2021年3月25日木曜日

20210324 みすず書房刊 ロバート・グレーヴス著 多田満智子・赤井敏夫訳「この私、クラウディウス」pp.13‐15より抜粋

みすず書房刊 ロバート・グレーヴス著 多田満智子・赤井敏夫訳「この私、クラウディウス」pp.13‐15より抜粋

ISBN-10 : 462204806X
ISBN-13 : 978-4622048060

もしできることならこの物語を両親より前にさかのぼることなく、あっさり自分の幼年期からはじめたかった。系図だの家族の歴史だのは退屈なものだからである。しかし私は(四人の祖父母のうち私の出生時にただ一人存命であった)祖母リウィアについて、いささか長くはなるが語っておかねばならない。というのは不幸にして彼女は私の物語の第一部における主要人物であり、彼女の若いころのことをはっきり話しておかないかぎり、彼女のその後の行動が不可解になるからだ。祖母が皇帝アウグストゥスに嫁いだことはすでに述べたが、これは私の祖父と離婚したあとの二度目の結婚だったのである。わが父の死後、わが母アントニア、(法律上の家長たる)伯父ティベリウス、さらにアウグストゥスその人ー父は遺言によって我々遺児を皇帝の力強い保護にゆだねたーにとって代わって、祖母はわが家の実質上の家長となった。

 リウィアはローマで最も古い家系の一つであるクラウディウス氏の出であり、祖父も同様であった。今でも時おり老人たちが歌っている民謡だが、その折り返し句(リフレイン)はこうなっているークラウディウスの家系の樹には、二通りのりんごが生る。片や甘い実、片や渋い実。数の多いのは渋いりんご。その民謡の作者が渋いりんごのなかに数えているのは、ウィルギニアという自由民の娘を奴隷にして誘惑しようとし、そのあげくローマ全体を騒動にまきこんでしまった〈増長漢〉アッピウス・クラウディウス、共和政時代に全ローマの王となろうとしたクラウディウス・ドルスス、聖なるひよこが餌を食べないのを見て、「それなら飲ましてやれ」と叫んでひよこを海に投げ込み。その結果重大な海戦に敗れた〈美男〉クラウディウスなど。甘い実のうちに数えているのは、ピュロス王との危険な同盟を避けるようにローマを説得した〈盲者〉アッピウス、シチリアからカルタゴ人を追い出した〈木の幹〉クラウディウス、兄である大ハンニバルの軍に合流しようとヒスパニアを出たハスドバルを打ち破ったクラウディウス・ネロ(ネロはサビニ方言で強者を意味する)などである。この三人はみな豪胆で賢明であったばかりか有徳の人物であった。さらに民謡作家がいうには、クラウディウス氏の女たちも、いくたりかは甘いりんご。しかしこれまた数の多いのは渋いりんご。

 祖父はクラウディウス氏の最良の人物の一人であった。ユリウス・カエサルこそはあの困難な時期にローマに平和と安寧をもたらすに足る人物と信じて、かれはカエサル派に与し、エジプト戦役ではユリウスのために勇敢に戦った。ユリウスが専制的権力を狙っているのではないかという疑念が生ずると、祖父はあからさまに仲違いこそしなかったが、それ以上ユリウスの野心に協力しようとはしなかった。そういうわけでかれは神祇官職を求めてそれを手に入れ、ガリアに老兵たちの町を創設するために神祇官の資格でガリアに派遣された。ユリウス暗殺の後、帰国した祖父は、大胆にも、暗殺者たちに専制者殺害の栄誉を与える動議を提出して、当時はオクタヴィアヌスといわれていたユリウスの養子、若きアウグストゥスと、その盟友アントニウスの敵意を買っていまい、ローマから逃亡せざるをえなかった。ひきつづいて起こった争乱の中でかれはその時々に正義があると信ずる側についた。一時期、若きポンペイウスに味方し、次にエトルリアのペルージャでは、アウグストゥスに敵対してマルクス・アントニウスの弟と共に戦った。しかし、アウグストゥスが養父ユリウスの仇を討たねばならぬ立場にあり、その義務を情容赦なく果たしたとはいうものの、かれが専制君主的心情を持たず、人民の古き自由を回復しようとしていることを遂に悟ると、祖父はかれに与して、わが祖母リウィアと、当時まだ二歳であった伯父ティベリウスと共に、ローマに定住したのであった。以後、かれは神祇官の職務に満足して、もはや内戦に関与することはなかった。

2021年3月23日火曜日

20210323 1500記事の到達に際して思ったこと、および今後の記事作成について

 今回の記事投稿によって、総投稿記事数が1500に到達します。また、これまで約5.75年(5年9カ月)程、ブログ記事の作成を行ってきましたので、これを日数に換算しますと約2100日程になります。つまり、概ね2100日間にて1500記事の投稿をしてきたことになりますので、10日のうち7日以上はブログの更新を行ってきたということになります。

これを多いと見るか、少ないと見るかは、自身の中に判断基準となるものがないため分かりませんが、それでも「まあ、やったな・・。」といった思いはないとは云えません。とはいえ、今現在の時点で大きな感情の変化などは全くなく、ここにおいても「今日は1500記事到達のこと自体を記事の題材として書けば良いかな・・。」と思いつつ、キーボード上の指は動いています・・。

また今後、当ブログを継続するかにつきましては、おそらく、続けることは思いますが、その続け方については、具体的には、以前にも書きましたが、もう少し書籍からの引用部を記事としたものを増やして行きたいと考えています。

こうしたある意味「断片的な記述」をあたかもモザイク画のピースのようにして、色々と配列を変えてみて、そのニュアンスや意味合いについて考えてみるというのも、なかなか面白いのではないかと、昨年から始めたツイッターを通じて思うようになりました。

既に周知のこととは思いますが、書籍とは面白いもので、書かれた文章の意味の他に、それが著された時代背景や、その後の評価、そして、そこからの二次創作との関連など、それ単体では終わるものではなく、おそらく、どのような著作であれ、他の著作と何らかの関連性があると云えます。もとより書籍ひいては文章を作成する人間の意識自体が、そうした仕組みになっているのだと云えますが、ともあれ、そうした、さまざまな要素からの視座にて、ボクが興味深いを思った書籍内の記述を、今後さらにある程度(100~200程度でしょうか?)積み重ねることにより、何かしら面白い異なった視座を得ることが出来るのではないかと思われるのです・・。

また、この着想の基層にあるものは、大西巨人による長編小説「神聖喜劇」であると思われます。この小説は全五巻ではありますが、内容が大変に濃密であり、また、その特徴として古今東西文献の引用およびそれらについての所感が随所に散りばめられていることであり、それら全てを文脈をも理解しながら読み進めて行くのは、それなりに大変な作業であると思われます。

個人的には、当著作は、あまり若い頃に読むよりも、20代後半か30代前半のある程度、体力と知力のバランスが取れている頃に読むのが適しているのではないかと思われます。そして、それを過ぎると今度は、体力と旺盛な知的好奇心が減衰してきて、こうした長編小説を読む気力も徐々に損なわれていくのではないかと思われます。

ボクの場合、正直なところ、現在では当著作全五巻を再び通読するのは、時間と気力の双方から困難であると思われますが、しかしながら、そうした著作の面白さを、今後、当ブログを通じて紹介することが出来るのは、面白く、それなりに意味とやりがいがあるように思われます。

ともあれ、今回、1500記事到達に際しても、こうしたことを書いていますので、やはり、あまり到達への実感や感慨といったものはないようです・・(苦笑)。とはいえ、緊張して煮詰まってしまい何も書けないでいるよりかは、今回のような記事であっても、とにかく書くことが出来ているのは、記事作成当初の頃から比べますと、それなりの進化とは云えるのかもしれません・・(笑)。

要は自意識の問題なのでしょうが、記事作成の継続によって何と云いますか、自意識が文章にて表現し易くなったとは、たしかに思えますが、果たしてそれが進化であったのかは、今もってよく分かりません。たしかに「文は人也」と云いますが、しかし逆に「人は文也」とは必ずしも云いませんので、やはり、人には文章にて汲み尽せないものが少なからずあるのだと云えます。そして、その汲み尽せていないものを文章化しようとする試みとは、それがどのような様式の文章であれ、やはり、それなりに面白いのではないかと思われます。また、今後の当ブログにおいては、そうしたものを自身の文章であれ、書籍からの引用であれ、出来るだけ提示してゆきたいと考えています。

これまでどうもありがとうございました。おかげさまで1500記事に到達することが出来ました。そして、今後もまた、どうぞよろしくお願いいたします!

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設



一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~

ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: tsurukiclinic2001@gmail.com 

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。







2021年3月22日月曜日

20210322 記事作成の変遷と誤配について思ったこと

 目標としていた1500まで余すところ当記事を含めて2記事の投稿となりましたが、相変わらず何の実感や感慨も湧かず、今回に関しても、先ほどから、あまり気乗りしないままにて記事作成を始めました。さて、1500記事と云ったところで、そのうち実際にボクが作成したものは、精確に勘定をしたわけではありませんが、1200~1300記事ほどであると思われます。そして、その残りの多くは、書籍からの引用部分を記事としたものであり、これらは特に文章が書けないと悩んでいた、ブログ開始当初の頃に多く作成していましたが、次第に対話形式のオリジナル記事の作成へと移行して行きました。

この対話形式での記事作成は、当時は書き易かったために用いたわけですが、現在になってみますと、不思議なことに、あまり書き易いとは思われないのです。これは習慣の変更をボクの精神が驚いているからであるのか?あるいは、現在主流となっている独白調での記事作成を継続することにより、ボクの精神に何らかの変化が生じたからであるのか分かりませんが、書き手であるボクとしては興味深いと思うところです。

また今後、機会を設けて対話形式での記事作成を、ある程度の期間継続してみますと、何か新たな変化を見出すことが出来るようになるのかもしれません・・。

しかし、そうした変化は上述のように、わずかには感知されるのですが、であるからと云って確立された自分の文体の認識は未だに出来ず、そこから、1500近く記事作成を行ってきても、わずかに文章作成がスムーズになったことを感じる程度であり、独自の文体獲得の認識は未だ訪れないと云うことが出来ます・・(苦笑)。あるいは、こうしたことは人によって異なるのかもしれませんが、何か一般化し得る変化の過程といったものはあるのでしょうか・・。

ともあれ、そうしたことを気にしつつも、現在に至るまで、記事作成を継続出来ているということは、センスの有無は別としても、文章作成自体は嫌いではないということにはなるのでしょうか・・。こうしたことに関しても、ボク自身では明確な判断は出来ず、他方で「では、何故これまで記事作成を続けたのか?」と問われますと、少し考えてしまうのが実情であると云えます・・(苦笑)。

そういえば、先日読んだ書籍の「はじめに」に誤配の重要性が書かれていましたが、その意味では、当ブログもまた、さまざまな誤配あるいは偶然によって始めたものであると云えます。そして、その誤ってボクに配られた「運」によって始められた当ブログが、今に至るまでどうにか続いているということには「何か大きな意味があるのかもしれない」とも思われ、そこからも、やはり現時点では、ブログ記事を作成しているボク自身についての判断や言及は避けておいた方が良いのではないかと思われるのです・・。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設



一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~

ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: tsurukiclinic2001@gmail.com 

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。










2021年3月21日日曜日

20210320 分野により言語体系(文化)が異なることから思い出したこと・・

今回の記事投稿の後、更に2記事更新することにより、かねてよりの目標であった1500記事に到達します。また当初、今月中での到達を目指していましたが、現状から考えてみますと、それは特に無理なく成し遂げることが出来るのではないかと思われてきます。

とはいえ、未だ目標には到達していませんので、あまりそうした絵空事を書くのも如何なものかとも思われるのですが、それでもなお、今回目標としている1500記事は、1000記事到達以降からは、思いのほかに苦労続きの道のりであり、書いているボクからしても「よくもあそこ(1000記事)から更にここまで書き続けることが出来たな・・。」といった思いがあります。

しかし同時に、こうした思いは不思議なほどに、感動や感慨といった感情的要素には結び付かず、ここにおいては、ただただ文章が先に進むことを急かすばかりと云えます・・(苦笑)。もちろん、であるからと云って、さきに述べた思い自体が捏造というわけではなく、おそらく、ある程度普遍的であると思われるのですが、このように文章作成を行っている時とは、その時の臨在的な感情から、ある程度距離を置くことが出来ていると思われるのです。そして、そのために、さきに書いたような認識が出来るのではないかと思われるのですが、このことは、おそらく、口語と文語との相違と関係があるようにも思われますが、もう少し精査してみますと、何か面白いことが分かるのではないかと思われます。

また、口語と文語を含めた言語にて苦労したのは、歯系院に進んだ時であり、当分野の文献を読んでみても、その内容は分からず、また、さまざまな発表で用いる文章の作成も当初それなりに苦労しました。しかし同時に幸運であったのは、私が入った研究室は、以前にも書きましたが、歯系分野でありながら、研究室の長である教授が歯科医師でないことが少なくない分野であり、そして、私の指導教授もまた歯科医師ではなく、工学と歯学にて博士号を取得された所謂ダブル・ドクターでした。当時、当分野では、そのような研究者はあまりいませんでした。

ともあれ、そうした教授であることからか、当研究室の院生や院生OBの先生方もまた、少し変わっている方が多く、人文社会科学系の大学を卒業されて、社会人生活を経てから歯学部に入学された先生や、浪人や留年にて多少時間を掛けて卒業にまで至った先生もいました。そして指導教授は、どうしたわけか、そうした先生方から大変人気がありました。こういった研究室の事情もあってか、私が人文社会科学系を背景とした歯科技工士であることは、そこまで大きな負い目としては感じられなかったのだと現在となっては思われます・・。

それでも当初は「毛色が違う変なヤツが来た」ということからか、色々と云われた記憶もありますが、実験が次第に進み、学会発表などを重ねていくにつれて「コイツにも長所のようなものがあるのかもしれない・・。」と思われたのか、あまり云ってこなくなり、むしろ、人文社会科学系のことについては訊ねられるようになりました・・。

そして、そうした経緯もあってか近隣の専門学校の歯科衛生士学科での教養科目(英語)を「コイツにやらせてみるか・・」となったのではないかとも思われますが、そこから、どうにか学位取得にまで至り、その後、生きるために色々とやっていますと、書籍を読むという癖は多少衰えたとはいえ続いていますが、ボクの場合、放って置きますと、人文系の乱読に走る傾向があることがわかりました・・(苦笑)。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設



一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~

ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: tsurukiclinic2001@gmail.com 

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。















2021年3月19日金曜日

20210319 本日の外出時の服装から思ったこと【時にはこういう記事も・・】

当記事を含めて、残り4記事の投稿により1500記事に到達します。とはいえ、そうした実感は未だ皆無であり、おそらく、この調子にて実際1500記事に到達してみても、それらしい感慨といったものは生じないように思われてきます。

それでも記事作成を行わないと目標への到達はありませんので、今回につきましても、つい先ほどから記事作成を始めた次第です。

さて、本日は日中は外出していましたが、陽が出ている間は暖かく感じられ、歩いていると少し汗ばんでくるほどでした。また、本日の服装は、白の無地Tシャツの上に同じく白のオックスフォード素材のボタンダウンにの下はリーバイスの505、そしてベルトは愛用しているホワイトハウスコックス社のブラウンメッシュベルトで、靴は以前にも記事にてとり上げた黒のダナー・ライトを履き、ジャケットはバブアー社の黒オイルドコットン生地のインターナショナル・ジャケットを着て、背中には10年来、相変わらずのグレゴリー社のバックパックを背負っていました。

こうした自分の服装については、これまでにあまり書いてきませんでしたが、本日の服装は、現在のボクの中ではお気に入りであり、靴については以前にも書きましたので、ここでは触れませんが、上着のバブアー社のインターナショナルジャケットは、ポケットが多く収納力があり、且つミリタリーっぽく見えず、また、無造作に着ていても、それなりにオシャレに見えると思われることから、ボクのような不精者向きであると云え、さらに、防水機能を持つオイルドコットン地であることから、ある程度の降雨には対応可能であり、かなり優秀なジャケットであると云えるのですが、惜しいことには多少値が張り、現在は程度の良い古着にて購入した2着(黒・紺)を保有するのみとなっています。

また、このジャケットの下に着るシャツについては、かねてよりインディビジュアライズドシャツ社の白オックスフォード素材のボタンダウンを合わせてみたいと考えているのですが、このシャツはボクにとって大変高価であるため、未だに1枚も購入出来ていません・・。

くわえて、ジーンズとベルトについても、今後、このスタイルに合うものをさらに検討したいですが、同時にボク自身の体型についてもあまり変化しないように気を付けた方が良いのかもしれません・・(苦笑)。

ベルトについては、さきに述べましたホワイトハウスコックス社のメッシュベルトは2003年に購入した記憶がありますので、かれこれ18年程用いており、時々手入れはしていますが、未だに全く問題なく現役であり、おそらく、現在私が使用している衣服類で最も古い部類に入ると云えます・・。

このベルトはかなり迷った末に購入したものですが、現在、こうして意識してみますと、同タイプの色違いも今後機会を見つけて購入してみたいと思うようになりました。

ジーンズは、以前ほどの興味はないものの、先ず価格が妥当であることと、穿いた時のシルエットがバランス良く細身になり、ダナーライトを履いた時にダブつかず、動き易くて穿き込んでいくうちにアジが出て来るデニムであれば良いと考えていますが、実際のところ、これら全てを満たすジーンズは未だ見つかっていませんので、良い一着を見つけるためにボチボチと試着を通して探して行こうと思っています。

ちなみに、これまでで良いと思ったのはユニクロのセルビッジレギュラーフィットジーンズであり、この1本は特に高価でもなく、シルエット、素材感も良く、大変コストパフォーマンスの良い1本であると思われます。

そしてここ最近は、再び帽子を被る習慣を身に着けようと思っているのですが、一端帽子を被る習慣から脱した後に再び帽子を探そうと試着してみますと、何故か、どれも似合わないように思われてくるのです。これはおそらく外観の「慣れ」であるとは思うのですが・・こうした心理もなかなか興味深いものであるのかもしれません・・。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設



一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~

ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: tsurukiclinic2001@gmail.com 

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。











20210318 記事作成に伴う「表出」と「表現」について思ったこと

目標としている1500記事まで残り当記事を含めて5記事の投稿となりましたが、相変わらず欝々とした気分は続き、また、記事作成時に感じる「圧」のようなものも変わりません。

そうしますと、こうした「楽しくはない」状況にて作成した記事に果たして意味があるのだろうか?と考えていますと思い出されるのは先日投稿の記事においても抜粋引用させて頂いた「サイファ 覚醒せよ!」内記載があった「表現」と「表出」の違いです。

当著作内記述によりますと「表現」とは「相手がいて、その表現を理解し、それに対し何らかの印象を持った」ということであり、他方、「表出」とは「エネルギーをある対象に注ぎ、その「表出」行為の後にカタルシス(感情浄化)が生じる」こと、となっていました。

これまでボクは上記のように「表現」と「表出」の違いについて意識したことはありませんでしたが、この記述を読み、そして、これまでの経験を参照してみますと、たしかに、そうした違いはあるように思われてきます。また、その視座から考えてみますと、ここ最近の投稿記事は、「表出」において特徴的である作成後のカタルシス(感情浄化)はあまり感じられず、また「表現」において特徴的と云える、記事を読まれた方々の理解、そして、何らかの印象を持って頂いたかについては、精確には分からないものの多少の反応はありましたので「皆無ではない」といったところになると思われます。

また、「表出」に付随するカタルシス(感情浄化)については、今しばらく記憶に基づいて考えてみますと、記事作成当初の頃は、それなりに感じられており、また、それがあるからこそ継続することが出来ていたのだとも云えます。しかしながら昨今は、それに慣れて麻痺してしまったのか、さきに述べました通り、あまり感じることはありません。しかし他方で、記事作成を止めていますと、調子が悪くなってきたり、あるいは、さらに気分が欝々としてきますので、やはり記事作成によるカタルシス(感情浄化)自体はあるのではないかと思われます。

そうしますと「1500記事近くまで積み重ねてきた「表出」によるカタルシス(感情浄化)の実感は、どこに行ってしまったのだ?」といった疑問が生じるわけですが、ボクが思うに「実名を晒して文章を継続的に公表する」という行為に付随する、さきにも述べた「圧」と「表出」に伴うカタルシス(感情浄化)は互いに相殺し合うものではないかと思われるのです。そして、それを続けること、言い換えますと、その行為を日常化することにより、わずかにカタルシス(感情浄化)が「圧」に勝る状態が醸成され、そうして、さらに記事作成を続けることが出来るようになるのではないかと思われるのです。

つまり、以前にもこの表現は用いましたが、まさに感覚的には「自転車操業」に近いのではないかと思われるのです。とはいえ、やはりボクとしては、何らかの実感し得るカタルシス(感情浄化)も欲しいとは思うところですが、それは今しばらく記事作成を継続していますと、何かがボンヤリと見えてくるか、あるいは突然生じるようなものではないかと、これまでのボクの経験は語ります。

また、私見としてはカタルシス(感情浄化)は別言しますと「生きていて良かった」といった実感であると云えますが、これは、これまでのあまり幸運とは云えないボクの人生においても幾度かはあったと云えますが、しかし、それらの具体的内容を書くことについては、以下の記述が思い出されることから、どうも躊躇してしまうのです・・。

“No, it is impossible; it is impossible to convey the life-sensation of any given epoch of one’s existence-that which makes its truth, its meaning-its subtle and penetrating essence. It is impossible. We live, as we dream-alone.”
Joseph Conrad Heart of Darkness Collins Classic P.32

「・・そう、それは無理だよ。自分の存在の忘れ難い一時点で覚えた生の感覚というものを、他人に伝えるのは不可能なんだよ。その感覚こそが人生の真実、その意味ーその微妙で深く浸透する本質なのだが。無理だな。ちょうど夢を見るのと同じように、僕らは生きているんだーただひとりぼっちでね・・」
ジョセフ・コンラッド著 藤永茂訳「闇の奥」三交社刊 pp..74ー75

しかしそれでも、何時かは書いてみたいと考えてはいますが・・。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設




一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~

ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: tsurukiclinic2001@gmail.com 

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。






2021年3月18日木曜日

20210317 スパイラルのもとにあるものとしての思想について・・【ヒトは自分がされたことを他者に対しても行う】

 本日の首都圏は日中を通じて温暖であり、既に冬は過ぎたように感じられました。しかし同時にここ最近は、新型コロナウィルス感染症の変異種の感染者数が増加しつつあるとのことから、相変わらずの油断の出来ない不安な状況と云えます・・。

さて、昨日の投稿記事は、思いのほか多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。そして、当記事では、主に我が国にて人が人に対応する際の「癖」のようなものを書いたと云えますが、そこから思うことは、我が国にはどうしたわけか、人間に対する考え全般に、あまり思想的な厚み、歴史を経て蓄積されたものが乏しく、あるいはまた、古来より我が国の社会とは、それで済む、分かり合える社会であったようにも思われるのです。

それは「そうしたことを考える機会が歴史を通じて乏しかった」というよりも、さらに深いところの「そうしたことを考えてしまう性質が乏しかった」のではないかと、ボクには思われるのです。(巨視的には民族的な均質性ゆえにか?)

以前読んだ書籍に、たしか19世紀始め頃、帝政ロシアの船が蝦夷地(北海道)周辺にポツポツと出没する頃になりますと当時、蝦夷地を治めていた松前藩か幕府出先機関が、この地の更なる警備強化の命を受け、何れかの数人が蝦夷地北方の海岸付近に見張り小屋を建て外国船に対する警備をすることになったのですが、その記述によりますと、彼等は本州と比較すると寒さの厳しい蝦夷地であっても、あまり寒さを防ぐといった居住についての工夫などはせず、そのまま次第に寒さのため衰弱していったとのことでした。おそらく、全てそうであったとは思われませんが、しかし、往々にして、江戸時代のお侍さんとは、このような感じであったのではないかとも思われるのです。また、そうした振舞いとは、ひと昔前、昭和あたりには珍しくなかった「全く家事をしない一家の主人」にも親和性があり、これらは同じ精神的な系譜上にあるように思われます。

こうした態度は、見方次第でさまざまな表現が出来ると思われますが、一つには「潔い」といったコトバで表すことも出来るのではないかと思われます。そうしますと、それは太平洋戦争時の旧日本軍による決死的な攻撃の背景にある精神構造にも類似すると思われてきます。端的にそれらは「自分の生への執着を少なくし、任務完遂には執着する」といった、ある種、自己犠牲的な精神とも見受けられますが、この精神は、さまざまな組織において、特に従業員や被治者が持つべき徳目としては極めて有効であることから「任務完遂は誰・何のため?」といったことはあまり考えられることはなく、現在に至るまで(金科玉条のように)生き永らえているのだと思われます。

しかしながら一般的に「ヒトは自分がされたことを他者に対しても行う」と云われることから、こうした精神構造を持つ方々が、人々を治めるようになりますと、まさに無意識のうちに、その従業員や被治者に対しても自己犠牲を強いるような施政になることは火を見るよりも明らかであるとも思われるのです・・。

そのように考えてみますと、身体的な快適さを求めることも特に悪いことではなく、また、そこでさまざまな経験を経ることにより「快適さ」の質なども実感を通じて理解出来るようになるのではないかと思われるのです。

そして、そこで初めて「自己犠牲」と「快適さの追求」のバランスを取ることが出来るようになると思われるのですが、しかし、ここでとても重要であると考えるのが、この二つを理論的に結節させる観念・思想の存在です。

おそらく、歴史を通じ我が国の社会では、この観念・思想が不在であるか、あるいは普遍的なものが存在しないのではないかと思われるのです。(ガラパゴス?)

そして、多くの人々は薄々気が付いていたのかもしれませんが、それがないことが明らかになってしまったのが丁度、新型コロナウィルス感染症に社会全体が見舞われている現在といったところではないでしょうか?

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!




一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~

ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: tsurukiclinic2001@gmail.com 

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。