本日首都圏も気温が上昇し特に日中はなかなかの暑さでした。
とはいえ、この暑さも和歌山、九州といった西南日本に比べればガマンできるものであり、あるいはその記憶があるからこそ、現在の首都圏の暑さをどうにか普通に過ごすことができているのかもしれません。
しかしながら、そうした個人の記憶とは一体どこまで辿ることができるのでしょうか?
三島由紀夫は「仮面の告白」の中で自身の産湯の経験を述べていますが、ああいった生誕時の記憶とは実際にあるのでしょうか・・?
私の場合はどんなに遡っても三歳くらいのものがウッスラと記憶に残っている程度です・・。
そして、その当時から書籍が好きであったようで児童書をはじめ家の蔵書を色々と手に取って読んでいた、あるいは読むマネをしていたようです・・(笑)。
小学生の頃には歴史マンガ、いくつかの出版社から刊行されている歴史全集、歴史小説などを好んで読んでいた記憶があります・・。
また、小学生の頃、社会科、歴史?の課題で「歴史新聞」といったものを各々作成しておりましたが、私はこれを作成するのが好きで、本当であるかどうかわかりませんが、何人かのご父兄から「面白くよくできている。」との評価を得ていたそうです・・。
中学生の頃は歴史と同時に現代文なども好きになり、いくつかの作文が褒められ、あるいは美術において人物画が褒められた記憶があります。
そういえば、ここまで記していて不図思い出したことは、中学校時代美術部に属し部長であったことです・・(笑)。
今となってはうろ覚えではありますが、確かにそうであった記憶があります。
この中学校は在校時は特に感じることはありませんでしたが、いくつかの先進的な取り組みが為されていたようであり、また現在においては東京都23区にて区立のはじめての中高一貫校として知られているようです・・。
そして、現在になり思い返してみますと、面白い先生が多くいたのではないかと思われます。
その中でも英語の先生は教え方が上手く、その後いくつかの場面にて英語に接することになってもあまり臆することがなかったのは、もしかすると、ここでの経験が根幹にあるのかもしれません・・。
とはいえ、英語で思い起こすのは、やはり大学院在籍時であり、当時は通常の学会発表でもなかなか苦労をして観察画像を撮ったり、試料から抽出した実験データをまとめ、そして原稿らしきものを作成し、さらに予演会にて様々なダメ出しを受け、さらにそこからスライドの修正、原稿の加筆修正を経て、どうにかそれらしきものを作成していました・・。
そして、これが国際学会などの英語での発表ともなりますと、より一層大変であり、師匠のそれを真似したり、類似の研究を行っている海外の研究者の表現を真似したり(コピペではない)して、どうにかスライド、読み上げ原稿を作成していた記憶があります・・(苦笑)。
また、現在は分かりませんが、海外留学の経験がない院生達の国際学会発表にて用いるスライド、読み上げ原稿の作成とは、概ね、さきに述べたような流れで作成されていたのではないかと思われます・・(笑)。
しかし、それだけでしたらまだいいのですが、ここから更に「(英語にて)質疑応答にも対応しなければならない」という大きな難問が待ち受けているのです・・(苦笑)。
おそらく、この難問をどうにか切り抜けるためには、ある程度類似した実験の論文等を読み込み、そして、それとある程度関連付けて自身の研究内容および結果の概要を、読み上げ原稿とは異なった流れで述べることが出来る必要性があるのではないかと思われます・・。
そして、そういったことを何度か経験するうちに「あら不思議!」以前から読んでみたかった英国人作家の小説、英語で記された歴史書等が原書で読めるようになっていることを立ち読みの際に発見するのです・・(笑)。
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本における大地震にて被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
2016年8月3日水曜日
2016年8月2日火曜日
20160802 地域性および抽象思考の積重ね・・★★★
A「昨日記した記事から、もしかしたら私の作成、投稿したブログ記事とは思わぬところで読まれているのではないかという推察が為されますが、それでもそうしたことをあまり気にしないで今後も記事作成を継続しようと思います・・(笑)。
さて、それと同時に最近再び直近に投稿した記事内容に関連する記事が多く読まれていることに気が付かされるようにもなりました・・。
このような感性とは、もしかしたら周り巡っているのでしょうか・・(笑)。
あるいは昨日夜に多少硬い書籍を読んだことによるのでしょうか?
先日記したように最近はあまり硬くない?地域性について書かれた書籍を読んでおりました。
そうしたものを読んでおりますと、今度はもう少しそれら内容についての具体的な事象、来歴、起因等について記された書籍を自然と読んでみたくなります・・。
まあ、概論が大抵理解出来たら各論に行くようなモデルであるのかもしれません・・。
・・いや、こうした表現とは必ずしも適切ではなく、それはある程度歴史の流れを知ったならば、今度はその背景にある各時代の人々が持っていた思想の流れを知りたくなるような、つまり抽象化への指向であるとも言い表すことが出来るのかもしれません・・。
抽象、あるいは抽象化などと書きますと、一般的に具体的でなく、分かり難い、人を言いくるめるような良からぬものといった認識が比較的強くあるのではないかと思われます・・。
しかし同時に、それを適切に行うことにより、実地に沿った的確な推論、思考が為され、そしてそれらを表出、積重ねることにより、精緻な考察を行うことが出来るのではないかとも思われます。
また同時に、これは様々な条件による実験を繰り返し、検討・考察を重ね、ようやく結論に至る理系学問分野における背景思想と親和性があるのではないかとも思われます。
そういえば、山本七平は我々日本人とは、こうした時代毎の推論、思考の表出、積重ねといった作業が苦手であり、時代の区切り毎に新たに仕切りなおすといった習性らしきものがあるといったことを記していました。
こうしたことは、民俗学でいえば古来よりの「ハレ」、「ケ」そして「ケガレ」思想の関係と表現することが出来るのかもしれません・・。
あるいは儒教における「易姓革命」思想、さらにはフレーザーの「金枝篇」に記されている古代印欧語諸族における「殺される王」といった思想とも何かしら関連があるのかもしれません・・。
とはいえ「我々日本人とは、抽象的な思想を加上的に積重ねてゆく作業が苦手であるのではないか?」という、さきの山本七平の意見とは、私自身からしますと、かなり耳が痛く苦渋の肯定を余儀なくさせる何かがあります・・。
しかしながら、一方において我が国とは世界的に見て理系学問分野が強い国であるとも考えますので「では、こうした矛盾ともいえいることは、如何にして生じるのであろうか?」と考えてみますと、どうも上手く言語化することができません・・。
さて、これを読まれた皆様はどのようにお考えになるでしょうか?
また、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月に発生した熊本における大地震によって被災された地域の諸インフラの今後の早期の復旧そして復興を祈念しております。」
さて、それと同時に最近再び直近に投稿した記事内容に関連する記事が多く読まれていることに気が付かされるようにもなりました・・。
このような感性とは、もしかしたら周り巡っているのでしょうか・・(笑)。
あるいは昨日夜に多少硬い書籍を読んだことによるのでしょうか?
先日記したように最近はあまり硬くない?地域性について書かれた書籍を読んでおりました。
そうしたものを読んでおりますと、今度はもう少しそれら内容についての具体的な事象、来歴、起因等について記された書籍を自然と読んでみたくなります・・。
まあ、概論が大抵理解出来たら各論に行くようなモデルであるのかもしれません・・。
・・いや、こうした表現とは必ずしも適切ではなく、それはある程度歴史の流れを知ったならば、今度はその背景にある各時代の人々が持っていた思想の流れを知りたくなるような、つまり抽象化への指向であるとも言い表すことが出来るのかもしれません・・。
抽象、あるいは抽象化などと書きますと、一般的に具体的でなく、分かり難い、人を言いくるめるような良からぬものといった認識が比較的強くあるのではないかと思われます・・。
しかし同時に、それを適切に行うことにより、実地に沿った的確な推論、思考が為され、そしてそれらを表出、積重ねることにより、精緻な考察を行うことが出来るのではないかとも思われます。
また同時に、これは様々な条件による実験を繰り返し、検討・考察を重ね、ようやく結論に至る理系学問分野における背景思想と親和性があるのではないかとも思われます。
そういえば、山本七平は我々日本人とは、こうした時代毎の推論、思考の表出、積重ねといった作業が苦手であり、時代の区切り毎に新たに仕切りなおすといった習性らしきものがあるといったことを記していました。
こうしたことは、民俗学でいえば古来よりの「ハレ」、「ケ」そして「ケガレ」思想の関係と表現することが出来るのかもしれません・・。
あるいは儒教における「易姓革命」思想、さらにはフレーザーの「金枝篇」に記されている古代印欧語諸族における「殺される王」といった思想とも何かしら関連があるのかもしれません・・。
とはいえ「我々日本人とは、抽象的な思想を加上的に積重ねてゆく作業が苦手であるのではないか?」という、さきの山本七平の意見とは、私自身からしますと、かなり耳が痛く苦渋の肯定を余儀なくさせる何かがあります・・。
しかしながら、一方において我が国とは世界的に見て理系学問分野が強い国であるとも考えますので「では、こうした矛盾ともいえいることは、如何にして生じるのであろうか?」と考えてみますと、どうも上手く言語化することができません・・。
さて、これを読まれた皆様はどのようにお考えになるでしょうか?
また、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月に発生した熊本における大地震によって被災された地域の諸インフラの今後の早期の復旧そして復興を祈念しております。」
2016年8月1日月曜日
20160801 なかなか大事なことであるかもしれませんが・・
ここ最近はほとんど見ることのないSNSにて、大分以前に友達申請を行った方から、つい先日友達承認されたことをメールの通知にて知りました。
かつて学部生の頃、いくつかのこの方の講義(そのうちの一つはかなり少人数であった)を受講しました。
この一連の講義にて、それまでかなり敷居が高く、近づき難い印象を持っていた古いフランス映画に関心を持つようになり、その結果ジャン・ルノワール監督の「大いなる幻影」(La Grande Illusion)も観て、印象深い一作として記憶されるようになりました。
それ故、この方もまた師匠の一人であるといえます。
どうもありがとうございます。
また、そのように考えてみますと、あの学部最後の一年とは(闇雲に)様々な講義に出席していたことが思い出されます・・(苦笑)。
そして、その結果として「どうにかにして院に行けないものだろうか・・?」と画策するようになりました・・(苦笑)。
こうした思いを昨年夏に亡くなった私の文系分野での師匠であり且つ近しい親戚に吐露したところ「うん、それは悪くないと思うけれども、とりあえず数年働いてみて、それから考えてみても悪くはないのではないかな・・?」と云われ、その通りにしてみたところ、結果としてやはり院に行くことになりました・・(笑)。
但し、その時進んだ院での専攻分野は、さきの学部生時代に望んだもの【ヨーロッパ文化】ではなく、地域学であり、また、この時の経験とは、その後、様々なところで活かされたように思われます・・。
それに加え、この時得た経験にて大きかったことは「自身が一つの学問分野において、人並み以上の知識、見識を持ち得た!」「何か大きな認識(体系)を掴みかけた!」といった「自信・自覚」ではないかと思われます・・。
現在考えてみますと、これも一つの精神の相転移・相変態であったのかもしれません・・。
また、当時の私にとっても、現在と同様、こうしたことは極めて重要、切実であり、むしろ周囲の方々ななぜ、そこまで簡単に自信を持ち、あるいは自信を持っているかのように振る舞えることが不思議でなりませんでした・・(苦笑)。
こうした傾向とは、現在になり考えてみますと、父権が強い家庭にて育った子供に生じ易いのではないかと思われますが如何でしょうか?
また、不思議なことは、大学院(博士課程をも含む)まで行きますと、自身の周囲にそうした人々が、それ以前に比べ、相対的に多いのではないか?と(強く)感じさせられたことです・・。
おそらく彼ら、彼女等は自然に自信を得ることの困難さが故に、更なる学問、研究といった探求の道に進ませたともいうことが出来るのではないかとも思われますが如何でしょうか?
このように考えてみますと、自己に対する自信、自己肯定感とは一般的に良いものであるとされますが、それが「各々背景の異なる個人」にとって、どの程度の期間・努力により得られるか?とは、大変重要なことでありながら、世間一般からの見方とは、こうしたことに対し、往々にして粗雑な社会的見地、極めて粗い見方、見識しか有していないのではないかと(多々)感じることがあります・・。【加えて、こうした価値観とは地域によって少なからず異なるのではないかと思われる。そして、そのいわば土着の価値観を生じさせる主たる要素は、地域の女性たちの本能的とも云える知性ではないかとも思われる・・。】
あるいは、こうしたことは我が国が太平洋戦争に敗れたことにより、より一層強化されたのではないかとも思われます・・。
そして、ひたすら人をイジル能力、コミュ力(コミュニケーション能力ではない)に長けた人間のみの跳梁跋扈を社会全般にて助長してきたのではないでしょうか・・?
現在の我が国における「反知性主義」の根は思いの他深いように思われます。
そして、これを読まれている皆様はこれをどのようにお考えになるでしょうか?
とはいえ、さきのようなことを嘆いてみても何もはじまりませんので、私の場合、現在はこのようにしてブログ記事を記しているのだともいえます・・(笑)。
そして、今回もここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
加えて、さる四月に発生した九州、熊本での大地震による被災からの諸インフラの早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
かつて学部生の頃、いくつかのこの方の講義(そのうちの一つはかなり少人数であった)を受講しました。
この一連の講義にて、それまでかなり敷居が高く、近づき難い印象を持っていた古いフランス映画に関心を持つようになり、その結果ジャン・ルノワール監督の「大いなる幻影」(La Grande Illusion)も観て、印象深い一作として記憶されるようになりました。
それ故、この方もまた師匠の一人であるといえます。
どうもありがとうございます。
また、そのように考えてみますと、あの学部最後の一年とは(闇雲に)様々な講義に出席していたことが思い出されます・・(苦笑)。
そして、その結果として「どうにかにして院に行けないものだろうか・・?」と画策するようになりました・・(苦笑)。
こうした思いを昨年夏に亡くなった私の文系分野での師匠であり且つ近しい親戚に吐露したところ「うん、それは悪くないと思うけれども、とりあえず数年働いてみて、それから考えてみても悪くはないのではないかな・・?」と云われ、その通りにしてみたところ、結果としてやはり院に行くことになりました・・(笑)。
但し、その時進んだ院での専攻分野は、さきの学部生時代に望んだもの【ヨーロッパ文化】ではなく、地域学であり、また、この時の経験とは、その後、様々なところで活かされたように思われます・・。
それに加え、この時得た経験にて大きかったことは「自身が一つの学問分野において、人並み以上の知識、見識を持ち得た!」「何か大きな認識(体系)を掴みかけた!」といった「自信・自覚」ではないかと思われます・・。
現在考えてみますと、これも一つの精神の相転移・相変態であったのかもしれません・・。
また、当時の私にとっても、現在と同様、こうしたことは極めて重要、切実であり、むしろ周囲の方々ななぜ、そこまで簡単に自信を持ち、あるいは自信を持っているかのように振る舞えることが不思議でなりませんでした・・(苦笑)。
こうした傾向とは、現在になり考えてみますと、父権が強い家庭にて育った子供に生じ易いのではないかと思われますが如何でしょうか?
また、不思議なことは、大学院(博士課程をも含む)まで行きますと、自身の周囲にそうした人々が、それ以前に比べ、相対的に多いのではないか?と(強く)感じさせられたことです・・。
おそらく彼ら、彼女等は自然に自信を得ることの困難さが故に、更なる学問、研究といった探求の道に進ませたともいうことが出来るのではないかとも思われますが如何でしょうか?
このように考えてみますと、自己に対する自信、自己肯定感とは一般的に良いものであるとされますが、それが「各々背景の異なる個人」にとって、どの程度の期間・努力により得られるか?とは、大変重要なことでありながら、世間一般からの見方とは、こうしたことに対し、往々にして粗雑な社会的見地、極めて粗い見方、見識しか有していないのではないかと(多々)感じることがあります・・。【加えて、こうした価値観とは地域によって少なからず異なるのではないかと思われる。そして、そのいわば土着の価値観を生じさせる主たる要素は、地域の女性たちの本能的とも云える知性ではないかとも思われる・・。】
あるいは、こうしたことは我が国が太平洋戦争に敗れたことにより、より一層強化されたのではないかとも思われます・・。
そして、ひたすら人をイジル能力、コミュ力(コミュニケーション能力ではない)に長けた人間のみの跳梁跋扈を社会全般にて助長してきたのではないでしょうか・・?
現在の我が国における「反知性主義」の根は思いの他深いように思われます。
そして、これを読まれている皆様はこれをどのようにお考えになるでしょうか?
とはいえ、さきのようなことを嘆いてみても何もはじまりませんので、私の場合、現在はこのようにしてブログ記事を記しているのだともいえます・・(笑)。
そして、今回もここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
加えて、さる四月に発生した九州、熊本での大地震による被災からの諸インフラの早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
2016年7月31日日曜日
20160731 創造性、意識などについて・・
おかげさまで昨日のブログ閲覧者数も1000人に到達し7月の総閲覧者数もはじめて20000人に到達しました。
どうもありがとうございます。
また、その時々にて読まれている記事の傾向を見ると勉強になることが多く、同時に「今後どのような記事を作成したら面白いだろうか?」といった指針にもなります・・。
とはいいながら、これまでにそれを活かして記事を書いているとは必ずしも言い切れませんが・・(苦笑)。
しかし、それらを見て、無意識のうちに吸収している部分もまた、少なからずあるのではないかとも思います。
また、意識、無意識といえば、現代を生きる我々は、意識をより励起、明瞭化する様々な周辺機器の進化発展により、より(外部の)コトバに捉われ、その精神、心が硬直化してしまい、本来持っていたしなやかさ(?)が失われつつあるのではないかと思われますが如何でしょうか?
あるいはこういうことを「感情の劣化」というのかしれません・・。しかし一方、現在私がこのようにブログ記事を作成、投稿し、それを読んで頂いている方々がいるという状況もまた、さきに述べた様々な周辺機器の進化発展によって支えられています。
・・こうしたことから多少のジレンマも感じないこともありません・・(苦笑)。
しかし、そこで問題となってくることが「では、そこには創造性があるのか?」ということではないでしょうか?
この文脈は一見唐突であると思われる方々がいらっしゃるかもしれませんが、意識を励起、明瞭化する周辺機器を使用することによって創造的なコトが為されていれば、それはあくまでも周辺機器を運用、活用していることとなり、それらに「支配されていない」ということになるのですが、一方、そうした機器の利便性のみを上澄み的に利用しているのであれば、それは時間の経過に伴い、機器に(思考、思想を)支配されるようになり、結果的に創造性をも次第に失ってしまうのではないかと思われます・・。
また、こうしたこと(創造性の有無)の峻別、認識とは、自身の内心(ここが大事であると思います。)により為されると思います。
とはいえ、こうしたテーマとは、かねてより言い古されてきたことではありますが、昨今の我が国においては機器の進化発展ばかりのみ注視されている感がありますので、時にはこうした意見を記しておくこともまた、悪くないものと考えます(笑)。
また、これまでブログ記事を作成、投稿し続けている者が考える、より卑近な意味での【創造性】とは「とりあえず、これまでに書物に書かれたことのない、またネット検索しても検索されない、ある程度内容のある文章を作成すること。」となります・・(笑)。
そういえばハナシは変わりますが、特に男性において、人をいじる能力(いじめっこになれる能力)により組織における序列が決まる組織、社会とは、幼児、青年期程度までは健全と評されても良いのかもしれませんが、それがそのまま大人の社会にまで延長されると、それは持続可能性、発展持続性に乏しく、速やかな衰亡に至ることが多いのではないかと思われます・・。
そして、何よりもこうしたことを何かしらの理系学問、実験等を通じ、より多くの『女性』が真剣に考えるようになると、彼女等のそして後には彼女等の子供達の社会に対する見方、認識も変化が生じ、それに伴い社会が(多少は)良くなってゆくのではないかとも思われますが、さて如何でしょうか?
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
またさる四月の熊本での大地震にて被災された地域における早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
どうもありがとうございます。
また、その時々にて読まれている記事の傾向を見ると勉強になることが多く、同時に「今後どのような記事を作成したら面白いだろうか?」といった指針にもなります・・。
とはいいながら、これまでにそれを活かして記事を書いているとは必ずしも言い切れませんが・・(苦笑)。
しかし、それらを見て、無意識のうちに吸収している部分もまた、少なからずあるのではないかとも思います。
また、意識、無意識といえば、現代を生きる我々は、意識をより励起、明瞭化する様々な周辺機器の進化発展により、より(外部の)コトバに捉われ、その精神、心が硬直化してしまい、本来持っていたしなやかさ(?)が失われつつあるのではないかと思われますが如何でしょうか?
あるいはこういうことを「感情の劣化」というのかしれません・・。しかし一方、現在私がこのようにブログ記事を作成、投稿し、それを読んで頂いている方々がいるという状況もまた、さきに述べた様々な周辺機器の進化発展によって支えられています。
・・こうしたことから多少のジレンマも感じないこともありません・・(苦笑)。
しかし、そこで問題となってくることが「では、そこには創造性があるのか?」ということではないでしょうか?
この文脈は一見唐突であると思われる方々がいらっしゃるかもしれませんが、意識を励起、明瞭化する周辺機器を使用することによって創造的なコトが為されていれば、それはあくまでも周辺機器を運用、活用していることとなり、それらに「支配されていない」ということになるのですが、一方、そうした機器の利便性のみを上澄み的に利用しているのであれば、それは時間の経過に伴い、機器に(思考、思想を)支配されるようになり、結果的に創造性をも次第に失ってしまうのではないかと思われます・・。
また、こうしたこと(創造性の有無)の峻別、認識とは、自身の内心(ここが大事であると思います。)により為されると思います。
とはいえ、こうしたテーマとは、かねてより言い古されてきたことではありますが、昨今の我が国においては機器の進化発展ばかりのみ注視されている感がありますので、時にはこうした意見を記しておくこともまた、悪くないものと考えます(笑)。
また、これまでブログ記事を作成、投稿し続けている者が考える、より卑近な意味での【創造性】とは「とりあえず、これまでに書物に書かれたことのない、またネット検索しても検索されない、ある程度内容のある文章を作成すること。」となります・・(笑)。
そういえばハナシは変わりますが、特に男性において、人をいじる能力(いじめっこになれる能力)により組織における序列が決まる組織、社会とは、幼児、青年期程度までは健全と評されても良いのかもしれませんが、それがそのまま大人の社会にまで延長されると、それは持続可能性、発展持続性に乏しく、速やかな衰亡に至ることが多いのではないかと思われます・・。
そして、何よりもこうしたことを何かしらの理系学問、実験等を通じ、より多くの『女性』が真剣に考えるようになると、彼女等のそして後には彼女等の子供達の社会に対する見方、認識も変化が生じ、それに伴い社会が(多少は)良くなってゆくのではないかとも思われますが、さて如何でしょうか?
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
またさる四月の熊本での大地震にて被災された地域における早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
20160730 地域性について・・
本日は気温が上がり、日中の日差しはなかなかのものであり、梅雨が過ぎて本格的に夏になったことが実感される一日でした・・。
また、このような暑い季節になりますと、私は哲学、思想系などの多少こみいった内容の著作を読むことが(大変)困難になってきます・・(苦笑)。
それ故、少なくとも私にとって、様々な分野の著作とは、それが読み易い季節といったものがあるのではないかと思われるのです。
あるいはこうしたことは、他の方々においても(多少は)当てはまるのではないかと思いますが、如何でしょうか・・?
そして、ここ最近私は我が国の様々な「地域性」について記された著作を読んでおります。
こうしたトピックとは、日常的な話題とも結び付き易いため「科学的な学問、研究としては如何なものであろうか?」といった意見も少なからずあるのではないかと思われます・・。
しかしながら、こうした学問・研究こそ、現在世界各国において傾向、潮流として挙げられている国、地域レベルにおける閉鎖性、凝集性の特徴、メカニズムを認識するために重要ではないかと思われますが如何でしょうか?
また、その分野における一つの著作として挙げられる宮城音弥の「日本人の性格」などは、かなりハナシが具体的であり、また自身の経験とも大きく矛盾することはなく、そのことから、このような著作とは「現在ではむしろ書きにくいのかもしれない・・。」と考えさせられます・・(苦笑)。
私見として、地域性について記された学問的な著作である和辻哲郎著「風土」、梅棹忠夫著「文明の生態史観」などは、主に世界規模でのそれ(地域性)について記したたものであり、そこからさら
に細分化、具体化したものが、さきに示した宮城音弥著「日本人の性格」であると思われます。
そして、この著作からさらに文化人類学的色彩を濃厚にしたものが、岩波書店刊の岡正雄論文集「異人その他・他十二篇」大林太良編ではないでしょうか・・。
この最後に挙げた著作は地域学を専攻していた修士課程在籍に巡り合うことができなく、大変残念ではありましたが、こうした著作からの思索と実際の出土物に基づいて検討考察を行う考古学からの視点を複合、組み合わせることにより、また何かしら面白い発見があるのではないかと思います・・。
また、そうしたことはかねてより民俗学の谷川健一などが行っておりましたが、今後は、そうしたことがより具体的な方法論を以って研究されてゆくのではないかと思われます。
たとえば、出土遺物を試料として各種分析機器によるデータと様々な同時代の史料内容との比較・考察、すり合わせなどです。
しかし、そういったことも考古学の森浩一が既にはじめていたのではないかといったことがここに至り思い出されました・・(苦笑)。
とはいえ、このような文系と理系の学際的な研究とは今後、より発展の余地、可能性があるのではないかと思われますが如何でしょうか?
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月の熊本において発生した大地震で被災された地域における諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
また、このような暑い季節になりますと、私は哲学、思想系などの多少こみいった内容の著作を読むことが(大変)困難になってきます・・(苦笑)。
それ故、少なくとも私にとって、様々な分野の著作とは、それが読み易い季節といったものがあるのではないかと思われるのです。
あるいはこうしたことは、他の方々においても(多少は)当てはまるのではないかと思いますが、如何でしょうか・・?
そして、ここ最近私は我が国の様々な「地域性」について記された著作を読んでおります。
こうしたトピックとは、日常的な話題とも結び付き易いため「科学的な学問、研究としては如何なものであろうか?」といった意見も少なからずあるのではないかと思われます・・。
しかしながら、こうした学問・研究こそ、現在世界各国において傾向、潮流として挙げられている国、地域レベルにおける閉鎖性、凝集性の特徴、メカニズムを認識するために重要ではないかと思われますが如何でしょうか?
また、その分野における一つの著作として挙げられる宮城音弥の「日本人の性格」などは、かなりハナシが具体的であり、また自身の経験とも大きく矛盾することはなく、そのことから、このような著作とは「現在ではむしろ書きにくいのかもしれない・・。」と考えさせられます・・(苦笑)。
私見として、地域性について記された学問的な著作である和辻哲郎著「風土」、梅棹忠夫著「文明の生態史観」などは、主に世界規模でのそれ(地域性)について記したたものであり、そこからさら
に細分化、具体化したものが、さきに示した宮城音弥著「日本人の性格」であると思われます。
そして、この著作からさらに文化人類学的色彩を濃厚にしたものが、岩波書店刊の岡正雄論文集「異人その他・他十二篇」大林太良編ではないでしょうか・・。
この最後に挙げた著作は地域学を専攻していた修士課程在籍に巡り合うことができなく、大変残念ではありましたが、こうした著作からの思索と実際の出土物に基づいて検討考察を行う考古学からの視点を複合、組み合わせることにより、また何かしら面白い発見があるのではないかと思います・・。
また、そうしたことはかねてより民俗学の谷川健一などが行っておりましたが、今後は、そうしたことがより具体的な方法論を以って研究されてゆくのではないかと思われます。
たとえば、出土遺物を試料として各種分析機器によるデータと様々な同時代の史料内容との比較・考察、すり合わせなどです。
しかし、そういったことも考古学の森浩一が既にはじめていたのではないかといったことがここに至り思い出されました・・(苦笑)。
とはいえ、このような文系と理系の学際的な研究とは今後、より発展の余地、可能性があるのではないかと思われますが如何でしょうか?
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月の熊本において発生した大地震で被災された地域における諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年7月30日土曜日
20160729 学問間の交流の重要性について・・
これまでに作成したブログ記事も370を超え、あともう少しで400記事に到達します。
400記事といえば、特に区切りが良いというわけでもありませんので、その次は500記事まで書いてみようと思うかどうか分かりませんが、とりあえず自身の意志と着想の続く限り、途中多少の間があいたとしても、何かしら書き続けてみようと思います。
そういえば、昨日ブログを閲覧してくださった方々は、私が寝入った後、ロシアから閲覧してくださった方々が多く「もしかしたら、これは共有した動画(ウェーバーのオペラ「魔弾の射手」内「狩人の合唱」)の影響によるものなのであろうか?」と思いました。
この男声合唱団とは、ロシア、モスクワにある国立原子力研究大学(以前のモスクワ工科物理研究所)(ほぼ直訳、少し間違っているかもしれませんが、大体こんな感じであると思います・・。)内のクラブであり、合唱も素晴らしく、同時に、指揮をさてれいる女性の躍動感にも感銘を受けました。
また、こうしたスタイルの合唱(しかも歌い手がおそらく皆、理系研究者)というのはなかなか我が国においては見受けることがないと思いますが如何でしょうか・・?
とはいえ、背景文化も異なるため、どちらが上下、良い、悪いとはいえず、これは単に文化の違いを示しているのでしょう。
私がこれまでに見た我が国の理系研究者あるいはそのタマゴたちの多くは、文系の同様の方々に比べ、チームワークに長け、様々な研究、活動をする上において、実に自然に役割分担が決まり整然と行動をしていたように思われます。
これには甚く感心しました・・。
そして、こうした特徴はまた、それが研究に関係のない合唱などであっても、能動的な意志によるものであれば、かなり良い方向に生かされるのではないかと思います。
その点、文系の方々とは、全般的に研究者一人一人の個性が強く、また、そうした環境により、この分野とは、研究が駆動、進展するのではないかと思います。
こうしたことはある種、芸術家などにも通じる何かがあるのかもしれません・・。
しかし一方、我が国の知的風土の風通しを良くするという目的に立ち、理系、文系双方研究者を(基本的に自身が希望する)異種(理系であれば文系、文系であれば理系)研究分野にインターンシップのように、しばらくの間在籍し、そこ(異種研究分野)で研究活動に従事するということは、実際の研究進捗にはあまり寄与することがないかもしれませんが、より長い目、広い視点で見ますと、結果的に彼等・彼女等にとって有益な経験を得ることが出来る蓋然性が高くなるのではないかと思われます・・。
こうした試みは、なかなか面白いと思われますが、如何でしょうか(笑)?
また、ハナシは少し変わりますが、理系、文系では同じ研究者とはいいましても、何といいますか、その背景となる知識、見識の相が異なるためか、発する何かが異なるように思われます・・。
極端にいいますと、種族?が違うような感じを受けることがあります・・。
科学的なハナシではなく恐縮ですが、同時にこうした特徴、性質の相異とは、何かしら存在するのではないかと私は考えております・・(笑)。
そして今後は、それをもっと上手く言語化出来ることを一つの課題とさせていただきます・・。
とはいえ、こうしたことを記していると、不図「では、これまでのブログ記事にて言語化してきた中に、ある程度普遍化することが出来る新しい事柄、知見らしきものはあったのだろうか?」と考えてしまいますが、それは少なくとも今現在の私が判断できることではないように思われます・・(苦笑)。
それ故、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月に発生した熊本における大地震にて被災された地域における諸インフラの出来るだけ早い復旧そして、その後の復興を祈念しております。
400記事といえば、特に区切りが良いというわけでもありませんので、その次は500記事まで書いてみようと思うかどうか分かりませんが、とりあえず自身の意志と着想の続く限り、途中多少の間があいたとしても、何かしら書き続けてみようと思います。
そういえば、昨日ブログを閲覧してくださった方々は、私が寝入った後、ロシアから閲覧してくださった方々が多く「もしかしたら、これは共有した動画(ウェーバーのオペラ「魔弾の射手」内「狩人の合唱」)の影響によるものなのであろうか?」と思いました。
この男声合唱団とは、ロシア、モスクワにある国立原子力研究大学(以前のモスクワ工科物理研究所)(ほぼ直訳、少し間違っているかもしれませんが、大体こんな感じであると思います・・。)内のクラブであり、合唱も素晴らしく、同時に、指揮をさてれいる女性の躍動感にも感銘を受けました。
また、こうしたスタイルの合唱(しかも歌い手がおそらく皆、理系研究者)というのはなかなか我が国においては見受けることがないと思いますが如何でしょうか・・?
とはいえ、背景文化も異なるため、どちらが上下、良い、悪いとはいえず、これは単に文化の違いを示しているのでしょう。
私がこれまでに見た我が国の理系研究者あるいはそのタマゴたちの多くは、文系の同様の方々に比べ、チームワークに長け、様々な研究、活動をする上において、実に自然に役割分担が決まり整然と行動をしていたように思われます。
これには甚く感心しました・・。
そして、こうした特徴はまた、それが研究に関係のない合唱などであっても、能動的な意志によるものであれば、かなり良い方向に生かされるのではないかと思います。
その点、文系の方々とは、全般的に研究者一人一人の個性が強く、また、そうした環境により、この分野とは、研究が駆動、進展するのではないかと思います。
こうしたことはある種、芸術家などにも通じる何かがあるのかもしれません・・。
しかし一方、我が国の知的風土の風通しを良くするという目的に立ち、理系、文系双方研究者を(基本的に自身が希望する)異種(理系であれば文系、文系であれば理系)研究分野にインターンシップのように、しばらくの間在籍し、そこ(異種研究分野)で研究活動に従事するということは、実際の研究進捗にはあまり寄与することがないかもしれませんが、より長い目、広い視点で見ますと、結果的に彼等・彼女等にとって有益な経験を得ることが出来る蓋然性が高くなるのではないかと思われます・・。
こうした試みは、なかなか面白いと思われますが、如何でしょうか(笑)?
また、ハナシは少し変わりますが、理系、文系では同じ研究者とはいいましても、何といいますか、その背景となる知識、見識の相が異なるためか、発する何かが異なるように思われます・・。
極端にいいますと、種族?が違うような感じを受けることがあります・・。
科学的なハナシではなく恐縮ですが、同時にこうした特徴、性質の相異とは、何かしら存在するのではないかと私は考えております・・(笑)。
そして今後は、それをもっと上手く言語化出来ることを一つの課題とさせていただきます・・。
とはいえ、こうしたことを記していると、不図「では、これまでのブログ記事にて言語化してきた中に、ある程度普遍化することが出来る新しい事柄、知見らしきものはあったのだろうか?」と考えてしまいますが、それは少なくとも今現在の私が判断できることではないように思われます・・(苦笑)。
それ故、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月に発生した熊本における大地震にて被災された地域における諸インフラの出来るだけ早い復旧そして、その後の復興を祈念しております。
2016年7月29日金曜日
20160728 数値による評価と創造性・・原理からの理解により発生する「何か」
本日も少し帰宅が遅くなり、またブログ記事の作成を躊躇しておりましたが、それでもやはり何かしら書いておかないと思い、本日分の記事を書きはじめた次第です。
また、相変わらず現在の状態においては、特にこれといった着想、アイデアがあるわけではありません・・。
そういえば、昨日投稿したブログ記事において「各々のブログ記事の面白さを決めるものは、その閲覧者数であることは、大きな間違いではないかもしれないが、同時にそれが精確な事実を言い当てているかどうかは不明である。」といったことを記しました。
そして、こうしたことは、様々なことについていえるのではないかと思われますが、同時に現在の世界規模での思想的潮流において「数値化出来る事実のみが明晰な考えとして許容できる事実である。」といった風潮が強いように思われます・・。
これは世の中全体がある意味で理系化しているということなのでしょうか・・?
しかし、同時に本当の理系学問分野のスゴイ方々からよく聞かれる意見として「あまり効果が望めない(金にならない)基礎研究にこそ、もっと力を注ぐべきだ。」といったものがあります。
私はスゴイ理系の人間ではなく、そもそも理系の人間であるかどうかもかなり怪しいのではありますが(苦笑)、それでも、この意見とは、決して付和雷同あるいは知的虚栄心からでなく、あるいはまた、その背後の理屈は多少異なる可能性もありますが、自身の実感、経験に基づき賛成します。
我々日本人はかねてより、その物真似、吸収といった受容的才能に富んだ国民であると各国より評され、また、それは我々自身が認識する強い此岸性、実際的傾向と強い親和性があるものと云えます。
こうした性質とは、国全体の経済面での見通しが明るくなく、またこの先の更なる低迷もまた予測される現在および今後の状況においては、ますます増強・促進してゆくのではないかと思います・・。
その結果として、さきに述べたような実際的でない(無駄・コスパが悪い)と考えられる基礎研究などに費用を投じることは無駄なことではないかと考えるのが自然になってゆくのではないかと思われます・・。
しかしながら、これまでで一言も触れていなかったものが「創造性」です。
創造性とは、乏しい私の経験から述べさせて頂きますと、どのような分野であれ、一見無駄とも評することが出来る行為の積重ね、蓄積を通じて知覚、体得された、ある物事、事柄に対する原理からの理解により発生する「何か」ではないかと思われます・・。
そして、出来るならば、こうした創造性を持った(特に若い)人々が多くいた方が、その国における未来には好ましいのではないと思われますが、もしかすると現今の我々の状況とは、そうした若い方々を食いものにしている部分もまた少なからずあるのではないかと考えさせられます・・・・。
あたかも太平洋戦争後期、末期の我が国のように・・・。
あまり、いや決して認めたくはありませんが、もしかすると我々とは、たとえ無意識にではあったとしても、こうした傾向を精神のどこかに秘めているのではないでしょうか・・?
そして、ここまで記していますと、不図、以前抜粋引用した北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.284ー294からの内容を想起しました・・・。
以下「」抜粋引用部です。
「トーマス・マンは詩人を定義して、自分自身のことだけを述べてそれがそのまま全世界を述べていることになる人のことだ、という意味のことを書いているが、同じように、元来個人的な、閉ざされたものである「夢」を解きはなち、普遍性、社会性を付与したものが芸術であるといってもよいだろう。マンの名前がでたついでに、この辺で固苦しい話からはなれて、ジイドが比べるものがないと呼んだ彼の長編「魔の山」をひもどいてみることにする。
また、相変わらず現在の状態においては、特にこれといった着想、アイデアがあるわけではありません・・。
そういえば、昨日投稿したブログ記事において「各々のブログ記事の面白さを決めるものは、その閲覧者数であることは、大きな間違いではないかもしれないが、同時にそれが精確な事実を言い当てているかどうかは不明である。」といったことを記しました。
そして、こうしたことは、様々なことについていえるのではないかと思われますが、同時に現在の世界規模での思想的潮流において「数値化出来る事実のみが明晰な考えとして許容できる事実である。」といった風潮が強いように思われます・・。
これは世の中全体がある意味で理系化しているということなのでしょうか・・?
しかし、同時に本当の理系学問分野のスゴイ方々からよく聞かれる意見として「あまり効果が望めない(金にならない)基礎研究にこそ、もっと力を注ぐべきだ。」といったものがあります。
私はスゴイ理系の人間ではなく、そもそも理系の人間であるかどうかもかなり怪しいのではありますが(苦笑)、それでも、この意見とは、決して付和雷同あるいは知的虚栄心からでなく、あるいはまた、その背後の理屈は多少異なる可能性もありますが、自身の実感、経験に基づき賛成します。
我々日本人はかねてより、その物真似、吸収といった受容的才能に富んだ国民であると各国より評され、また、それは我々自身が認識する強い此岸性、実際的傾向と強い親和性があるものと云えます。
こうした性質とは、国全体の経済面での見通しが明るくなく、またこの先の更なる低迷もまた予測される現在および今後の状況においては、ますます増強・促進してゆくのではないかと思います・・。
その結果として、さきに述べたような実際的でない(無駄・コスパが悪い)と考えられる基礎研究などに費用を投じることは無駄なことではないかと考えるのが自然になってゆくのではないかと思われます・・。
しかしながら、これまでで一言も触れていなかったものが「創造性」です。
創造性とは、乏しい私の経験から述べさせて頂きますと、どのような分野であれ、一見無駄とも評することが出来る行為の積重ね、蓄積を通じて知覚、体得された、ある物事、事柄に対する原理からの理解により発生する「何か」ではないかと思われます・・。
そして、出来るならば、こうした創造性を持った(特に若い)人々が多くいた方が、その国における未来には好ましいのではないと思われますが、もしかすると現今の我々の状況とは、そうした若い方々を食いものにしている部分もまた少なからずあるのではないかと考えさせられます・・・・。
あたかも太平洋戦争後期、末期の我が国のように・・・。
あまり、いや決して認めたくはありませんが、もしかすると我々とは、たとえ無意識にではあったとしても、こうした傾向を精神のどこかに秘めているのではないでしょうか・・?
そして、ここまで記していますと、不図、以前抜粋引用した北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.284ー294からの内容を想起しました・・・。
以下「」抜粋引用部です。
「トーマス・マンは詩人を定義して、自分自身のことだけを述べてそれがそのまま全世界を述べていることになる人のことだ、という意味のことを書いているが、同じように、元来個人的な、閉ざされたものである「夢」を解きはなち、普遍性、社会性を付与したものが芸術であるといってもよいだろう。マンの名前がでたついでに、この辺で固苦しい話からはなれて、ジイドが比べるものがないと呼んだ彼の長編「魔の山」をひもどいてみることにする。
対立した教育者たちは、この青年をそれぞれの自分の陣にひきいれようとする。
だがあるときカストルプは吹雪に迷い、雪のなかで美しくも怖ろしい夢を見た。はじめ彼の前には、明るい霧雨のヴェールの下から、深い紺青の南海があらわれる。
海浜の砂地の上では美しい太陽の子らが、楽しげに子どもっぽい、同時に品位にみちてつつましく、馬に乗ったり弓をひいたりして遊んでいる。それは見ていても胸がふくらみ温かくなるような光景だった。
だがやがてカストルプは背後の神殿で行われているむごたらしい饗宴にも気づく。
そこでは魔女のような老婆が白髪を乱し半裸体で、野蛮な落着いた様子で嬰児を裂いて食べている。
彼はもろい骨が老婆の口の中でくだける音を聞き、醜悪な唇から血がしたたるのを見た。
そこで彼は目ざめるが、それらの光景をどこかで知っているような気がする。
「僕は一体どこで見たことがあったのだろう?
「僕は一体どこで見たことがあったのだろう?
誰も自分の心だけで夢を生むのじゃなくて、めいめい思い思いの見様はしても、本当は無名で共同で夢を見るのではなかろうか。
ある大きな塊があり、それが僕という一小部分を通して、僕は僕なりに、いつもその魂がひそかに夢見ている事柄を夢見るのだろう」。
そしてカストルプは人間の地位と本領を考え、はっきりと彼の「陣」をとる。
「僕は人間の地位を夢に見、また人間の礼儀正しい聡明な恭謙な社会を夢に見た。
その後ろの神殿では凄惨な血の饗宴が行われていることをひそかに考えているから、太陽の子らはあのように礼儀正しく麗しくいたわりあうのだろうか?」
「死の冒険は生のなかにあって、それがなかったら生は生でなくなるだろう。
そしてその真中、冒険と理性との中間こそ人間の位置すべき場所である。
その真中の位置にあって、人間は上品にやさしくうやうやしく自己を遇さねばならない。
なぜなら人間だけが尊いのであって、対立する考え方が尊いのではないからだ。
対立しあう考え方も人間があってこそ存在するのだ。
だから人間はどんな対立よりも尊いのだ。人間は死よりも尊く、死に耽溺するには尊すぎる。
知性の自由を持つからだ。
また人間は生よりも尊く、生に耽溺してしまうには尊すぎる。心に敬虔な気持をもつからだ。
なんだこれは詩のようだぞ。
人間についての夢の詩のようだ。僕はこれを覚えておこう」。
その通り、忘れさられたように見えたこの夢は、彼の魂の底ではずっと生きつづけていた。だから彼は「大きな無感覚」から目覚め、魔の山をくだるようになるのである。」
さて、何かしら関連性はあるのでしょうか?
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月に発生した大地震によって被災された九州、熊本地域の早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
さて、何かしら関連性はあるのでしょうか?
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月に発生した大地震によって被災された九州、熊本地域の早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
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