pp.487-489より抜粋
ISBN-10 : 4163646701
ISBN-13 : 978-4163646701
私がこのとき和気藹々たる(米軍捕虜収容所 に収容された日本軍の)閣下たちに感じた異常な違和感の背後には、このことがあった。この閣下たちのうちのだれかは、おそらくだれかを自決させるか自決に追い込んでいるかは、しているであろう。そして、情況のほんのわずかな変化で、それは私であったろう。「ではこの人たちはたとえオレを自決させておいても、平気で、こうやって和気藹々と句会をやっていけるわけか」という言うに言われぬ異様な感じである。それは人びとが、獄中の永田洋子から受けたであろう感じとは、到底比較にならない、一種、もう表現しきれないような異様な感じであった。
和気藹々はその日だけではなかった。そしてそれが二、三日つづくと、今度はこちらが、肩すかしをくったような妙な虚脱感をおぼえ、閣下なんぞについて何かを考えるのはもう面倒だ、最初に気をつかったこっちが馬鹿正直だっただけだ、といった、一種投げやりの無関心になっていった。そしてそれを過ぎたとき、私はやっとこの将官たちを、一応そのままの姿で「見る」余裕を獲得した。そして見れば見るほど、それは、不思議な存在に思われた。
なぜあの人たちが指揮官でありえたのだろう。なぜあの人たちの命令で人びとが死に得たのであろう。なぜ自決を命ぜられて人が自決し得たのであろう。前述のように、将官たちは互いに「○○閣下」「××閣下」と呼び合う。閣下がお互いに閣下閣下と呼び合うものだとはこのときはじめて知ったが、鉄柵の中でのその呼びかけが逆に妙に空虚にひびき、そこにいるのは結局、それ以前にも今と同様、そう呼びあっていただけの、二等兵以上に自己の意志を持ち得なかった無個性無性格者の集団だったとしか思えなかった。
終戦前と比較すれば、この人たちは、一瞬にして変ったように見える。確かに、満期除隊となれば兵士は瞬間的に地方人(一般市民)に変わり、幹部候補生の将校は翌日から背広姿のサラリーマンにヘンシンする。それはその人たちが兵役という「お役目」から解放され、「気魄演技」も「要領演技」も必要のない本来の姿にもどっただけで別に不思議ではない。また本職の中堅将校にもそういう人はいた。しかしその人とて、これからは一市民として生活していくという努力感が、その変化の前提にあったろう。だがこの人たちは、別のはず、解放されてそれへ戻る本来の姿が別にあった人びとではないし、将来の生活のための努力もないはずだ。それがこうなるとはどういうわけなのか。結局これが、この人たちの本来の姿で、将官は演出の「お役目」だったのであろうか。
一体これは、どういうことなのか。選び抜かれて将官となり、部下への生殺与奪の権を握っていたこの人たち、この人たちに本当に指揮者の素質があるなら、今でも何か感ずるはずだが、それは感じられない。
野戦軍の「将」であったのか、それならば、たとえこうなっても「檻の中の虎」に似た精悍さを感ずるはずだが、それもない。では何かの責任者だったのか、それならば最低限でも「部下の血」に対する懊悩から、こちらが顔をそむけたくなるような苦悩があるはずだ。私が最初、師団長の顔を見たくないと思ったのはそれで、具体的にいえば彼の部下である砲兵隊の最後も砲の処置も、砲兵出身である彼に語りたくないのが理由だったが、そういう苦悩があるとさえ感じられない。
一体この人たちは何なのだろう。まるで解放されたかのように、この現在を享受しているかに見えるこの人たち。この人たちの頭脳の奥に、本当にリアリティをもつ存在があるとすれば、それは一体何なのであろうか。私にはただただ不思議であった。
彼らが「世界的定義」における軍人ではなかったことは確かである。従って米軍は日本軍を「軍隊として」尊敬していなかった。ロンメルのような形で敵軍にすら称揚され、世界的水準で一定の評価を得ている伝説的将軍は日本軍にはいないし、いるはずもない。もちろん、お家芸の「仲間ぼめ」は今でもある。また「日本軍は強かった」という表現で、その強い日本軍に勝ち得た自分はさらに偉大なのだと暗に自慢しているマッカーサー型の、間接的自己称揚のための日本軍称揚もありうる。それらを除き、彼らが真から例外的に高く評価していたのは自暴自棄のバンザイ突撃に最後まで反対し、冷徹な専守持久作戦で米軍に出血を強い続けた沖縄軍の八原高級参謀だけであったろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿