おかげさまで昨日投稿の記事は投稿翌日にしては、かなり多くの方々に閲覧して頂けたようです。
そういえば、ベルクソンによると『我々の精神の働きが演奏を行うオーケストラ』そして、『それを指揮する指揮棒が脳』であり、それを『視覚のみ』で認識すると『振られている指揮棒の動き』ということになりますが、我々が脳でものごとを考えるとは、たとえると、そのような状態であるとのことです。
つまり、そこ(脳で考える)には『精神の働きである演奏を行うオーケストラおよび、その演奏されている楽曲とは包含されていない』のですが、それらの要素が、さきに述べたように『精神』そして『記憶』であるとのことです。
つまり精神≒記憶といっても特に間違いではないということになるのです・・。
しかし、我々は常時、過去の全ての記憶が意識上にあるわけではありません。
そのような状態とは、かなり異常であることは、ただ、そうした状態を想像してみても、かなり重苦しく、息苦しいものであることにより分かるのではないかと思われます・・。
通常あるいは日常的に我々とは、必要最低限の記憶のみが意識上にあります。
そして、その『記憶の調整』あるいは『記憶を日常への注意へ向ける器官』が、さきの指揮棒にたとえた『脳』ということになります。
これを換言すると、精神、記憶の顕現を調整する働きを持つ器官が脳といった感じになるものと思われます。
そして、何かしらの原因にて脳の働きが弱くなると、我々の意識上に一気に記憶が顕現することになりますが、それが事故などに遭遇した際によく聞く、走馬灯のように自身の人生を垣間見るといった現象となります。
つまり、記憶、精神とは、何らかのカタチで脳と関連はあるものの必ずしも脳に存在するといったものでもないそうです・・。
そしてハナシは変わりますが、いや、そこから想起されることとして洞窟の比喩として知られているプラトンのイデア論があります。
これは我々が日常的に見たり感じたりしていることは、実は洞窟の奥壁に映し出された本質(イデア)の似像に過ぎなく、その見ている背後には、映し出された実体つまり本質(イデア)があるとのことですが、このプラトンのイデア論に、さきのベルクソンの説を折衷しますと、我々が脳の働きによって見ている現実世界とは、実は本質(イデア)の似像に過ぎなく、その注意されない背後には、実は本質としての膨大な精神、記憶(本質・イデア)が存在しているということになります。
さらにそうしますと、今度はウィトゲンシュタイン著の『論理哲学論考』、コンラッド著の『闇の奥』での記述を想起させますが、その明確な関連性の有無とは不明ではあるものの、やはりそこには何かしらの本質としてのイデアあるいは心理学的に表現すると集合的無意識による像といったものが存在するのではないかと考えさせれますが、さて如何でしょうか・・?
以上のことは、小林秀雄が何処かで述べていたと記憶しておりますが、何れにしても、なかなか興味深いことではないかと思われます・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した地震により被災された諸地域の出来るだけ早期のインフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
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