2017年11月20日月曜日

20171120 歯科材料の分類:①

歯科に用いる材料も含め、一般的に我々の身の回りにある『物』の材料とは以下の四つに分類することが出来ます。
①:有機材料 ②:無機材料 ③:金属材料 
④:複合材料

そして、全ての歯科材料とは、この四つのうちの何れかに分類されます。

これら四種材料の特徴を述べていきますと、印象材、レジンなどに代表される①の有機材料とは、比較的柔らかく、変色・着色が生じ易いと評し得ます。

次に各種歯科用セラミックスに代表される②の無機材料とは硬く(剛性が高く)変色・着色が生じ難く、審美性に優れ、生体為害性が極めて低いことが挙げられます。

次に各種歯科用合金に代表される③の金属材料とは機械的強度に優れるものの、特有の金属光沢を呈し、天然の歯に見られるような微妙な透過性、透光性がなく、また各金属においては生体為害性の発露と云える金属アレルギーが生じる可能性があることが挙げられます。

最後に、これらのうちの複数材料の長所を組み合わせることを試みた材料がコンポジットレジン、硬質レジンなどに代表される④の複合材料ですが、これらは一般的に①の有機材料に比べ機械的強度には優れるものの、審美性の高さ・生体為害性の低さでは②の無機材料には劣り、また機械的強度といった点においては③の金属材料よりも劣ると云えます。

そして、これらの材料の中で、有史以来、古くから歯科治療において材料として扱われてきたものが③の金属材料であり、そのなかでもとりわけ金は加工がし易く、イオン化傾向が小さく、口腔内においても溶出することなく安定であることからか、紀元前5世紀頃のイタリア半島中部にあった都市国家群であるエトルリアにて『差し歯ブリッジ』あるいは『可撤式部分義歯(歯根付)』と云えるものが出土しているが、このブリッジ、義歯の歯の結紮、結束に用いられていたのが『金の針金』であった。

また、これと構造的に類するものは同じ古代地中海世界の東岸、現在のレバノンに位置するフェニキアにおいても出土していることから、おそらくこれら古代の人々とは、様々な金属を実際に用いることにより、金のイオン化傾向の小ささ、ひいては生体為害性の低さもまた認識していたのではないかと思われる。

そしてまた、現在においても金あるいは金合金とは加工のし易さ(展延性)、生体為害性の低さ(イオン化傾向の小ささ)などから最高の歯科材料と考える臨床家の方々が少なからずいらっしゃると聞き及びますが、そうした御意見の背景には、おそらくこうした実際の歴史に基づく知見があるのではないかと考えます。

今回もまた、ここまで読んで頂きまして、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに日本列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された諸地域のインフラの復旧、回復そして復興を祈念しています。

加えて、昨今より再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。










20171119 新たな記事主題について、850記事・100万文字到達まで・・

つい先日総投稿記事数が800に到達したと記憶していましたが、その後早いもので既に10記事の投稿を行ったようです。

そして、現在のペースを維持して記事作成・投稿を行うことにより、年内に850記事まで到達することが可能であるかもしれません。

この目標は、ある程度現実的であると思われますので、これを当面の目標として記事作成を継続をしていこうと思います。

さて、本日の首都圏は日中より気温があまり上がらず、徐々に季節が暮秋から初冬に移っていることが実感されます。

また、ここ最近はブログ記事の主題として我が国の古代史に関連するものを比較的多く作成してきましたが、今後もこの主題にて書き続け、同時にまた、他の何かを主題として、ある程度書き続けてみたいといった考えも生じてきました。

とはいえ、その主題として相応しいものは今現在に至るまで見つかっておりません(苦笑)。

そのため新たな主題となり得るものを探すべく、どうにか自身の文章にて(ある程度の期間)書き続けることが可能な主題について、本箱に収納してある書籍を参考としながら考えたところ哲学・思想関連および歯科理工学の書籍が割合多く出てきましたので、それらを参照しつつ、今後しばらく記事作成を行ってみようと思います。

また、そうであっても本日作成分のような散文的文章による記事もまた書き続けますので、こちらの方も引き続きよろしくお願いいたします。

そして、本日に関しては、ここまでにて、ある程度書き連ねてしまいましたので、さきに述べたいくつかの主題にて記事を作成することは明日から行うこととします。

そういえば、ここまで書いており、これまでに作成したブログ記事一つの文字数とはどの程度になるのかと、不図思いました・・。

感覚としては概ね一記事1000~2000字程度にて作成していると思われるのですが、平均すると1200字程度あたりになるのではないかと思われます(こうした場合は、どちらかというと低く見積もっておいた方が良いと思われる)。

そして、一記事1200字として、これまでの総投稿記事数を凡そ800として考えますと、これまでに大体960000文字書き続けたということになり、さらにはあと30記事程度記事を作成することにより1000000文字に到達ということになります(いや、あるいはこれまでのいい加減な数値化による誤差により、既にそれは到達しているのかもしれませんが・・)。

そうしますと、これはこれである程度の目安、適当な到達目標とも見做すことが出来ますので、今後850記事到達を目指す最中における、別の到達目標と、これを見做そうと思います。

ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに日本列島各地において生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された諸地域のインフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。



























2017年11月19日日曜日

20171118 筑紫君磐井について 言向け和す(ことむけやわす)

さきにも少し触れたが、遅くとも六世紀初頭の北部九州(筑紫)においては筑紫君磐井を盟主とする、いわば北部九州連合政権といったものが存在していたことは同時代のことを記した日本書記の継体紀の記述からも推察することが出来る。

そしてまた同時に、この北部九州連合政権とは、畿内のヤマト王権と関係を持たない独立した存在ではなく、遅くとも五世紀代において既に畿内ヤマト王権との間に同盟関係を築いていたと考えられている。

この同盟関係とは、互いにある程度の身分秩序を持ちながらも、筑紫君とは北部九州においては、地域内諸豪族を束ねる、いわば盟主的存在であり、また同時にヤマト王権に対しては、高い自立性・独立性を保持した存在でもあった。

しかしながら、五世紀代のヤマト王権とは、倭王武(おそらく雄略天皇)による中国南北朝時代の国である宋の皇帝に対する上表文(宋書)、あるいは埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の幾分猛々しい銘文からも推察されるように大王(おおきみ)自ら甲冑を環き(つらぬき)列島あるいは朝鮮半島における軍事行動を展開していた時代であった。

この軍事行動とは、端的に表現すると列島在地諸勢力の武力による制圧・征服である。

こうした専制的体制を志向するヤマト王権に対し、最後まであくまでも(平等に近い)相対的な同盟関係であると認識していた北部九州連合政権とは、ごく自然に独自に朝鮮半島とも交易を行い、またその国(新羅)とも対ヤマト王権に対してと同様、同盟関係を結んでいた。

そして継体天皇の御代である六世紀初頭、王権による朝鮮半島への派兵に際し、北部九州連合政権からの出兵を命じられた磐井は、これまでのヤマト王権より命じられた兵士、物資などの負担によって蓄積されていたであろう不満を表明し、そしてヤマト王権の朝鮮半島に渡る船に対して海路の妨害、あるいは朝鮮半島諸国からの来貢船を自領内の港に引き込むことなどを行うことにより徐々に状況が悪化し、そして戦端が開かれた・・。

九州に上陸したヤマト王権の対磐井討伐軍と、それに対する磐井の軍勢は筑紫国御井群(福岡県小郡市、久留米市周辺)にて決戦が為され、その結果、磐井を盟主とする北部九州連合政権側の軍勢が敗れた。

戦に敗北した後の磐井に関する記述は文献により異なり、討伐軍により処刑された、あるいは筑後川沿い東に逃亡し豊の国に至ったともされている。

以降、筑紫君の後継者となった葛子はヤマト王権に対し、服属の証として支配地域であった糟屋の屯倉を差し出し、またおそらく海路の要衝である博多湾沿岸地域の支配権をも王権に譲渡したのではないかと考えられている。

また、ヤマト王権の軍勢はこの戦の後、筑紫君磐井が生前に造営した墳墓とされる岩戸山古墳周辺にあった石像の人馬を破壊し、以降この文化(石人石馬)は廃れ、その後継としてあまり人目にはつかない石室を装飾する当地域独特の装飾古墳文化が生じたものと考えられている。

ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに日本列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸インフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。


















2017年11月18日土曜日

20171117 文章を書く際の大きな波と小さな波 および書籍からの抜粋引用『司馬朗太郎対談集』より

本日は帰宅が遅くなったことから、ブログ記事の作成は止めておこうと考えましたが、習慣とは恐ろしいもので、何かしら書いておかないとどうも落ち着きません。

とはいえ、本日に関しては昨日までの我が国の古代史もしくは民俗文化に関連する事柄を比較的硬質な文体にて書くことは困難であると思われたため、散文的な文体にて書いていこうと思います。

さて、ここ数日にて首都圏はまたもう一段階寒さが増したように思われます。ここ関東地方の冬も既に四回目ではありますが、未だにこれに『慣れた』といった感じはありません・・。

一方、ブログ記事の作成に関しては昨今は多少慣れてきたようであり、比較的硬質な文章も、こうした散文的な文章を書くことも『波に乗れば』特に無理なく書くことが出来るように思われます。

しかし、
こうしたものにも、さらに大きな視点での『波』があるようであり、おそらく現在の私とは、この大きな視点における『波』に関しては、そこまで悪い状態ではないように思われます。

また、毎度毎度ブログ記事作成時における『波』は、何かしら書き始めることにより、徐々にスイッチが入っていくような感じがあると思われます。

他方、
大きな視点での『波』とは、書き手自身の人生の『波』あるいは『バイオリズム』らしきものと少なからぬ関連があるのではないかと思われます。

また、毎度感じる、小規模な『波』に関しては、自身の工夫により、ある程度制御、調節することが出来るのではないかとも思われます。

くわえて、ここ(小規模な『波』)における工夫の仕方によって、そこで作成されたブログ記事を読んで頂く方々の数が変化するのではないかと思われます。

しかし、現段階において文章として表現することが可能であるのは、ここまでであり、その先にある『具体的に如何なる工夫により記事閲覧者数を増やすことが出来るのか?』といったことは未だよく分かっておりません・・(苦笑)。

あるいはそれは、その時・その時にて読んでいる書籍からの半ば無意識における影響によるものであろうか・・?

それでも
、自身がここまで実感を以って考えることが出来るようになった背景には、これまでに継続してきたブログ記事の作成があると思われますので、その意味においては、これまでのブログ記事作成とは、自身にとって多少の成長を与えてくれたのではないかとも思われます・・。

そしてまた、閲覧して頂いている方々の中で、それら記事を読むことにより、何らかの新たな発見あるいは興味、関心の対象が生じたのであれば、それは記事を作成した者にとって望外の僥倖と云えます・・(笑)。

さて、ここまで書いており、先日偶然読んでいた書籍にて少し気になった部分を以下に抜粋引用します。
朝日新聞社刊 司馬遼太郎対談集 『日本人の顔』pp.38-39
対談は司馬遼太郎と江崎玲於奈
ISBN-10: 4022602732
ISBN-13: 978-4022602732

『
江崎 試験の話に戻りますと、日本の試験制度はたしかに創造的にものを考える人間には不向きだと思います。しかし、それは日本が創造性を必要としない社会だからでしょう。考えようによっては、これで日本人がクリエイティビティをもったらとんでもないことになるし、あんまり繁栄し過ぎるんじゃないですか。(笑)

司馬 国立がみな同じ入試形態でやっているのはおかしいですね。つまり東京大学はそうだけれども、京都大学は違う方法でやる。数学が出来るやつは全部入れちゃうとか、数学ができなくても、おまえはこういう方面の才能が伸ばせるような席だけは与えてやるとかいうことがないでしょう。全部画一です。どういう民族をつくるつもりでそうするのか、よくわからない。いま、一番の秀才の集まるのは医学部だそうですね。医学進学コースは平均七〇点ぐらいとらなきゃ入れない。医者が重んぜられる社会は無目的社会といえませんか。医者になるというのは、生活の安定を望むというだけが目的の場合が多いから、それだけエネルギッシュな秀才少年たちの志としたら、どうしようもない。ところがいま優秀な少年の志がまさにそれでしょう。

江崎 全国画一の試験が実施できる国だということは、逆にいえばメリットの一つでしょう。日本は創造性をあまり必要としない国であってよいのかもしれません。金をため込むことが目的だったら、金をため込むこと自体に快感を感じればいいわけです。だけど金色夜叉みたいになってしまう・・・(笑)。

司馬 知能の限り傾けて金をためる。一種の復讐かな。(笑)

江崎 戦争に負けた復讐かもしれませんよ(笑)。日本は戦争に負けて、もうだめになるかもしれないと思われたのに、経済を復興させたうえ、経済進出を三十年かけて成し遂げた。その実績から言えば、日本人は今後もかなりの難問題でも、実行能力にものを言わせて何とか切り抜けるでしょう。しかしそのような行き方には限界がありますね。戦争という形ではカタストロフィーは起こらないでしょうけれども、抽象的な意味で日本沈没が起こる可能性はなきにしもあらずではないでしょうか。それはどういうことかといいますと、カタストロフィーに向かったときにブレーキをかける社会的な力が弱いということです。』

今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在までに日本列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を受けた諸地域のインフラの復旧、回復そして復興を祈念しています。

昨今より再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。









2017年11月17日金曜日

20171116 英雄と逆賊 筑紫君磐井と西郷隆盛

九州の人々には『我々の祖先が日本古代史の幕を開けた』といった自負心がどこかにあるように思われる。

それは日本が未だ統一国家として成立する以前から九州北部諸地域は大陸、朝鮮半島と交易を行い、そして数多くの銅鏡、特に前漢鏡の出土がこの地域にて認められることからも実証される。

くわえて、福岡市の志賀島にて江戸時代に出土した金印『漢委奴国王』は、当時の文献とも符合し、当時(後漢・AD25~220)より交流が為されていた証拠と云える。
(奴国とは、現在の博多湾沿岸地域にあった古代国家の一つである。)

以上のことをも含め、大陸からのさまざまな文化事物の集積が為された九州北部は、地理的に大陸に近いという有利な点が大きく作用し、古代の文化先進地であった。

しかしながら、九州の人々にはそれ以上に『我々の祖先こそが日本で最初の新たな文化を創造したのだ』といった思いを大切にしたいという気持ちが強くあるように思われる。

こうした気持ちは古代国家群が統一され、政治、経済、文化の中枢が畿内にて形成されることによって、九州の人々にはさきに述べたような辺境意識が徐々に形成され、そして、さきの気持ちとの葛藤が生じると云える。

そして、そこで生じる葛藤こそが、さきに述べた九州の人々の中央に対する凝集性、求心性およびそれとは反対の遠心性の根源にあるものではないかと考える。

また、そうした辺境意識、葛藤に訴え九州の人々の心を鼓舞し、そして悲涙を誘うのが古代においては筑紫君磐井であり、また近代であれば西郷隆盛であると云える。

西郷隆盛は西南戦争後、明治維新における功績によって逆賊の汚名は返上され、英雄と見做されたが、筑紫君磐井は1945年以前の天皇が社会において、より重かった時代においてはあくまでも逆賊のままであった。

しかしその反面、地域においては、より身近な、正しいとも云える筑紫君磐井に対する態度は継承され続けた。

筑後国風土記逸文により筑紫君磐井の墓所と比定される福岡県八女市にある岩戸山古墳では磐井の乱以後も祭祀が為された痕跡が古墳周囲にて発見されている。

継体天皇の御代、六世紀前期における磐井の乱から1945年の太平洋戦争の終結に至るまで、この古墳が地域において残されてきたことには地元の方々の間で継承され続けた(筑紫君磐井に対する)温かい素直な気持ちがあったからではないかと思われる。

今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年より現在に至るまで列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。


















2017年11月16日木曜日

20171115 九州における凝集性・求心性と遠心的な傾向について

さきにも述べたように九州は日本列島の最西南端にあたり中国、朝鮮半島、台湾といった周辺諸国、諸地域と最も近接している。

また同時に、このことは我が国の中枢からは遠い、いわば辺縁地域として認識されてきたということでもある。

九州は、我が国の都が奈良であろうが京都であろうが東京であろうが、そのいずれにおいても中枢から僻陬の地、辺縁地域と見做され、こうした意識は、九州人の精神にも少なからず作用し、時代の流れ・情勢等に疎い田舎者といった自意識となり、そして時の権力に対する事大主義といった行為態度にも結節し、さらには自己の意見を持たないとも見受けられる早急な中央への迎合的態度になるのではないかと思われる・・。

しかしその一方、そうした自意識が生み出す影の部分が、歴史上多く見られる九州諸地域勢力による中央に対する反乱となり、また同時に、こうした噴出・噴火的とも云える精神活動の他の側面が、海賊行為をも含む海外との交易といった活動に結実したのではないかとも思われる。

また、そうした活動とは、多くの時代を通じて、あまり評価されることはなかったものの、鋭敏な国際感覚と自己の文化全般に対する自覚をも生じさせたのではないかと思われる。

そして、ここまでに述べたように九州の人々の中央に対する凝集性・求心性(事大主義的、中央迎合的態度)と、それに反発をする遠心的な傾向(反乱、海外進出)とは、古代から現代に至るまでのこの地におけるさまざまな文化、出来事、事物を考えるうえにおいて、より重視されることであると考える。

他方、九州は古来より長きに渡り、大陸、朝鮮半島の先進文化のはじめの摂取口、上陸地としての役割をも果たしてきた。

ここで特徴的であると思われることは、特に古代における独立的傾向が強い土着豪族以降の時代においては、より強化された中央に対する凝集性・求心性によって、たとえ外来事物がはじめてこの地に上陸しても、そこに定着することは少なく、速やかに中央に持ち去られたことである・

すなわち、在地土着豪族が中央のヤマト王権により、圧迫され、弱くなると(九州とは)、単なるターミナル、通過路としての役割のみしか果たせなくなる、与えられなくなると云える。

そしてまた、我が国が軍事的な緊張が生じた場合においては、対外進出あるいは防衛のための前線基地としての役割を担い、また実際に軍事的衝突が生じた場合においては、その攻撃を受け、被害を被るといった事態がこの地域に集中した。

こうした政局中枢から辺縁地域、対外的活動の拠点と見做される九州における時代を通じての大きな問題点とは、政局中枢に、真の意味で、この地域のことを考える特定の中央権力者、政策立案者等が長らくいなかったことではないかと思われる。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに日本列島各地において生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された諸インフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。
























2017年11月14日火曜日

20171114 講座・医局について思ったこと(昨日投稿と少し関連するかもしれません)

『本日もまた、何かしら古代史、考古学あるいは民俗、地理的な内容にて記事を作成しようと考えていましたが、昨日投稿分の記事が思いのほか多くの方々に読んで頂いていたことから、本日は敢えて趣向を変え独白形式にて記事を書くことにしました。

とはいえ、その内容とは昨日投稿分の記事にも多少関連することであり、また、これまでにも何度か述べてきたことではあるのですが、大学の理系学問領域においては、研究室、講座あるいは医局といった単位にてさまざまな行動をとることが多いと云えます。

これはおそらく文系学部におけるゼミに相当すると思われるが、それらの単位における凝集性とは、感覚的ではあるものの、文系に比して理系、特に医歯学系の方が相当強いのではないかと思われます。

おそらくその根本においては、修業年限が長いことから、より、そうした行為態度が強化、定着される期間が多く与えられるといった事情があるのではないかとも思われます。

またその一方で、文系の場合、卒業後に就く職業とはさまざまであり、むしろ学生時代よりそうした各自の多様性を認め、保持している方が諸事都合が良いのかもしれない。

その面において医歯学などの場合は特に卒業後に就く職業とは、ほぼ限定されることから、学生時代より、そうした(職業に付随する)受け継がれるべき行為態度とは、当初多少無理やりであっても研究室、講座そして医局といった小規模での集団行動を通しておぼえ、定着した方が大局的に見れば良いのかもしれない・・(おそらくそれは個人の教育観にも影響を与えるであろう)。

とはいえ、文系もまた大学院まで行くと、それはそれで少なからず変わっているのであろうが、その全体数が理系学問分野と異なり(理系の方が多い、特に工学、理学、さらに博士課程となると医歯学が最も多くなる)、同時にそれぞれの背景文化もまた大きく異なると思われることから、こうした集団行動とは、文系の場合においては、あくまでも各個人が自発的、能動的に従うものでないとダメであるように思われるのです(それが文系学問の大事な要素であると思うのですが、一方、そればかりであると今度は世の中が治まらなくなるかもしれない・・)。

そして、この両学問分野間に存在する『違い』というものをある程度広く、そして明瞭に認識することにより、何といいますか、我々の社会にて生じているさまざまな出来事の雛型、原型のようなものを認識することが出来るのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか?

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸インフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。』