株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.265-267より抜粋
ISBN-10 : 4480084886
ISBN-13 : 978-4480084880
「三酔人経綸問答」は、三人の酒に酔った男が、それぞれの政治的信条を戦わせる話で、その豊富な内容は、明治初期の政治文学のなかで、群を抜く。登場人物の一人は、「豪傑君」という右翼軍国主義者で、アジア大陸への拡張政策を唱える。もう一人は「洋学紳士」とよばれ、急進的な平和主義者で、国内における自由主義的な政策を主張する。第三の人物は、以上二人の客を迎える主人、「南海先生」で、現実的な漸進主義の立場をとる。たとえば対外政策について、南海先生は侵略的軍国主義に与せず、また無防備の絶対平和主義にも賛成しない。日本の将来を「小邦」の条件のもとに考え、「世界孰れの国を論ぜず与に和好を敦くし、万已むことを得ざるに及ては防禦の戦略を守り、懸軍出征の労費を避け」るのが、良策だろうという。また国内の民主平等の制ー一院制・普選・地方官公選・無料教育・死刑廃止・言論結社の自由などーについても、直ちにその実現をもとめる洋学紳士と、それを非現実として軍縮を強調する豪傑君の話を、それぞれしりぞける。そして民主思想が直ちに実を結ぶことは期待できないといい、しかし「君真に民主思想を喜ぶときは、之を口に挙げ、之を書に筆して、其種子を人々の脳髄中に蒔ゆるに於て」、遠い将来にそれが実現されるかもしれない、という。
この三人の人物は、いずれも戯画化され、批判されている。豪傑君は、単純な国権論者で、時代後れだとされる。しかしその議論の中には、いわゆる「戸閉り」論がある。洋学紳士は、夢想的な民権論者で、改革のための改革をもとめ、政府を攻撃のために攻撃するといわれる。しかしそこには、大国間の争いに中立する小国の民主制の強調がある。南海先生は、あまりにも常識的なことで胡麻化していると二客から批判されるが、政治的理想はただちに実現されなくとも、公然と表明されなければならない。というのである。けだし三酔人のいうところの多くは、ほとんどそのまま一世紀後の今日の政論家の説に通じる。
鶏声暁を報じて、二客が去り、「三酔人経綸問答」は終る。その末尾の文句は次のようでようである。「二客竟に復た来らず。或は云ふ、洋学紳士は去りて北米に遊び、豪傑の客は上海に遊べりと。而して南海先生は依然として唯酒を飲むのみ」。
「三酔人経綸問答」は、政治殊に国際政治に関して、異なる意見乃至立場を、目的と手段、あるいは価値と現実、の関係解釈のし方にいたがって、相互につき合わせ、それぞれの立場を相対化している。それぞれの立場が、兆民その人の考えの三つの面を代表していたことは、いうまでもないだろう。両極端の立場の仲介者としての南海先生が、必ずしも兆民の立場なのではない。すべての政治的意見ーすなわち価値と現実との関係の具体的な定義ーのこのような相対化は、十九世紀の日本社会において画期的であり、またその相対化が、基本的な価値ー自由平等と民権ーを相対化せず、むしろその普遍的妥当性への確信を前提として行われたという点で、殊に画期的である。
2023年6月3日土曜日
2023年6月1日木曜日
20230601金関丈夫著「日本民族の起源」法政大学出版局刊」pp.189-191より抜粋
法政大学出版局刊 金関丈夫著「日本民族の起源」
pp.189-191より抜粋
ISBN-10 : 4588270559
ISBN-13 : 978-4588270550
ISBN-10 : 4588270559
ISBN-13 : 978-4588270550
縄文時代の人の骨は、日本全国殆ど変わりがない。永年の間、殆ど変わっていない。背が低く、頭が長く、顔が短くて、マビサシが強く出ている。顔も広く、鼻も広い。熊本県には縄文時代の骨が多数でているが、皆この特徴をもっており、また九州以外の他地方の縄文人とも差はない。
弥生時代になると、玄海に面した地方(北九州・山口)の弥生文化に属する遺跡から出る骨は、これとちがってくる。まず背が高くなっている。
縄文時代の男の平均身長は158㎝であるのに、弥生文化に属している北九州・山口の男の平均身長は162~163㎝に近い。頭は短く、顔は長くなり、従って鼻も長く、眼窩も高い。マビサシの発達も弱い。このように縄文人との間にはギャップがある。一方、文化はがらりと変わっていて金属を用い、米を作る農耕文化をもっている。いわば生活革命であります。その文化は大陸の方から渡って来たと考えられる。文化だけが来ることはないので、人が一緒に来たにちがいない。どこから来たかといえば、南朝鮮が先ず考えられる。南朝鮮の古代人と現代人とがあまり変わりないとすれば、現在の南朝鮮人は頭は長くなり、背は高く、顔も長い。弥生人に似ている。時代の異なるものを比較するので、無理ではあるが、弥生文化をもって来た者は、今日の南部の朝鮮半島人の祖先であっただろうと推定できる。金属器を加工し、使用する文化は、中国から朝鮮を経由して来ている。このように骨のみから比較するばかりでなく、技術史の比較でも朝鮮経由大陸伝来のものであろうということは確かであります。
それでは、この新しい文化とその伝達者は、九州地方ではどのように拡がっていったでしょうか。九州の北の方では福岡県でも山口県の西でも大陸型の骨が出る。佐賀県の背振山の南斜面でも同様な骨が出ます。背振のは弥生中期のカメ棺の人骨ですが、体の長い北九州弥生人と呼ぶことができる骨がでている。ところが同じ九州で、最近、長崎大学の解剖学教室の内藤教授が調べたところによると、長崎半島の先端の深掘の弥生遺跡、五島列島の弥生遺跡、平戸・松浦の遺跡では同じ弥生人でありながら、骨の性質は縄文時代の人骨と変わらない。すなわち、背は低く、顔は短く、頭は長い。眉の出っぱりも強い。弥生時代人であるにかかわらずそのような点で、縄文人とちがわない。これを説明して内藤教授は、北九州では、何か環境の変化があったために長身型が出現したのであり、外から混血の要素が混入したのではないと述べている。新しい文化が、刺戟となって新しい体質を作ったかと想像するもののようであります。
さて私はさきに北九州にはいった弥生人は背が高いと述べたが、カメ棺を作るには背が高い男でなければ作れない。(縄文時代の土器は女性が作っていた。)しかもカメ棺の作製はただの男ではだめで、よほど背が高い男でなければならない。このことについては、私は昔台湾で、台湾人が大きな壺を作るのを見ましたが、台湾人の男ではできないので、むかしから福建省の漢人を雇っている。これは確かな事実です。ところでカメ棺は従来の縄文時代の人では男であっても作りえない。北九州ではカメ棺が出る所と、背の高い骨が出る所は一致している。それより南には高い骨はでない。背の高い骨が出なかったところの弥生文化では、カメ棺も作りえなかった。深掘、五島の弥生文化では弥生文化は侵入したが、体格は変わらなかった。新しい人種は入らなかった。即ち、これらの地方までは海外からはいった人間が拡がっていないのだ。したがって、北九州で日本人を論ずる場合には、混血児が弥生時代から相当にあったと考えねばらならない。南の方を問題にする場合には、弥生時代の混血は殆どなかったと考えざるをえない。つまり、北九州人で日本人を代表すれば、日本人は混血人だということになり、熊本の山の人で代表すれば、日本人は万世一系の土着縄文人の子孫だということになる。
弥生時代になると、玄海に面した地方(北九州・山口)の弥生文化に属する遺跡から出る骨は、これとちがってくる。まず背が高くなっている。
縄文時代の男の平均身長は158㎝であるのに、弥生文化に属している北九州・山口の男の平均身長は162~163㎝に近い。頭は短く、顔は長くなり、従って鼻も長く、眼窩も高い。マビサシの発達も弱い。このように縄文人との間にはギャップがある。一方、文化はがらりと変わっていて金属を用い、米を作る農耕文化をもっている。いわば生活革命であります。その文化は大陸の方から渡って来たと考えられる。文化だけが来ることはないので、人が一緒に来たにちがいない。どこから来たかといえば、南朝鮮が先ず考えられる。南朝鮮の古代人と現代人とがあまり変わりないとすれば、現在の南朝鮮人は頭は長くなり、背は高く、顔も長い。弥生人に似ている。時代の異なるものを比較するので、無理ではあるが、弥生文化をもって来た者は、今日の南部の朝鮮半島人の祖先であっただろうと推定できる。金属器を加工し、使用する文化は、中国から朝鮮を経由して来ている。このように骨のみから比較するばかりでなく、技術史の比較でも朝鮮経由大陸伝来のものであろうということは確かであります。
それでは、この新しい文化とその伝達者は、九州地方ではどのように拡がっていったでしょうか。九州の北の方では福岡県でも山口県の西でも大陸型の骨が出る。佐賀県の背振山の南斜面でも同様な骨が出ます。背振のは弥生中期のカメ棺の人骨ですが、体の長い北九州弥生人と呼ぶことができる骨がでている。ところが同じ九州で、最近、長崎大学の解剖学教室の内藤教授が調べたところによると、長崎半島の先端の深掘の弥生遺跡、五島列島の弥生遺跡、平戸・松浦の遺跡では同じ弥生人でありながら、骨の性質は縄文時代の人骨と変わらない。すなわち、背は低く、顔は短く、頭は長い。眉の出っぱりも強い。弥生時代人であるにかかわらずそのような点で、縄文人とちがわない。これを説明して内藤教授は、北九州では、何か環境の変化があったために長身型が出現したのであり、外から混血の要素が混入したのではないと述べている。新しい文化が、刺戟となって新しい体質を作ったかと想像するもののようであります。
さて私はさきに北九州にはいった弥生人は背が高いと述べたが、カメ棺を作るには背が高い男でなければ作れない。(縄文時代の土器は女性が作っていた。)しかもカメ棺の作製はただの男ではだめで、よほど背が高い男でなければならない。このことについては、私は昔台湾で、台湾人が大きな壺を作るのを見ましたが、台湾人の男ではできないので、むかしから福建省の漢人を雇っている。これは確かな事実です。ところでカメ棺は従来の縄文時代の人では男であっても作りえない。北九州ではカメ棺が出る所と、背の高い骨が出る所は一致している。それより南には高い骨はでない。背の高い骨が出なかったところの弥生文化では、カメ棺も作りえなかった。深掘、五島の弥生文化では弥生文化は侵入したが、体格は変わらなかった。新しい人種は入らなかった。即ち、これらの地方までは海外からはいった人間が拡がっていないのだ。したがって、北九州で日本人を論ずる場合には、混血児が弥生時代から相当にあったと考えねばらならない。南の方を問題にする場合には、弥生時代の混血は殆どなかったと考えざるをえない。つまり、北九州人で日本人を代表すれば、日本人は混血人だということになり、熊本の山の人で代表すれば、日本人は万世一系の土着縄文人の子孫だということになる。
2023年5月28日日曜日
20230527 ブログ2000記事到達に際して
当記事の投稿により、総投稿記事が2000に到達します。当ブログをはじめてから約8年ほどで2000記事の投稿と考えてみますと、その期間は、10日間のうち6~7日は1記事投稿してきたことになりますので、私としては思いのほかに継続したのではないかと思われます。とはいえ、現在、当記事を作成していても、感興や感慨のようなものは皆無と云えます。
また、以前、当ブログにて自分にとって転機となった南紀での経験を述べてみたいという考えから作成した【南紀について】は比較的多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。また、大学関係者の方々で、新たな医療介護リハビリ系の専門職大学あるいは科学技術大学院大学などの設置を検討されていましたら、南方熊楠が後半生を過ごした口熊野とも呼ばれる紀伊田辺は、南紀白浜温泉にもほど近く、風光明媚であり、教育・研究の環境として悪くないと思われますので、類似した環境と云える紀伊半島南部の東側の新宮と併せて是非、ご一考頂ければと思います。
さらにもう一つこじつけますと、紀伊田辺・新宮双方から通じている熊野本宮大社の主祭神は、家都御子神または家都美御子神(けつみ(み)このかみ)ですが、実は、これは出雲系の神である素戔嗚尊のことであり、この神は、木の国だけに樹木の神であると同時に、穀物の神でもあることから食の神とされています。そして実際に紀州・和歌山は、鰹節や醤油などの我が国の食文化には欠かすことの出来ない食材の発祥の地であり、さらに伝統食品である梅干しの生産量もダントツの首位であることから、語義通り、日本の味のルーツが今なお息づいている地域であると考えます。
そして、前段が幾分長くなってしまいましたが、こうした文化的背景を持つ地域に、食材の専門家である管理栄養士を主軸として、それに関連する職種と云える歯科衛生士などの医療介護リハビリ専門職を養成する学費が安価な高等教育機関(専門職大学)を、ある程度の規模の病院など医療機関がある紀伊田辺・新宮双方に設置しますと、西日本・東日本双方の受験生にも対応出来て、とても良いのではないかとも思われます。
そして、それら専門職大学では、各々専攻する専門職の養成課程科目と語学課目とは別に、各学生さんの内発的な興味に即した人文系の自由研究科目を必修として、それを在学期間を通じて学び続けるようなカリキュラムにすることにより、これまでとは少し異なった知的背景を持つ専門職の方々を養成することが出来るようになるのではないかと思われるのです。
以前、当ブログにて自らのことを「私は課程博士を修了した初めての歯科技工士ではないか?」と述べましたが、その路程は兄の死や、指導教授(師匠)の予期せぬ退職などが重なり、それなりに辛いものでしたが、同時に歯科理工学実習にて鋳造や鑞付けを担当させて頂き、2012年からは教授も准教授の先生もいない状況下にて、実習書や教科書に記載の情報以外は、人文系ネタを随所に散りばめつつ実習を進めることが出来たことは、自分の性質に合っていたのか強く記憶に残っています。
学生さんとしては、実習にて30歳過ぎのオッサンの本能と知性が噛み合って駆動している様子を、何やら「おかしなもの」として見ていたのではないかとも思われます・・。実際、私が人文系ネタを話しながら、実習手順や使用材料などについて説明していますと、後ろから小声で「民明書房刊・・」と聞こえたこともありました・・(苦笑)。
しかし他方で、自分としては最も多く人文系ネタを散りばめた実習を行った2012年度の実習後から2013年初旬にかけて、どうしたわけか、休日での市内の散歩や、喫茶店での読書の際に、実習時に担当した学生さんから話し掛けられることが何度かありました。
若い女性が町なかで、数度の面識しかない中年男性に話し掛けることは、あまり一般的な行為ではないと思われますので、ありがたいことであるのか、ともあれ、少なくとも危険視はされていなかったのではないかと思われます・・(笑)。
また、そこでの会話のさなかに、性懲りもなく人文系ネタを話してみても興味深そうに聞いて頂き、また、私としても、その都度のご質問にも、あまり逸らさない返答が出来たのではないかと記憶しています・・。
そして必修である実習以外の場面で、自分が話す人文系ネタを面白そうに聞いて頂けたり、それに対しての質問などの知的な反応を頂いたという経験は、それまで人文系を背景とする歯科技工士の大学院生として、あまり良い目を見たことがなかった私としては、それなりに画期的、いや革命的なことであり、以前にも述べましたが、そうしたいくつかの経験が複合的に作用して、今回の2000記事達成に至るのだと云えます・・。
とはいえ、であるからと云って、私はその学生さん達に恋慕しているわけではありません。おそらく、彼女等の多くは、鹿児島弁でいうところの「よかおごじょ」らしく、比較的早くに結婚されて、現在は子育てをされているのではないかと思われます。しかし、それらの方々が10年前の学生時代の実習時に、変なことを話していて「何だか面白そう・・」といった感じであるのか、町なかで話し掛けた中年男性は、8年近くかけて2000記事のブログを作成程度のことはしたということで、各々の「見る目」のご参考にして頂ければと願うところです・・。
おかげさまで(どうにか)2000記事に到達することが出来ました。そして今後はしばらく記事作成を休もうと考えていますが、また思いのほか案外早い時期に再開してしまうのではないかとも思われます・・。
そして2000記事到達となる今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

また、以前、当ブログにて自分にとって転機となった南紀での経験を述べてみたいという考えから作成した【南紀について】は比較的多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。また、大学関係者の方々で、新たな医療介護リハビリ系の専門職大学あるいは科学技術大学院大学などの設置を検討されていましたら、南方熊楠が後半生を過ごした口熊野とも呼ばれる紀伊田辺は、南紀白浜温泉にもほど近く、風光明媚であり、教育・研究の環境として悪くないと思われますので、類似した環境と云える紀伊半島南部の東側の新宮と併せて是非、ご一考頂ければと思います。
さらにもう一つこじつけますと、紀伊田辺・新宮双方から通じている熊野本宮大社の主祭神は、家都御子神または家都美御子神(けつみ(み)このかみ)ですが、実は、これは出雲系の神である素戔嗚尊のことであり、この神は、木の国だけに樹木の神であると同時に、穀物の神でもあることから食の神とされています。そして実際に紀州・和歌山は、鰹節や醤油などの我が国の食文化には欠かすことの出来ない食材の発祥の地であり、さらに伝統食品である梅干しの生産量もダントツの首位であることから、語義通り、日本の味のルーツが今なお息づいている地域であると考えます。
そして、前段が幾分長くなってしまいましたが、こうした文化的背景を持つ地域に、食材の専門家である管理栄養士を主軸として、それに関連する職種と云える歯科衛生士などの医療介護リハビリ専門職を養成する学費が安価な高等教育機関(専門職大学)を、ある程度の規模の病院など医療機関がある紀伊田辺・新宮双方に設置しますと、西日本・東日本双方の受験生にも対応出来て、とても良いのではないかとも思われます。
そして、それら専門職大学では、各々専攻する専門職の養成課程科目と語学課目とは別に、各学生さんの内発的な興味に即した人文系の自由研究科目を必修として、それを在学期間を通じて学び続けるようなカリキュラムにすることにより、これまでとは少し異なった知的背景を持つ専門職の方々を養成することが出来るようになるのではないかと思われるのです。
以前、当ブログにて自らのことを「私は課程博士を修了した初めての歯科技工士ではないか?」と述べましたが、その路程は兄の死や、指導教授(師匠)の予期せぬ退職などが重なり、それなりに辛いものでしたが、同時に歯科理工学実習にて鋳造や鑞付けを担当させて頂き、2012年からは教授も准教授の先生もいない状況下にて、実習書や教科書に記載の情報以外は、人文系ネタを随所に散りばめつつ実習を進めることが出来たことは、自分の性質に合っていたのか強く記憶に残っています。
学生さんとしては、実習にて30歳過ぎのオッサンの本能と知性が噛み合って駆動している様子を、何やら「おかしなもの」として見ていたのではないかとも思われます・・。実際、私が人文系ネタを話しながら、実習手順や使用材料などについて説明していますと、後ろから小声で「民明書房刊・・」と聞こえたこともありました・・(苦笑)。
しかし他方で、自分としては最も多く人文系ネタを散りばめた実習を行った2012年度の実習後から2013年初旬にかけて、どうしたわけか、休日での市内の散歩や、喫茶店での読書の際に、実習時に担当した学生さんから話し掛けられることが何度かありました。
若い女性が町なかで、数度の面識しかない中年男性に話し掛けることは、あまり一般的な行為ではないと思われますので、ありがたいことであるのか、ともあれ、少なくとも危険視はされていなかったのではないかと思われます・・(笑)。
また、そこでの会話のさなかに、性懲りもなく人文系ネタを話してみても興味深そうに聞いて頂き、また、私としても、その都度のご質問にも、あまり逸らさない返答が出来たのではないかと記憶しています・・。
そして必修である実習以外の場面で、自分が話す人文系ネタを面白そうに聞いて頂けたり、それに対しての質問などの知的な反応を頂いたという経験は、それまで人文系を背景とする歯科技工士の大学院生として、あまり良い目を見たことがなかった私としては、それなりに画期的、いや革命的なことであり、以前にも述べましたが、そうしたいくつかの経験が複合的に作用して、今回の2000記事達成に至るのだと云えます・・。
とはいえ、であるからと云って、私はその学生さん達に恋慕しているわけではありません。おそらく、彼女等の多くは、鹿児島弁でいうところの「よかおごじょ」らしく、比較的早くに結婚されて、現在は子育てをされているのではないかと思われます。しかし、それらの方々が10年前の学生時代の実習時に、変なことを話していて「何だか面白そう・・」といった感じであるのか、町なかで話し掛けた中年男性は、8年近くかけて2000記事のブログを作成程度のことはしたということで、各々の「見る目」のご参考にして頂ければと願うところです・・。
おかげさまで(どうにか)2000記事に到達することが出来ました。そして今後はしばらく記事作成を休もうと考えていますが、また思いのほか案外早い時期に再開してしまうのではないかとも思われます・・。
そして2000記事到達となる今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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ISBN978-4-263-46420-5
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連絡先につきましては以下の通りとなっています。
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どうぞよろしくお願い申し上げます。
2023年5月24日水曜日
20230523 異郷での経験や読書による変化から【南紀について②】
先日の投稿記事を含め、これまでに何度か当ブログで述べてきたことではありますが、私は当初、全く気乗りしなかった南紀白浜への転勤により、それまで知らなかった「西日本」という異文化の中で住むことになり、そこで否応なく強い違和感を感じたわけですが、ある程度若い時分でのそれは、多くの場合、特にとり挙げるまでもなく、生活のなかで、徐々にその土地に慣れて、順応していくのだと思われますが、私の場合、こうした違和感を、知識や、さまざまな実地見分によって解消しようとしていたのだと思われます。そして、こうした能動的な活動をしばらく続けていますと、徐々に私の方に変化が生じてきました。
他方で、同じ時期、しばしば、文系の師匠が、ご自身が執筆された論文やその他文章の別刷りなどに加え、クラシック音楽のCDなども送ってくださることがあり、私は、それに触発されて紀伊田辺の書店で面白そうな書籍を物色したり、あるいはアマゾンで購入して、西欧文化や近現代史に対する興味を自分なりに深めていましたが、当時、私が在住していた南紀では、それらの分野を学び、深めることは困難であると考えて、身近にある興味を持つことが出来そうなものを探したところ、ご承知のように、銅鐸や古墳に興味を持つようになったと云えます。
とはいえ、興味を持つとは云っても、それまで私は、考古学や古代史を専攻したことはなく、紀伊田辺の書店で面白そうな関連著作を探していたところ、それまでに多少は見聞きした記憶がある「南方熊楠」という人物の関連著作が少なからず棚に並んでおり、そのうちの読み易そうな著作を何冊か手に取り読んでみたところ、当時の私でも「何だかよく分からないけれどもスゴイ人物だ・・。」とは理解出来、そして、そうした人物が何故、後半生をここ紀伊田辺で過ごしたのかということも興味を持つようになりました。
実際、南紀在住期間に幾度か、紀伊田辺の市街地から少し外れた高山寺にある南方熊楠のお墓にお参りに行きました。この高山寺には、紀伊田辺出身の合気道の開祖である植芝盛平のお墓もあります。また、和歌山県出身の作家である津本陽氏による植芝盛平をモデルとして主人公とした小説「黄金の天馬」には、南方熊楠が登場しています。
やがて、当地の遺跡を扱った著作として、保育社刊「日本の古代遺跡」シリーズの和歌山編を古書で入手しました。当著作には古墳など遺跡の場所が記された地図が掲載されており、それを参考にして実地見分に赴くことがありましたが、実際に訪れてみると、遺跡の存在が確認できない場合もしばしばありました。さらに、当時はインターネットで各種情報を容易に入手することができなかったため、記載の地図通りに進んでいるはずであっても、よく不安を感じていました・・。
また、他の趣味もありましたが、こうして書籍などを探して読んだり、あるいは時々師匠が送ってくださるさまざまな印刷物を読んでいますと、どうやら私は、自分が興味を持つ分野のものであれば、比較的難しい書籍でも、どうにか読むことが出来ると分かり、そこから「やはり当初の希望通り、どこかで人文系の大学院に進んだ方が良いのではないか・・?」とひそかに考えるようになりました。
しかし、そこで大事であると思われることは、当初私はヨーロッパ文化を研究したかったのですが、南紀での生活により、前述したような我が国の地域文化・歴史についての興味を持つようになり「それを専攻として、さらに深めることは出来るだろうか?」と考えるようになったことですが、これにつきましては、やはり必然と云うよりも偶然であったのではないかと思われます。
そして、そこから、一般的に我々が考える「計画通りにものごとが進むことは良い」という視点からは、あるいは受容することは困難であるのかもしれませんが、こうした偶然の出来事や、制御が困難な出来事に(どうにか)対応することによって、あるいは当初の計画よりも、さらに創造的な未来を見出すことも出来るのではないかと思われるのです。それ故、我々日本人は、太平洋戦争で完敗を喫しましたが、それでも、自らの国の本物の歴史や文化に対して、内発的な興味を持ち続けることが、思いのほかに大事であるか、あるいは、それなりに意味があるのではないかと思われるのです・・。
他方で、同じ時期、しばしば、文系の師匠が、ご自身が執筆された論文やその他文章の別刷りなどに加え、クラシック音楽のCDなども送ってくださることがあり、私は、それに触発されて紀伊田辺の書店で面白そうな書籍を物色したり、あるいはアマゾンで購入して、西欧文化や近現代史に対する興味を自分なりに深めていましたが、当時、私が在住していた南紀では、それらの分野を学び、深めることは困難であると考えて、身近にある興味を持つことが出来そうなものを探したところ、ご承知のように、銅鐸や古墳に興味を持つようになったと云えます。
とはいえ、興味を持つとは云っても、それまで私は、考古学や古代史を専攻したことはなく、紀伊田辺の書店で面白そうな関連著作を探していたところ、それまでに多少は見聞きした記憶がある「南方熊楠」という人物の関連著作が少なからず棚に並んでおり、そのうちの読み易そうな著作を何冊か手に取り読んでみたところ、当時の私でも「何だかよく分からないけれどもスゴイ人物だ・・。」とは理解出来、そして、そうした人物が何故、後半生をここ紀伊田辺で過ごしたのかということも興味を持つようになりました。
実際、南紀在住期間に幾度か、紀伊田辺の市街地から少し外れた高山寺にある南方熊楠のお墓にお参りに行きました。この高山寺には、紀伊田辺出身の合気道の開祖である植芝盛平のお墓もあります。また、和歌山県出身の作家である津本陽氏による植芝盛平をモデルとして主人公とした小説「黄金の天馬」には、南方熊楠が登場しています。
やがて、当地の遺跡を扱った著作として、保育社刊「日本の古代遺跡」シリーズの和歌山編を古書で入手しました。当著作には古墳など遺跡の場所が記された地図が掲載されており、それを参考にして実地見分に赴くことがありましたが、実際に訪れてみると、遺跡の存在が確認できない場合もしばしばありました。さらに、当時はインターネットで各種情報を容易に入手することができなかったため、記載の地図通りに進んでいるはずであっても、よく不安を感じていました・・。
また、他の趣味もありましたが、こうして書籍などを探して読んだり、あるいは時々師匠が送ってくださるさまざまな印刷物を読んでいますと、どうやら私は、自分が興味を持つ分野のものであれば、比較的難しい書籍でも、どうにか読むことが出来ると分かり、そこから「やはり当初の希望通り、どこかで人文系の大学院に進んだ方が良いのではないか・・?」とひそかに考えるようになりました。
しかし、そこで大事であると思われることは、当初私はヨーロッパ文化を研究したかったのですが、南紀での生活により、前述したような我が国の地域文化・歴史についての興味を持つようになり「それを専攻として、さらに深めることは出来るだろうか?」と考えるようになったことですが、これにつきましては、やはり必然と云うよりも偶然であったのではないかと思われます。
そして、そこから、一般的に我々が考える「計画通りにものごとが進むことは良い」という視点からは、あるいは受容することは困難であるのかもしれませんが、こうした偶然の出来事や、制御が困難な出来事に(どうにか)対応することによって、あるいは当初の計画よりも、さらに創造的な未来を見出すことも出来るのではないかと思われるのです。それ故、我々日本人は、太平洋戦争で完敗を喫しましたが、それでも、自らの国の本物の歴史や文化に対して、内発的な興味を持ち続けることが、思いのほかに大事であるか、あるいは、それなりに意味があるのではないかと思われるのです・・。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
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連絡先につきましては以下の通りとなっています。
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電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2023年5月22日月曜日
20230521 嗅覚と味覚の記憶から思い出したこと(南紀について①)
昨年10月に罹患した新型コロナウイルス感染症から回復して以来、ほぼ通常の日常生活に戻っていますが、嗅覚と味覚に関しては、以前よりも鈍くなったように感じられます。特に食べ物があまり美味しく感じられなくなったことが気になりましたが、他方で最近は気温が上昇し、天候も良くなり、活性が上がってきたためか、また少し復調しているように感じられます。ただし、これはマスクを外す機会が以前よりも増えたためであるのかもしれません。そのため、この感覚の変化については、今しばらく意識して推移を見守りたいと思います。
さて、嗅覚と味覚に関して印象深いことを挙げますと、以前に何度か当ブログにて述べたことがありましたが、2001年春に北海道から南紀白浜に転勤した時のことが思い出されます。北海道と比べて南紀の環境はあたかも別の国に来たかのようでした。その南方的とも云える横溢とした植生や自然環境、そして、そこからくる大気の薫りは非常に濃厚なものであり、在住後しばらく経っても新鮮に感じられました。また、そうした経験から、地元の食材を使った料理は、その土地で料理して食べることにより、本来の美味しさを味わえるのだと思うようにもなりました。さらに南紀白浜温泉には、複数の源泉があり、それぞれ泉質や香りも若干異なるため、慣れてきますと嗅覚を通じて、それらの違いが分かるようになりました。
また、南紀白浜温泉は総じて海に近く、私が勤務していた白良荘グランドホテルも白良浜に面していました。そしてその従業員駐車場は、白良浜北隣の半ば半島状である権現崎の近くにありましたので、当時はほぼ毎日、どこかで波の音を聞きながら生活していたと云えます。当初は首都圏に戻りたいと始終思っていた私でしたが、若かったこともあってか、徐々に南紀の環境にも慣れてきて、次第に感覚や価値観も変化していったのだと思われます。
やがて落ち着いてきますと、近隣にあるさまざまな史跡などの来歴・背景についても宿泊客に対して、ある程度は説明できるようにということもあり、それらの説明文などを読み、さらに興味深いと思われた事がらについては、休日、紀伊田辺に出向いた際に書店で立ち読みしつつ書籍を探したり、あるいは当時普及しつつあった「アマゾン」で見つけて購入するといったことをしていました。
また、それら書籍で興味深い記述を見つけますと、食事や買い出しなどの外出の際に、記述にあった史跡などを実地見分するといったことも度々していました。とはいえ、そうした興味は、まず最初に現実の史跡などの存在が先立ちます。つまり、実際に何かの史跡なりを見て興味深く感じるようになり、そこから関連する著作を探すといった流れでしたが、私の場合、その一つの起点にあったと思しき記憶に残る史跡は、さきに述べた白良浜北隣に位置する権現崎に鎮座する熊野三所神社内の火雨塚古墳です。
それまで古墳とは、上空写真から見る巨大な前方後円墳のようなものばかりであると思っていましたが、この古墳の墳丘径は10m程度であり、外から羨道を通じて玄室内をも臨むことが出来、これを初めて見た時、古墳であることは分かりましたが、しかし、それが人々が日常往来する領域である神社内にあること、そして、それが樹木や草に覆われながらも未だに古代の墳墓であることが分かるように存在していることにいたく驚かされました。
そうして当地でしばらく生活をしていますと、次第に、さきの熊野三所神社を含む多くの神社は、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがその著作「日本の心」内で述べているように
『神道の「やしろ」は、通常の意味での寺院ではなく、むしろ「死者の霊が出入りする部屋」や「霊の部屋」と呼ばれるべきだと思います。なぜなら、多くの神々は実際には霊であり、立派な武人や英雄、統治者、人々の師として存在して、千年以上も前に生きて愛し、そして死んだ人々の霊だからです。そのため、神道のお宮や社の不思議な性格を西洋人に伝える際には、お宮や社を「shrine」や「temple」と訳すよりも「ghost-house」と訳した方が意味がよく伝わるのではないかと思います。』(要旨)
といった性質が基層にあることを自然に理解出来るようになっていくと思われるのです。そして、私見としては、こうした感覚は、旅行など短期間の滞在では得ることが難しく、その地域で何度か四季を過ごし、地域の大気や植生や湿気のようなものを嗅覚や味覚などの感覚を通じて、知らぬ間に身に着いていくのではないかと思われるのです。そして、そうして得られた感覚を土台として、その地域のことを学べば、さらに知らないことが分かるのではないかと思われた頃に東京へと転勤となりました・・。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

さて、嗅覚と味覚に関して印象深いことを挙げますと、以前に何度か当ブログにて述べたことがありましたが、2001年春に北海道から南紀白浜に転勤した時のことが思い出されます。北海道と比べて南紀の環境はあたかも別の国に来たかのようでした。その南方的とも云える横溢とした植生や自然環境、そして、そこからくる大気の薫りは非常に濃厚なものであり、在住後しばらく経っても新鮮に感じられました。また、そうした経験から、地元の食材を使った料理は、その土地で料理して食べることにより、本来の美味しさを味わえるのだと思うようにもなりました。さらに南紀白浜温泉には、複数の源泉があり、それぞれ泉質や香りも若干異なるため、慣れてきますと嗅覚を通じて、それらの違いが分かるようになりました。
また、南紀白浜温泉は総じて海に近く、私が勤務していた白良荘グランドホテルも白良浜に面していました。そしてその従業員駐車場は、白良浜北隣の半ば半島状である権現崎の近くにありましたので、当時はほぼ毎日、どこかで波の音を聞きながら生活していたと云えます。当初は首都圏に戻りたいと始終思っていた私でしたが、若かったこともあってか、徐々に南紀の環境にも慣れてきて、次第に感覚や価値観も変化していったのだと思われます。
やがて落ち着いてきますと、近隣にあるさまざまな史跡などの来歴・背景についても宿泊客に対して、ある程度は説明できるようにということもあり、それらの説明文などを読み、さらに興味深いと思われた事がらについては、休日、紀伊田辺に出向いた際に書店で立ち読みしつつ書籍を探したり、あるいは当時普及しつつあった「アマゾン」で見つけて購入するといったことをしていました。
また、それら書籍で興味深い記述を見つけますと、食事や買い出しなどの外出の際に、記述にあった史跡などを実地見分するといったことも度々していました。とはいえ、そうした興味は、まず最初に現実の史跡などの存在が先立ちます。つまり、実際に何かの史跡なりを見て興味深く感じるようになり、そこから関連する著作を探すといった流れでしたが、私の場合、その一つの起点にあったと思しき記憶に残る史跡は、さきに述べた白良浜北隣に位置する権現崎に鎮座する熊野三所神社内の火雨塚古墳です。
それまで古墳とは、上空写真から見る巨大な前方後円墳のようなものばかりであると思っていましたが、この古墳の墳丘径は10m程度であり、外から羨道を通じて玄室内をも臨むことが出来、これを初めて見た時、古墳であることは分かりましたが、しかし、それが人々が日常往来する領域である神社内にあること、そして、それが樹木や草に覆われながらも未だに古代の墳墓であることが分かるように存在していることにいたく驚かされました。
そうして当地でしばらく生活をしていますと、次第に、さきの熊野三所神社を含む多くの神社は、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがその著作「日本の心」内で述べているように
『神道の「やしろ」は、通常の意味での寺院ではなく、むしろ「死者の霊が出入りする部屋」や「霊の部屋」と呼ばれるべきだと思います。なぜなら、多くの神々は実際には霊であり、立派な武人や英雄、統治者、人々の師として存在して、千年以上も前に生きて愛し、そして死んだ人々の霊だからです。そのため、神道のお宮や社の不思議な性格を西洋人に伝える際には、お宮や社を「shrine」や「temple」と訳すよりも「ghost-house」と訳した方が意味がよく伝わるのではないかと思います。』(要旨)
といった性質が基層にあることを自然に理解出来るようになっていくと思われるのです。そして、私見としては、こうした感覚は、旅行など短期間の滞在では得ることが難しく、その地域で何度か四季を過ごし、地域の大気や植生や湿気のようなものを嗅覚や味覚などの感覚を通じて、知らぬ間に身に着いていくのではないかと思われるのです。そして、そうして得られた感覚を土台として、その地域のことを学べば、さらに知らないことが分かるのではないかと思われた頃に東京へと転勤となりました・・。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2023年5月18日木曜日
20230518 中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「競争の原理の作動」pp.70-73より抜粋
中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「競争の原理の作動」pp.70-73より抜粋
ISBN-10 : 4122021030
ISBN-13 : 978-4122021037
中国・朝鮮式の儒教的専制国家ならば、皇帝の専制の手足になる大官はことごとく皇帝親裁の試験で採用されるのだが、日本では藤原氏を中心とする血族団体ー公卿ーがそれを担当する。この点で、致命的な失格である。だから日本史上、中国やヨーロッパの皇帝に相当する強大な権力ー朕ハ国家ナリという式ーをもった天皇はついに出現せず、原理的に出現できないしくみになっている。
さらには土地公有も、すぐ失敗した。
荘園という私有地の成立がそうである。この公有制度の例外がどんどんひろがって、ついに武士の発生になる。武士とは要するに開墾地主のことで、土地の私有権の主張者のことである。
平安中期ごろから関東にこの開墾地主団がむらがり発生し、後期にいたってそれが平氏と称し、あるいは源氏と称して、律令体制の代表者である京都朝廷に食いこんだり、対立したりして、ついには源頼朝を盟主とするこの土地私有権の主張者たちが強大な軍事力をもって鎌倉幕府という事実上の日本政府を樹立し、中国・朝鮮体制にやや似た京都の朝廷は装飾的な政権になった。
要するに、競争の原理が、日本の下層ではつねに作動しつづけたということであり、いかに中国・朝鮮式の専制を輸入してもその原理を圧殺することはできなかったということである。
ひらたい例でいえば、山田である。明治期に日本にきた中国の有力者が、瀬戸内海を東航する船のなかから島々のてっぺんまで耕された山田をみて、
「耕シテ天ニ至ル、貧ナルカナ」
といったという。この中国人の日本認識がいかに浅薄なものであったかといえば、山田を競争の原理の象徴としてとらえなかったことである。村々の百姓たちは弥生時代から明治以来にいたるまで、他家より一段でも多く田畑をもちたいがために、地理的に耕作しがたい土地まで開墾してわずかでも生産の収穫を得た。この競争の原理が武士を発生せしめ、さらにはくだって競争をすべて悪として停止せしめた江戸体制時代にあっても、開墾と干拓ばかりは諸藩が競争してそれをやった。たとえば長州藩のごときは三十六万九千石の石高でありながら、江戸初期以来瀬戸内海岸の干拓をつづけてきたために幕末にあっては実収百万石といわれた。その収入をもって換金性の高い殖産事業をおこし、幕末ではほとんどあたかもヨーロッパの産業国家のような観を呈した。いまの山口県の一つの収入で、洋式陸海軍をもち、さらに京都における革命工作のためにばく大な費用をつかい、つづいて戊辰戦争(一八六八)の戦費をまかない、それでもなお戊辰戦争終了後に古金(慶長小判など)八万両を持っていたという。この藩はその半分を新政府に献金している。要するに日本に競争の原理があったからだろう。
中国・朝鮮式の専制体制は、競争の原理を封殺するところにその権力の安定をもとめた。その体制の模範生だった朝鮮の農村には、競争の原理というものが伝統としてない。そのために朝鮮の老農夫はだれをみても太古の民のようにいい顔をしており、日本人の顔に共通した特徴とされるけわしたがない。
明治期の中国や朝鮮の農村からみれば、江戸期の競争による蓄積をへてきた日本の農村はーとくに西日本にあってはーたしかに富裕であった。五十戸の字には三戸の富農があるといわれたのは、「耕シテ天ニ至ル」という式の競争のおかげであった。
山を田畑にするというのは百年の単位でのしごとで、大変な手間が要る。たとえばその山鹿が禿山である場合、下草をうえて土をやわらかくし、次いで竹木を植えて雨が浸みこむようにし、やがてそれが流れになって段畑でうけとめる。という手間を経なければならない。土地を公田にすることによって人民に競争心をうしなわせ、そのうえに立って儒教的秩序による皇帝専制の官僚体制をつくりあげた中国や朝鮮では、そういうことまでして田畑をひろげようとする衝動が農民の側にない。ひろがればそれが公田になるだけなのである。
江戸期いっぱいの日本の農村はまずしいというのは、ヨーロッパとの比較においてのことで、東アジア的なレベルでの比較では富裕であったというべきだろう。維新成立後、農業国家でしかなかったこの国が、わずかに生糸を外国に売る程度の収入で、すぐさま東京大学をつくり、同時に陸海軍をつくることができたのは、東アジアの他の国からみれば魔法のようにしかみえなかったにちがいない。雄藩の基盤になった西日本における農村の比較的な意味での富裕を見おとしているからであろう。
さらに競争の原理を内部的にもたない当時の中国・朝鮮式体制にあっては、その体制の外観は堂々とはしているものの、それがいかに腐敗して朽木同然になっても、みずからの内部勢力によって倒れることがない。外国の侵略という不幸な外圧によってようやく倒れるわけであり、言葉をかえていえば、体制内における薩長的存在というものをみとめないために、他から倒されるほかない。
ISBN-10 : 4122021030
ISBN-13 : 978-4122021037
中国・朝鮮式の儒教的専制国家ならば、皇帝の専制の手足になる大官はことごとく皇帝親裁の試験で採用されるのだが、日本では藤原氏を中心とする血族団体ー公卿ーがそれを担当する。この点で、致命的な失格である。だから日本史上、中国やヨーロッパの皇帝に相当する強大な権力ー朕ハ国家ナリという式ーをもった天皇はついに出現せず、原理的に出現できないしくみになっている。
さらには土地公有も、すぐ失敗した。
荘園という私有地の成立がそうである。この公有制度の例外がどんどんひろがって、ついに武士の発生になる。武士とは要するに開墾地主のことで、土地の私有権の主張者のことである。
平安中期ごろから関東にこの開墾地主団がむらがり発生し、後期にいたってそれが平氏と称し、あるいは源氏と称して、律令体制の代表者である京都朝廷に食いこんだり、対立したりして、ついには源頼朝を盟主とするこの土地私有権の主張者たちが強大な軍事力をもって鎌倉幕府という事実上の日本政府を樹立し、中国・朝鮮体制にやや似た京都の朝廷は装飾的な政権になった。
要するに、競争の原理が、日本の下層ではつねに作動しつづけたということであり、いかに中国・朝鮮式の専制を輸入してもその原理を圧殺することはできなかったということである。
ひらたい例でいえば、山田である。明治期に日本にきた中国の有力者が、瀬戸内海を東航する船のなかから島々のてっぺんまで耕された山田をみて、
「耕シテ天ニ至ル、貧ナルカナ」
といったという。この中国人の日本認識がいかに浅薄なものであったかといえば、山田を競争の原理の象徴としてとらえなかったことである。村々の百姓たちは弥生時代から明治以来にいたるまで、他家より一段でも多く田畑をもちたいがために、地理的に耕作しがたい土地まで開墾してわずかでも生産の収穫を得た。この競争の原理が武士を発生せしめ、さらにはくだって競争をすべて悪として停止せしめた江戸体制時代にあっても、開墾と干拓ばかりは諸藩が競争してそれをやった。たとえば長州藩のごときは三十六万九千石の石高でありながら、江戸初期以来瀬戸内海岸の干拓をつづけてきたために幕末にあっては実収百万石といわれた。その収入をもって換金性の高い殖産事業をおこし、幕末ではほとんどあたかもヨーロッパの産業国家のような観を呈した。いまの山口県の一つの収入で、洋式陸海軍をもち、さらに京都における革命工作のためにばく大な費用をつかい、つづいて戊辰戦争(一八六八)の戦費をまかない、それでもなお戊辰戦争終了後に古金(慶長小判など)八万両を持っていたという。この藩はその半分を新政府に献金している。要するに日本に競争の原理があったからだろう。
中国・朝鮮式の専制体制は、競争の原理を封殺するところにその権力の安定をもとめた。その体制の模範生だった朝鮮の農村には、競争の原理というものが伝統としてない。そのために朝鮮の老農夫はだれをみても太古の民のようにいい顔をしており、日本人の顔に共通した特徴とされるけわしたがない。
明治期の中国や朝鮮の農村からみれば、江戸期の競争による蓄積をへてきた日本の農村はーとくに西日本にあってはーたしかに富裕であった。五十戸の字には三戸の富農があるといわれたのは、「耕シテ天ニ至ル」という式の競争のおかげであった。
山を田畑にするというのは百年の単位でのしごとで、大変な手間が要る。たとえばその山鹿が禿山である場合、下草をうえて土をやわらかくし、次いで竹木を植えて雨が浸みこむようにし、やがてそれが流れになって段畑でうけとめる。という手間を経なければならない。土地を公田にすることによって人民に競争心をうしなわせ、そのうえに立って儒教的秩序による皇帝専制の官僚体制をつくりあげた中国や朝鮮では、そういうことまでして田畑をひろげようとする衝動が農民の側にない。ひろがればそれが公田になるだけなのである。
江戸期いっぱいの日本の農村はまずしいというのは、ヨーロッパとの比較においてのことで、東アジア的なレベルでの比較では富裕であったというべきだろう。維新成立後、農業国家でしかなかったこの国が、わずかに生糸を外国に売る程度の収入で、すぐさま東京大学をつくり、同時に陸海軍をつくることができたのは、東アジアの他の国からみれば魔法のようにしかみえなかったにちがいない。雄藩の基盤になった西日本における農村の比較的な意味での富裕を見おとしているからであろう。
さらに競争の原理を内部的にもたない当時の中国・朝鮮式体制にあっては、その体制の外観は堂々とはしているものの、それがいかに腐敗して朽木同然になっても、みずからの内部勢力によって倒れることがない。外国の侵略という不幸な外圧によってようやく倒れるわけであり、言葉をかえていえば、体制内における薩長的存在というものをみとめないために、他から倒されるほかない。
2023年5月17日水曜日
20230517 株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻 pp.470-472より抜粋
株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻
pp.470-472より抜粋
ISBN-10 : 4334733433
ISBN-13 : 978-4334733438
「なんのための銃剣か。殺すためじゃろうが?人殺しをするための道具じゃろうが?味方だけが持っとりゃせん。敵も持っとる。殺さにゃ殺されるだけのことよ。うんと余計殺したほうの国が勝つとじゃ。それが戦争よ。それが戦地の軍隊よ。どこの国のどげな軍隊が、負くるために戦争をするとか。そげなバカはなかろうもん?そんなら敵ちゅう敵は殺して殺し上げて、土地でんなんでん取って取り上ぐるとじゃ。見てみろ、四国やらどこやらじゃ百姓どもが、水もろくに引かれん山の上んほうまで田圃作りをしてふうふう言うとるちゅう話かと思や、対馬に来てみりゃ山ばっかりの、どこちゅうて満足にゃ田も畠もなかじゃろうが?対馬だけのことじゃないぞ。だいたい大日本帝国の暮らしちゅうとは、そげなもんよ。大将やら大臣やら博士やらが上っ面だけどげん体裁のええごたぁることを仰せられましても、殺して殺し上げて、取って取り上ぐるとが戦争じゃ。・・・ふむ、それが忠義ちゅうことにもなっとろうが?臣民の義務ちゅうことにもなっとろうが?誰が決めたとか、おれはよう知らんが、そげなことになってしもうとる。ー違うか。おぉ?」
大前田は、問いを投げて口をつぐみ、野砲のすぐ真うしろまで十一、二歩ずかずかと前進した。ちょうど四番砲手が「目標。」という号令に応じて立ち上がったときのように、彼は両足を左右一歩間隔に開き、わずかに前に倒した上半身の両手で照準棍副木を握ると、中央射界をきっと注視する形になった。問いにたいするわれわれの返答を期待したふうでもなく、彼は、その姿勢で鳴りを静めた。
私は、彼の「違うか。おぉ?」を聞いて、「いいえ、違いません。」と答えねばならぬような気持に強く突き動かされながら、皆とおなじように何も言わなかったのであった。彼の激情が赴くままにぶちまけられたであろう戦争哲学は、それなりに一本立ちの風格を持っているとみえた。「耕スコト山腹ヨリ山巓ニ至ル、貧ノ極ナリ。耕サザルコト山腹ヨリ山巓ニ至ル、亦貧ノ極ナリ。」というような内容を実際的に語った彼の農民的着眼にも、私は、感心せずにはいられなかった。彼が知らぬにちがいなかろうその成句を私は知っていたけれども、そしてまた津阪東陽著「薈瓉録」(化成度(ほぼ十九世紀第一四半分)脱稿?)中の「対馬ハ米一粒出来ザル地ナリ、鮮米ヲ以テ国中ノ食トス、今モ交易シテ取来ルナリ、「三国志」ノ「倭人伝」ニ、「対馬ノ国ハ土地山険ニシテ良田無シ、舟ニ乗リテ南北ニ市糴ス。」トシルセリ、此方ノ人ハ却テ知ラズ、彼方ニテハ筆マメニ書伝フルヲ以テ三国ノ時ヨリ既ニ知リテアリ、「聖ハ知ヲ得ル」ト謂フベシ。」という記述を読んで覚えていたけれども、対馬なり四国なりの実地に立脚して大前田のごとく端的な感じ方・見方をすることは従来私にできなかったのである。まだ多くの何かを吐き散らさねば彼は治まらないのであろうか、と私は、斜めうしろから彼の頑丈な軀幹を打ち眺めて想像していた。この間、神山上等兵は、さりげなく行動を起こして、北側三個分隊の最左翼まで退却しおおせた。
「違わんじゃろう?違やせん。」大前田は、数呼吸ののち照準棍からの両手を放し、くるりとまわりの東面の仁王立ちになって、彼の設問にみずから答えた、「違おうが違うまいが、どっちでもおれはあんまり構わんぞ。構やせんが、そげんことになっとる。それじゃけん、百姓しとりさえすりゃええはずのおれまでが、人殺しに召し出されて、足かけ四年も支那三界をいのちからがらうろつきまわらにゃならんじゃったとじゃ。やっとのことで生きて帰って来りゃ、一服したかせんかに、またありがた涙の零るるごたぁる二度の、いんにゃ、二度じゃなか、三度じゃ、三度の御奉公ちゅうわけで、いまごろは麦踏みでもしとるどころか、こげな海ん中に持って来られて、遅かれ早かれ南方要員にまわさるる身が、おんなじ軍隊の貴様たちから、あさましゅうめずらしがられとる。引き合やせんぞ。何がめずらしいか。
ISBN-10 : 4334733433
ISBN-13 : 978-4334733438
「なんのための銃剣か。殺すためじゃろうが?人殺しをするための道具じゃろうが?味方だけが持っとりゃせん。敵も持っとる。殺さにゃ殺されるだけのことよ。うんと余計殺したほうの国が勝つとじゃ。それが戦争よ。それが戦地の軍隊よ。どこの国のどげな軍隊が、負くるために戦争をするとか。そげなバカはなかろうもん?そんなら敵ちゅう敵は殺して殺し上げて、土地でんなんでん取って取り上ぐるとじゃ。見てみろ、四国やらどこやらじゃ百姓どもが、水もろくに引かれん山の上んほうまで田圃作りをしてふうふう言うとるちゅう話かと思や、対馬に来てみりゃ山ばっかりの、どこちゅうて満足にゃ田も畠もなかじゃろうが?対馬だけのことじゃないぞ。だいたい大日本帝国の暮らしちゅうとは、そげなもんよ。大将やら大臣やら博士やらが上っ面だけどげん体裁のええごたぁることを仰せられましても、殺して殺し上げて、取って取り上ぐるとが戦争じゃ。・・・ふむ、それが忠義ちゅうことにもなっとろうが?臣民の義務ちゅうことにもなっとろうが?誰が決めたとか、おれはよう知らんが、そげなことになってしもうとる。ー違うか。おぉ?」
大前田は、問いを投げて口をつぐみ、野砲のすぐ真うしろまで十一、二歩ずかずかと前進した。ちょうど四番砲手が「目標。」という号令に応じて立ち上がったときのように、彼は両足を左右一歩間隔に開き、わずかに前に倒した上半身の両手で照準棍副木を握ると、中央射界をきっと注視する形になった。問いにたいするわれわれの返答を期待したふうでもなく、彼は、その姿勢で鳴りを静めた。
私は、彼の「違うか。おぉ?」を聞いて、「いいえ、違いません。」と答えねばならぬような気持に強く突き動かされながら、皆とおなじように何も言わなかったのであった。彼の激情が赴くままにぶちまけられたであろう戦争哲学は、それなりに一本立ちの風格を持っているとみえた。「耕スコト山腹ヨリ山巓ニ至ル、貧ノ極ナリ。耕サザルコト山腹ヨリ山巓ニ至ル、亦貧ノ極ナリ。」というような内容を実際的に語った彼の農民的着眼にも、私は、感心せずにはいられなかった。彼が知らぬにちがいなかろうその成句を私は知っていたけれども、そしてまた津阪東陽著「薈瓉録」(化成度(ほぼ十九世紀第一四半分)脱稿?)中の「対馬ハ米一粒出来ザル地ナリ、鮮米ヲ以テ国中ノ食トス、今モ交易シテ取来ルナリ、「三国志」ノ「倭人伝」ニ、「対馬ノ国ハ土地山険ニシテ良田無シ、舟ニ乗リテ南北ニ市糴ス。」トシルセリ、此方ノ人ハ却テ知ラズ、彼方ニテハ筆マメニ書伝フルヲ以テ三国ノ時ヨリ既ニ知リテアリ、「聖ハ知ヲ得ル」ト謂フベシ。」という記述を読んで覚えていたけれども、対馬なり四国なりの実地に立脚して大前田のごとく端的な感じ方・見方をすることは従来私にできなかったのである。まだ多くの何かを吐き散らさねば彼は治まらないのであろうか、と私は、斜めうしろから彼の頑丈な軀幹を打ち眺めて想像していた。この間、神山上等兵は、さりげなく行動を起こして、北側三個分隊の最左翼まで退却しおおせた。
「違わんじゃろう?違やせん。」大前田は、数呼吸ののち照準棍からの両手を放し、くるりとまわりの東面の仁王立ちになって、彼の設問にみずから答えた、「違おうが違うまいが、どっちでもおれはあんまり構わんぞ。構やせんが、そげんことになっとる。それじゃけん、百姓しとりさえすりゃええはずのおれまでが、人殺しに召し出されて、足かけ四年も支那三界をいのちからがらうろつきまわらにゃならんじゃったとじゃ。やっとのことで生きて帰って来りゃ、一服したかせんかに、またありがた涙の零るるごたぁる二度の、いんにゃ、二度じゃなか、三度じゃ、三度の御奉公ちゅうわけで、いまごろは麦踏みでもしとるどころか、こげな海ん中に持って来られて、遅かれ早かれ南方要員にまわさるる身が、おんなじ軍隊の貴様たちから、あさましゅうめずらしがられとる。引き合やせんぞ。何がめずらしいか。
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