A「現在住んでいる場所が取り壊されるため、現在さまざまな荷物の整理を行っております。
『断捨離』が流行っていることもあり、出来るだけ必要のないものは捨てようと試みておりますが、それら荷物の中でも、とりわけ書籍に関しての取捨選択とは、大変難しく、いざ一冊一冊手に取り、それぞれ残すか捨てるかの判断をする際、不思議なことに大概の書籍に何らかの『思い』があり、その多寡を以って概ね判断をしているわけですが、それでも『いや、この書籍は今後あるいはもっと読むかもしれない・・』などと考えてしまい、判断に躊躇することが度々あります・・(苦笑)。
こうした躊躇あるいは判断力の鈍さとは、以前にはあまり感じなかったことですので、あるいはそれなりに自身も年齢を重ねてしまったということになるのかもしれません・・(苦笑)。
とはいえ、こうして書籍の取捨選択を行っておりますと、これまで思いのほか多くの書籍を読んできたことが分かり、そこから『果たして自身とはこのままで良いのだろうか・・?』と、不図、考えてしまうのです・・(苦笑)。
しかし、もう少し考えてみれば、それは仕方のないことであり、あるいはそれだけの書籍を読んできたにもかかわらず、現在一応普通に働いているのであれば、それはそれで、よくやっている方であり、むしろ、それを今後、如何なるカタチでか有用化していく以外、善処の方法とは、ないのではないかと思われます・・(苦笑)。
さて、近在の古くからの古書店に書籍の出張買取に来て頂き、蔵書もおそらく半分以下にはなったと思われますが、それでもいくつかのカラーボックスに満載程度となりました・・。
そして、今現在記事作成を行っている周辺には雑然と書籍類が散在し、おそらく今GWとは、これら書籍を含めた荷物全般の整理にて明け暮れるのではないかと思われます・・(苦笑)。
また、それらの中で比較的面白いと感じたものは、修士論文の下書き、草稿であり、これは主題が概ね日本を題材とするものでありながら、そうしたことにお構いなく、さまざまな分野の和洋文献からの事例を多数引用をしており、これはこれで現在読んでみますと、より精確に当時の自身の読書、思考の足跡が辿ることが出来るものと思われます・・。
そしてまた、一応当時の自身とは、おそらく周囲からの影響も多くはありますが、それなりに自発的な努力をもしていたことが理解出来、あるいは当時の自身とは、現在よりも知的、優秀であったのではないかとも思われることもあるのですが、しかしそれでも、現在の方が当時よりも明らかに優っている、進歩していると思われることは、一連の当ブログ記事が示すように、ある程度の期間、ほぼ毎日、継続的何かを書き続けていることであり、これはおそらく当時の自身が知識の吸収に重きを置いていたとはいえ、なかなか難しかったのではないかと思われます・・。
しかし、そこで同時に思うことは、現在こうして、一応ある程度の期間、継続的に記事、文章を作成出来ている基盤とは、まさしくこの時期にあったのではないかということです・・。
そしてまた、今後もいくらかは、その伸びしろがあるとは考えますが、しかし、とりあえずは、そうしたことはある程度の期間を設けて考えなければ分からないようであり、それ故、今後も休みを入れつつも、出来るだけ継続的に記事作成を行おうと思います。
そういえば、昨日投稿の記事もまた思いのほか多くの方々に読んで頂けたようであり、また、その反応も大変興味深いものでした。
ともあれ、今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
2017年4月30日日曜日
2017年4月29日土曜日
20170429 対話形式から独白形式への文体に変化に関して記事閲覧者数から思ったこと・・
A「昨日の投稿記事は思いのほか多くの方々に読んで頂けました。
加えて、昨日の記事投稿直後から現在に至るまでの一連の記事閲覧状況を見ておりますと、大変面白い反応が為されていたことから、それを取り入れさせて頂きました・・。
また、上記のような読んで頂いた方々からの反応を含め、さまざまな要因により、当ブログ記事作成は継続することが出来ていると云えます。
そして本日もまた、その調子にて記事を書いていこうと思います・・(笑)。
そういえば、今週に作成された記事において最も読まれた記事は4月24日投稿分の『『ハレ』を生じさせる地域の『何か』とは・・?』であり、これには多少驚かされ、またそのことから、再度記事を読み直し、全体の流れは変えない程度に、いくつかの表現を改めました・・。
とはいえ、普段であれば、こうした既投稿記事への改変は行わないのですが、特にこの記事に関して、そのようなことを敢えて行ったという背景には、作成者として、その記事に書かれている内容が、より正確に読んで頂いている方々に伝わって欲しいという、一種の欲が湧いたことがあるのかもしれません・・(苦笑)。
また一方、その欲?とは、ある程度多くの方々に読んで頂いていたからこそ湧いたものであり、そうしたことからも、自身が継続的にブログ記事の作成が出来ていることの裏面を理解することが出来るのではないでしょうか・・(苦笑)?
つまり、当たり前ではあるかもしれませんが、自身は特に文章の作成に秀でているわけでも、また、その才能があるわけでもありません。
しかしその一方で、これまでに挙げたような反応に対し『たしかに面白い!』あるいは『そういった理もあるのか!』と正直に感じることが出来る程度の感性と、それを基点として新たな着想が湧き、そしてまた新たな文章、記事を書ける程度の文体は、どうやら持っていたとは云えるようです・・(笑)。
とはいえ、それは特に自信と云える程度のものでもなく、またそれは一面において当初、自身の作成した記事の多くが対話形式を採っていた要因であったのかもしれません・・(苦笑)。
つまりは、文章作成という、いわば能動的、創造的な行為において、当初、自身は通常の状態であれば、そこに至るための出力が若干乏しく、対話をも含めた他者との応対によって生じる、いわば内面での動きに乗じ、文章を作成してきたものと云えます・・。
そして、そこである程度の期間書き続けておりますと、今度はこれまである程度の時間を費やしてきた、さまざまな分野における書籍の読解、読書もまた、本質的には一種の他者との応対であることを(あらためて)感知、認識し、今度はそれを応用し、文章を作成することが可能となったのではないかと思われます。
また、その時期とは、文体の対話形式から独白形式への移行期と、ある程度重なるのではないかとも思われます・・。
その間に一体如何なる関連があるのか不明ではありますが、おそらくそうしたことは世界史的に見てもある程度普遍的見解とも云える青銅器使用の普及と都市国家の成立時期が概ね被るのと次元は異なりますが、何かしら類似したメカニズムが作用しているのではないかとも思われます・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
加えて、昨日の記事投稿直後から現在に至るまでの一連の記事閲覧状況を見ておりますと、大変面白い反応が為されていたことから、それを取り入れさせて頂きました・・。
また、上記のような読んで頂いた方々からの反応を含め、さまざまな要因により、当ブログ記事作成は継続することが出来ていると云えます。
そして本日もまた、その調子にて記事を書いていこうと思います・・(笑)。
そういえば、今週に作成された記事において最も読まれた記事は4月24日投稿分の『『ハレ』を生じさせる地域の『何か』とは・・?』であり、これには多少驚かされ、またそのことから、再度記事を読み直し、全体の流れは変えない程度に、いくつかの表現を改めました・・。
とはいえ、普段であれば、こうした既投稿記事への改変は行わないのですが、特にこの記事に関して、そのようなことを敢えて行ったという背景には、作成者として、その記事に書かれている内容が、より正確に読んで頂いている方々に伝わって欲しいという、一種の欲が湧いたことがあるのかもしれません・・(苦笑)。
また一方、その欲?とは、ある程度多くの方々に読んで頂いていたからこそ湧いたものであり、そうしたことからも、自身が継続的にブログ記事の作成が出来ていることの裏面を理解することが出来るのではないでしょうか・・(苦笑)?
つまり、当たり前ではあるかもしれませんが、自身は特に文章の作成に秀でているわけでも、また、その才能があるわけでもありません。
しかしその一方で、これまでに挙げたような反応に対し『たしかに面白い!』あるいは『そういった理もあるのか!』と正直に感じることが出来る程度の感性と、それを基点として新たな着想が湧き、そしてまた新たな文章、記事を書ける程度の文体は、どうやら持っていたとは云えるようです・・(笑)。
とはいえ、それは特に自信と云える程度のものでもなく、またそれは一面において当初、自身の作成した記事の多くが対話形式を採っていた要因であったのかもしれません・・(苦笑)。
つまりは、文章作成という、いわば能動的、創造的な行為において、当初、自身は通常の状態であれば、そこに至るための出力が若干乏しく、対話をも含めた他者との応対によって生じる、いわば内面での動きに乗じ、文章を作成してきたものと云えます・・。
そして、そこである程度の期間書き続けておりますと、今度はこれまである程度の時間を費やしてきた、さまざまな分野における書籍の読解、読書もまた、本質的には一種の他者との応対であることを(あらためて)感知、認識し、今度はそれを応用し、文章を作成することが可能となったのではないかと思われます。
また、その時期とは、文体の対話形式から独白形式への移行期と、ある程度重なるのではないかとも思われます・・。
その間に一体如何なる関連があるのか不明ではありますが、おそらくそうしたことは世界史的に見てもある程度普遍的見解とも云える青銅器使用の普及と都市国家の成立時期が概ね被るのと次元は異なりますが、何かしら類似したメカニズムが作用しているのではないかとも思われます・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2017年4月28日金曜日
20170428 最近よく眠くなること、および読んでいる著作について【抜粋引用あり】
先日の600記事到達から本日の記事投稿によって10記事作成したことになります・・。
この10記事とは案外早く感じ、あるいはこの調子で書き続ければ700記事への到達もまた、そこまで先ではないとわずかに錯覚を覚えるのですが(笑)、その一方で、やはりある程度疲労は蓄積しているようであり、先日の記事にも書きましたが、少し気が抜けるとすぐに眠たくなってきます・・。
また、そのように書いておりますと、不図思い出すのは、このようなことは以前にもあったということです・・。
それは鹿児島在住初年目2009年の暮れ頃であり、当時はどうしたわけか、常時眠くて仕方がない状態でした・・。
具体的には、電子顕微鏡で試料を観察しながら、いつの間にか意識が飛んでいたり、パソコンの前で何か作成している時もそうしたことが生じていました・・(苦笑)。
現在になり考えてみますと、それは同年11月に兄が亡くなっていたことが何かしら関係していたのではないかと思われますが、その詳細な原因とは今もって不明です・・。
また、そうしたことを思い出してみますと、今回のそれは前述2009年に経験したものに比べれば、大したことではなく、また、その原因とは継続的なブログ記事作成にあることは感覚的に理解できますので、これを改善するためには、ある程度記事作成の頻度を抑えることが効果的であろうとは自然に思い至るのですが、それでも、このように記事作成をほぼ習慣的にはじめてしまうことが、まさしく『分かっちゃいるけど止められない』といったところではないでしょうか・・(笑)。
とはいえ、そうした状態にて記事を作成しておりますと、不思議なことに比較的スムーズに文章は湧くようであり、ここまでの記事作成も割合速やかに為されております・・。
また、それは現在読み進めている夢野久作の著作の影響によるものであるかもしれません・・。
この著作もおそらく本日あるいは近日中に読了に至ると思われますが、その中で述べられている時代、地域の状況とは、おそらくある程度史実に沿った、近いものであり、また、さらにそこから既読の複数著作に思い至るわけですが、中でも中江兆民著『三酔人経綸問答』あるいは福沢諭吉著『文明論の概略』などは、この著作の時代、地域などの背景を理解する上において効果的であるのではないかと思われます・・。
また、それをさらに『地域』に重点を置いてみますと、大西巨人著『神聖喜劇』、野上彌生子著『迷路』などに描かれている世界にも相通じる部分が少なからずあるのではないかと思われます・・。
ちなみにこの夢野久作の著作とは『犬神博士』であり、その独特の文体から繰り広げられる世界観はなかなか面白く一読の価値があると考えます。
そこまで長い著作ではなく、比較的気軽に読むことが出来ると思いますので、興味のある方は読んでみてください。
では下に、この著作冒頭一部分の抜粋引用を示します。
株式会社KADOKAWA発行 夢野久作著 『犬神博士』 pp.10-11
『その次は何だ。エッ。犬神博士。
どう言う意味だ、それは・・。我輩は大神二瓶という立派な姓名があるのだ。
その大神のアタマの大の字の横ビンタへ何で石ころをブッ付けた。
誰にことわって犬にしてしまった。我輩が犬を飼っているからと言うのか。
フーム。そうじゃない。吾輩の言う事が犬神さまみたいに適中ると言うのか。馬鹿にしている。
我輩の予言と犬神様の御託宣と一緒にする奴があるか。元来ここいらに犬神が流行るものか。
ナニ。俺がいるから流行らない。馬鹿にするな。そんなら犬神の故事来歴を知っているのか。
知らない。ソレ見ろ。知りもしないのに利いた風な事を言うな。
ナニ。犬神の話を聞かせろ。ウン。知らなきゃあ話してもいい。元来犬神というのは吾国に伝わる迷信のうちでも一番下等なものなんだが、それだけにトテモ愚劣な、モノスゴイ迷信なんだ。主として中国、山陰道方面に流行したものだがね・・。
先ず或る村で天変地異が引き続いて起る。又は神隠し、駈落ち、泥棒、人殺しなんどの類が頻々として、在来の神様に伺いを立てた位では間に合わなくなって来ると、村中の寄り合いで評議して一つ犬神様を祭ってみようかと言う動議が成立する。
そこで村役、世話役肝煎役なんどが立ち上って山の中の荒地を地均して、犬神様の御宮を建てる一方に、熱心家が手を分けて一匹の牡犬を探し出して来る。
毛色は何でも構わないが牝犬では駄目だそうだ。牝は神様になる前にヒステリーになってしまうからね。
その牡犬を地均した御宮の前に生き埋めにして、首から上だけを出したまま一週間放ったらかして置くと、腹が減ってキチガイのようになる。そこでその汐時を見計らって、その犬の眼の前に、肉だの、魚だの、冷水だのとタマラナイものばかりをベタ一面に並べて見せると犬は、モウキチガイ以上になって、眼も舌も釣り上った神々しい姿をあらわす。
その最高潮に達した一刹那を狙って、背後から不意討ちにズバリと首をチョン斬って、かねて用意の素焼きの壺に入れて黒焼きにする。
その壺を御神体にして大変なお祭り騒ぎを始める。
ところでその犬神様に何でもいいから、お犬様のお好きになりそうなものを捧げて、お神籤を上げると、ほかの神様にわからなかった事が何でも中ると言うから妙だ。
天気予報から作の収穫、漁獲のあるなしはむろんの事、神隠しが出て来る。
駈落ちが捕まる。間男、泥棒、人殺しが皆わかると言うのだが、成る程考えたね。
人間だってそんな眼に会わせたら大抵神様になるだろうが。』
・・・たしかに我々日本人にはどうもこうした傾向があるように思われ、また、現代においても、そこからあまり進化はしていないのかもしれないと考えさせることがあります・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
この10記事とは案外早く感じ、あるいはこの調子で書き続ければ700記事への到達もまた、そこまで先ではないとわずかに錯覚を覚えるのですが(笑)、その一方で、やはりある程度疲労は蓄積しているようであり、先日の記事にも書きましたが、少し気が抜けるとすぐに眠たくなってきます・・。
また、そのように書いておりますと、不図思い出すのは、このようなことは以前にもあったということです・・。
それは鹿児島在住初年目2009年の暮れ頃であり、当時はどうしたわけか、常時眠くて仕方がない状態でした・・。
具体的には、電子顕微鏡で試料を観察しながら、いつの間にか意識が飛んでいたり、パソコンの前で何か作成している時もそうしたことが生じていました・・(苦笑)。
現在になり考えてみますと、それは同年11月に兄が亡くなっていたことが何かしら関係していたのではないかと思われますが、その詳細な原因とは今もって不明です・・。
また、そうしたことを思い出してみますと、今回のそれは前述2009年に経験したものに比べれば、大したことではなく、また、その原因とは継続的なブログ記事作成にあることは感覚的に理解できますので、これを改善するためには、ある程度記事作成の頻度を抑えることが効果的であろうとは自然に思い至るのですが、それでも、このように記事作成をほぼ習慣的にはじめてしまうことが、まさしく『分かっちゃいるけど止められない』といったところではないでしょうか・・(笑)。
とはいえ、そうした状態にて記事を作成しておりますと、不思議なことに比較的スムーズに文章は湧くようであり、ここまでの記事作成も割合速やかに為されております・・。
また、それは現在読み進めている夢野久作の著作の影響によるものであるかもしれません・・。
この著作もおそらく本日あるいは近日中に読了に至ると思われますが、その中で述べられている時代、地域の状況とは、おそらくある程度史実に沿った、近いものであり、また、さらにそこから既読の複数著作に思い至るわけですが、中でも中江兆民著『三酔人経綸問答』あるいは福沢諭吉著『文明論の概略』などは、この著作の時代、地域などの背景を理解する上において効果的であるのではないかと思われます・・。
また、それをさらに『地域』に重点を置いてみますと、大西巨人著『神聖喜劇』、野上彌生子著『迷路』などに描かれている世界にも相通じる部分が少なからずあるのではないかと思われます・・。
ちなみにこの夢野久作の著作とは『犬神博士』であり、その独特の文体から繰り広げられる世界観はなかなか面白く一読の価値があると考えます。
そこまで長い著作ではなく、比較的気軽に読むことが出来ると思いますので、興味のある方は読んでみてください。
では下に、この著作冒頭一部分の抜粋引用を示します。
株式会社KADOKAWA発行 夢野久作著 『犬神博士』 pp.10-11
『その次は何だ。エッ。犬神博士。
どう言う意味だ、それは・・。我輩は大神二瓶という立派な姓名があるのだ。
その大神のアタマの大の字の横ビンタへ何で石ころをブッ付けた。
誰にことわって犬にしてしまった。我輩が犬を飼っているからと言うのか。
フーム。そうじゃない。吾輩の言う事が犬神さまみたいに適中ると言うのか。馬鹿にしている。
我輩の予言と犬神様の御託宣と一緒にする奴があるか。元来ここいらに犬神が流行るものか。
ナニ。俺がいるから流行らない。馬鹿にするな。そんなら犬神の故事来歴を知っているのか。
知らない。ソレ見ろ。知りもしないのに利いた風な事を言うな。
ナニ。犬神の話を聞かせろ。ウン。知らなきゃあ話してもいい。元来犬神というのは吾国に伝わる迷信のうちでも一番下等なものなんだが、それだけにトテモ愚劣な、モノスゴイ迷信なんだ。主として中国、山陰道方面に流行したものだがね・・。
先ず或る村で天変地異が引き続いて起る。又は神隠し、駈落ち、泥棒、人殺しなんどの類が頻々として、在来の神様に伺いを立てた位では間に合わなくなって来ると、村中の寄り合いで評議して一つ犬神様を祭ってみようかと言う動議が成立する。
そこで村役、世話役肝煎役なんどが立ち上って山の中の荒地を地均して、犬神様の御宮を建てる一方に、熱心家が手を分けて一匹の牡犬を探し出して来る。
毛色は何でも構わないが牝犬では駄目だそうだ。牝は神様になる前にヒステリーになってしまうからね。
その牡犬を地均した御宮の前に生き埋めにして、首から上だけを出したまま一週間放ったらかして置くと、腹が減ってキチガイのようになる。そこでその汐時を見計らって、その犬の眼の前に、肉だの、魚だの、冷水だのとタマラナイものばかりをベタ一面に並べて見せると犬は、モウキチガイ以上になって、眼も舌も釣り上った神々しい姿をあらわす。
その最高潮に達した一刹那を狙って、背後から不意討ちにズバリと首をチョン斬って、かねて用意の素焼きの壺に入れて黒焼きにする。
その壺を御神体にして大変なお祭り騒ぎを始める。
ところでその犬神様に何でもいいから、お犬様のお好きになりそうなものを捧げて、お神籤を上げると、ほかの神様にわからなかった事が何でも中ると言うから妙だ。
天気予報から作の収穫、漁獲のあるなしはむろんの事、神隠しが出て来る。
駈落ちが捕まる。間男、泥棒、人殺しが皆わかると言うのだが、成る程考えたね。
人間だってそんな眼に会わせたら大抵神様になるだろうが。』
・・・たしかに我々日本人にはどうもこうした傾向があるように思われ、また、現代においても、そこからあまり進化はしていないのかもしれないと考えさせることがあります・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
2017年4月27日木曜日
20170427 コンステレーション、深化そして進化発展の契機となるもの・・?
A「これまで継続的にブログ記事を作成していて思うことの一つに「現在こうして記事を作成している環境が大きく変化した場合、これまでのように継続的な記事作成は出来るのであろうか?」といったことがあります・・。
そして、そうしたことを不図思う契機とは、継続している日常とは異なる場所、空間に(暫間的にではあれ)身を置いた時が多いように思われます・・。
自身は心理学に関しては素人ではありますが、あるいはこうした状態とは、我が国では河合隼雄が紹介し、ある程度の知名度を得たユングの心理学における『コンステレーション』といったものに何かしら関係があるのではないかと考えます・・。
心理学での『コンステレーション』とは『一見無関係に並んだ何かを突如として、その(繋がった)意味を感知させるようなこと、状態』を指すコトバであると表して、少なくとも間違いではないと考えます。
そして、こうしたことはたしかに継続している日常生活の環境においてはあまり思い至ることが少ないと考えられます・・。
とはいえ、こうした内面にて生じる出来事とは、さまざまなことを考える、あるいは学ぶ上において極めて重要であり、おそらく時代精神、地域性といった漠然、抽象的なことがらから、主体が相対する具体的な個々の人々に至るまでを理解する上において、欠くことの出来ない要素であると考えます。
そして、そうした要素が我々の心理に作用することから、我々の行うさまざまな行為とは内面において深化され、さらに進化発展を遂げることが出来るのではないかと思います・・。
おそらくこのようなことは、これを読まれている方々においても少なからず思い当たるフシがあるのではないでしょうか・・?
また一方、それ(コンステレーション)を感知する契機の多くが、日常とは異なる場所、空間に身を置いた時であるというのは、ある程度普遍化して云えることであり、吉田松陰著の「西遊日記」の冒頭にもその様なことが記され、また、そのコトバとは、映画『長州ファイブ』内にて、その主人公である山尾庸三が異郷の地にて述懐しているシーンがありました・・。
ともあれ、それ故に自身が現今継続的に作成しているブログ記事に対しても、時折、そのようなことを不図思うことがあるのです・・。
また、それ以前に、現在に至るまで、どうにか記事作成を継続的に行うことが出来た要因とは、これまでに作成した記事においても書きましたが、おそらく過去に在住したさまざまな地域での記憶であり、その意味において、あるいは今後、現在とは異なる日常に身を置いた場合もまた、今度は現在の日常の記憶が何かを書くための題材となるとなり得るのではないかとも思われるのです・・。
しかし、おそらくこうしたことは本質的には『賭け』に分類する方が適当であるのかもしれませんが・・(苦笑)。
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
そして、そうしたことを不図思う契機とは、継続している日常とは異なる場所、空間に(暫間的にではあれ)身を置いた時が多いように思われます・・。
自身は心理学に関しては素人ではありますが、あるいはこうした状態とは、我が国では河合隼雄が紹介し、ある程度の知名度を得たユングの心理学における『コンステレーション』といったものに何かしら関係があるのではないかと考えます・・。
心理学での『コンステレーション』とは『一見無関係に並んだ何かを突如として、その(繋がった)意味を感知させるようなこと、状態』を指すコトバであると表して、少なくとも間違いではないと考えます。
そして、こうしたことはたしかに継続している日常生活の環境においてはあまり思い至ることが少ないと考えられます・・。
とはいえ、こうした内面にて生じる出来事とは、さまざまなことを考える、あるいは学ぶ上において極めて重要であり、おそらく時代精神、地域性といった漠然、抽象的なことがらから、主体が相対する具体的な個々の人々に至るまでを理解する上において、欠くことの出来ない要素であると考えます。
そして、そうした要素が我々の心理に作用することから、我々の行うさまざまな行為とは内面において深化され、さらに進化発展を遂げることが出来るのではないかと思います・・。
おそらくこのようなことは、これを読まれている方々においても少なからず思い当たるフシがあるのではないでしょうか・・?
また一方、それ(コンステレーション)を感知する契機の多くが、日常とは異なる場所、空間に身を置いた時であるというのは、ある程度普遍化して云えることであり、吉田松陰著の「西遊日記」の冒頭にもその様なことが記され、また、そのコトバとは、映画『長州ファイブ』内にて、その主人公である山尾庸三が異郷の地にて述懐しているシーンがありました・・。
ともあれ、それ故に自身が現今継続的に作成しているブログ記事に対しても、時折、そのようなことを不図思うことがあるのです・・。
また、それ以前に、現在に至るまで、どうにか記事作成を継続的に行うことが出来た要因とは、これまでに作成した記事においても書きましたが、おそらく過去に在住したさまざまな地域での記憶であり、その意味において、あるいは今後、現在とは異なる日常に身を置いた場合もまた、今度は現在の日常の記憶が何かを書くための題材となるとなり得るのではないかとも思われるのです・・。
しかし、おそらくこうしたことは本質的には『賭け』に分類する方が適当であるのかもしれませんが・・(苦笑)。
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
2017年4月26日水曜日
20170426 これまでの4月内で最も多く読まれた記事から思ったこと
A「昨日投稿記事もまた思いのほか多くの方々に閲覧して頂き、そのことから本日もまた記事作成を始めた次第です・・。
そして、本日もまた今現在特に記事の主題は決めておりません・・(苦笑)。
毎回このような調子で書いており、よく続けることが出来ているとは、我が事ながら多少面白く思うところです・・(笑)。
そういえば、今月も月末に近づきつつありますが、今月内に投稿した記事のなかで最も多く読まれていたのは4月2日投稿分の『時代を通じ普遍的に人々に重み、深みを感じさせる「何か」とは』でした。
また、その閲覧者数は、次点との差がかなり大きく、ほぼ独走、ダントツと評しても良い状態と云えます・・。
とはいえ、この記事が(相対的に)多くの方々に読んで頂けた理由とは今もってよく分かりません・・(苦笑)。
どちらかというと、この記事とは、作成当日が休日ということもあり、多少余裕をもって記事作成に取り組むことが出来たことから作成、投稿した二つ目の記事であり、正直なところ、そこまで多くの方々に閲覧されることを当初より期待したものではありません。
またそれは当時目標としていた600記事到達を早めるために作成した記事と評しても決して不可ではありません・・(苦笑)。
このように考えてみますと、こうした記事、文章を作成する一つの面白さとは、そういったところにもあるのではないかと思われます・・(笑)。
つまり『何であれ文章といったものは書いてみないと分からないということであり、また同時に書き続けていると、上記の事象のようなことをも含め、何かしら面白い発見をすることがあるではないか?』ということです・・。
そしてまた、こうしたことは(幾分無謀にも)公表を前提とすることから知り得たことであり、ひいては『それがブログ記事作成なるものの面白さの一つではないか?』ともいうことが出来るのではないかとも思われます・・(笑)。
また、自身とは、あるいは、こうした(手法による)文章作成であったからこそ、公表する文章であったことが補助輪のような役割を果たし、今現在ここまで記事作成を継続することが出来ているのではないかとも思われるのです・・(笑)。
しかしそれは同時にさきに示した記事の主題であった『普遍的に重み、深みを感じさせる何か』とはまた別種のものであるのではないかとも思われます。
いや、あるいは、そうしたものとは、記事作成を継続することにより自然、徐徐に文章に魂?が浸透し、読む方々に対し重み、深みを感じさせるようになってゆくものであるのかもしれません・・。
(文字および文章の持つ意味が変化するのか?それを作成する自身が変化するのか?それを読む方々が変化するのか?はたまた、それらが複合的に作用するのか?・・(笑))
そして、もしもそこに多少なりとも理があるとすれば、今現在逡巡しながら作成しているこの記事においてもまた多少の意味があるのかもしれない・・。
ここまで(あるいはこれまで通り)かなり身勝手なことを述べてきましたが、それでも実際のところ、ここまで作成してきた記事の中で百分の一、五十分の一、十分の一程度でも、ある程度普遍的に『面白い』あるいは『重み、深みを感じさせた』という記事があれば、自身としては(かなり)上出来の部類ではないかと思われます・・(笑)。
そして、それはやはり書き続けることによってはじめて達し得たものであるので、その意味では、無駄となった記事は無いとも云えるのです・・(笑)。
とはいえ、今後も多少休みを入れることがあるかもしれませんが、もうしばらく書き続けようと思います・・。
そして今回も最後にゲーテの箴言を(二つ)引用します(笑)。
「なんじが終わりえないことが、なんじを偉大にする。」
(西東詩編「ハーフィズの書」から)
「大小を問わず、性格とは、人間ができると感じたことを首尾一貫させることである。」
(「格言と反省」から)
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
そして、本日もまた今現在特に記事の主題は決めておりません・・(苦笑)。
毎回このような調子で書いており、よく続けることが出来ているとは、我が事ながら多少面白く思うところです・・(笑)。
そういえば、今月も月末に近づきつつありますが、今月内に投稿した記事のなかで最も多く読まれていたのは4月2日投稿分の『時代を通じ普遍的に人々に重み、深みを感じさせる「何か」とは』でした。
また、その閲覧者数は、次点との差がかなり大きく、ほぼ独走、ダントツと評しても良い状態と云えます・・。
とはいえ、この記事が(相対的に)多くの方々に読んで頂けた理由とは今もってよく分かりません・・(苦笑)。
どちらかというと、この記事とは、作成当日が休日ということもあり、多少余裕をもって記事作成に取り組むことが出来たことから作成、投稿した二つ目の記事であり、正直なところ、そこまで多くの方々に閲覧されることを当初より期待したものではありません。
またそれは当時目標としていた600記事到達を早めるために作成した記事と評しても決して不可ではありません・・(苦笑)。
このように考えてみますと、こうした記事、文章を作成する一つの面白さとは、そういったところにもあるのではないかと思われます・・(笑)。
つまり『何であれ文章といったものは書いてみないと分からないということであり、また同時に書き続けていると、上記の事象のようなことをも含め、何かしら面白い発見をすることがあるではないか?』ということです・・。
そしてまた、こうしたことは(幾分無謀にも)公表を前提とすることから知り得たことであり、ひいては『それがブログ記事作成なるものの面白さの一つではないか?』ともいうことが出来るのではないかとも思われます・・(笑)。
また、自身とは、あるいは、こうした(手法による)文章作成であったからこそ、公表する文章であったことが補助輪のような役割を果たし、今現在ここまで記事作成を継続することが出来ているのではないかとも思われるのです・・(笑)。
しかしそれは同時にさきに示した記事の主題であった『普遍的に重み、深みを感じさせる何か』とはまた別種のものであるのではないかとも思われます。
いや、あるいは、そうしたものとは、記事作成を継続することにより自然、徐徐に文章に魂?が浸透し、読む方々に対し重み、深みを感じさせるようになってゆくものであるのかもしれません・・。
(文字および文章の持つ意味が変化するのか?それを作成する自身が変化するのか?それを読む方々が変化するのか?はたまた、それらが複合的に作用するのか?・・(笑))
そして、もしもそこに多少なりとも理があるとすれば、今現在逡巡しながら作成しているこの記事においてもまた多少の意味があるのかもしれない・・。
ここまで(あるいはこれまで通り)かなり身勝手なことを述べてきましたが、それでも実際のところ、ここまで作成してきた記事の中で百分の一、五十分の一、十分の一程度でも、ある程度普遍的に『面白い』あるいは『重み、深みを感じさせた』という記事があれば、自身としては(かなり)上出来の部類ではないかと思われます・・(笑)。
そして、それはやはり書き続けることによってはじめて達し得たものであるので、その意味では、無駄となった記事は無いとも云えるのです・・(笑)。
とはいえ、今後も多少休みを入れることがあるかもしれませんが、もうしばらく書き続けようと思います・・。
そして今回も最後にゲーテの箴言を(二つ)引用します(笑)。
「なんじが終わりえないことが、なんじを偉大にする。」
(西東詩編「ハーフィズの書」から)
「大小を問わず、性格とは、人間ができると感じたことを首尾一貫させることである。」
(「格言と反省」から)
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2017年4月25日火曜日
20170425 夢野久作・谷川健一・大西巨人を結ぶもの・・
A「本日の首都圏もまた日中は気温も上昇し、比較的過ごし易い一日でした。
さて、本日も記事作成を止めておこうと思いつつ記事の閲覧状況を確認しますと、思いのほか読まれていたことから、また記事作成に取り組んでいる次第です・・(苦笑)。
また、先日600記事に到達してからも、まさしくどうしたわけか継続的に記事作成を行い、気が付きますと既に新たに5記事以上を作成しておりました・・(苦笑)。
加えて、直近ここ数回の記事に関しては、先日来より読んでいる夢野久作の著作の影響を受けているようにも思えます・・(笑)。
そして、このように考えてみますと、自身に関しては、何かしら著作を読んでいる時の方が記事作成も速やかにそしてスムーズに為されるように思われます・・(笑)。
その点、ブログ記事作成当初の記事全般とは、それまでに読んだ著作の影響が複合的に見受けられ、また同時に、その文体とは現在に比べ、何といいますか、頑なであり、現在読んでみますと「ああ、たしかにこの文体では長い期間の記事作成は困難であろうなあ・・」といった感想を持つに至ります・・(笑)。
とはいえ、その一方で自身とは、そうした頑なな文体に未だ憧れているようなところもあり、そこから時にはそうした(頑なな)文体を用いて文章を作成するのもまた、大事ではあるまいか・・?といった、さきとは相矛盾ような感想をも持つに至ります・・(笑)。
それ故、今回に関しては、このさきの文章を敢えて頑な、硬質な文体を用いて書いてみようと思い立ちました・・。
さて、現在読んでいる夢野久作の著作とは、偶然ながら、以前抜粋引用した谷川健一の著作においてもその一部分が抜粋引用されていることをつい先ほど思い出した。
谷川健一の著作とは、我が国の歴史の裏面あるいは民俗などについて取り扱ったものが多いと云えるのだが、その中で何故、本来(独特な作風の)小説家である夢野久作著作内の文章が抜粋引用されているのかと考えると、おそらく、その著作内で述べられている内容が、我が国古来よりの民俗的あるいは伝統的な、物事に対する視座に基づく叙述が随所に為されているからではないかと考える。
無論、こうしたある意味、歴史を貫く内容を持つ叙述とは、さまざまな文字文化において見受けられるのであろうが、特に谷川健一、夢野久作間のそれを結んで浮かび上がってくる特徴的な要素とは、おそらく我々が古来より普遍的に持っていると内面においては実感しつつも、同時にそれを表出することは進化発展を遂げた現代の我が国社会においては相応しくないものとされるような、恐ろしくも残忍な要素ではないかと考える。
また、その意味において、著作の中にて上記と類似した要素が随所に認められる著述家として大西巨人が挙げられるのではないかと考える。
そして、そうした要素を文章にて抉り出し露見させるような性質とは、あるいは九州出身の著述家を含めた表現者全般において、ある程度広く認められるのかもしれない。
感覚的ではあるが、そうした、いわゆる露悪的な文章において、前出三者とは、たとえば(九州に出自を持たない)山本七平、大岡昇平、会田雄次、丸山眞男などの類似した内容を持つ文章と比較した場合、その全体的なトーンが異なるのではないだろうか・・?
そして、そこにある程度同意が為されるのであれば、おそらく、その基底にあるものとは、地方、地域独特の口語、文語を含めた言語世界ではないかと思われる。
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した地震により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
さて、本日も記事作成を止めておこうと思いつつ記事の閲覧状況を確認しますと、思いのほか読まれていたことから、また記事作成に取り組んでいる次第です・・(苦笑)。
また、先日600記事に到達してからも、まさしくどうしたわけか継続的に記事作成を行い、気が付きますと既に新たに5記事以上を作成しておりました・・(苦笑)。
加えて、直近ここ数回の記事に関しては、先日来より読んでいる夢野久作の著作の影響を受けているようにも思えます・・(笑)。
そして、このように考えてみますと、自身に関しては、何かしら著作を読んでいる時の方が記事作成も速やかにそしてスムーズに為されるように思われます・・(笑)。
その点、ブログ記事作成当初の記事全般とは、それまでに読んだ著作の影響が複合的に見受けられ、また同時に、その文体とは現在に比べ、何といいますか、頑なであり、現在読んでみますと「ああ、たしかにこの文体では長い期間の記事作成は困難であろうなあ・・」といった感想を持つに至ります・・(笑)。
とはいえ、その一方で自身とは、そうした頑なな文体に未だ憧れているようなところもあり、そこから時にはそうした(頑なな)文体を用いて文章を作成するのもまた、大事ではあるまいか・・?といった、さきとは相矛盾ような感想をも持つに至ります・・(笑)。
それ故、今回に関しては、このさきの文章を敢えて頑な、硬質な文体を用いて書いてみようと思い立ちました・・。
さて、現在読んでいる夢野久作の著作とは、偶然ながら、以前抜粋引用した谷川健一の著作においてもその一部分が抜粋引用されていることをつい先ほど思い出した。
谷川健一の著作とは、我が国の歴史の裏面あるいは民俗などについて取り扱ったものが多いと云えるのだが、その中で何故、本来(独特な作風の)小説家である夢野久作著作内の文章が抜粋引用されているのかと考えると、おそらく、その著作内で述べられている内容が、我が国古来よりの民俗的あるいは伝統的な、物事に対する視座に基づく叙述が随所に為されているからではないかと考える。
無論、こうしたある意味、歴史を貫く内容を持つ叙述とは、さまざまな文字文化において見受けられるのであろうが、特に谷川健一、夢野久作間のそれを結んで浮かび上がってくる特徴的な要素とは、おそらく我々が古来より普遍的に持っていると内面においては実感しつつも、同時にそれを表出することは進化発展を遂げた現代の我が国社会においては相応しくないものとされるような、恐ろしくも残忍な要素ではないかと考える。
また、その意味において、著作の中にて上記と類似した要素が随所に認められる著述家として大西巨人が挙げられるのではないかと考える。
そして、そうした要素を文章にて抉り出し露見させるような性質とは、あるいは九州出身の著述家を含めた表現者全般において、ある程度広く認められるのかもしれない。
感覚的ではあるが、そうした、いわゆる露悪的な文章において、前出三者とは、たとえば(九州に出自を持たない)山本七平、大岡昇平、会田雄次、丸山眞男などの類似した内容を持つ文章と比較した場合、その全体的なトーンが異なるのではないだろうか・・?
そして、そこにある程度同意が為されるのであれば、おそらく、その基底にあるものとは、地方、地域独特の口語、文語を含めた言語世界ではないかと思われる。
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した地震により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
2017年4月24日月曜日
20170424 『ハレ』を生じさせる地域の『何か』とは・・?
600記事に到達した後も相変わらず記事投稿を行っている自身に多少嫌気が差し、本日こそは記事作成を行うことを止めようと考えていましたが、習慣というものは大変恐ろしいものであり、またブログ記事の閲覧状況などを見ておりますと、ついつい記事作成をはじめてしまいます・・(苦笑)。
しかし、今現在未だ記事の主題は定まっておりません・・(笑)。
そういえば、ここ最近は首都圏においても日中は比較的温暖な日が続き、こうした陽気になってきますと否応なく関西、九州に在住していた日々を思い起こします・・。
そして、これらの日々において大変懐かしいと思うことは、先ずはじめに週末、温泉に行っていたことであり、これは今現在の自身にとってはまさに贅沢そのものです・・(苦笑)。
さらにもう一つ当時習慣的に行っていたことは、同じく週末の長い散歩であり、おそらくこうした行為が当時の自身の活力の源となっていたのではないかと現在となっては思うところです・・。
しかし、これらの習慣とは、特に自身が見出したものではなく、当時の師匠および講座の先輩の習慣をそのまま継承、継続したものにすぎません・・。
それでも、こうしたいくつかの行為を習慣的に継続することがなければ、2010年秋頃から、急激に不安定な立場となった自身の精神とは、どこかでおかしくなっていたのではないかと思われるのです・・。
また、加えて、それを補填するようなカタチで2011、2012、2013年には嬉しい意味での多忙さがあり、おそらくこれがなければ、本当におかしくなっていたのではないかとも思われます・・。
そして、この当時の出来事およびその記憶がなければ、自身はたとえ、どうにか無事に院を修了できたとしても、その後、どこかで挫け、倒れていたのではないかと思われるのです・・。
とはいえ、こうしたことは全て後知恵であり、科学的根拠といったものはないのですが、おそらくこれを読まれている方々の中にも少なからず、そうした意味を持つ経験およびその記憶といったものが存在するのではないでしょうか・・?
また、そうした経験とは、決して捏造すること、あるいは自身の記憶を改ざんすることにより、そうした価値を無理に与えることが出来るような性質のものではなく、どうも何かの拍子に突如訪れるといった性質があるのではないかと思われるのです・・。
また、当時の自身もそうしたことには多少なりとも気が付いたようであり、どうしたわけか書店の占いに関する書籍のコーナーに足を運んでいた記憶があります・・(苦笑)。
それでも、それら占いの書籍から得た知見は、あまり多いものではなく、現在においても「どうしてああいった出来事が連続して生じたのであろうか・・?」と時折考えてしまうのです・・。
・・おそらくそれらは偶然と云えば偶然なのでしょうが、しかし自身のそれまでの人生において、この時期ほど、そうした出来事が重なることもなかったため、その発現の経路・作用機序とは精確には分からないにしても「あるいは必然であったのかもしれない・・」とも考えさせられるのです・・。
そして、もしそれらが必然であったのだとすれば、そこには多少誇大妄想の気味もありますが、本居宣長が『古事記』読解を行うための土台、基礎となった18世紀後半の伊勢国松坂の地域社会のようなものが存在するのではないかと思われるのです・・。
それ故、自身はたとえ非科学的であると批判されても、やはりそこ(さまざまな地域社会)には、ある程度の期間在住することによって感知し感応し得る『何か』があるのではないかと考えるのです。
そして、おそらく、その『何か』は、人間として顕れるならば、男性よりも女性の姿をとることが多いのではないかと思われます・・特に西日本、九州などの場合・・。
また、そうした女性とは、おそらく女王卑弥呼の時代から現今に至るまで、あまり外見的には(にも)大きく変化をしておらず、近代以降の西洋的な美的基準が浸透した我が国社会においては『特に美しい』といった評価を受けることは必ずしも多くはなく、一見すると、ごく普通にその地域にいるタイプの女性に見えつつも、その発する『何か』によって「ハッ!」と目が見開かせる、あるいは心理学でいうコンステレーションを生じさせるような魂?を持っているのではないかと思われるのです・・。
おそらく、こうした才能?もまた、さきと同様、決してマネ・捏造出来るようなものではないと思われます。
私見ではありますが、それは時と共に移ろいゆく『外見的な美しさ』よりも貴重であるように思われるのです・・。
加えて、自身はこうしたことをある特定の人物を想定し述べているわけではなく、おそらく、そういった方が何人かはいたのではないかと思う一方、それが一体誰であったかとは、今となっては問うても仕方のないことではあるまいかと考えるのです・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた方々、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島周辺において発生した地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
しかし、今現在未だ記事の主題は定まっておりません・・(笑)。
そういえば、ここ最近は首都圏においても日中は比較的温暖な日が続き、こうした陽気になってきますと否応なく関西、九州に在住していた日々を思い起こします・・。
そして、これらの日々において大変懐かしいと思うことは、先ずはじめに週末、温泉に行っていたことであり、これは今現在の自身にとってはまさに贅沢そのものです・・(苦笑)。
さらにもう一つ当時習慣的に行っていたことは、同じく週末の長い散歩であり、おそらくこうした行為が当時の自身の活力の源となっていたのではないかと現在となっては思うところです・・。
しかし、これらの習慣とは、特に自身が見出したものではなく、当時の師匠および講座の先輩の習慣をそのまま継承、継続したものにすぎません・・。
それでも、こうしたいくつかの行為を習慣的に継続することがなければ、2010年秋頃から、急激に不安定な立場となった自身の精神とは、どこかでおかしくなっていたのではないかと思われるのです・・。
また、加えて、それを補填するようなカタチで2011、2012、2013年には嬉しい意味での多忙さがあり、おそらくこれがなければ、本当におかしくなっていたのではないかとも思われます・・。
そして、この当時の出来事およびその記憶がなければ、自身はたとえ、どうにか無事に院を修了できたとしても、その後、どこかで挫け、倒れていたのではないかと思われるのです・・。
とはいえ、こうしたことは全て後知恵であり、科学的根拠といったものはないのですが、おそらくこれを読まれている方々の中にも少なからず、そうした意味を持つ経験およびその記憶といったものが存在するのではないでしょうか・・?
また、そうした経験とは、決して捏造すること、あるいは自身の記憶を改ざんすることにより、そうした価値を無理に与えることが出来るような性質のものではなく、どうも何かの拍子に突如訪れるといった性質があるのではないかと思われるのです・・。
また、当時の自身もそうしたことには多少なりとも気が付いたようであり、どうしたわけか書店の占いに関する書籍のコーナーに足を運んでいた記憶があります・・(苦笑)。
それでも、それら占いの書籍から得た知見は、あまり多いものではなく、現在においても「どうしてああいった出来事が連続して生じたのであろうか・・?」と時折考えてしまうのです・・。
・・おそらくそれらは偶然と云えば偶然なのでしょうが、しかし自身のそれまでの人生において、この時期ほど、そうした出来事が重なることもなかったため、その発現の経路・作用機序とは精確には分からないにしても「あるいは必然であったのかもしれない・・」とも考えさせられるのです・・。
そして、もしそれらが必然であったのだとすれば、そこには多少誇大妄想の気味もありますが、本居宣長が『古事記』読解を行うための土台、基礎となった18世紀後半の伊勢国松坂の地域社会のようなものが存在するのではないかと思われるのです・・。
それ故、自身はたとえ非科学的であると批判されても、やはりそこ(さまざまな地域社会)には、ある程度の期間在住することによって感知し感応し得る『何か』があるのではないかと考えるのです。
そして、おそらく、その『何か』は、人間として顕れるならば、男性よりも女性の姿をとることが多いのではないかと思われます・・特に西日本、九州などの場合・・。
また、そうした女性とは、おそらく女王卑弥呼の時代から現今に至るまで、あまり外見的には(にも)大きく変化をしておらず、近代以降の西洋的な美的基準が浸透した我が国社会においては『特に美しい』といった評価を受けることは必ずしも多くはなく、一見すると、ごく普通にその地域にいるタイプの女性に見えつつも、その発する『何か』によって「ハッ!」と目が見開かせる、あるいは心理学でいうコンステレーションを生じさせるような魂?を持っているのではないかと思われるのです・・。
おそらく、こうした才能?もまた、さきと同様、決してマネ・捏造出来るようなものではないと思われます。
私見ではありますが、それは時と共に移ろいゆく『外見的な美しさ』よりも貴重であるように思われるのです・・。
加えて、自身はこうしたことをある特定の人物を想定し述べているわけではなく、おそらく、そういった方が何人かはいたのではないかと思う一方、それが一体誰であったかとは、今となっては問うても仕方のないことではあるまいかと考えるのです・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた方々、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島周辺において発生した地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
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