ここ最近はほとんど見ることのないSNSにて、大分以前に友達申請を行った方から、つい先日友達承認されたことをメールの通知にて知りました。
かつて学部生の頃、いくつかのこの方の講義(そのうちの一つはかなり少人数であった)を受講しました。
この一連の講義にて、それまでかなり敷居が高く、近づき難い印象を持っていた古いフランス映画に関心を持つようになり、その結果ジャン・ルノワール監督の「大いなる幻影」(La Grande Illusion)も観て、印象深い一作として記憶されるようになりました。
それ故、この方もまた師匠の一人であるといえます。
どうもありがとうございます。
また、そのように考えてみますと、あの学部最後の一年とは(闇雲に)様々な講義に出席していたことが思い出されます・・(苦笑)。
そして、その結果として「どうにかにして院に行けないものだろうか・・?」と画策するようになりました・・(苦笑)。
こうした思いを昨年夏に亡くなった私の文系分野での師匠であり且つ近しい親戚に吐露したところ「うん、それは悪くないと思うけれども、とりあえず数年働いてみて、それから考えてみても悪くはないのではないかな・・?」と云われ、その通りにしてみたところ、結果としてやはり院に行くことになりました・・(笑)。
但し、その時進んだ院での専攻分野は、さきの学部生時代に望んだもの【ヨーロッパ文化】ではなく、地域学であり、また、この時の経験とは、その後、様々なところで活かされたように思われます・・。
それに加え、この時得た経験にて大きかったことは「自身が一つの学問分野において、人並み以上の知識、見識を持ち得た!」「何か大きな認識(体系)を掴みかけた!」といった「自信・自覚」ではないかと思われます・・。
現在考えてみますと、これも一つの精神の相転移・相変態であったのかもしれません・・。
また、当時の私にとっても、現在と同様、こうしたことは極めて重要、切実であり、むしろ周囲の方々ななぜ、そこまで簡単に自信を持ち、あるいは自信を持っているかのように振る舞えることが不思議でなりませんでした・・(苦笑)。
こうした傾向とは、現在になり考えてみますと、父権が強い家庭にて育った子供に生じ易いのではないかと思われますが如何でしょうか?
また、不思議なことは、大学院(博士課程をも含む)まで行きますと、自身の周囲にそうした人々が、それ以前に比べ、相対的に多いのではないか?と(強く)感じさせられたことです・・。
おそらく彼ら、彼女等は自然に自信を得ることの困難さが故に、更なる学問、研究といった探求の道に進ませたともいうことが出来るのではないかとも思われますが如何でしょうか?
このように考えてみますと、自己に対する自信、自己肯定感とは一般的に良いものであるとされますが、それが「各々背景の異なる個人」にとって、どの程度の期間・努力により得られるか?とは、大変重要なことでありながら、世間一般からの見方とは、こうしたことに対し、往々にして粗雑な社会的見地、極めて粗い見方、見識しか有していないのではないかと(多々)感じることがあります・・。【加えて、こうした価値観とは地域によって少なからず異なるのではないかと思われる。そして、そのいわば土着の価値観を生じさせる主たる要素は、地域の女性たちの本能的とも云える知性ではないかとも思われる・・。】
あるいは、こうしたことは我が国が太平洋戦争に敗れたことにより、より一層強化されたのではないかとも思われます・・。
そして、ひたすら人をイジル能力、コミュ力(コミュニケーション能力ではない)に長けた人間のみの跳梁跋扈を社会全般にて助長してきたのではないでしょうか・・?
現在の我が国における「反知性主義」の根は思いの他深いように思われます。
そして、これを読まれている皆様はこれをどのようにお考えになるでしょうか?
とはいえ、さきのようなことを嘆いてみても何もはじまりませんので、私の場合、現在はこのようにしてブログ記事を記しているのだともいえます・・(笑)。
そして、今回もここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
加えて、さる四月に発生した九州、熊本での大地震による被災からの諸インフラの早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
0 件のコメント:
コメントを投稿