2022年6月13日月曜日

20220612 中央公論新社刊 中公クラシックス 竹山道雄著「昭和の精神史」pp.49-52より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 竹山道雄著「昭和の精神史」pp.49-52より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 412160122X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601223

青年将校の運動は、封建時代このかた持続された支配階層たる「天皇制ファッショ」が、自己の本質を一直線に実現していった過程の一齣ではなかった。その代表者を殺すことによってその真の姿を生かしたのだという「呼出し役」説は、堅白同異の詭弁であり、歴史を都合よく体制化して考えるためにつくりだされた便宜の仮想にすぎない。これによって組み立てられた全体を、歴史としてうけとることはできない。

旧勢力の人びとも国の一員だから、国の保全とか国勢伸張とかいうことは、当然願っていた。願いすぎた人もたくさんあった。これは幣原外相も高橋蔵相も考えていた。しかし、国の隆盛を欲すること自体がすなわちファッショなのではなく、ファッショといわれるためには特定の形態をもち理念をもち方法をもったものでなくてはなるまい。「かれらが一見ファッショと対立して見えるのはただ手段の緩急についての意見の差にすぎず、本質的には同一利害の上に立っていた」。故に、かれらもファッショだった、ということはできない。これは極端な「部分的真理の一般化」であり、もしこのような論理を用いるならどんな体系もたてることができる。

 青年将校の運動は既成秩序に対する真向からの反撃だったが、しかし階級闘争ではなかった。上からの革命でもなく、下からの反抗でもなかった。かれら自身はおおむね中産階級の出で、実社会から離れた生活をしていた(極端ないい方をするなら、これもこの三十年来いまもつづいている、社会の不正に対する若い世代の反撥の一齣だった。)檄文にも見るように、かれらはみずから革命の前衛をもって任じていて、後から国民大衆がつづいてかれらのはじめた仕事を完成することを期待していた。かれらの動機は自分の階級の利益のためではなくて、観念の情熱からだった。階級は一つの権力の主体であるが、階級のみがそれなのではない。階級の悪を否定しようとする情熱もそれとなりうる。軍縮時代の軍人が肩身がせまかったから、それへの怨恨が軍隊の中にあったし、これが軍人の政党嫌いの一因をなしていたのにちがいないが、かれら自身はもっと若く、その根本の動機は檄文に表明されたとおりのものと思われる。

 しかし、このように主観的動機を重視することは、はたして歴史の闡明になるだろうか?歴史をうごかすのは、もっと「根本的」な要素なのであり、証明は経済ないし階級的利害によって裏づけられなければならないのではないだろうか?青年将校の運動は、独占資本にあやつられたか、農民の反抗であったか、あるいは苦しんでいる小市民のあがきであったか、とにかくそのような観点に基礎づけられなくてはならないのではないだろうか?観念の情熱ー?そんな頼りのない話ではなくて、もっと「実質的な」要素に還元して、そこの上からの演繹をするのでなかれば、すべては非科学的な「むなしい唯心論」なのではないだろうか?

 人間のすべてをその根本的と想定される一元的要素の因果関係に還元したときのみ、科学的実証となるとする考え方は、前世期の固定観念だった。これは必然の立証がすなわち科学であるとして、それに対して自立する人間の主体的意思を認めない。

 しかし、「哲学は世界を解釈するのではなくて、改造すべきものである」と説いて、歴史解釈にすら主体性を要求しながら、その歴史の中に行動する人間には主体性を認めないのは、ふしぎである。

 歴史は人間の行動によってうごく、そして、この行動から主体的意思をのぞいて考えることはできない。人間は外界によって機械的に反射的に規定されるものではない。

 もともと、人間の行動と外界とは直接につながっているのではなく、その間に心がある。これはその後の学問によって確認されたことであり、もしこの事実を認めないならそれは非科学的である。人間の行動は、外界によって直接に条件づけられるのではなく、むしろ外界について彼がいだいているイメージによって条件づけられる。故に人間の行動はしばしば外界とズレるのであり、たとえ彼が外界に対して正しく反応したときにも、彼はなお彼がいだいている外界像にしたがって行動したのである。

2022年6月12日日曜日

20220611 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」 pp.487-489より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」
pp.487-489より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4163646701
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163646701

私がこのとき和気藹々たる(米軍捕虜収容所 に収容された日本軍の)閣下たちに感じた異常な違和感の背後には、このことがあった。この閣下たちのうちのだれかは、おそらくだれかを自決させるか自決に追い込んでいるかは、しているであろう。そして、情況のほんのわずかな変化で、それは私であったろう。「ではこの人たちはたとえオレを自決させておいても、平気で、こうやって和気藹々と句会をやっていけるわけか」という言うに言われぬ異様な感じである。それは人びとが、獄中の永田洋子から受けたであろう感じとは、到底比較にならない、一種、もう表現しきれないような異様な感じであった。

 和気藹々はその日だけではなかった。そしてそれが二、三日つづくと、今度はこちらが、肩すかしをくったような妙な虚脱感をおぼえ、閣下なんぞについて何かを考えるのはもう面倒だ、最初に気をつかったこっちが馬鹿正直だっただけだ、といった、一種投げやりの無関心になっていった。そしてそれを過ぎたとき、私はやっとこの将官たちを、一応そのままの姿で「見る」余裕を獲得した。そして見れば見るほど、それは、不思議な存在に思われた。

 なぜあの人たちが指揮官でありえたのだろう。なぜあの人たちの命令で人びとが死に得たのであろう。なぜ自決を命ぜられて人が自決し得たのであろう。前述のように、将官たちは互いに「○○閣下」「××閣下」と呼び合う。閣下がお互いに閣下閣下と呼び合うものだとはこのときはじめて知ったが、鉄柵の中でのその呼びかけが逆に妙に空虚にひびき、そこにいるのは結局、それ以前にも今と同様、そう呼びあっていただけの、二等兵以上に自己の意志を持ち得なかった無個性無性格者の集団だったとしか思えなかった。

 終戦前と比較すれば、この人たちは、一瞬にして変ったように見える。確かに、満期除隊となれば兵士は瞬間的に地方人(一般市民)に変わり、幹部候補生の将校は翌日から背広姿のサラリーマンにヘンシンする。それはその人たちが兵役という「お役目」から解放され、「気魄演技」も「要領演技」も必要のない本来の姿にもどっただけで別に不思議ではない。また本職の中堅将校にもそういう人はいた。しかしその人とて、これからは一市民として生活していくという努力感が、その変化の前提にあったろう。だがこの人たちは、別のはず、解放されてそれへ戻る本来の姿が別にあった人びとではないし、将来の生活のための努力もないはずだ。それがこうなるとはどういうわけなのか。結局これが、この人たちの本来の姿で、将官は演出の「お役目」だったのであろうか。

 一体これは、どういうことなのか。選び抜かれて将官となり、部下への生殺与奪の権を握っていたこの人たち、この人たちに本当に指揮者の素質があるなら、今でも何か感ずるはずだが、それは感じられない。

 野戦軍の「将」であったのか、それならば、たとえこうなっても「檻の中の虎」に似た精悍さを感ずるはずだが、それもない。では何かの責任者だったのか、それならば最低限でも「部下の血」に対する懊悩から、こちらが顔をそむけたくなるような苦悩があるはずだ。私が最初、師団長の顔を見たくないと思ったのはそれで、具体的にいえば彼の部下である砲兵隊の最後も砲の処置も、砲兵出身である彼に語りたくないのが理由だったが、そういう苦悩があるとさえ感じられない。

 一体この人たちは何なのだろう。まるで解放されたかのように、この現在を享受しているかに見えるこの人たち。この人たちの頭脳の奥に、本当にリアリティをもつ存在があるとすれば、それは一体何なのであろうか。私にはただただ不思議であった。

 彼らが「世界的定義」における軍人ではなかったことは確かである。従って米軍は日本軍を「軍隊として」尊敬していなかった。ロンメルのような形で敵軍にすら称揚され、世界的水準で一定の評価を得ている伝説的将軍は日本軍にはいないし、いるはずもない。もちろん、お家芸の「仲間ぼめ」は今でもある。また「日本軍は強かった」という表現で、その強い日本軍に勝ち得た自分はさらに偉大なのだと暗に自慢しているマッカーサー型の、間接的自己称揚のための日本軍称揚もありうる。それらを除き、彼らが真から例外的に高く評価していたのは自暴自棄のバンザイ突撃に最後まで反対し、冷徹な専守持久作戦で米軍に出血を強い続けた沖縄軍の八原高級参謀だけであったろう。

2022年6月10日金曜日

20220610 株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」pp.198-199より抜粋

株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」
pp.198-199より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4833421674
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4833421676

近年の調査で、長い間チャーチルの逸話と信じられてきたものの一部も根拠がないことが明らかになった。私のお気に入りだったナンシー・アスターについての逸話もどうやらこの類のようだ。米バージニア州生まれのアスターはのちに渡英し、イギリス初の女性国会議員(下院)となった。つねに自分の見解をはっきりと主張する人物で、英独開戦前の1930年代にはヒトラーのことを有能で立派な人物だと評していた。

 アスターはチャーチルにこう言ったといわれている。「ウィンストン、もし私があなたの妻だったら、コーヒーに毒を入れてやるわ」。チャーチルはこう答えたという。「ナンシー、もし私が君の夫だったら、そのコーヒーを飲むだろう」。この素晴らしい切り返しはチャーチルのものではないことはほぼ確実になっている。仮にそうだとしても、誰かの受け売りだったと思われる。

 チャーチルの伝記作家マーティン・ギルバードはこの発言はチャーチルではなく親友の元財相F・E・スミスのものだとしているが、その後の調査で、1900年に刊行されたアメリカのシカゴ・トリビューン紙の「今日のジョーク」というコーナーに書かれていたことがわかった。アメリカ滞在中の若きチャーチルがたまたまこれを見つけ、アスターへの反撃に使えるように取っておいたのだろうか。そういうことでもないだろう。たんに誰かがジョークを使いまわし、もっと面白くするためにはいかにもと思えるような有名人が言ったことにしたという可能性が高そうだ。

 これは私の両親から聞いた話だが、チャーチルは一度、文章を前置詞で終えることに対して苦言を呈した傲慢な公務員を叱責したことがあったという。この時チャーチルは、無理やり言葉の順序を変えて「これは英語の種類であるところの、私が我慢できない」(これは私が我慢できない種類であるところの英語だ)と言ったそうである。

 私はこれを実話だと思ってきたが、そうではなく、ストランド誌に掲載された、誰が書いたかわからないジョークの一つだった。チャーチルが言ったことにすれば、もっと面白くなると誰かが思ったのだろう。チャーチルの言葉として知られている「将来、ファシストたちは自分たちを反ファシストと呼ぶだろう」も実際は彼のものではない。

聞く人の政治的信条によっては間違いなく深い意味を持つ言葉ではあるが。

20200610 株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」 pp.172‐174より抜粋

株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」

pp.172‐174より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309407811
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309407814

 三島 「思想の科学」の連中なんか言っていることだが、密教と顕教、あれは面白い教え方だね。そして、顕教では現人神であって、密教では天皇機関説だね。そして、東京帝国大学は密教を教えるところだ。支配者は、みんな成年過ぎて、いいこと悪いことが区別ついて、知性が非常に高くなった段階ではじめて密教を教える。例の国体論争が起きたときから、密教の問題が顕教のほうにはみ出してきちゃった。そして、たまたま密教の中で閉じ込めてあった天皇機関説が出てきちゃった。それで大問題が起きて、密教と顕教が混交しちゃったという考え方、あれは面白いと思った。それは軍部の教育でも、統帥参考書とか統帥綱領とか、戦前絶対の部外秘で将校も自分たちは単行本も持ってないわけです。陸軍大学でちょっとのぞくだけです。それには堂々と退却の話が長々と書いてある。それが、昭和十年ごろになってから、退却という字を改めて転進にしたらしいんですが、昔の原本には退却という字がはっきり書いてある。軍人には退却が必要ですから、密教的には教えていたわけですね。

 そういう教育の二重構造がなくなって、子供のときから、嘘をほんとうのことらしく教えちゃうのは、真実と嘘というのは福田さんの演劇論の中にもあるけど、そういう根本的な教育が間違っているんだね。それが全部左翼の謀略だとは思わない。日本人のバカ正直、実にバカ正直だ。

福田 どっちが嘘で、どっちがほんとうだと決めなければ気が済まない。

三島 紀元節問題でもそうです。左翼がどうのこうのいうより、実にバカ正直だ。バカな議論ですよ。天皇問題では、つまりいまは顕教と密教とが逆になっちゃった。顕教というのは、天皇が人間であり、象徴である。密教がいま学校で教えてないんだけど、現人神信仰というのが残っているのが密教だよ。教育とは問題離れるが、密教と顕教が逆になった形だと思うんだ。

福田 天皇の本質を純歴史的、純科学的に解明していけば、ただ象徴だったり、人間だったりするわけがないよ。祭司の代表だからね。祭司というものを農耕儀礼を追求していけば、天皇は人間であっていいという証拠はどこにも出てこない。

20220609 1800記事に到達出来たら、および文系の師匠について

今回の記事投稿により、総投稿記事が1795に到達し、そこから、さらに5記事追加することによって、当面の目標としていた1800記事に到達することが出来ます。2015年に当ブログを始め、2018年に1000記事に到達してから、更に800記事追加するのに、概ね4年間掛かってしまいましたが、しかしながら同時に、現時点において、ようやく1800記事到達までの具体的な目途が立ったように思われます。そしてまた、来る6月22日のブログ開始から丸7年になる前の出来るだけ早い時期に1800記事まで到達したいところですが、その到達後については、しばらくの間、当ブログやツイッターなどのSNSからも離れてみたいと考えています。

とはいえ、現時点においても、1800記事到達までは、未だ数記事の投稿を要するため、到達後のことを述べるのは、尚早であるのかもしれませんが、しかし、今回目前にある到達までは、ここ2年半、ツイッターとの連携を行い、それが常態化したものと認識している中での到達であることから、これまでと比べても相対的に感じる「圧」が強いと云えます。

おそらく、ここで感じる「圧」とは、端的には自縄自縛であり、自らの生み出した幻影のようなものであると「理屈」では考えられるのですが、しかし、いざ、記事作成の段になりますと、何だか萎縮するような感じのものであり、そして、最近に至り、ようやく、それに慣れてきたのか、多少は萎縮の度合いが弱くなってきたように感じられるのです。

それにより、ブログ記事の作成は、以前と比べ多少捗るようになりましたが、同時に、以前の1000記事への到達を目指していた時期と比べますと、全体的に、作成したブログ記事に込めた熱量が少なくなっているように感じられるのです。それ故、回復のためにも、今回1800記事まで(どうにか)到達出来たら、しばらくブログ記事の作成を休んでみようと考えているのです。「英気を養う」などと云いますが、そのような効果があればと願っています。

そういえば、ここ最近数カ月間に、どうした経緯か、あるいは当ブログでの記事を閲覧されたのか、相互には知人ではない複数の知人から「君の先生はどういう人なの?」と訊ねられました。私の場合、これまでの当ブログでの記事にて述べたとおり、歯系の師匠が一人と、文系の師匠については何人かいます。また、さきの質問では、それまでの文脈から、文系の師匠のことを指すと思われたことから「何人かいますが、どの分野のでしょうか?」と訊ね返しますと「歴史分野での先生です。」とのことであり、この分野での師匠については、当ブログにて何度か扱っており、また【架空の話】にも、この師匠をモデルとした人物が、指導教員として登場していますが、あらためて、そうした記述のあるブログ記事を読んでみたところ、自身が作成した文章ながら、たしかに多少キャラが立っているようにも感じられました・・。

そこから、さきの「君の先生はどういう人なの?」というご質問は、あるいは当ブログを読んで頂いたところから発生したものであったようにも推察されるのですが、これは実際のところ不明です・・。

ともあれ、この文系の師匠については、教員となられてからかなり早い時期にお目に掛かり「これはスゴイ・・」と思い師事させて頂きましたが、そしてそこから、現在に至るまでの師匠を眺めてみますと、やはり、その当時の私の感覚は、少なくとも間違ってはいなかったように思われるのです・・。

そこから、私には、そうした才能を見抜く才能のようなものが、ないわけではないのかもしれません・・(笑)。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




2022年6月6日月曜日

20220606 早川書房刊 ジョン・ト―ランド著「大日本帝国の興亡」1暁のZ作戦 pp.136‐138より抜粋

早川書房刊 ジョン・ト―ランド著「大日本帝国の興亡」1暁のZ作戦 pp.136‐138より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4150504342
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4150504342

日本人の内部には、形而上学的な直観と動物的・本能的衝動とが隣合って存在している。だからこそ、思想が獣化され、獣性が思想化されたのである。過激分子が決行した暗殺その他の流血事件は、理想主義によって動機づけられたのである。そして、結局東洋人のための東洋をまもるべく中国へ渡った兵士たちは、南京で、多数の東洋人仲間を殺してしまったのである。

 日本人の思惟方法では、超越的なものと経験的なものー菊と刀ーの間に、何の緩衝地帯も置こうとしない。彼らは宗教的であったが、西欧的な罪の概念はなかった。同情心はあっても、人間性に欠けていた。閥による結びつきはあるが、人間としての交わりは希薄であった。強固な家族制度を持つが、個人はその中に埋没していた。ひとことで言えば、日本人は偉大でしかも精力的な民族であり、しばしば相対立する力にかりたてられ、相対立する方向に同時に進もうとする人々であった。

 そのうえ、些細な点でも、東西間には多くの相違があり、これが不必要な軋轢を助長する結果となった。西洋人が「この道は、東京へ行く道ではありませんね」と尋ねたとする。日本人はきっと「はい」と答えるだろう。ところが、その「はい」という意味は「あなたのおっしゃる言葉がそのまま正しいのです。その道は東京へ通じるではありません」ということである。日本人は、西洋人に対してただ相手の感情をそこなうまうとして、あるいは面倒な事態を避けるために、相づちを打ったり、また自分が知らないことが言えないで、ついまちがったことを教えたりするようなことをするので、誤解を生む結果となった。

 ほとんどの西洋人にとって、日本人は全く不可解な民族であった。道具の使用法一つを見てもすべて違っていた。しゃがみこんで鉄床を打ち、鋸や鉋は押さずに引いて使う。家を建てるときはまず屋根をふく。鍵をあけるには左に回す。これは方向が違うのである。日本人がする事なす事はすべて西洋人と逆である。動詞は最後にもってきて話すし、読み方も逆である。書き方も逆である。椅子に掛けずに直接床にすわる。魚は生で食べ、まだ動いている海老を生きたまま食卓に供する。身辺の最も悲しいでき事さえも笑いながら話すのである。いっちょうらの服を着たまま泥の中に落ち込んでも、白い歯を見せながら立ち上がる。わざとまちがったさしずをしておいて、自分の考えを相手にわからせる。回りくどい遠回しな態度でそばの者を押しのける。ある男を暗殺した後で、その召使いに家の中を汚したことについて詫びを言ったりする。

 西洋人たちが気づかなかった点は、日本人が近代性と西欧の流儀を付焼刃的に見にまとってはいるものの、その衣の下は依然として「東洋人」だったこと、そして封建制度から帝国主義への急速な移行があまりにも激しく進んでしまったため、西洋的な価値観ではなく、もっぱら西洋的方法に関心があった日本の指導者たちは、自由主義や人道主義を根づかせるだけの時間的余裕も気持も持つひまがなかったということだった。

20220605 中央公論社刊 森 浩一編 日本の古代5 「前方後円墳の世紀」pp.122‐125より抜粋

中央公論社刊 森 浩一編 日本の古代5 「前方後円墳の世紀」pp.122‐125より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4124025386
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4124025385

きわめて率直な書き方をすると、私はいま、日本人は少なくとも二つの民族が混合した複合民族ではないかと考えている。その基盤となったのは縄文人であり、これはもともと東アジア南部に起源をもつ、原モンゴロイドともいうべき集団の系統と思われる。

 第二の構成要素は、主として弥生時代以降に渡来した集団で、直接には朝鮮半島を経由してきたが、彼らの源流は中国東北地方、あるいは東シベリアに分布する寒冷適応型の民族であったと思われる。

 もちろん、これらの渡来者もモンゴロイドに属し、またその遠い祖先は原モンゴロイドであったにはちがいないが、北方モンゴロイドは主としてウルム氷期(約7万~1万年前)に極寒の気候に適応し、原モンゴロイドとは異なる進化をとげた集団である。

 とくに2万5000年前から1万2000年ほど前は気温の低下が著しく、この期間に北方モンゴロイドの特徴が形成されたという可能性が強い。そこで、モンゴロイドの原型ともいうべき原モンゴロイドを古モンゴロイド、北方モンゴロイドを新モンゴロイドということもある。

 そうすると、日本人は原モンゴロイドと北方モンゴロイドとの二重構造によって形成されたと理解することができる。そして古墳時代は、まさにこの二つの集団が日本列島で混じりあい、政治・社会的には異文化との接触による摩擦が生じ、生物学的には混血が起った時代といえる。さらにこの時代に、現代に直接つながる日本文化、日本国家、そして日本人が形成されたと考えられるのである。

 まことに大ざっぱであるが、以上が私の仮説の概略である。以下、この仮説がその程度妥当なものかという点について、人骨の計測値を統計学的に分析しながら考えることにしよう。

【古墳人の研究史】
古墳人については、坪井正五郎(東大理学部・日本人類学創設者)が早くも「東京人類学会雑誌」第三巻(1888〔明治21〕年)に、足利古墳(栃木県足利市)で発掘された数体の合葬人骨の報告を掲載している。

 坪井は解剖学の専門家ではないが、それでも主な骨や歯の記載と計測を行い、さらにこの合葬骨が、15人、または少なくとも12人の成人からなることを明らかにした。

 その後、単発的な古墳人骨の報告はかなり多いが、ある程度まとまった資料による研究は、1938(昭和13)年に、城一郎氏(京大医学部)によって初めて行われた。

 城氏は、主として清野謙次(京大医学部)によって収集された古墳人骨60例あまりを資料として研究したが、その分布は大部分が西日本に偏っている。

 1957年には、島五郎および寺門之隆氏(大阪市立大医学部)が畿内古墳人を中心とする研究を行い、また1976年に、森沢佐歳(富山医科薬科大医学部)は全国的な古墳人の資料を集計して、古墳人の地域差を論じた。

 これとは別に、鈴木尚氏(東大理学部)は東京を中心とする古墳人の計測値を集計したが(1969年)、これらは主として横穴墓のものであり、また9世紀ころの人骨も含まれている。

 最近の研究成果として特筆すべきことは、池田次郎氏(京大理学部)の企画による二つのシンポジウムである。

 一つは1980年に長崎市で行われた「骨から見た日本人の起源」というシンポジウムであり、一つは1985年に福岡市で開催された「国家成立前後の日本人ー古墳時代人骨を中心にして」と題するシンポジウムである。

 前者では、永井昌文氏(九大医学部)が北九州出土の古墳時代人骨を中心として報告し、後者では、4名の研究者が地方別に分析結果を報告したのちに、池田氏がまとめを行った。

【人類史のなかで】
以上の流れをみると、資料の数は不充分とはいえ、日本の各地で発見例が増すにつれて研究も精密になってきたことがわかる。また古墳人は、発見例の多い縄文人と現代人とをつんがく中間的集団して、日本人の起源に関して常に重要視されてきたが、最近の傾向としては、日本人を一つの集団と考えるのではなく、地域差が重要視されるようになってきたことが特徴的である。

 私はすでに、日本人の地域差がその形成の過程を反映していることを強調してきたが、このような認識は、いまや日本人の起源に関心をもつ多くの研究者に共通するものとなった。とくに古墳人は、日本の激変期に生きていた集団であるだけに、同時代的な地域差のみならず、その前後の時代、ならびに日本の隣接地域との比較分析を行わなくては、実態をとらえることは不可能であろう。