A「昨日作成したブログ記事とは書きながら途中何度か強い眠気に襲われました・・。
これまでこうした状態にてブログ記事を書いたことはありませんが、こうした状態で書かれた記事も今後、何かしらの具体例にはなるのではないかと思い、多少の加筆訂正は行いますが、削除はしないと思います・・(笑)。
さて、本日首都圏は夏日となり、日中の外出の際は多少暑く感じられました。
私はこうした暑いと感じられる季節になってきますと和歌山、九州でのことが思い起こされます。
現在私は(再び)首都圏にて生活しており、朝の通勤電車や都会の雑踏にも(再び)慣れてきましたが、それと同時にかつて首都圏に暮らした折に持っていた大都市、首都東京の様々な流行的事物、文化に対する興味、関心はかなり薄れたのではないかと思います。
これは年齢の為なのであろうか?あるいはその他の要因によるものであろうか・・?
とはいえ、いくつかの学問分野に関しては時期、季節などにより多少の変動はあるものの、相変わらずともいっていい興味を持っていることを自覚しております。
本日も神保町の書店街を徘徊し、いくつか面白そうな本を見つけました・・(笑)。
また、それと関連して以前、紀州、和歌山における古墳の造営様式について記したブログ記事と関連があるのではないかと考えさせられる記述を見つけましたので、今後機会がありましたら、また抜粋引用してみようと考えております・・。
こうしたことに興味がある方々には是非読んで頂きたく思います(笑)。
ともあれ、こうした自身が以前に考えた、記したことに関連がありそうな書籍などの記述を見つけますと、何となくワクワクしてくることは昔からあまり変わりはないようです・・(笑)。
また、こうした感覚がなければ学問、研究とは、どちらかというと苦行的色彩が強くなってゆき、持続可能性を持つには至らないことが多いのではないかと思いますが如何でしょうか?
また、当然といえば当然なのですが、こうしたことは実験ありきの理系学問分野においても同様であり、実験が進捗するに伴い、自身の行っている実験に対する疑問が湧き、自然と関連論文を読んでみたり、試料の作製方法、実験方法なども追加的に検討、考察を行ってゆくようにもなるのではないでしょうか?
・・さて、ハナシは変わりますが、本日ブログの閲覧者数が90000人に到達しました。
80000人に到達したのが今月はじめであったので、直近10000人の閲覧者の増加とは、なかなか速やかなものであったのではないかと思います。
そして、これまで拙いもの(が)多い一連のブログ記事を興味を持って読んで頂いている皆様、どうもありがとうございます。
次は、とりあえず閲覧者数が100000人あるいは記事数が365に到達するまで記事作成を継続しようと考えておりますので、今後とも、どうぞよろしくお願いします。
お蔭さまで当初、多くの閲覧者数を企図しなかったこのブログも、とりあえず、ここまで来ることが出来ました・・。
そして2カ月前の九州、熊本で発生した大地震により被災された地域における諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年6月18日土曜日
20260617 三つの魂?
A「本日は若干帰宅が遅くなり、また多少疲れていたため「今日はブログ記事作成を止めておこうかな・・?」と思いましたが、まあ、それでも何かしら書いておこうと思い、書きはじめた次第です・・。
・・とはいえ、どうしたわけか本日は書きたいこともあまり思い浮かびません・・(苦笑)。
そういえば、昨年もそうでしたので、この季節(春と夏の間)とは、少なくとも私にとっては文章を書くのが辛い時期であるのかもしれません・・。
それが何故であるかはわかりませんが、まあ大抵の人には何かしら季節による、このような傾向があるのではないかと思いますが如何でしょうか?
そして、これまで半ば惰性、習慣的にブログ記事作成を継続してきたことにより、今年のこの季節は何かしら自身の文章を作成し続ける(乗り越える)ことができるのでしょうか(笑)?
それはここ最近になり自覚した自身の傾向(この季節になると自身の文章が書き難くなる。)と、これまで習慣的に継続してきた自身の行動(ブログ記事の作成。)との内面での葛藤あるい決闘であるのかもしれません・・。
そしてその勝敗、あるいは妥協の結末とは、これまた私自身が握り、支配しているのことなのです・・(笑)。
とはいえ、同時にその結果とは、私自身も未だ知り得るものではなく、ただ、そうした事態をどうにか望ましい、良い方に持っていこうとする私の努力、決意の程度?により、どのような形であれ、今後、その結果が認識され得るものとなるのではなかろうかと思います・・。
そして、そこまで書いて不図思い起こしたことは、かつて南方熊楠が記していた「人は三つの魂を持っている。」ということです。
このことは、ここ最近ブログ記事作成を継続してきたことにより、以前よりも、自分なりにではありますが、その意味が分かってきたのではないかと思います・・。
具体的には、これまでの独白形式を用いた一連の記事から示される著者(A)の性格と、現在の普通、日常生活における「A」自身の性格とは、一見分離、断絶したものであると見做されるかもしれないということです(まあ、そうしますと二つですが)・・。
また、ブログ記事とはいえ、ある程度文章を作成し続けておりますと、その詳細なメカニズムとは分かりかねますが、自身の書きコトバを司る層とハナシ言葉を司る層が分離、断絶そしてその後、無意識化の末、混淆してゆくような現象があるのかもしれません・・(無意識を支配する「A」自身で合計三つ)。
いや・・もしかすると、このようなことは自明、当たり前のことであるのかもしれませんが、どうでしょうか・・(笑)?
とはいえ、こうしたことを前述の南方熊楠のコトバと結び付けようとする言及、指摘とは、私としては、はじめてであり、それにより、少なくとも当ブログ記事を作成した意味にはなったのではないかと思いましたが如何でしょうか・・?
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
また、二カ月前の九州、熊本での大地震により被災された地域における諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
・・とはいえ、どうしたわけか本日は書きたいこともあまり思い浮かびません・・(苦笑)。
そういえば、昨年もそうでしたので、この季節(春と夏の間)とは、少なくとも私にとっては文章を書くのが辛い時期であるのかもしれません・・。
それが何故であるかはわかりませんが、まあ大抵の人には何かしら季節による、このような傾向があるのではないかと思いますが如何でしょうか?
そして、これまで半ば惰性、習慣的にブログ記事作成を継続してきたことにより、今年のこの季節は何かしら自身の文章を作成し続ける(乗り越える)ことができるのでしょうか(笑)?
それはここ最近になり自覚した自身の傾向(この季節になると自身の文章が書き難くなる。)と、これまで習慣的に継続してきた自身の行動(ブログ記事の作成。)との内面での葛藤あるい決闘であるのかもしれません・・。
そしてその勝敗、あるいは妥協の結末とは、これまた私自身が握り、支配しているのことなのです・・(笑)。
とはいえ、同時にその結果とは、私自身も未だ知り得るものではなく、ただ、そうした事態をどうにか望ましい、良い方に持っていこうとする私の努力、決意の程度?により、どのような形であれ、今後、その結果が認識され得るものとなるのではなかろうかと思います・・。
そして、そこまで書いて不図思い起こしたことは、かつて南方熊楠が記していた「人は三つの魂を持っている。」ということです。
このことは、ここ最近ブログ記事作成を継続してきたことにより、以前よりも、自分なりにではありますが、その意味が分かってきたのではないかと思います・・。
具体的には、これまでの独白形式を用いた一連の記事から示される著者(A)の性格と、現在の普通、日常生活における「A」自身の性格とは、一見分離、断絶したものであると見做されるかもしれないということです(まあ、そうしますと二つですが)・・。
また、ブログ記事とはいえ、ある程度文章を作成し続けておりますと、その詳細なメカニズムとは分かりかねますが、自身の書きコトバを司る層とハナシ言葉を司る層が分離、断絶そしてその後、無意識化の末、混淆してゆくような現象があるのかもしれません・・(無意識を支配する「A」自身で合計三つ)。
いや・・もしかすると、このようなことは自明、当たり前のことであるのかもしれませんが、どうでしょうか・・(笑)?
とはいえ、こうしたことを前述の南方熊楠のコトバと結び付けようとする言及、指摘とは、私としては、はじめてであり、それにより、少なくとも当ブログ記事を作成した意味にはなったのではないかと思いましたが如何でしょうか・・?
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
また、二カ月前の九州、熊本での大地震により被災された地域における諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年6月16日木曜日
20160616 コトバ、文字、神話について・・
A「昨日投稿した記事は3年前の丁度今頃に記した手紙がPCデータより見つかりましたので、個人特定要素を除き、これを以って記事とさせていただきました・・。
これは見方によっては手抜きではありますが、同時に「過去の自分に手助けをしてもらった」と考えますと、まあ、そこまで悪いことでもないと思います・・。
また、過去の自分から手助けをしてもらうことがなければ、このブログをはじめ、我々が何かを為す上において、その多くが困難となってしまうのではないでしょうか?
しかし、そうはいうものの、では「過去の自分とは一体どのようなことが出来、どのような性質、傾向を持っていたのだろうか?」と考えてみますと、それもまた明確に想起、定義することは困難ではなかろうかとも思います・・。
そして、そのような時、過去に自身がノートに記した日記などを読んでみますと、それは当ブログ記事あるいは手紙のように他者に対し公表することを前提としておりませんので、文章としてはひどいものであることが多いのですが、同時に書いた本人からしますと、何と言いましょうか「過去の自分自身が迫ってくる」ような感覚があり、それが落ち込んでいたりした時に記されたものであれば、否応なく再度そういった感情、気分を想起いたり考えたりすることになるのです・・・。
そのように考えてみますとコトバ、文字、文章とはつくづく面白いものであると思います・・。
何故我々はいくつかの線を連ねた形象およびその連続から様々な感情、想念、思考などを惹起させることができるのでしょうか?
こうしたことは自明のことではあるのですが、同時によく考えてみますと、とても深い何かがあるのではないかと思います・・。
とはいえ、こうしたことは何も現代に生きる我々のみならず、それを当初発明した世界各地の古代の人びともまた、そうしたコトバ、文字、文章の不思議さに対し、より新鮮な神秘性、神性を感じていたのではないかとも思います・・。
そして、彼等がコトバ、文字、文章から感じた神秘性、神性に枠組み、形式を与えたものが世界各地における神話の一つの大きな源流、起源であったのではないかと考えます。
さて、ここまで記していて不図「コトバ、文字、文章が神話に枠組みを与えたのであるならば「神話」がその原型、起源ともいえる「歴史」などは、かつてのコトバ、文字、文章と同義に近い意味があり、それ故に、文(ふみ)と史(ふみ)は同じ読み方があるのかもしれないなどど思いました・・。
私はこうしたことは素人ではありますが、何かしらの関連はあるのではないかと思います。
また、我々日本の神話とは、研究者の指摘するところによると東北アジアから東南アジアにかけての地域のそれら(神話)を混淆したものが多く、その原因とは様々にいわれております。
そして、こうしたことは我々が現在用いている日本語、漢字(ひらがなは漢字を崩したもの)とも、ある程度(正)比例しているのではないかと思われますが、どうなのでしょうか?
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
二カ月前の九州、熊本の大地震で被災された地域の諸インフラの早期の復旧そして、それに続く復興を祈念しております。」
これは見方によっては手抜きではありますが、同時に「過去の自分に手助けをしてもらった」と考えますと、まあ、そこまで悪いことでもないと思います・・。
また、過去の自分から手助けをしてもらうことがなければ、このブログをはじめ、我々が何かを為す上において、その多くが困難となってしまうのではないでしょうか?
しかし、そうはいうものの、では「過去の自分とは一体どのようなことが出来、どのような性質、傾向を持っていたのだろうか?」と考えてみますと、それもまた明確に想起、定義することは困難ではなかろうかとも思います・・。
そして、そのような時、過去に自身がノートに記した日記などを読んでみますと、それは当ブログ記事あるいは手紙のように他者に対し公表することを前提としておりませんので、文章としてはひどいものであることが多いのですが、同時に書いた本人からしますと、何と言いましょうか「過去の自分自身が迫ってくる」ような感覚があり、それが落ち込んでいたりした時に記されたものであれば、否応なく再度そういった感情、気分を想起いたり考えたりすることになるのです・・・。
そのように考えてみますとコトバ、文字、文章とはつくづく面白いものであると思います・・。
何故我々はいくつかの線を連ねた形象およびその連続から様々な感情、想念、思考などを惹起させることができるのでしょうか?
こうしたことは自明のことではあるのですが、同時によく考えてみますと、とても深い何かがあるのではないかと思います・・。
とはいえ、こうしたことは何も現代に生きる我々のみならず、それを当初発明した世界各地の古代の人びともまた、そうしたコトバ、文字、文章の不思議さに対し、より新鮮な神秘性、神性を感じていたのではないかとも思います・・。
そして、彼等がコトバ、文字、文章から感じた神秘性、神性に枠組み、形式を与えたものが世界各地における神話の一つの大きな源流、起源であったのではないかと考えます。
さて、ここまで記していて不図「コトバ、文字、文章が神話に枠組みを与えたのであるならば「神話」がその原型、起源ともいえる「歴史」などは、かつてのコトバ、文字、文章と同義に近い意味があり、それ故に、文(ふみ)と史(ふみ)は同じ読み方があるのかもしれないなどど思いました・・。
私はこうしたことは素人ではありますが、何かしらの関連はあるのではないかと思います。
また、我々日本の神話とは、研究者の指摘するところによると東北アジアから東南アジアにかけての地域のそれら(神話)を混淆したものが多く、その原因とは様々にいわれております。
そして、こうしたことは我々が現在用いている日本語、漢字(ひらがなは漢字を崩したもの)とも、ある程度(正)比例しているのではないかと思われますが、どうなのでしょうか?
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
二カ月前の九州、熊本の大地震で被災された地域の諸インフラの早期の復旧そして、それに続く復興を祈念しております。」
2016年6月15日水曜日
20160615 2013のこの時期に作成した手紙(若干加筆修正)
お疲れ様でございます。**です。さて、長旅およびそれに続くお仕事大変かとお察しします。
こちらは現在学位審査準備の最終段階にあります。しかし、これまでの経緯から、その精神的なプレッシャー・不安感はかなりのものであり、またそれは今年に入り徐々に大きさが有意に増大しつつあることが認められます。
そして、現在はそのピークであるのではなかろうか、あるいはそうであることを望んでいる次第です。
また、その為か先日初めて、心療内科というところに受診しました。
診察結果として、これまでの蓄積した疲労からくる神経衰弱のようなものとのことでした。
しかしながら、私感としては、特に問題はなく、これまでのところはこなしており、また、周囲との人間関係も変化無く、特に悪化した様子もありません。とはいえ、周囲がどう思っているか、そして私がそれに気付いていない可能性もあります。一方において、これまでの経験より、それは可能性として極めて低いとも考えます。
ただ、ここ最近、時折、大変暴力的・自暴自棄な観念に支配されそうになることがあるのです。
これはなかなか自分の理性とやらで抑えることができないもので、こうなりそうな時は医師から処方された薬を服用します。そうすると不思議なもので、しばらく経つとこの精神状態が好転するので、人間の心の案外物理的な性質あるいは意外な単純さを垣間見た(感じた)気がします。
さて、DVDをひとつお送りします。これは日本のプレーヤーでも視聴可能ですが、字幕がなく、英語の音声だけというのが、只一つのマイナスポイントではありますが、昨今流行のCGを多用した戦争映画に比べ、やはり迫力の質が違います。また、浅学な私から見てですが、史実に沿って作製されていることも認められます。
無論**は既に御覧になり、それ以前に私は**からこの映画の存在をお聞きしていたのですが、さすがにDVD化されている事は御存じなかったのではないでしょうか?
現象としては和歌山時代の「地獄の天使」と同様であります。
また、しばらくしましたら御葉書書きます。
現在、季節の変わり目ですが、どうぞ御自ください。
加えて、どうぞ***に宜しくお伝えくださいませ。
それでは失礼致します。
こちらは現在学位審査準備の最終段階にあります。しかし、これまでの経緯から、その精神的なプレッシャー・不安感はかなりのものであり、またそれは今年に入り徐々に大きさが有意に増大しつつあることが認められます。
そして、現在はそのピークであるのではなかろうか、あるいはそうであることを望んでいる次第です。
また、その為か先日初めて、心療内科というところに受診しました。
診察結果として、これまでの蓄積した疲労からくる神経衰弱のようなものとのことでした。
しかしながら、私感としては、特に問題はなく、これまでのところはこなしており、また、周囲との人間関係も変化無く、特に悪化した様子もありません。とはいえ、周囲がどう思っているか、そして私がそれに気付いていない可能性もあります。一方において、これまでの経験より、それは可能性として極めて低いとも考えます。
ただ、ここ最近、時折、大変暴力的・自暴自棄な観念に支配されそうになることがあるのです。
これはなかなか自分の理性とやらで抑えることができないもので、こうなりそうな時は医師から処方された薬を服用します。そうすると不思議なもので、しばらく経つとこの精神状態が好転するので、人間の心の案外物理的な性質あるいは意外な単純さを垣間見た(感じた)気がします。
さて、DVDをひとつお送りします。これは日本のプレーヤーでも視聴可能ですが、字幕がなく、英語の音声だけというのが、只一つのマイナスポイントではありますが、昨今流行のCGを多用した戦争映画に比べ、やはり迫力の質が違います。また、浅学な私から見てですが、史実に沿って作製されていることも認められます。
無論**は既に御覧になり、それ以前に私は**からこの映画の存在をお聞きしていたのですが、さすがにDVD化されている事は御存じなかったのではないでしょうか?
現象としては和歌山時代の「地獄の天使」と同様であります。
また、しばらくしましたら御葉書書きます。
現在、季節の変わり目ですが、どうぞ御自ください。
加えて、どうぞ***に宜しくお伝えくださいませ。
それでは失礼致します。
2016年6月14日火曜日
20160614 集合的無意識、時代精神 萃点、やりあて・・。
これまでの私のブログを閲覧して頂いている方々の多く(半分以上≠60%以上)とは、面白いことにマッキントッシュユーザーの方々です。
PC使用者全体におけるマッキントッシュユーザーの割合とは決して高くないのですが、それに比べて上記のブログ閲覧者数の割合とは、なかなか特徴的であると思いました・・。
また、これは現時点においては単なる現象であり、その背後に如何なる原因、理由が存在するかは未だ見当がつきませんが、それでもなかなか面白い現象であると思っております。
今後ブログ記事の作成を続けることにより、その原因、理由が分かってくるのかどうか分かりませんが、とりあえずは記事作成を継続してゆこうと考えておりますので、どうぞよろしくお願いします。
また、それと同時に作成した記事がどのように読まれており、またどのような評価が為されているかということもなかなか興味深いことではありますが、これもさきと同様、未だ見当がつきませんが、少なくとも悪意的であると感じることはありませんので、まあ、とりあえずはこれで良いのではないかと思います・・。
さて、本日においては何故か20151129に書かれた記事の閲覧者が多く、この記事の内容とは、昨年フランス、パリでのイスラム過激派によるテロ事件が欧米メディアにより「KAMIKAZE」と評されたことに基づいた対話形式のものでした。
また、この記事においては米国による広島、長崎への原爆投下が為されたことに対して米国側からの謝罪が為されていない、また今後も為されることがないであろうと記しておりましたので、このブログ記事を記した時点(20151129)から、その情勢とはいくらか変化したのではないかと思います・・。
そのように考えますと、私の書いたブログ記事も多少は世界情勢に言及しており、またそのことを現在このように記すことにより、世界情勢の推移を示しているのではないかと不図思いました。
こうしたことを書きますと何だか夜郎自大、自意識過剰の感がありますが、同時にそういったことが継続的にブログ記事を作成していて「何だか面白いな」と感じるところでもあります・・(笑)。
また、そのようなことを考えてみますと、どうも心理学者のユングが説いた集合的無意識あるいはヘーゲル等が説いた時代精神なるものが存在するのではないかとも考えさせられます・・。
とはいえ、そういったものが存在するとしても、それを私がキチンと精確に認識出来ているかとは、全く別であり、まあ、先ず出来ていないのではないかと思います・・(苦笑)。
しかしながら、ブログなどを含め、ある程度継続的に文章を作成してゆくと、時折、偶然でそうしたことを認識させる現象、考えさせる契機が生じることもまたあるのかもしれません・・。
そして、それは子供の頃の鉄棒の逆上がりのように一度出来ると継続的に出来るようになるものであるのか、あるいはそうでないのか分かりませんが、とりあえず、そうした思考様式を持つ、経験したということにはなり、それはそれで少なくとも無益ではないものと考えます。
また、もしかすると、かつて南方熊楠が述べた「萃点(すいてん)」、「やりあて」などにも通じる考えであるのかもしれません・・。
ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。
また2カ月前の九州、熊本での大地震によって被災された地域の諸インフラの復旧そしてその先の復興を祈念いたします。
PC使用者全体におけるマッキントッシュユーザーの割合とは決して高くないのですが、それに比べて上記のブログ閲覧者数の割合とは、なかなか特徴的であると思いました・・。
また、これは現時点においては単なる現象であり、その背後に如何なる原因、理由が存在するかは未だ見当がつきませんが、それでもなかなか面白い現象であると思っております。
今後ブログ記事の作成を続けることにより、その原因、理由が分かってくるのかどうか分かりませんが、とりあえずは記事作成を継続してゆこうと考えておりますので、どうぞよろしくお願いします。
また、それと同時に作成した記事がどのように読まれており、またどのような評価が為されているかということもなかなか興味深いことではありますが、これもさきと同様、未だ見当がつきませんが、少なくとも悪意的であると感じることはありませんので、まあ、とりあえずはこれで良いのではないかと思います・・。
さて、本日においては何故か20151129に書かれた記事の閲覧者が多く、この記事の内容とは、昨年フランス、パリでのイスラム過激派によるテロ事件が欧米メディアにより「KAMIKAZE」と評されたことに基づいた対話形式のものでした。
また、この記事においては米国による広島、長崎への原爆投下が為されたことに対して米国側からの謝罪が為されていない、また今後も為されることがないであろうと記しておりましたので、このブログ記事を記した時点(20151129)から、その情勢とはいくらか変化したのではないかと思います・・。
そのように考えますと、私の書いたブログ記事も多少は世界情勢に言及しており、またそのことを現在このように記すことにより、世界情勢の推移を示しているのではないかと不図思いました。
こうしたことを書きますと何だか夜郎自大、自意識過剰の感がありますが、同時にそういったことが継続的にブログ記事を作成していて「何だか面白いな」と感じるところでもあります・・(笑)。
また、そのようなことを考えてみますと、どうも心理学者のユングが説いた集合的無意識あるいはヘーゲル等が説いた時代精神なるものが存在するのではないかとも考えさせられます・・。
とはいえ、そういったものが存在するとしても、それを私がキチンと精確に認識出来ているかとは、全く別であり、まあ、先ず出来ていないのではないかと思います・・(苦笑)。
しかしながら、ブログなどを含め、ある程度継続的に文章を作成してゆくと、時折、偶然でそうしたことを認識させる現象、考えさせる契機が生じることもまたあるのかもしれません・・。
そして、それは子供の頃の鉄棒の逆上がりのように一度出来ると継続的に出来るようになるものであるのか、あるいはそうでないのか分かりませんが、とりあえず、そうした思考様式を持つ、経験したということにはなり、それはそれで少なくとも無益ではないものと考えます。
また、もしかすると、かつて南方熊楠が述べた「萃点(すいてん)」、「やりあて」などにも通じる考えであるのかもしれません・・。
ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。
また2カ月前の九州、熊本での大地震によって被災された地域の諸インフラの復旧そしてその先の復興を祈念いたします。
20160613 文体の獲得の認識について・・
本日も帰宅が遅くなってしまい、また生憎の空模様であったため「今日はすぐに休んでしまおうかな・・」と不図思いましたが、それでもとりあえず何かしらは書いてみようと思い、今現在日を越えて昨日のブログ記事の作成に取り掛かっております・・。
そういえば、かつて読んだ中井久夫の著作の中で
「人は自身の文体を得る時は、はっきりとその瞬間を認識、自覚するものである。」と記しておりました。
そうしますと「今現在の私とは果たして自身の文体なるものを獲得しているのであろうか?」と否応なく自問自答することになるのですが、これは今現在よくわかりません・・。
かつて一時期(2012~2013頃)よくコトバ、文章が出てくる、湧いてくる時期があり、その後、スランプといっても良い私としては心身共に大変に辛い状態を経て、今現在に至っていることは分かるのですが、では、私はその何れかの時期において自身の文体なるものを獲得したのであるかとは、自身ではなかなか自覚、認識し難いのではないかと思います・・。
あるいは私は相当鈍いのかもしれません・・(苦笑)。
とはいえ、今現在に至るまでどうにかブログ記事といった形ではありますが、文章を書き続けることが出来ているという現状とは、昨年の今頃の時期から比べますと(自身としては)大した進化ではないかと思いますし、また、そのように考えておかないと、精神衛生上良くないと思います・・(苦笑)。
しかし、それと同時に今後私の書く文章とは現在よりももっと分かりやすく明晰なものとなるのでしょうか・・?
そういえば、昨年春に関西某所にて行われた勉強会に出席、発表した私に周囲の方々は「おそらく最近のAさんは理系の文章ばかり読んでいるのではないか?」といった意味のことをいわれました。
たしかにその当時はそうでありましたが、同時にその時はこのような形で文章を書くことが大変困難であり、そこで用いたレジュメとは2~3行程度の短文を行を空け書き連ねているような感じでした。
当時書いたレジュメがデータとして残っていれば良かったのですが、残念ながら今現在手元にありません・・。
もしそれが残っていたらブログの1日分の投稿記事にはなっていたかもしれませんので、これは大変残念です(笑)。
しかし、そこまで書いていて不図思い出したのは、かつて記していた日記です。
この日記に関しては、つい先日ブログ記事にて少し取り上げましたが中にはイタイことも(少なからず)記されており、現在それを読んでみますと自身のことながら大変恥ずかしいです・・(苦笑)。
とはいえ、今後またブログ記事作成が難航しそうな時は、そこから記事の題材を見つけてみるのは悪くないアイデアであると思います。
また、同時に荷物箱の奥には和歌山在住時の日記も残っていると思われますので、今後如上の様な状態となりましたら、こちらもまた活用してみたく思います。
とはいうものの、今現在においても私には文体の獲得ということがイマイチよくわかりません。
今後書き続けてゆくことにより、多少なりともあるいは自分なりに分かってくるものなのでしょうか?
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
また2カ月前の九州、熊本での大地震で被災された地域の諸インフラの復旧、それに連なる復興を祈念しております。」
そういえば、かつて読んだ中井久夫の著作の中で
「人は自身の文体を得る時は、はっきりとその瞬間を認識、自覚するものである。」と記しておりました。
そうしますと「今現在の私とは果たして自身の文体なるものを獲得しているのであろうか?」と否応なく自問自答することになるのですが、これは今現在よくわかりません・・。
かつて一時期(2012~2013頃)よくコトバ、文章が出てくる、湧いてくる時期があり、その後、スランプといっても良い私としては心身共に大変に辛い状態を経て、今現在に至っていることは分かるのですが、では、私はその何れかの時期において自身の文体なるものを獲得したのであるかとは、自身ではなかなか自覚、認識し難いのではないかと思います・・。
あるいは私は相当鈍いのかもしれません・・(苦笑)。
とはいえ、今現在に至るまでどうにかブログ記事といった形ではありますが、文章を書き続けることが出来ているという現状とは、昨年の今頃の時期から比べますと(自身としては)大した進化ではないかと思いますし、また、そのように考えておかないと、精神衛生上良くないと思います・・(苦笑)。
しかし、それと同時に今後私の書く文章とは現在よりももっと分かりやすく明晰なものとなるのでしょうか・・?
そういえば、昨年春に関西某所にて行われた勉強会に出席、発表した私に周囲の方々は「おそらく最近のAさんは理系の文章ばかり読んでいるのではないか?」といった意味のことをいわれました。
たしかにその当時はそうでありましたが、同時にその時はこのような形で文章を書くことが大変困難であり、そこで用いたレジュメとは2~3行程度の短文を行を空け書き連ねているような感じでした。
当時書いたレジュメがデータとして残っていれば良かったのですが、残念ながら今現在手元にありません・・。
もしそれが残っていたらブログの1日分の投稿記事にはなっていたかもしれませんので、これは大変残念です(笑)。
しかし、そこまで書いていて不図思い出したのは、かつて記していた日記です。
この日記に関しては、つい先日ブログ記事にて少し取り上げましたが中にはイタイことも(少なからず)記されており、現在それを読んでみますと自身のことながら大変恥ずかしいです・・(苦笑)。
とはいえ、今後またブログ記事作成が難航しそうな時は、そこから記事の題材を見つけてみるのは悪くないアイデアであると思います。
また、同時に荷物箱の奥には和歌山在住時の日記も残っていると思われますので、今後如上の様な状態となりましたら、こちらもまた活用してみたく思います。
とはいうものの、今現在においても私には文体の獲得ということがイマイチよくわかりません。
今後書き続けてゆくことにより、多少なりともあるいは自分なりに分かってくるものなのでしょうか?
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
また2カ月前の九州、熊本での大地震で被災された地域の諸インフラの復旧、それに連なる復興を祈念しております。」
2016年6月12日日曜日
加藤周一著「日本文学史序説」上巻筑 摩書房刊 pp.176‐177より抜粋 20160612
「記」・「紀」の伝える「古代歌謡」が人事、それも男女関係に集中していて、ほとんど全く「自然」を詠っていないことは、すでに述べた。
「万葉集」の歌人たちが、主として人事と係るかぎりで、身辺の自然的環境を描き、大洋や高山や野獣の住む森に触れていないことも、すでにいった。
それが8世紀中葉までの事情であった。
9世紀の「古今集」の歌人たちは、決して新しい「自然」を発見したのではない。
「万葉集」の歌人が、彼らの恋を託するために詠った花や鳥や風や月を、恋をはなれても、それ自身のために詠うようになったにすぎない。
すでに「万葉集」の時代の職業的歌人、山部赤人には、そういう傾向が見えていた。
なぜなら職業的歌人の日常的活動は、非日常的な恋の感情のみを動機としては、成り立つはずがなかったからである。
「古今集」の歌人の多くは、四人の撰者の場合に典型的なように、多かれ少なかれ和歌を専門とした知識人である、しかもそこに「歌合」が加わり、その他の社交的歌作の機会が加わった。
赤人の流儀が継承され、拡大強化されたのは、当然である。
しかもその拡大強化は、宮廷と貴族社会―奈良時代よりもそれ自身規模を拡げてきたところの―内部でおこった。
赤人は遠く旅をして、少なくとも彼自身の眼で道中の自然を見ていたが、「土佐日記」の貫之は、海路土佐から都に至る長い間に、都を恋い慕うばかりで、道中の自然に何らの注意も払っていない。
貫之の眼には碧い海も、朝の太陽も、雨に煙る山々も、吹雪の荒れる野原も、見えなかったらしい。思うに、「日本的な自然愛」には注意する必要がある。
少なくとも貫之が「自然」を愛していたということはできないだろう。彼が愛していたのは、都の春の水、都の花、その春雨、春霞、竜田山のもみじと秋風である。彼が春・秋の歌のなかでうたった花は、おどろくなかれ、六種類しかない(さくら、梅、山吹、おみなえし、ふじばかま、菊)。
小鳥に到っては、二種類(うぐいすとほととぎす)。
貫之が春を愛し、小鳥を愛していたとは考えにくい。
彼は何を愛していたのだろうか。おそらく「自然」をではなくて、言葉をであろう。
ほととぎすという鳥ではなくて、ほととぎすという言葉、物ではなくて、物の名。
故に「古今集」は「物名」一巻(巻一〇)をたてていた。しかも貫之は「古今集」の歌人のなかの例外ではない。
それどころか、撰者にして、しかも集中歌数のもっとも多い代表的な歌人である。赤人の場合にかぎらず、「万葉集」には旅の歌が少なくなかった。旅の風物を見ようとしなかった貫之の場合にかぎらず、「古今集」の専門的歌人たちは、旅の「自然」に関心をもってはいなかった。
「日本文学史序説」上巻
ISBN-10: 4480084878
ISBN-13: 978-4480084873
「万葉集」の歌人たちが、主として人事と係るかぎりで、身辺の自然的環境を描き、大洋や高山や野獣の住む森に触れていないことも、すでにいった。
それが8世紀中葉までの事情であった。
9世紀の「古今集」の歌人たちは、決して新しい「自然」を発見したのではない。
「万葉集」の歌人が、彼らの恋を託するために詠った花や鳥や風や月を、恋をはなれても、それ自身のために詠うようになったにすぎない。
すでに「万葉集」の時代の職業的歌人、山部赤人には、そういう傾向が見えていた。
なぜなら職業的歌人の日常的活動は、非日常的な恋の感情のみを動機としては、成り立つはずがなかったからである。
「古今集」の歌人の多くは、四人の撰者の場合に典型的なように、多かれ少なかれ和歌を専門とした知識人である、しかもそこに「歌合」が加わり、その他の社交的歌作の機会が加わった。
赤人の流儀が継承され、拡大強化されたのは、当然である。
しかもその拡大強化は、宮廷と貴族社会―奈良時代よりもそれ自身規模を拡げてきたところの―内部でおこった。
赤人は遠く旅をして、少なくとも彼自身の眼で道中の自然を見ていたが、「土佐日記」の貫之は、海路土佐から都に至る長い間に、都を恋い慕うばかりで、道中の自然に何らの注意も払っていない。
貫之の眼には碧い海も、朝の太陽も、雨に煙る山々も、吹雪の荒れる野原も、見えなかったらしい。思うに、「日本的な自然愛」には注意する必要がある。
少なくとも貫之が「自然」を愛していたということはできないだろう。彼が愛していたのは、都の春の水、都の花、その春雨、春霞、竜田山のもみじと秋風である。彼が春・秋の歌のなかでうたった花は、おどろくなかれ、六種類しかない(さくら、梅、山吹、おみなえし、ふじばかま、菊)。
小鳥に到っては、二種類(うぐいすとほととぎす)。
貫之が春を愛し、小鳥を愛していたとは考えにくい。
彼は何を愛していたのだろうか。おそらく「自然」をではなくて、言葉をであろう。
ほととぎすという鳥ではなくて、ほととぎすという言葉、物ではなくて、物の名。
故に「古今集」は「物名」一巻(巻一〇)をたてていた。しかも貫之は「古今集」の歌人のなかの例外ではない。
それどころか、撰者にして、しかも集中歌数のもっとも多い代表的な歌人である。赤人の場合にかぎらず、「万葉集」には旅の歌が少なくなかった。旅の風物を見ようとしなかった貫之の場合にかぎらず、「古今集」の専門的歌人たちは、旅の「自然」に関心をもってはいなかった。
「日本文学史序説」上巻
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