2023年2月28日火曜日

20230227 株式会社講談社刊 倉本一宏著「戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」 pp.154‐158より抜粋

株式会社講談社刊 倉本一宏著「戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」
pp.154‐158より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4062884283
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4062884280

白村江の戦の対外的な目的に関しては、以前から言われていることであるが(石母田正「日本の古代国家」)、「東夷の小帝国」、つまり中華帝国から独立し、朝鮮諸国を下位に置き、蕃国を支配する小帝国を作りたいという願望が、古くから倭国の支配者には存在し、中大兄と鎌足もそれにのっとったのだということなのだろう。

 それでは、国内的な目的、対内的な目的というのは、いかなるものだったのであろうか。

 第一の可能性として、中大兄が派兵に踏み切った段階というのは、百済の遺臣鬼室福信たちが唐の進駐軍に対して叛乱を起こし、各地で勝利を収めてした時期であった。その時点で百済遺臣は倭国に使者を遣わして、援軍の派兵を要請してきたのである。

 その際、使者は絶対に客観的な事実を言うわけはない。自分たちはすでに大勝利を収めていて、あたかも、もう少しで唐軍を半島から駆逐することができるとでもいうようなことを言ったことは、おそらく間違いあるまい。したがって、中大兄と鎌足は、そのような誇張された情報に乗ってしまったことになろう。実際に、福信たちは緒戦においては勝利がつづいていたわけであるし、使者の情報が誇張を含んだものであると判断したとしても、あながち虚偽の情報でもあるまいと判断し、倭国からの援軍が合流すれば、ほんとうに最終的な勝利を得ることができると考えたとしても、不思議ではない。現在から見れば無謀な戦争だったけれども、当時の情勢としては、本気で勝つ目算もあったという可能性、また実際に勝つ可能性もあったという可能性もあった、ということを考えるべきであろう。

 第二の可能性として、もしかしたら負けるかもしれない、だけれども朝鮮半島に出兵して、戦争に参加するのだ、と中大兄が考えていた可能性を考えてみたい。当時の兵力や兵器、それに指揮系統の整備レベルから考えて、もしかしたら唐には負けるかもしれない、ということは、明敏な中大兄のこと、心のどこかに予想していた可能性は高かろう。

 しかしそれでもなお、負けた場合に、唐が倭国に攻めてくるとは想定せずに、国内はこれによって統一されるであろうということを、中大兄と鎌足は考えたのではあるまいか。中大兄にとっては、中央集権国家を作りたい、だけど支配者層はバラバラである、地方豪族は言うことを聞かない、というような時に、ここで対外戦争を起こしてみたら、国内が統一できるだろう、という思いを持っていたのではないか。

 その際、外国でおこなう戦争だったのであるから、敗残兵が大量に帰還してくれば、国内の人びとにも、さすがに大きな損害があったことは察知できたはずである。しかしながら、それだけの情報しかないのであるから、国内向けには、こっちは大きな損害を受けたけれども、向こうにはもっと甚大な損害を与えたのだと言い張っても、誰も見ていないのであるから、わからないのである。

 さらに第三の可能性として、たとえ倭国の敗北が国内の誰の目にも自明なほどの敗北を喫したとしても(実際にはそうだったのであるが)、「大唐帝国に対して敢然と立ち向かった偉大な中大兄王子」という図式を、倭国内で主張することは可能である。つまり、中大兄たちの起こした対唐・新羅戦争というのは、勝敗を度外視した、戦争を起こすこと自体が目的だったのであり、それによって倭国内の支配者層を結集させ、中央集権国家の完成を、より効果的におこなうことを期したものであるという側面があった可能性を考えたい。

 あるいは、もっと深刻な可能性として、倭国の敗北が国内で周知の事実となってしまった場合でもない、中大兄は自らの国内改革の好機ととらえていたのではないかと考えている。

 あたかもこれから、唐・新羅連合軍が倭国に来襲してくるという危機感を国内に煽り、戦争で負けた、これから両国が倭国に攻めてくるぞ、それに立ち向って我らが祖国を守るためには、このままの体制ではいけない、国内の権力を集中して軍事国家を作り、国防に専念しなければいけない、軍国体制を作るためには、これまでとは異なる権力集中が必要である、国内の全権力を自分に与えろ、と主張しようとしていたのではないであろうか。

 じつはこのパターンが、もっとも強力な軍事国家を作ることができるのであり、中大兄にとっては、この戦争は、まさに「渡りに舟」のチャンスと認識していたことになる。

 最後に一つだけ、とんでもない可能性も提示しておきたい。従来から説かれているところであるが、白村江の戦に参加したのは、倭国の豪族軍と国造に率いられた国造軍の連合体であった(鬼頭清明「白村江」)。中央集権国家の建設をめざしていた中大兄にとって、もっとも深刻な障碍となっていたのは、まさに自己の既得権益ばかりを主張し、中央政府の命に容易に服そうとしない豪族層だったはずである。中央集権国家の建設というのは、取りも直さず豪族層の伝統的な権益(私地私民)を剥奪することに他ならないのである。

 中大兄と鎌足にしてみれば、乙巳の変依頼、自分たちの改革に対して障碍となってきていた、そしてつぎなる改革に際しても、邪魔な存在となる可能性の高かった豪族層を、対唐・新羅戦争に投入し、それらの障碍を取り除くことができる(いわゆる「裁兵」である)とでも考えたのではないであろうか。

 事実、白村江の戦から九年後に起こっている壬申の乱においては、白村江の戦に参加した豪族の名は、ほとんど見られない。

 中大兄たちの思惑通り、白村江の戦における敗北によって豪族の勢力は大幅に削減され、庚午年籍の作成をはじめとして、中央権力はかなりの程度、地方にまで浸透していったのである。

 以上、さまざまな可能性を考えてみた。これらのうち、どれがもっとも中大兄の思惑に近かったのか、それとも、中大兄自身がいくつかの可能性をシュミレートしていたのか、今となっては知る由もないが、いずれにせよ、白村江の戦は、必ずしも無謀な戦争だったのではないし、勝敗をまったく度外視していたわけでもないことは、明らかであると思う。

 なおかつ、負けてもかまわない、戦争を起こすこと自体が目的だった、という側面を強調したい。しかもそれは、対外的な目的よりも、国内的な要因によって起こしたということを指摘しておきたい。

 これは戦争という国家の権力発動の持つ、非常にして明晰な論理の発現だったのである。あれほどの大敗北だったからこそ、それが先鋭に浮かび上がったということなのであろう。そしてこの敗戦以降、倭国は新たな段階の政治制度の整備に向かうことになる。


 

2023年2月26日日曜日

20230225 先日の「源泉の感情」と「雑談的会話」の続き・・

過日投稿の「1050記事 ブログ記事作成継続のエネルギー・熱源について【対話形式】」にて、2012年の歯科理工学実習のことを書きましたが、これは、直近投稿の「当ブログに関する「源泉の感情」と「雑談的会話」の重要性について」と同じであり、また他にも、この時期のことを書いたブログ記事はありますが、私としては、この時期が人生で最も躁的になっていたと思われることから、総じて印象深く、比較的鮮明に記憶に残っているのだと思われます。

加えて、この時期は、生まれて初めて経験する英語科目の講義もあり、当初はかなり不安で、講義依頼をしてくださった先生に「・・本当に私で大丈夫でしょうか?」と、お聞きすると「大丈夫、大丈夫、鶴木君、ちゃんと英語で口頭発表してるじゃないの(笑)」とのお返事であり、引き受けさせて頂きましたが、こちらも体力勝負なところがあり、マイクを用いずに続けましたが、午前の講義を終えて、PCや教材を詰めたリュックを背負うと、何故であるか、重く感じられたことが何度かあります・・(苦笑)。

とはいえ、そこからまた原付で峠を二つ三つ越えて大学に戻り、最後の準備をしてから午後の実習に備えるのです。そうしますと、一時間ほどの休憩を取る余裕はなくなり、15分ほど一休みしてから実習開始となります。

歯科理工学実習については、2012年の時点で既に3年の経験があり、それなりに慣れてきた頃でしたが、この学年で特徴的であったことは、毎年、1学年を概ね1班10人の5班に分けるのですが、その年は、そこで1班10人全てが女性の班があったことです。

これは当時の私にとっては恐ろしいことであり、また、私がこの班を担当する前の週に、その週の実習を担当されていた先生に、この班員全員が何やら抗議していた様子を見て、その烈しさから、翌週の実習日まで気分が落ち気味でしたが、当日「意を決して」いや「開き直って」と表現した方が良いかもしれませんが、説明や雑談的会話などでの人文系ネタの割合を、以前よりも多くして実習に当たりました。これは、そちらの方が私としては嘘のない、それなりに根拠のある知見を交えた話が出来るであろうと考えたためです。

しかしながら、これまでの経験に基づきますと、人文系ネタを交えたようなハナシを喜んでくださるような女性は、人文系の大学院でも少なかったと記憶しており、ほかの場所では概ね、無視されるか、嗤われるか、バカにされるといった、ネガティブな反応が圧倒的多くを占めていたと記憶しています・・。


またこれは、家族・親族の中であっても、さきのような反応が一般的であるため、そうした(人文系ネタを愛好する)心が萎えてしまうことも、少なからずあるのではないかと思われますが、そうしたことは、たとえネット社会である現在でなくとも、何らかの活動を続けていますと、色々な契機が生じるように、新たな段階に至るきっかけが得られるのではないかと思われます。それは多くの場合、人との出会いであり、いわば師匠のような存在を見出すことにより、心が萎えて枯死することは、なくなるのではないかと思われるのです・・。

ともあれ、それまでの経験から、女性達と人文系ネタは概してあまり相性が良くないものと考えていましたが、この年は、さきに書いたように、午前中の教養英語講義からのハイ・テンションに乗じ、それまで以上に、人文系ネタを多く交えて話してしまいましたが、この時に、以前投稿の「【架空の話】実習・講義篇」内にあるようなことを話したのだと記憶しています。

また、彼女等のそれらに対する反応は、全体としては、あまり例年と変わったところはありませんでしたが、実習中あるいはその後の個別の質問のなかには、人文系ネタに関する興味深いものもありました・・。

そのようにして、特に問題なく、その週の実習も終えて、また、その年の実習も全て秋頃には終えることが出来ました。そして、その後の晩秋から翌2013年の早春にかけて、どうしたわけか、何度か大変興味深い出来事があったのですが、これらについてはまた別の近い機会に書きたいと考えています。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




2023年2月24日金曜日

20230223 当ブログに関する「源泉の感情」と「雑談的会話」の重要性について

おかげさまで、一昨日投稿分の記事は、投稿後二日としては比較的多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。そしてまた、この題材は、これまでの当ブログ継続の基層にあるものを扱ったことから、これを書くことにより、自らの「源泉の感情」をそこに見出し、そして、その融通無碍の性質から、相変態的に、また新たな方向性の創造を志向して動きだすことが出来るようになるのだと思われます。

その意味において、おそらく各々にある、この「源泉の感情」が、何により齎されたのかが重要になってきますが、これは人により異なると思われますが、それでも多くの方々は複数回は、そうした感情に触れる経験があると考えます。

この(「源泉の感情に触れる」)経験のもとになった出来事は人により異なるのでしょうが、私の場合、まさにそれが当ブログ継続の源泉であると考えることから、無計画に、そして小出しに、ブログ記事として書き続けてきましたが、昨今、ようやく2000記事到達もわずかに現実感が出てきて「そうした際に書いておきたいことはと・・。」と考えたところ、さきの題材が重要なものとして思い起こされ、またそれは、頻繁にツイッターにて連携投稿しているブログ記事である「おかしくなれる時期と(非典型的)知性について」の主題とも関与するものであることから「また何か、これについて書かなければと・・」と思い至り、一昨日の投稿記事となったわけですが、ここで書いた2012年の歯科理工学実習、そして歯科衛生学科での教養英語の経験は、研究室に教授も准教授もいない状況でのことであり、当時の私としては、かなり重大な出来事であったと云えます。

ともあれ、そうした経緯にて、実習やら講義を進めなければいけない私は、その主要な素養(知的背景)は人文系寄りであり、これは教養英語の講義では特に問題ないのかもしれませんが、歯科理工学実習では、先日の投稿記事にて述べた「雑談的会話」で、実習内容と関連することを、ごく自然に、雑談のようにして適宜、話すことが出来ることが重要と書きましたが、他方でもちろん、実習書や各種テキストに記載があるレポート作成上で重要と思しきことは全てお話していますが、それだけでは途中から実習が手持無沙汰になってしまうのです。

そこで、さきに書いた「雑談的会話」となるわけです。そして、2012年の私は、午前中の専門学校の教養英語の講義でのハイ・テンションをどうにか午後まで維持して実習にあたってきましたが、夕方前頃に実習を終えて後片付けをしてアパートに帰宅すると、日中の疲れのため、そのまま玄関先で寝落ちしてしまったことも何度かありました・・(苦笑)。

そして、そのようなことを思い出していますと、以前にも少しだけブログ記事にて書いたことがありましたが、実習時に自らが云ったことが、また少しずつ思い出されてくるのです。そして、それらの内容についてはまた近日中の別の機会に書いてみたいと考えています。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。









2023年2月22日水曜日

20230221 人文系人間の歯科理工学実習での雑談的会話について・・

これまでに投稿したオリジナル、あるいは引用記事をいくらかお読み頂いた方々であれば、お分かり頂けるかもしれませんが、おそらく私は、いくらか深いところから人文系への志向が強いと思われますが、2007年に歯科技工専門学校に入学して、歯科医療技術職の職業訓練を受けて、その後、歯学系の大学院博士課程に進みました。

当時は四年制大学での歯科技工士の養成も始まって、まだ間もない頃であったことから、歯科技工士で歯学系の大学院博士課程へ進まれた方は、おそらくいませんでした。その意味において、私は我が国の歯科技工士教育の一つの節目にはなったのかもしれませんが、同時に歯科技工士としては決して良いものになったとは云えません・・(苦笑)。

しかし、その代わりに、幾つかの分野に身を置いてきたことから、一身では経験することは少ないと思われる、複数種類の経験をさせて頂いたのではないかとも思われます。

現在から14年前の2009年に鹿児島に移り住み、その年から歯科理工学実習に実習補助として参加させて頂き、その中の幾つかの実習項目については、重要な工程を任せて頂き、また、歯科技工にて用いる各種器具の扱いが、未だ不慣れである学生さん達の動きにも、それとなく注意している必要があったことから、当初はかなり緊張していました。

それでも、以前にその実習工程を担当されていた講座の准教授の先生が丁寧に教えてくださり、また私の方も、和洋の歯科理工学教科書をアマゾンにて古本で購入し、それらを実験などの空いた時間で読み、自分なりに訳して、こなれたものにしてから、実習時、その記述と関連する工程の局面にて、それをおもむろに語ったりしていました・・。現在になり思い返してみますと「ああ、何と小手先な・・。」と恥ずかしく思う部分も少なからずありますが、しかし同時に、当時は、この実習で与えられた役割を上手くやり遂げようと自分なりに必死であったのだとも云えます・・。

 とはいえ、この「上手くやり遂げようとする」について、実習内容の説明といった技術的なことは、各種名称や、それら機器の使用法を心得て、ある程度使い慣れていれば、どうにか出来ると思われますが、そうした説明以外に、実習内容と関連する知見が含まれるような雑談的会話を適宜出来るようになることが大変重要であると思われます。その点、私は人文寄りな性質であることから、この実習時の雑談的会話では、さきの英語教科書や、実習内容と関連のある英語論文などを読み、ある程度知見を溜め込んでおき、それらを随時小出しにして用いつつ、そこに、人文寄りの知見を雑ぜ込みつつ、実習内容について、それらしいことを説明していた記憶があります・・(苦笑)。

2009年から2013年まで、毎年こうした経験をさせて頂き、また2011年からは教授(師匠)そして2012年からは、さきの准教授の先生が退職されたため、前述のように、当時、研究室唯一の院生であった私が、いくつかの項目については最後まで見ることになり、さらに、それと同時期、近隣の歯科衛生学科が併設された専門学校にて教養英語の講義を担当させて頂くことになり、この時期は早朝に大学に行って実習の準備を整えてから、各種教材を持って専門学校まで講義に原付で出向き、午前の講義を終えると急いで大学に戻り、実習の最終準備をしてから午後の実習に備えていました。

そして、現在になって振り返ってみますと、その他のさまざまな経験も重要なものであったとは思いますが、私の場合は、この時期の前述した経験(こそ)が、これまでにも何度か、当ブログにて述べてきましたが、当ブログ継続の基層にあるのではないかと思われるのです。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。






2023年2月20日月曜日

20230219 「精度の上がった「認識の型」」と「予言力」および「歴史意識」について 【社会を変えるもの?】

昨日投稿分の記事内に書いた「精度の上がった「認識の型」」は、その後になり、これは以前投稿した引用記事内にて柳田國男が述べた「予言力」に類似するものであると思われました。

そしてまた、この「精度が上がった「認識の型」」としての「予言力」は、これまた過日に投稿した引用記事内にある「歴史意識」を培地として成長、発展していくのではないかと思われます。

その意味において、我が国が古来より歴史意識が乏しく、そしてまた近代以降も柳田が述べた通り「予言力」が落第ものであったならば、どのようにすれば、それらを改善することが出来るのかと自然、考えが至るわけですが、その解決策は、深く根本から改善しようとすると、かなり大掛かりに社会制度に変更を加える必要があるため難しいと思われますが、同時にそれを卑近なものとして表現しますと「ある程度の精度がある歴史意識を備えた人物の数が、社会にて多くなれば良い」ということになります。あるいは、もっと端的には「さまざまな故事や歴史などについて能動的な興味を持つ人々が増えれば良い」ということになりますが、しかし、このあたりの「・・・が良い」といった段階までは、おそらく我が国は、他国と比べて相対的に同質性が高いことから、スムーズに集団内での同意を得ることが出来るのでしょうが、しかしそれ故に、その後に生じる集団内部での競争が激しいものとなり、かえって文化の発展などが阻害されてしまうことは、現在に至るまで、少なからず生じているのではないかと思われるのです。(優等生病・一番病・カニバケツ)

あるいは、これをもう少し詳説しますと、こうした云わば「ある権威を持つとされる見解や考え、そして、それらを背景とする組織、集団に対する凝集性」は、我が国では古来より、その傾向が強いと云えますが、これは集団の中で凝集性を惹起させる起点となる、一応は全体を見廻しつつ、自らの集団にとって(都合の)良い意見や方策を述べることが出来る人々が居ることから機能していたのだと云えますが、そうした方々が少なくなってきますと、それまでの歴史的文脈を逸脱や無視したような存在の方々が現れて、短期間のうちに社会を席捲することもあるのかもしれませんが、しかし、歴史の中にあっては、実はこうした流れや存在もまたトリック・スター的な存在として、その「認識の型」が存在するのだと云えます。そして、これら多様な「認識の型」のうちの何れが、眼前にある現象に対する理解として適切であるのか、あるいはまた、これら複数の「認識の型」を組み合わせることにより、現象への理解が深まり、そして新たな視点などを見出すことも出来るのではないかと思われるのですが、しかし、さきの凝集性を惹起させるような、深慮があり、有徳な年を重ねた方々も少なくなり、それに代わり、テレビやインターネットなどを舞台として、幾つかの見解を軸とした凝集的な動きが生じるのでしょうが、それらの中で強くなりがちであるのは、やはりまた、さきに述べたような「歴史的文脈を逸脱や無視したような方々による見解の軸」であるように思われます。そして、こうした軸への凝集が強まり、そしてあるところにまで達すると、我が国の場合であれば、どうも変な方向へ行ってしまうのではないかと思われるのです・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。






2023年2月19日日曜日

20230218 「認識の型の精度」と専門家による知見の価値?

昨日までの数日間の首都圏はとても寒く、春が近づいていることを忘れさせるほどでした。しかし本日は打って変わり、日中、比較的気温も上がり過ごし易かったです。そして、これからが三寒四温に入り、気温もまた上下する期間がしばらく続くのでしょうが、私としては、速やかに暖かい春になってくれることを願うばかりです・・。他方で、当ブログの方は、今回の記事投稿により(ようやく)総投稿記事数が1955に到達します。また、この投稿頻度を継続すれば、あるいは4月中での2000記事到達も叶うのではないかと思われますが、とりあえずは、そのあたりの4・5月の間に到達出来ることを念頭に置いて、今しばらく続けてみようと思います。

そういえば、去る2月15日投稿分の引用記事は、比較的多くの方々に読んで頂けました。このような、どちらかというと「郷土史」に分類されるような著作も、読んでみますと当事者の記憶に基づいた記述であることから、期せずして真に迫るような描写が少なからずあり、そしてまた、そこから当時の時代精神なども読み取ることが出来るのだと思われます。おそらく、多くの優れた時代小説家の先生方も、こうした歴史的出来事の当事者が遺した文章や記録などを読み込んで、それらの内容を統合して、さらに現代の文章として洗練させたものとして書かれるのでしょうが、たしかに、こうした知的作業は大変そうではありますが、同時に、思いのほかに大事であると考えます。

そしてまた、こうした資料やコンテクストを読解して得られたものを統合して、それを抽象化した、ある種の「認識の型」は、その過程を何度も繰り返すことにより、さらに「認識の型」としての精度が上がり、現実世界での出来事にも応用可能になっていくのではないかと考えます。

おそらく一般的に「専門家の知見」なるものが状況の認識や判断において重視される背景には、ある分野の専門家は、その専門分野については、さきの精度の上がった「認識の型」を持っており、これまでの経緯と現状に対する推測、そして、この先についての予測などが適切に出来るであろうと、考えられているからです。

しかし、そこまで考えが及んで思ったのは「我が国の報道番組などにおいては、あまりそうした見解については期待していないのではないか?」ということです。また、そこからさらに思ったことは「こうした「認識の型」の精度などを重視しない社会であるからこそ、議論なども面倒で必要ないものと考えるのかもしれない。」ということであり、また「そうであれば各種芸術も、究極的には創造性などは必要ない、単なる型の作業の繰り返しということになり、そこからは相変態的な進化などが生じることがないであろう。」と思われるのです。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。












2023年2月16日木曜日

20230215 青潮社刊 加治木常樹著「薩南血涙史」pp.93‐97より抜粋

青潮社刊 加治木常樹著「薩南血涙史」pp.93‐97より抜粋
ASIN ‏ : ‎ B009752XV8

 二月十五日

頃日天候俄に一変し十二日以来激甚の寒気を加え雪を降らすこと連日此日に至り地上の積雪幾んと六七寸より尺余に及べり古老之を伝えて五六十年来未曾有の大雪なりと云う天已に此の兆を示す前途亦寒心せざるを得ざるものの如し而して此日を以て出陣の初日とす午前六時を期し練兵場に集合し同八時を以て進発するの予定なりしかば四千有余の壮士各結束し払暁白雪を蹴り続々として練兵場に至り各隊標示の下に会し篝火を焚きて其期を俟つ、斯て八時を報ずるや各隊順次繰出し一糸乱れず整々として練兵場を発し東西に分れて征途に上る其状甚だ勇壮なりき。

一番大隊は西目街道より進み横井及び伊集院に休憩して市来湊町(八里)に至り二番大隊は東目街道より進み重富に休憩し加治木(五里)に至りて一泊す又別府晋介の統率せる加治木先鋒の一番二番の大隊は早天加治木を発し溝辺に休憩し横川(五里)に至りて一泊す。

二月十六日

此日雪前日より甚しく三番四番の大隊は予定の時刻を以て練兵場を発し三番大隊は西目街道より進み横井及び伊集院に休憩して市来湊町に至り、四番大隊は東目街道より進み重富に休憩して加治木に至り別府の二大隊は横川を発し湯の尾に休憩して大口(六里)に至り、又二番大隊は加治木を発し溝邊に休憩して横川に至り、一番大隊は市来湊町を発し向田に休憩し阿久根(十里)至りて各一泊す。

二月十七日

降雪猶ほ前日の如し五番大隊及び砲隊は予定の時刻を以て練兵場を発し、五番大隊は西目街道より進み横井及び伊集院に休憩して市来に至る篠原国幹、永山弥一郎、池上四郎之と共にす砲隊は東目街道より進み西郷隆盛、桐野利秋、村田新八、淵邊高照之を率い此日西郷隆盛は陸軍大将の略服を着し正帽を戴き刀を帯び草鞋を着け歩して田の浦に至る偶ま西郷の長男寅太郎一僕を従えて来り謁す西郷顧て曰く「来たか」と共に行くこと数丁西郷曰く「もう帰れ」と寅太郎猶ほ従い行こと数十歩僕之を止む寅太郎止むを得ず西郷に一礼して停立し其行を目送す、西郷亦屡途より之を顧み磯天神社の下に至る、西郷、淵邊高照に謂て曰く「旧君の門前に至らば諸兵宜しく一礼して過ぐべしと淵邊乃ち敷根市蔵をして之を伝へしむ、砲隊皆な礼して過ぐ西郷亦恭しく三拝して去る、重富に至りて休憩し加治木に一泊す、別府の二大隊は大口を発し久木野に休憩して佐敷(六里)に至り二番大隊は横川を発し湯の尾に休憩して大口に至り四番大隊は加治木を発し溝邊に休憩し横川に至りて一泊す又一番大隊は阿久根を発し野田に休憩して出水(四里半)に至り、三番大隊は市来湊町を発して向田に休憩し阿久根に至りて一泊す。

二月十八日

別府の二大隊は佐敷を発し田の浦に休憩して日奈久(五里)に至り二番大隊は大口を発し久木野に休憩して佐敷に至り、四番大隊は横川を発し湯の尾に休憩して大口に至り砲隊及び西郷等は加治木を発して溝邊に休憩し横川に至りて一泊す、又一番大隊は出水を発し(休憩所不詳)水俣(四里半)に至り、三番大隊は阿久根を発し野田に休憩して出水に至り、五番大隊は市来を発して向田に休憩し阿久根に至りて一泊す。

二月十九日

別府の二大隊は日奈久を発し八代に休憩して小川(六里)に至り、二番大隊は佐敷を発し田の浦に休憩して日奈久に至り、四番大隊は大口を発して(休憩所不詳)水俣に至り砲隊及び西郷等は横川を発して栗野に休憩し吉田(五里)に至りて一泊す、又一番大隊は水俣を発し湯の浦に休憩して佐敷(四里半)に至り、三番大隊は出水を発して(休憩所不詳)水俣に至り、五番大隊は阿久根を発して野田に休憩し出水に至りて一泊す。

二月二十日

別府の二大隊は小川を発し宇土に休憩し川尻(五里)に達せり、二番大隊は日奈久を発し八代に休憩して小川に至り、四番大隊は水俣を発し湯の浦及び佐敷に休憩して田の浦に至り、西郷及び砲隊は吉田を発し人吉(七里)に至りて一泊す、又一番大隊は佐敷を発し田の浦に休憩して日奈久に至り、三番大隊は水俣を発し(休憩所不詳)佐敷に至る、五番大隊は午前八時出水を発して米の津に至り同九時三十分一隊二十艙の船に分乗し午後四時佐敷に着せしが、三番四番の大隊既に着陣し宿陣すべきの家屋なかりしかば海岸白岩村に至りて宿陣せり、此時熊本城下及び川尻駅焼失の風説あり是に於て三番大隊は午後七時更に佐敷を発し夜を冒して進軍し田の浦に至りて露営せり而して此夜鎮台兵城下を放火し戦備に汲々たるの情報至り続て別府晋介小川に来り川尻衝突の事を以て二番大隊と軍議を為せり。