A「昨日の投稿記事はあまり多くの方々に読まれることはないと予想しておりましたが、この予想に反し、投稿翌日にしてはそこそこ読まれておりました・・(笑)。
また、この記事は転居後第一号の記事となりますが、それ以前と比べ、記事内容の面白さ、文体などには多少は変化は認められるのでしょうか・・(笑)?
あるいは、そういった変化とは今後、徐徐に生じていくものなのでしょうか・・?
ともあれ、現在は、とりあえず記事を更新していくことが目標ですので、そうしたことは、またしばらく経過した後に改めて、それぞれを読み直して考えていこうと思います・・。
さて、本日の首都圏もまた日中気温が上がり、暑いといっても良い陽気でした。
また、こうした陽気になりますと2年前2015年の6月初旬にブログ記事の作成を開始した当初を思い出します・・。
・・そうしますと今後1ヶ月程度記事作成を継続すれば2年間ブログ記事の作成を継続したことになりますが、果たして2年間の継続は達成されるのでしょうか・・(笑)?
とはいいましても、そのようなことは(ほぼ毎日)習慣的に記事を作成しておりますと、あまり考えないことであり、どちらかというと『今日も書いた・・』程度の感興です。
それ故、今後何らかの事由により記事作成を止める状況となっても、少なくとも、しばらくの間はあまり大きな心境の変化などは生じないのではないかと考えております・・。
しかしながら、やはり、こうして継続的に記事作成を行っておりますと、現在関与している何らかの事象と関連することがらの想起、そして、それを文章として著すといったことは、ある程度洗練されてくるようであり、日によって多少のブレ、偏差もありますが、概ね記事作成を開始しますと、どうにかこうにか現在このような感じのも含め、なんとか出来るようにはなるようです・・(笑)。
そして、たしかにこれはブログ記事作成を開始した当初においては、まさにやりたいと願いながら出来なかったことですので、我が事ではありますが、やはり、その間には何等かの進歩発展があったと評しても良いのではないかと思われます・・(笑)。
また、それと同時に、この先にも多少は進歩発展の余地があるとも考えておりますが・・(笑)。
そして、そこまで書いており不図、2年前のこの時期に読み、苛立ちと共に興味をおぼえた書籍のある部分を想起しましたので、その箇所を下に示します。
岩波書店刊 バートランド・ラッセル著 安藤貞雄訳『幸福論』 P.47
ISBN-10: 4003364937
ISBN-13: 978-4003364932
『文学者のグループは、社会生活と生き生きとした接触を保っていない。
もしも、人間の感情に、悲劇と真の幸福の双方が営まれる際の真剣さと深みを待たせたいのであれば、そうした接触は不可欠である。
世界には自分のすることなど何もない、という思いをいだいてぶらぶらしているあらゆる才能ある若者たちに、私は言いたい。
「ものを書こうとするのをやめて、それよりも、書かないように努めてみたまえ。
世の中へ出ていき、海賊なり、ボルネオの王様なり、ソビエト・ロシアの労働者なりになってみることだ。
基本的な身体の要求を満足させることで君のエネルギーの全部が費やされるといった、そういう生活に飛び込んでみることだ。」私は、なにもすべての人にこの行動指針をお勧めするのではない、ただ、クルーチ氏の診断する病気にかかっている人たちにだけお勧めするのである。
私の信じるところでは、このような生活を何年か送れば、元インテリ青年は、いくら書くまいとしても、もはや、ものを書かずにはいられなくなっているのに気づくだろう。
そして、この時が来たとき、彼の書き物は彼にとって空しいものとは思えないだろう。』
改めて、上に示した箇所を読んでみますと、2015年5月当時の自身とは『書きたくとも書けない状態』であり、それは、さらに以前の『書けると思い込んでいた時期』と比べ、明らかに認識出来ることから、より一層苦しむこととなりました・・。
また、それは、おそらく自身(主体)のみしか感じることが出来ない種類の苦しみであり、同様の経験がある他者もまた、その苦しみに関して、観念的には理解することは出来るかもしれませんが、その苦しみを共有することは(たとえ望んでも)不可能です・・。
それ故、さきの引用部と自身の事情とは若干ニュアンスが異なりますが、しかし、この『書きたくとも書けない状態』に苦しんでいたからこそ『より深く書くことを望み』そして、どうにか現在に至っているのではないかとも思われるのです・・。
また、追記しますと、偶然ながら丁度この時期に複数の知人からブログ作成への背中を押してもらったことも功を奏しました・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
昨日投稿の記事は投稿翌日にしてはかなり多くの方々に読んで頂けました・・。
とはいえ、昨日の記事も含め、それらがどのように読まれているかの方がより重要であると思われますので、この記事の場合、特に書籍からの抜粋引用部に関しては、全面的な肯定などはもとより望んでおらず、また自身も、その引用部においてさえ全ては肯定しておりませんので、ただ『なるほど、それも一理あるのかもしれない・・。』といった感じにて心の片隅に留めて頂ければ上出来であると考えます・・(笑)。
さて、本日の首都圏は日中気温がかなり上昇し、ほぼ夏日といっても良い一日であったのではないかと思われます。
また、昨日は端午の節句、子供の日でもあることから不図思ったことですが、古墳時代を通じ、古墳に供えられる埴輪の題材、あるいは古墳時代後期からの横穴式石室、横穴墓などの石室における壁画、線刻画の題材として、矢の入った靫(ゆぎ・武具の一種、携帯用の矢のケース)といったものがあります。
勿論、他の武具もまた、埴輪の題材となり、石室に描かれ、刻まれたりもしますが、その中でもとりわけ、この靫とは、おそらく当時、何らかの呪術的な意味合いを付与されていたようであり、他の武具に比べ、割合多くの出土、発見例があります。
そうしますと、当然「では当時、靫の持つ呪術的な意味とは、どのようなものであったのか?」といった疑問が生じます。
そして、その呪術的な意味のさまざまな書籍からの概ね統一された見解では、破邪、墓域侵入者への威嚇、神聖な領域を設定する標識であると認識されています。
つまり、本来矢が持っていた武器的性格から、他を威圧するといった要素を抽象、呪術化し、そして再度物質化したものが、これら埴輪、壁画、線刻画であるといって良いと思われます・・。
では、そこでハナシは端午の節句に戻り、五月人形の背後に置かれる屏風の一種で矢屏風というものがあります。
これは、かつて実際の日常生活に用いられた道具の一つであり、矢羽根を上にして矢を木製の架のようなものに並べ屏風状にしたものであり、五月人形以外では、時代劇、映画などで時折見受けられます(たしか黒澤明監督の蜘蛛巣城にて見受けられました。)。
この矢屏風のたしかな起源については分かりませんが、臨戦態勢の武士の日常生活から生み出された他者への威圧を兼ねた道具であったのかもしれません・・。
あるいはまた、日常の家屋内にて何らかの境界を示す標識的な意味合いを持った道具であったのかもしれません・・。
はたまた、それらが折衷したものであるのかもしれません・・。
ともあれ、ここで面白いと思うことは、そうした考え、観念(矢を立て並べたものが境界を示す標識となる)が古墳時代から現代に至るまで継続し、あるいは継続はしていなくとも、隔世的に呪具、道具として顕れることです・・。
このことはあるいは、もう少し考えてみますと、深くなるかもしれませんが、とりあえず思ったこととして書いた次第です。
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った諸地域の出来るだけ早期のインフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
本日の首都圏は気温も上がり、日中は暑いといってもいい程の陽気でした。そのような中、本日もまた、ほぼ一日を通し荷物の整理をしておりました・・(苦笑)。
いや、今現在もさまざまな荷物に囲まれ、本日投稿分の記事を作成しています・・。
つい先日投稿したブログ記事にても書きましたが、引越しなどの際の荷物の選別などは、以前の方が素早く出来ていたと記憶しております。これは年齢のために動きが鈍くなったからでしょうか?あるいは以前よりも思慮深くなったからでしょうか・・(笑)?
ともあれ、こうしたことを考えておりますと、また時間のみが経過してしまい、目下必要とされる荷物の整理、片付けが遅れてしまう次第ですが、しかし、今現在はブログ記事作成の時間としましたので、あまりそういったことは考えないことにします・・(苦笑)。
とはいえ、こうしたことは少なくともブログ記事の題材にはなりますので、もう少しこのことについて書いてみようと思います・・。
さて、只今行っている荷物の整理、片付けにおいて、現在日常的に使用しているものは、最後の方にまとめておき、主にこれまでに使い、所蔵してあるものについての整理、片付けについてですが、それらの中で最も分量的に多いのが書籍であり、それらも、これまでの整理によって、大分減り、まとめられましたが、それでも今現在ブログ記事を作成している自身の周囲にいくつかの島を成して積まれているものは書籍であり、また、それらの題名を一巡し眺めると、さまざまな想念やら、読んでみたいといった欲求が湧いてくるのですが、あくまでも現在はブログ記事作成の時間と決めたことから、そうした思いを封印し、先を続けます・・(笑)。
そして、次に多いのが生活道具、衣類などですが、これらに関しても整理、片付けを行っていますと、一つ一つの品々に何かしらの思い出、思い入れといったものが想起され、そう簡単にはコトは運んでくれません・・(苦笑)。
しかし、ここで立ち止まってしまっても、整理、片付けは進みませんので、とりあえず『現在の自身に必要かそうでないか』を基準とすれば、こうした作業とは、より一層スムーズに進むのかもしれませんが・・(苦笑)。
また、書籍に関してですが、大分前に購入して途中まで読み、置いておき、ここ最近、不図思い浮かぶ書籍が、現在のこうした機会にてフイッと現れることは、なかなか嬉しいものであり、こうした書籍は転居先(すぐ近くですが)にてすぐ読めるように、別に置き、そして、そうしたジャンルに分類した一群の書籍が、さきに述べた自身の周囲にある、いくつかの(平積みにされた)書籍の島の一つとなっております・・(苦笑)。
加えて、大変面白いことに、今現在においても自身が明日から転居するといった実感がまったくなく、そして、明日もまた記事作成を行うのであろうか?とも考えておりませんでした・・(笑)。
果たして、こうした自身の心的傾向とは良いものなのであろうか・・(苦笑)?
とはいえ、もしも明日、ブログ記事の更新が為されなければ、転居先での作業、あるいは何らかの事情により、作成することが出来なかったものとしてください・・(笑)。
さて、さきほど述べた転居後に読みたい書籍として分類された一冊として岩波文庫刊J.S.ミルの「大学教育について」があります。
この著作は、大変読み易く、それ以上に面白いことが書かれていると思いますので、興味のある方々は是非読んでみてください。
また、それは特に医療をはじめとするいわゆる理系学問分野の方々にとって、なかなか興味深いことがらが述べられているのではないかと思われます・・。
そして、ここまで書きましたので、いささか前言を翻すようではありますが、せっかくですので、以下に少し同著冒頭部から抜粋引用を試みます。
岩波書店刊 J.S.ミル著 竹内一誠訳 『大学教育について』pp.12-14より抜粋引用
ISBN-10: 4003910117
ISBN-13: 978-4003910115
『大学が国民教育のなかで果たすべき役割については、十分に説明されていると思われます。
少なくとも大学がこうあってはならないということについては、ほとんどの人々の間で意見の一致がみられます。
大学は職業教育の場ではありません。
大学は、生計を得るためのある特定の手段に人々を適応させるのに必要な知識を教えることを目的とはしていないのです。
大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにあります。
専門職の養成のための公的機関があるのは至極当然であり、したがって、法律学校、医学校があるのは結構なことです。
そしてさらに、工科学校や産業技術を学ぶ学校があれば、なおさら結構なことでしょう。
このような学校制度を持つ国々は、その制度をもつことによって一層発展することでしょう。
しかも、これら学校をいわゆる本来の意味での教育のために設立された施設としての大学と同一の場所に、そして同一の監督下に置くことには多少の利点もあるにはあるでしょう。
しかし、技術を伝えるということは、各世代が次の世代に手渡すべき義務を担っているもの、つまり各世代の文明の価値を支えているもののなかには入りません。 (ここが少し疑問です。)
そのような技術は、自らの努力でそれを獲得したいという強い個人的動機を持つ比較的少数の人々にのみ必要とされるものであり、そしてその少数の人々ですら、正規の教育課程が修了するまでは、その技術を有効には使用できないのです。
専門技術をもとうとする人々が、その技術を知識の一分野として学ぶか、単なる商売の一手段として学ぶか、あるいはまた、技術を習得した後に、その技術を賢明かつ良心的に使用するか、悪用するかは、彼らがその専門技術を教えられた方法によって決まるのではなく、むしろ、彼らがどんな種類の精神をその技術のなかに吹き込むかによって、つまり教育制度がいかなる種類の知性と良心を彼らの心に植えつけたかによって決定されるのです。
人間は、弁護士、医師、商人、製造業者である以前に、何よりも人間なのです。
有能で賢明な人間に育てれば、後は自分自身の力で有能で賢明な弁護士や医師になることでしょう。
専門職に就こうとする人々が大学から学び取るべきものは専門的知識そのものではなく、その正しい利用法を指示し、専門分野の技術的知識に光を当てて正しい方向に導く一般教養(general culture)の光明をもたらす類のものです。
確かに、人間は一般教養教育を受けなくても有能な弁護士となることはできますが、しかし、哲学的な弁護士、つまり、単に詳細な知識を頭に詰め込んで暗記するのではなく、ものごとの原理を追求し把握しようとする哲学的な弁護士となるためには、一般教養教育が必要となります。
このことは、機械工学を含むほかの有用な専門分野すべてについても言えることです。
靴づくりを職業としている人について言えば、その人を知性溢れた靴職人にするのは教育であって、靴の製造法の伝達ではないのです。
言い換えますと、教育によって与えられる知的訓練と、それによって刻み込まれた思考習慣とによってであります。』
ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った諸地域の出来るだけ早期のインフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
A「つい先ほど、自身のブログを開いたところGWにて休日ということもあってか、本日のブログ閲覧者数はこれまでにない程に伸びていました・・。
また、閲覧されている記事のいくつかもまた、直近の記事への大変面白い反応であり、これも早速取り入れさせて頂きました。
どうもありがとうございます。
そして、そのような経緯から、現在こうして新たな記事作成に取り組んでいます・・(苦笑)。
とはいえ、本日に関しては(も)記事の主題は定まっておりません・・(苦笑)。
そういえば、昨日、一昨日の投稿記事は主に思想、哲学関連のことを書きましたが、こうしたことは自身の場合、何らかの契機により突如思い出され、そしてある程度まとまり、想念となり、それを文章化することが出来るようです・・。
そして、この契機が具体的に何であるか分かれば、その契機となる具体的な刺激を所望に応じ自身に与え、そういった内容の文章を書き続けることが出来るのかというと、どうもそういったものではないようです・・(笑)。
また、こうした内容を書いておりますと、そこから想起されることは、奇しくも、さきのブログ記事にて書いた精神、記憶の本質としてのイデアと、その似像、投影像たる現実における具体的な存在の関係性です・・(笑)。
しかしながら実際に我々とは、具体的な何か(似像、投影像)を指標として、それをさまざまな判断基準としています。
また、それらは数値化出来るものであれば、尚更分かりやすく、簡便に、そして普遍的に通用するものと考える傾向があります。
そして実際、この考え方とは、我々に大変な恩恵をもたらし、さらには我々の通常思うところのいわゆる合理的思考とは、その多くの部分がこうした判断基準に依拠しているのではないかと思われます。
・・・しかし、もしも、その判断基準とされるものが実際の精神、記憶(この表現もまた、いささか微妙ですが、しかし、こうしたものは存在すると考えます。何故ならば、こうした実際の精神、記憶がなければ長年にわたり、普遍的にその価値が認められる観念的なるもの、宗教、哲学、思想、文学などは、その本質的な価値、意味が分からなくなったであろうから・・。)たる本質、イデアではなく、その似像、投影像としての何らかの具体的な事物に依拠するものであったならば、それに基づいた思考とは、それを積重ねるにしたがい、徐徐におかしなことになっていくことも少なからずあるのではないかと思われます・・。
とはいえ、その一方において、以上の書いてきた内容もまた、具体的なモノを対象とした実験に基づいた感覚、感想より得られたものであり、言い換えると、本質、イデアとは異なる似像、投影像の操作によって考えるに至った内容であるといえます・・。
そして、そのように考えますと、あるいは、我々とは、おかしな方向に行くこともしばしばありながらも、似像、投影像の操作によってのみしか、ものごとの本質に迫る経路を持っていないのであり、また、たとえその操作によって本質に迫り、それを巧みに言語化したとしても、他者がそれを認識、理解する場合には、あくまでも再び、その道程にあった経験を追体験しなければならないのかもしれません・・。
たとえ幾つかの経路がそこにあるにしても・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
A「600記事到達以降も記事作成を継続し、今回の投稿によって15回目の投稿となります。
この調子にて記事作成を継続すれば案外650記事程度までは、あまり苦もなく到達することが出来るのではないかとも思われますが、どうなるものでしょうか・・(笑)。
さて、昨日の投稿記事はあまり多くの閲覧者数を得ることが出来ないのではないかと思われましたが、その予想に反し、割合多くの方々に読んで頂けました・・。
一般的に思想、哲学といったものは、我が国においてはあまり面白いものとされておらず、また、たとえその種子を学生時代に蒔かれたとしても、社会人、実社会において、その興味を失ってしまうことが多いように思われます・・。
これは今もって不思議に思うところであり、また同時に、それが我が国の西欧文化の受容における一面の限界であるのかもしれません・・。
そして、正直なところ、こうした我が国の社会における傾向とは本質的に変わることはないと思われます。
あるいは変わるとしても、それは『角を矯めて牛を殺す』ような結果になると思われますので、案外、このままの方が我が国の場合は良いのではないかとも思われます・・。
とはいえ、自身の場合もまた、ほぼ独学、耳学問に基づくものであって特に思想、哲学といったものを専攻したわけでもありませんので、畢竟この意見もまた、単なる思い込みであるのかもしれませんが・・。
しかし他方、こうして考えてみますと、我が国における思想、哲学といったものの学校、社会での伝達の仕方、つまり教え方にも、また多少は問題があるのではないかとも思われます・・。
とはいえ、こうした思想・哲学といったものの知識あるいはその体系もまた、他の学問と同様、そう簡単に扱うことが出来るようになるものでもなく、むしろ、こうした形而上的なことがらを扱う学問とは、対象となるものの多くが、実体としては存在しないことから、ある程度の期間を要する学習、独学と、実際の経験を加味・化合することによってのみ、何といいますか、そうした思想、哲学のフィルターを通して事物・事象を観ることが可能となり、そして、それを能動的に言語化することが出来るようになるといった性質であるように思われます。
また、さきに述べたこととも関連するかもしれませんが、我が国の実社会においては、そうした思想、哲学のフィルターを通してものごとを観ることは、何故であるかよく分かりませんが(かなり)タブー視されている感がありますので、おそらく、その時点でも、そうした学問に対する興味の芽は概ね摘み取られるのかもしれません・・。
そういえば、このことは山本七平、加藤周一もどこかで述べていた記憶があります。
ともあれ、以上のような経緯によって我が国の文系学問分野においては大学にて得た知識・知見と実社会が大きく離れたものとなってしまっているのではないかと思われます・・。
そして、以前にもブログ記事にて書いたと記憶しておりますが、この点において、上記の文系学問一般とは、少なくとも医療介護系などとは、大きく背景にある価値観が異なると評しても良いのではないかと思われます・・。
また、我々日本人とは、伝統的に即物的な世界観、つまりモノとコトバの対応関係が比較的明確な世界については明るいといった傾向があると思われますので、敢えて文系であるからといって、そうした思想、哲学を教える学部、学科を持ちたがる、あるいは当初から教えるのではなく、医療、介護、社会福祉などの実習、経験を要する学習を通じ、自然にそうした思想、哲学に興味を持つような経路、システムに多少改めてみても良いのではないかと思うことが少なからずあります・・。
現在になって考えてみますと、自身の場合もまた、そのような感じであったと思われますので・・。
根本的に思想、哲学もまた活きたコトバで語られなければ、それは空虚なカタチだけのものとなってしまい、伝達の力を失います。
そして、活きたコトバによる思想とは、実際の経験から内発的に生じるものではないでしょうか・・?
今回も、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて生じた地震により被災された諸地域の出来るだけ早期のインフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
おかげさまで昨日投稿の記事は投稿翌日にしては、かなり多くの方々に閲覧して頂けたようです。
そういえば、ベルクソンによると『我々の精神の働きが演奏を行うオーケストラ』そして、『それを指揮する指揮棒が脳』であり、それを『視覚のみ』で認識すると『振られている指揮棒の動き』ということになりますが、我々が脳でものごとを考えるとは、たとえると、そのような状態であるとのことです。
つまり、そこ(脳で考える)には『精神の働きである演奏を行うオーケストラおよび、その演奏されている楽曲とは包含されていない』のですが、それらの要素が、さきに述べたように『精神』そして『記憶』であるとのことです。
つまり精神≒記憶といっても特に間違いではないということになるのです・・。
しかし、我々は常時、過去の全ての記憶が意識上にあるわけではありません。
そのような状態とは、かなり異常であることは、ただ、そうした状態を想像してみても、かなり重苦しく、息苦しいものであることにより分かるのではないかと思われます・・。
通常あるいは日常的に我々とは、必要最低限の記憶のみが意識上にあります。
そして、その『記憶の調整』あるいは『記憶を日常への注意へ向ける器官』が、さきの指揮棒にたとえた『脳』ということになります。
これを換言すると、精神、記憶の顕現を調整する働きを持つ器官が脳といった感じになるものと思われます。
そして、何かしらの原因にて脳の働きが弱くなると、我々の意識上に一気に記憶が顕現することになりますが、それが事故などに遭遇した際によく聞く、走馬灯のように自身の人生を垣間見るといった現象となります。
つまり、記憶、精神とは、何らかのカタチで脳と関連はあるものの必ずしも脳に存在するといったものでもないそうです・・。
そしてハナシは変わりますが、いや、そこから想起されることとして洞窟の比喩として知られているプラトンのイデア論があります。
これは我々が日常的に見たり感じたりしていることは、実は洞窟の奥壁に映し出された本質(イデア)の似像に過ぎなく、その見ている背後には、映し出された実体つまり本質(イデア)があるとのことですが、このプラトンのイデア論に、さきのベルクソンの説を折衷しますと、我々が脳の働きによって見ている現実世界とは、実は本質(イデア)の似像に過ぎなく、その注意されない背後には、実は本質としての膨大な精神、記憶(本質・イデア)が存在しているということになります。
さらにそうしますと、今度はウィトゲンシュタイン著の『論理哲学論考』、コンラッド著の『闇の奥』での記述を想起させますが、その明確な関連性の有無とは不明ではあるものの、やはりそこには何かしらの本質としてのイデアあるいは心理学的に表現すると集合的無意識による像といったものが存在するのではないかと考えさせれますが、さて如何でしょうか・・?
以上のことは、小林秀雄が何処かで述べていたと記憶しておりますが、何れにしても、なかなか興味深いことではないかと思われます・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した地震により被災された諸地域の出来るだけ早期のインフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
本日さきほど久しぶりに応募した公募の選考結果が届きました。
結果は不採用ではありましたが、とりあえずは一件目ではありますので、大変残念ではありますが、仕方がないこととあきらめます・・。
今後再び折を見て、こうした公募に応募しようと考えております。
とはいえ、やはりこうした応募結果が届きますと、膝の力がガックリと抜けるものであり、そのことから本日のブログ記事作成は断念しようかとも思いましたが、それでもこの脱力感をいくらかでも和らげるためにもブログ記事作成は有効であるかもしれないと思い立ち、今現在このように記事を作成している次第です・・(苦笑)。
また、実際にこのことを文章にして著しておりますと、多少はこの脱力感の減退に効果的であるようであり、本日に関しては、記事作成開始当初は、いささか覚束なかったキーボード上の両手も、今ではどうにか普通に動いてくれているようです・・(笑)。
さて、世の中にはさまざまな成功、失敗のジンクス、あるいはその一連の流れのパターンといったものがあるようですが、上記のような、まさしく現在の自身に生じていることがらとは、なかなか客観的に理解、判断することが難しいようであり、果たして、そうしたことがら、出来事とは、良い方向に向かっている兆しであるのか、あるいはその逆であるのかとは、一体何時になれば、そして、どのような理解、判断に至るものか、なかなか興味深いところです・・。
しかしいずれにせよ、ここで諦めるのは簡単ではありますが、それは同時に後になり悔恨を残すことになると思われますので、少なくとも、もうしばらくは、現在の仕事を継続しつつ求職活動を頑張ってみようと思います・・。
また、思い返してみますと2010年秋口より指導教員不在の状態となり、そこから2013年の学位取得、そしてその後から現在に至るまでの経緯とは、自身で考えてみても、いくつかの危ない橋を渡ってきたと思う一方、おそらく、なかなか得ることの出来ない経験も多くさせて頂いたのではないかと思われます・・。
そしてまた、それは指導教員がおられる状態にて院修了に至った場合と比べ、幸せであったかどうかとは分かりませんが、一般的に考えれば、そちらの方が幸せかどうかは別として、まともな人生となった蓋然性は(より)高いものと思われますが、しかしそれは現在となり問うても本当に本当に仕方のないことです・・。
もとより、こうした過去の経緯をしっかりと憶えていることは重要ではありますが、しかし、それにより悔恨を増大させることほど無意味なことはないと考えます・・(歴史の価値もまた同様な感じではないかと思われます・・)。
大事なことは今現在自身が目標を持っていること、そして、それを陰日なたにて見てくださっている方々がいるということであると考えます・・。
そして今回に関しても、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる2016年に熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。