2017年5月3日水曜日

20170503 思想、哲学と実際の経験・・活きたコトバとは?

A「600記事到達以降も記事作成を継続し、今回の投稿によって15回目の投稿となります。

この調子にて記事作成を継続すれば案外650記事程度までは、あまり苦もなく到達することが出来るのではないかとも思われますが、どうなるものでしょうか・・(笑)。

さて、昨日の投稿記事はあまり多くの閲覧者数を得ることが出来ないのではないかと思われましたが、その予想に反し、割合多くの方々に読んで頂けました・・。

一般的に思想、哲学といったものは、我が国においてはあまり面白いものとされておらず、また、たとえその種子を学生時代に蒔かれたとしても、社会人、実社会において、その興味を失ってしまうことが多いように思われます・・。

これは今もって不思議に思うところであり、また同時に、それが我が国の西欧文化の受容における一面の限界であるのかもしれません・・。

そして、正直なところ、こうした我が国の社会における傾向とは本質的に変わることはないと思われます。

あるいは変わるとしても、それは『角を矯めて牛を殺す』ような結果になると思われますので、案外、このままの方が我が国の場合は良いのではないかとも思われます・・。

とはいえ、自身の場合もまた、ほぼ独学、耳学問に基づくものであって特に思想、哲学といったものを専攻したわけでもありませんので、畢竟この意見もまた、単なる思い込みであるのかもしれませんが・・。

しかし他方、こうして考えてみますと、我が国における思想、哲学といったものの学校、社会での伝達の仕方、つまり教え方にも、また多少は問題があるのではないかとも思われます・・。

とはいえ、こうした思想・哲学といったものの知識あるいはその体系もまた、他の学問と同様、そう簡単に扱うことが出来るようになるものでもなく、むしろ、こうした形而上的なことがらを扱う学問とは、対象となるものの多くが、実体としては存在しないことから、ある程度の期間を要する学習、独学と、実際の経験を加味・化合することによってのみ、何といいますか、そうした思想、哲学のフィルターを通して事物・事象を観ることが可能となり、そして、それを能動的に言語化することが出来るようになるといった性質であるように思われます。

また、さきに述べたこととも関連するかもしれませんが、我が国の実社会においては、そうした思想、哲学のフィルターを通してものごとを観ることは、何故であるかよく分かりませんが(かなり)タブー視されている感がありますので、おそらく、その時点でも、そうした学問に対する興味の芽は概ね摘み取られるのかもしれません・・。

そういえば、このことは山本七平、加藤周一もどこかで述べていた記憶があります。

ともあれ、以上のような経緯によって我が国の文系学問分野においては大学にて得た知識・知見と実社会が大きく離れたものとなってしまっているのではないかと思われます・・。

そして、以前にもブログ記事にて書いたと記憶しておりますが、この点において、上記の文系学問一般とは、少なくとも医療介護系などとは、大きく背景にある価値観が異なると評しても良いのではないかと思われます・・。

また、我々日本人とは、伝統的に即物的な世界観、つまりモノとコトバの対応関係が比較的明確な世界については明るいといった傾向があると思われますので、敢えて文系であるからといって、そうした思想、哲学を教える学部、学科を持ちたがる、あるいは当初から教えるのではなく、医療、介護、社会福祉などの実習、経験を要する学習を通じ、自然にそうした思想、哲学に興味を持つような経路、システムに多少改めてみても良いのではないかと思うことが少なからずあります・・。

現在になって考えてみますと、自身の場合もまた、そのような感じであったと思われますので・・。

根本的に思想、哲学もまた活きたコトバで語られなければ、それは空虚なカタチだけのものとなってしまい、伝達の力を失います。
そして、活きたコトバによる思想とは、実際の経験から内発的に生じるものではないでしょうか・・?

今回も、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて生じた地震により被災された諸地域の出来るだけ早期のインフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」




20170502 我々が日常見て感じているものの本質とは・・?

おかげさまで昨日投稿の記事は投稿翌日にしては、かなり多くの方々に閲覧して頂けたようです。

そういえば、ベルクソンによると『我々の精神の働きが演奏を行うオーケストラ』そして、『それを指揮する指揮棒が脳』であり、それを『視覚のみ』で認識すると『振られている指揮棒の動き』ということになりますが、我々が脳でものごとを考えるとは、たとえると、そのような状態であるとのことです。

つまり、そこ(脳で考える)には『精神の働きである演奏を行うオーケストラおよび、その演奏されている楽曲とは包含されていない』のですが、それらの要素が、さきに述べたように『精神』そして『記憶』であるとのことです。

つまり精神≒記憶といっても特に間違いではないということになるのです・・。

しかし、我々は常時、過去の全ての記憶が意識上にあるわけではありません。

そのような状態とは、かなり異常であることは、ただ、そうした状態を想像してみても、かなり重苦しく、息苦しいものであることにより分かるのではないかと思われます・・。

通常あるいは日常的に我々とは、必要最低限の記憶のみが意識上にあります。

そして、その『記憶の調整』あるいは『記憶を日常への注意へ向ける器官』が、さきの指揮棒にたとえた『脳』ということになります。

これを換言すると、精神、記憶の顕現を調整する働きを持つ器官が脳といった感じになるものと思われます。

そして、何かしらの原因にて脳の働きが弱くなると、我々の意識上に一気に記憶が顕現することになりますが、それが事故などに遭遇した際によく聞く、走馬灯のように自身の人生を垣間見るといった現象となります。

つまり、記憶、精神とは、何らかのカタチで脳と関連はあるものの必ずしも脳に存在するといったものでもないそうです・・。

そしてハナシは変わりますが、いや、そこから想起されることとして洞窟の比喩として知られているプラトンのイデア論があります。

これは我々が日常的に見たり感じたりしていることは、実は洞窟の奥壁に映し出された本質(イデア)の似像に過ぎなく、その見ている背後には、映し出された実体つまり本質(イデア)があるとのことですが、このプラトンのイデア論に、さきのベルクソンの説を折衷しますと、我々が脳の働きによって見ている現実世界とは、実は本質(イデア)の似像に過ぎなく、その注意されない背後には、実は本質としての膨大な精神、記憶(本質・イデア)が存在しているということになります。

さらにそうしますと、今度はウィトゲンシュタイン著の『論理哲学論考』、コンラッド著の『闇の奥』での記述を想起させますが、その明確な関連性の有無とは不明ではあるものの、やはりそこには何かしらの本質としてのイデアあるいは心理学的に表現すると集合的無意識による像といったものが存在するのではないかと考えさせれますが、さて如何でしょうか・・?

以上のことは、小林秀雄が何処かで述べていたと記憶しておりますが、何れにしても、なかなか興味深いことではないかと思われます・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した地震により被災された諸地域の出来るだけ早期のインフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。








2017年5月1日月曜日

20170501 脱力感を覚えつつも記事を作成していると・・☆☆

本日さきほど久しぶりに応募した公募の選考結果が届きました。

結果は不採用ではありましたが、とりあえずは一件目ではありますので、大変残念ではありますが、仕方がないこととあきらめます・・。

今後再び折を見て、こうした公募に応募しようと考えております。

とはいえ、やはりこうした応募結果が届きますと、膝の力がガックリと抜けるものであり、そのことから本日のブログ記事作成は断念しようかとも思いましたが、それでもこの脱力感をいくらかでも和らげるためにもブログ記事作成は有効であるかもしれないと思い立ち、今現在このように記事を作成している次第です・・(苦笑)。

また、実際にこのことを文章にして著しておりますと、多少はこの脱力感の減退に効果的であるようであり、本日に関しては、記事作成開始当初は、いささか覚束なかったキーボード上の両手も、今ではどうにか普通に動いてくれているようです・・(笑)。

さて、世の中にはさまざまな成功、失敗のジンクス、あるいはその一連の流れのパターンといったものがあるようですが、上記のような、まさしく現在の自身に生じていることがらとは、なかなか客観的に理解、判断することが難しいようであり、果たして、そうしたことがら、出来事とは、良い方向に向かっている兆しであるのか、あるいはその逆であるのかとは、一体何時になれば、そして、どのような理解、判断に至るものか、なかなか興味深いところです・・。

しかしいずれにせよ、ここで諦めるのは簡単ではありますが、それは同時に後になり悔恨を残すことになると思われますので、少なくとも、もうしばらくは、現在の仕事を継続しつつ求職活動を頑張ってみようと思います・・。

また、思い返してみますと2010年秋口より指導教員不在の状態となり、そこから2013年の学位取得、そしてその後から現在に至るまでの経緯とは、自身で考えてみても、いくつかの危ない橋を渡ってきたと思う一方、おそらく、なかなか得ることの出来ない経験も多くさせて頂いたのではないかと思われます・・。

そしてまた、それは指導教員がおられる状態にて院修了に至った場合と比べ、幸せであったかどうかとは分かりませんが、一般的に考えれば、そちらの方が幸せかどうかは別として、まともな人生となった蓋然性は(より)高いものと思われますが、しかしそれは現在となり問うても本当に本当に仕方のないことです・・。

もとより、こうした過去の経緯をしっかりと憶えていることは重要ではありますが、しかし、それにより悔恨を増大させることほど無意味なことはないと考えます・・(歴史の価値もまた同様な感じではないかと思われます・・)。

大事なことは今現在自身が目標を持っていること、そして、それを陰日なたにて見てくださっている方々がいるということであると考えます・・。

そして今回に関しても、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる2016年に熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。








2017年4月30日日曜日

20170430 書籍の整理をしていて思ったこと・・

A「現在住んでいる場所が取り壊されるため、現在さまざまな荷物の整理を行っております。

『断捨離』が流行っていることもあり、出来るだけ必要のないものは捨てようと試みておりますが、それら荷物の中でも、とりわけ書籍に関しての取捨選択とは、大変難しく、いざ一冊一冊手に取り、それぞれ残すか捨てるかの判断をする際、不思議なことに大概の書籍に何らかの『思い』があり、その多寡を以って概ね判断をしているわけですが、それでも『いや、この書籍は今後あるいはもっと読むかもしれない・・』などと考えてしまい、判断に躊躇することが度々あります・・(苦笑)。

こうした躊躇あるいは判断力の鈍さとは、以前にはあまり感じなかったことですので、あるいはそれなりに自身も年齢を重ねてしまったということになるのかもしれません・・(苦笑)。

とはいえ、こうして書籍の取捨選択を行っておりますと、これまで思いのほか多くの書籍を読んできたことが分かり、そこから『果たして自身とはこのままで良いのだろうか・・?』と、不図、考えてしまうのです・・(苦笑)。

しかし、もう少し考えてみれば、それは仕方のないことであり、あるいはそれだけの書籍を読んできたにもかかわらず、現在一応普通に働いているのであれば、それはそれで、よくやっている方であり、むしろ、それを今後、如何なるカタチでか有用化していく以外、善処の方法とは、ないのではないかと思われます・・(苦笑)。

さて、近在の古くからの古書店に書籍の出張買取に来て頂き、蔵書もおそらく半分以下にはなったと思われますが、それでもいくつかのカラーボックスに満載程度となりました・・。

そして、今現在記事作成を行っている周辺には雑然と書籍類が散在し、おそらく今GWとは、これら書籍を含めた荷物全般の整理にて明け暮れるのではないかと思われます・・(苦笑)。

また、それらの中で比較的面白いと感じたものは、修士論文の下書き、草稿であり、これは主題が概ね日本を題材とするものでありながら、そうしたことにお構いなく、さまざまな分野の和洋文献からの事例を多数引用をしており、これはこれで現在読んでみますと、より精確に当時の自身の読書、思考の足跡が辿ることが出来るものと思われます・・。

そしてまた、一応当時の自身とは、おそらく周囲からの影響も多くはありますが、それなりに自発的な努力をもしていたことが理解出来、あるいは当時の自身とは、現在よりも知的、優秀であったのではないかとも思われることもあるのですが、しかしそれでも、現在の方が当時よりも明らかに優っている、進歩していると思われることは、一連の当ブログ記事が示すように、ある程度の期間、ほぼ毎日、継続的何かを書き続けていることであり、これはおそらく当時の自身が知識の吸収に重きを置いていたとはいえ、なかなか難しかったのではないかと思われます・・。

しかし、そこで同時に思うことは、現在こうして、一応ある程度の期間、継続的に記事、文章を作成出来ている基盤とは、まさしくこの時期にあったのではないかということです・・。

そしてまた、今後もいくらかは、その伸びしろがあるとは考えますが、しかし、とりあえずは、そうしたことはある程度の期間を設けて考えなければ分からないようであり、それ故、今後も休みを入れつつも、出来るだけ継続的に記事作成を行おうと思います。

そういえば、昨日投稿の記事もまた思いのほか多くの方々に読んで頂けたようであり、また、その反応も大変興味深いものでした。

ともあれ、今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

去る2016年、熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」



2017年4月29日土曜日

20170429 対話形式から独白形式への文体に変化に関して記事閲覧者数から思ったこと・・

A「昨日の投稿記事は思いのほか多くの方々に読んで頂けました。

加えて、昨日の記事投稿直後から現在に至るまでの一連の記事閲覧状況を見ておりますと、大変面白い反応が為されていたことから、それを取り入れさせて頂きました・・。

また、上記のような読んで頂いた方々からの反応を含め、さまざまな要因により、当ブログ記事作成は継続することが出来ていると云えます。

そして本日もまた、その調子にて記事を書いていこうと思います・・(笑)。

そういえば、今週に作成された記事において最も読まれた記事は4月24日投稿分の『『ハレ』を生じさせる地域の『何か』とは・・?』であり、これには多少驚かされ、またそのことから、再度記事を読み直し、全体の流れは変えない程度に、いくつかの表現を改めました・・。

とはいえ、普段であれば、こうした既投稿記事への改変は行わないのですが、特にこの記事に関して、そのようなことを敢えて行ったという背景には、作成者として、その記事に書かれている内容が、より正確に読んで頂いている方々に伝わって欲しいという、一種の欲が湧いたことがあるのかもしれません・・(苦笑)。

また一方、その欲?とは、ある程度多くの方々に読んで頂いていたからこそ湧いたものであり、そうしたことからも、自身が継続的にブログ記事の作成が出来ていることの裏面を理解することが出来るのではないでしょうか・・(苦笑)?

つまり、当たり前ではあるかもしれませんが、自身は特に文章の作成に秀でているわけでも、また、その才能があるわけでもありません。

しかしその一方で、これまでに挙げたような反応に対し『たしかに面白い!』あるいは『そういった理もあるのか!』と正直に感じることが出来る程度の感性と、それを基点として新たな着想が湧き、そしてまた新たな文章、記事を書ける程度の文体は、どうやら持っていたとは云えるようです・・(笑)。

とはいえ、それは特に自信と云える程度のものでもなく、またそれは一面において当初、自身の作成した記事の多くが対話形式を採っていた要因であったのかもしれません・・(苦笑)。

つまりは、文章作成という、いわば能動的、創造的な行為において、当初、自身は通常の状態であれば、そこに至るための出力が若干乏しく、対話をも含めた他者との応対によって生じる、いわば内面での動きに乗じ、文章を作成してきたものと云えます・・。

そして、そこである程度の期間書き続けておりますと、今度はこれまである程度の時間を費やしてきた、さまざまな分野における書籍の読解、読書もまた、本質的には一種の他者との応対であることを(あらためて)感知、認識し、今度はそれを応用し、文章を作成することが可能となったのではないかと思われます。

また、その時期とは、文体の対話形式から独白形式への移行期と、ある程度重なるのではないかとも思われます・・。

その間に一体如何なる関連があるのか不明ではありますが、おそらくそうしたことは世界史的に見てもある程度普遍的見解とも云える青銅器使用の普及と都市国家の成立時期が概ね被るのと次元は異なりますが、何かしら類似したメカニズムが作用しているのではないかとも思われます・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」




2017年4月28日金曜日

20170428 最近よく眠くなること、および読んでいる著作について【抜粋引用あり】

先日の600記事到達から本日の記事投稿によって10記事作成したことになります・・。

この10記事とは案外早く感じ、あるいはこの調子で書き続ければ700記事への到達もまた、そこまで先ではないとわずかに錯覚を覚えるのですが(笑)、その一方で、やはりある程度疲労は蓄積しているようであり、先日の記事にも書きましたが、少し気が抜けるとすぐに眠たくなってきます・・。

また、そのように書いておりますと、不図思い出すのは、このようなことは以前にもあったということです・・。

それは鹿児島在住初年目2009年の暮れ頃であり、当時はどうしたわけか、常時眠くて仕方がない状態でした・・。

具体的には、電子顕微鏡で試料を観察しながら、いつの間にか意識が飛んでいたり、パソコンの前で何か作成している時もそうしたことが生じていました・・(苦笑)。

現在になり考えてみますと、それは同年11月に兄が亡くなっていたことが何かしら関係していたのではないかと思われますが、その詳細な原因とは今もって不明です・・。

また、そうしたことを思い出してみますと、今回のそれは前述2009年に経験したものに比べれば、大したことではなく、また、その原因とは継続的なブログ記事作成にあることは感覚的に理解できますので、これを改善するためには、ある程度記事作成の頻度を抑えることが効果的であろうとは自然に思い至るのですが、それでも、このように記事作成をほぼ習慣的にはじめてしまうことが、まさしく『分かっちゃいるけど止められない』といったところではないでしょうか・・(笑)。

とはいえ、そうした状態にて記事を作成しておりますと、不思議なことに比較的スムーズに文章は湧くようであり、ここまでの記事作成も割合速やかに為されております・・。

また、それは現在読み進めている夢野久作の著作の影響によるものであるかもしれません・・。

この著作もおそらく本日あるいは近日中に読了に至ると思われますが、その中で述べられている時代、地域の状況とは、おそらくある程度史実に沿った、近いものであり、また、さらにそこから既読の複数著作に思い至るわけですが、中でも中江兆民著『三酔人経綸問答』あるいは福沢諭吉著『文明論の概略』などは、この著作の時代、地域などの背景を理解する上において効果的であるのではないかと思われます・・。

また、それをさらに『地域』に重点を置いてみますと、大西巨人著『神聖喜劇』、野上彌生子著『迷路』などに描かれている世界にも相通じる部分が少なからずあるのではないかと思われます・・。

ちなみにこの夢野久作の著作とは『犬神博士』であり、その独特の文体から繰り広げられる世界観はなかなか面白く一読の価値があると考えます。
そこまで長い著作ではなく、比較的気軽に読むことが出来ると思いますので、興味のある方は読んでみてください。

では下に、この著作冒頭一部分の抜粋引用を示します。

株式会社KADOKAWA発行 夢野久作著 『犬神博士』 pp.10-11
『その次は何だ。エッ。犬神博士。
どう言う意味だ、それは・・。我輩は
大神二瓶という立派な姓名があるのだ。
その大神のアタマの大の字の横ビンタへ何で石ころをブッ付けた。
誰にことわって犬にしてしまった。我輩が犬を飼っているからと言うのか。
フーム。そうじゃない。吾輩の言う事が犬神さまみたいに適中ると言うのか。馬鹿にしている。
我輩の予言と犬神様の御託宣と一緒にする奴があるか。元来ここいらに犬神が流行るものか。
ナニ。俺がいるから流行らない。馬鹿にするな。そんなら犬神の故事来歴を知っているのか。
知らない。ソレ見ろ。知りもしないのに利いた風な事を言うな。

ナニ。犬神の話を聞かせろ。ウン。知らなきゃあ話してもいい。元来犬神というのは吾国に伝わる迷信のうちでも一番下等なものなんだが、それだけにトテモ愚劣な、モノスゴイ迷信なんだ。主として中国、山陰道方面に流行したものだがね・・。

先ず或る村で天変地異が引き続いて起る。又は神隠し、駈落ち、泥棒、人殺しなんどの類が頻々として、在来の神様に伺いを立てた位では間に合わなくなって来ると、村中の寄り合いで評議して一つ犬神様を祭ってみようかと言う動議が成立する。

そこで村役、世話役肝煎役なんどが立ち上って山の中の荒地を地均して、犬神様の御宮を建てる一方に、熱心家が手を分けて一匹の牡犬を探し出して来る。

毛色は何でも構わないが牝犬では駄目だそうだ。牝は神様になる前にヒステリーになってしまうからね。

その牡犬を地均した御宮の前に生き埋めにして、首から上だけを出したまま一週間放ったらかして置くと、腹が減ってキチガイのようになる。そこでその汐時を見計らって、その犬の眼の前に、肉だの、魚だの、冷水だのとタマラナイものばかりをベタ一面に並べて見せると犬は、モウキチガイ以上になって、眼も舌も釣り上った神々しい姿をあらわす。
その最高潮に達した一刹那を狙って、背後から不意討ちにズバリと首をチョン斬って、かねて用意の素焼きの壺に入れて黒焼きにする。
その壺を御神体にして大変なお祭り騒ぎを始める。
ところでその犬神様に何でもいいから、お犬様のお好きになりそうなものを捧げて、お神籤を上げると、ほかの神様にわからなかった事が何でも中ると言うから妙だ。
天気予報から作の収穫、漁獲のあるなしはむろんの事、神隠しが出て来る。
駈落ちが捕まる。間男、泥棒、人殺しが皆わかると言うのだが、成る程考えたね。
人間だってそんな眼に会わせたら大抵神様になるだろうが。』

・・・たしかに我々日本人にはどうもこうした傾向があるように思われ、また、現代においても、そこからあまり進化はしていないのかもしれないと考えさせることがあります・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。







2017年4月27日木曜日

20170427 コンステレーション、深化そして進化発展の契機となるもの・・?

A「これまで継続的にブログ記事を作成していて思うことの一つに「現在こうして記事を作成している環境が大きく変化した場合、これまでのように継続的な記事作成は出来るのであろうか?」といったことがあります・・。

そして、そうしたことを不図思う契機とは、継続している日常とは異なる場所、空間に(暫間的にではあれ)身を置いた時が多いように思われます・・。

自身は心理学に関しては素人ではありますが、あるいはこうした状態とは、我が国では河合隼雄が紹介し、ある程度の知名度を得たユングの心理学における『コンステレーション』といったものに何かしら関係があるのではないかと考えます・・。

心理学での『コンステレーション』とは『一見無関係に並んだ何かを突如として、その(繋がった)意味を感知させるようなこと、状態』を指すコトバであると表して、少なくとも間違いではないと考えます。

そして、こうしたことはたしかに継続している日常生活の環境においてはあまり思い至ることが少ないと考えられます・・。

とはいえ、こうした内面にて生じる出来事とは、さまざまなことを考える、あるいは学ぶ上において極めて重要であり、おそらく時代精神、地域性といった漠然、抽象的なことがらから、主体が相対する具体的な個々の人々に至るまでを理解する上において、欠くことの出来ない要素であると考えます。

そして、そうした要素が我々の心理に作用することから、我々の行うさまざまな行為とは内面において深化され、さらに進化発展を遂げることが出来るのではないかと思います・・。

おそらくこのようなことは、これを読まれている方々においても少なからず思い当たるフシがあるのではないでしょうか・・?

また一方、それ(コンステレーション)を感知する契機の多くが、日常とは異なる場所、空間に身を置いた時であるというのは、ある程度普遍化して云えることであり、吉田松陰著の「西遊日記」の冒頭にもその様なことが記され、また、そのコトバとは、映画『長州ファイブ』内にて、その主人公である山尾庸三が異郷の地にて述懐しているシーンがありました・・。

ともあれ、それ故に自身が現今継続的に作成しているブログ記事に対しても、時折、そのようなことを不図思うことがあるのです・・。


また、それ以前に、現在に至るまで、どうにか記事作成を継続的に行うことが出来た要因とは、これまでに作成した記事においても書きましたが、おそらく過去に在住したさまざまな地域での記憶であり、その意味において、あるいは今後、現在とは異なる日常に身を置いた場合もまた、今度は現在の日常の記憶が何かを書くための題材となるとなり得るのではないかとも思われるのです・・。

しかし、おそらくこうしたことは本質的には『賭け』に分類する方が適当であるのかもしれませんが・・(苦笑)。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」