特徴的であり、何と云いますか古来よりあまり変わらないある種の『性質』を持っているのではないかと思われますね・・。
そして、その『性質』とは事態、出来事の本質を的確に突いたり、予言的なことを述べ、この地に多い隼人とも称される血気盛んな男どもを従わせるようなものであり、おそらくそれは女王卑弥呼の時代から連綿と続いているのではないかと考えさせられるのです・・。
(倭国大乱末期の卑弥呼の擁立もそうした事情に基づくとされている。)
この地(鹿児島)は、邪馬台国があったとされる西日本あるいは九州島共に、その辺縁に位置することから、そうした地域特性(女性の性質)といったものが生きたままの状態で存続し易かったものと考えます。
(一概には云えませんが、古くからの文化伝統とは意識して維持されるものよりも、こうした事情によって残存することが多いのではないかと思われます。)
まあ、それはさておきハナシを個別的なことに移してみますと、こうした地域女性の巫女的な性質とは、その土地から離れるにしたがい徐々に弱くなっていくといった性質があるのではないかと思われるのです・・。
まあ、これは半分想像で云っているのですがね・・(笑)。
(この時、ハナシを聞いていた女性の一人が何故であるかわからないが電気ショックを受けたように一瞬ビクッとした。)
(その反応に少し驚きつつ)・・いや、しかしまあ、その意味で男女共にさまざまな地域の人々が集まっている東京、首都圏などは、どうもそうした女性特有の巫女的な力を感じ取ることが難しい地域ではないかと思うのです。
そして、その代替あるいは悪く云えばまやかしとして、さまざなな流行の文化もしくはそれを生む唯物論的な価値観といったものが代わる代わる消費されているのではないかとも思うことがありますね・・。
いや、しかし、それは世界各地の大都市もまた概ねそういったものであるのかもしれないですが・・。」

・・まだ続きがありますが、ひとまずここで終えます。
ともあれ、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

また
昨年から現今に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害の大規模自然災害によって被災された地域の諸インフラの復旧ならびにその後の早期の復興を祈念しています。』