2017年8月3日木曜日

20170803 全体の文脈から考える

本日の首都圏もまた昨日、一昨日と同様にあまり気温が上がらず過ごし易いといえば過ごし易いのですが、同時に『八月初旬でこの程度の気温で大丈夫であるのか?』とも考えてしまいます・・(笑)。

さて、昨日投稿分記事も投稿翌日にしては多く方々(27)に読んで頂けました。

そして本日の作成記事は、電車での移動の際にノートに書き留めた着想に基づき書き進めていきます。

これまでに自身が投稿したブログ記事のなかで、書籍・文献からの抜粋引用が占める割合は低くはないと云えます。

また、これはブログ記事作成を始めた当初の時期においては、より高い割合を占めていたと云えます。

そうした当時の状況にて時折(私のブログ記事作成を知る)知人と話しておりますと以下のようなご意見を頂くことがしばしばありました。

『たしかに書籍内の面白い記述をブログ記事として抜粋引用するのは面白い試みであると思いますよ、しかし、その記述が書籍全体の中で、どういった意味合い、どの程度の重みを持つものであるのかが、記事を読んでいる方々には往々にして伝わらないと思いますので、そのことは今後もう少し考えてみても良いのではないかと思いますが・・。』

このご意見とは、至極真っ当なものであり、また現在自身も時折、そうしたことを考えることがあります。

つまり書籍全体の文章の流れ、文脈のなかで、果たしてその(抜粋引用)『部分』が如何なる意味を持つのであるかとは、それが当初から恣意的な操作であることから、より注意して行う必要があるのだといえます。

また、当然といえば当然ですが、これまでに抜粋引用に用いた書籍とは、その殆どが(以前に)通読したものであり、またその選択とは、ある程度(自分なりに)注意して行っているとは考えますので、おそらくその大半においては、抜粋引用部をブログ記事にて読んだ方々が、抜粋引用元書籍の大意、全体の文脈を(大きく)誤解されることは少ないのではないかと考えます・・。

とはいえ、それも結局のところ自身の恣意的な操作に基づく希望的観測であるといえますので、最終的には何ともいえないところではあるのですが・・(苦笑)。

また、多少ハナシは変わって、こうした認識の仕方とは歴史全体においても同様のことがいえ、たとえある時代・地域の歴史が分かったという自覚を得たとしても、それが歴史全体については必ずしも応用可能ではないということです。

そして、そうしたことから竹山道雄著『昭和の精神史』に述べられている『全体を包括する大前提のような教義・ドグマを以って個々を認識していくと、必ず間違った認識の方向に行く』という意見の意味合いが認識され得るのだと思われます・・。

しかしながら、おそらく我が国においては少なからず、こうした(一見)便利とも云える『全体を包括する大前提のような教義・ドグマ』を(半ば無意識的に)有難がる、大事にするような傾向があるのではないかと思われます・・。

それはおそらく、本質的あるいは深層において、ある事態・事物に対して能動的に考えることが面倒である場合における態度・対応であり、あるいはまた、そうした心的傾向が少なからず我が国の早急な近代化あるいは戦後の急速な復興を推し進める力であったのではないかとも思われます・・。

しかし、そうしたことは御周知のとおり、何も新しい意見ではなく、夏目漱石の講演に基づいた著作『現代日本の開化』にて明治の時代に既に述べられていることなのです・・。

そして、そうしたことを踏まえ、現在の我が国にて生じているさまざまな出来事を見聞きしておりますと、かなり悔しいことに、つじつまが合ってしまうことが多いのです・・。

これが自身の浅学非才より生じる(無意識ながらの)全体を包括する大前提のような教義・ドグマへの妄信に基づく間違った考えであれば本当に良いのですが・・(苦笑)。

とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。』









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