2016年2月16日火曜日

Shuichi-Kato [A History of Japanese Literature] The First Thousand Years Vol.1 Kodansha international pp.91-92 20160216

The second spanning the establishment of Kyoto as capital in 794 and the discontinuation of the embassies to Tang China in 894 was a period in which imported Chinese civilization was gradually digested and submitted to a native transformation.

The results of this process had decisive significance in shaping the subsequent development Japanese culture and civilization.

Of the patterns and tendencies which emerged in the ninth century in such fields as politics, economics, society, language and aesthetics, some were preserved to the end of the Heian period, others survived to beginning or end of the Tokugawa period and some, particularly in the nature of politics and written and spoken Japanese language, are still making their presence felt today.


It is true that we can trace back the origins of the basis of the world view adopted by Japanese culture in succeeding centuries to the Nara period, but within that frame work most of the concrete manifestations of what is generally termed cultural tradition can be traced back to the ninth century only and no further.

In other words, the history of Japanese culture can be broadly divided into two-the first being the period up to the end of the Nara period, and the second from the ninth century to the present day.
The ninth century itself marks a turning point.


Looked at from a purely anthropological viewpoint, the ninth century was of no particular significance in the development of the Japanese race.

If one considers it in terms of the development from the settled agricultural society of the Yayoi period (c. 200 B.C-A.D.200) to today’s industrial society, the ninth century was not a watershed which has enormous significance.

Perhaps one of the most typical examples of the importance of the ninth century as a turning point can be seen in terms of the Japanese language.

As scholars of ancient kana-zukai (the use of the kana syllabary) such as, HashimotoShinkichi(1882-1945) have shown, the sound system of the Japanese language of the Nara period (in the Yamato region) had eight distinct vowel sounds and consonants which in some respects differ from those of today.

It was during the ninth century that the vowels were cut to the present day five and the consonants changed to approximate more closely those of today.

In other words the ninth century marks a period of substantial change and a turning point.

The ninth century also represents the period in which there was a transformation of the Japanese writing system, for it was during this time that the kana system was devised and became increasingly used in preference to the phonetically based mana system of the Nara period.

This invention of course led to the use of kana-majiri (mixed kana and Chinese characters) in the writing of literature, and although an obvious point, it is worth nothing that the writing system used in today’s newspaper fundamentally differed from that of that of the Manyoshu while the difference from that of the kokinshu, compiled in 905, is much less marked.

[A History of Japanese Literature]


  • ISBN-10: 4770029349
  • ISBN-13: 978-4770029348

  • Shuichi-kato



    2016年2月15日月曜日

    中島岳志編「橋川文三セレクション」岩波書店刊pp.51-55より抜粋20160215

    西南戦争についての一般の歴史的評価はここでくりかえさない。要するにそれは維新後における封建反動の極北を意味する大動乱であり、その終熄によって、初めて一切の封建復
    の可能性がその根を断たれたものとされている。
    このような解釈について、私は特別な異議申し立てようとは思わない。
    後述のように北一輝でさえ、それと同じ意味をこの内乱に認めている。遠山茂樹氏によれば、ここにおいて「明治維新の主体勢力であった倒幕派の政治的生命が終末し」し、明治の「絶対主義」が不動の基礎の上に打ちたてられることになるし、また井上清氏によれば、この乱における西郷の立場は、以下のように要約されることになる。
    「西郷隆盛個人は、反動ではなく、ブルジョア的改革の必要もよく承知していた。
    しかし彼は、多年生死をともにし、その力に頼って幕府を倒した士族大衆を、いまになって見すてることは絶対にできなかった。彼は叛乱が成功するとは思っていなかったであろう。しかもあえてじぶんの生命を彼をしたう士族大衆に与えたのである。
    大西郷の徳望と薩摩士族の勇猛を以ってしても、歴史の進歩にさからうものは、ほろび去るほかなかった。」
    (「日本の歴史」中)
    遠山氏のような見方が多分もっともオーソドックスな見解であり、西郷はそのまま倒幕派士族大衆の封建反動を象徴する人物と等置されることになる。

    井上氏の見解は士族大衆の封建反動という歴史的カテゴリイと、西郷個人とを切りはなしているところに微妙な含みが見られるが、その西郷個人についての見解がまだ井上氏からは述べられていないために、事情がやや曖昧である。

    率直に私の感想を述べるならば、歴史学者としての井上氏の立場からすれば、西南戦争は到底、「歴史の進歩にさからう」反動以外のものではありえず、そのシンボルとしての西郷もまた、歴史的人間として見るかぎり、たんに亡び去るにふさわしい過去の人物というほかはないはずであった。

    にもかかわらず、井上氏は、人間としての西郷に(ちょうどノーマンの嫌悪感とは逆に)、なんらかの愛着を禁じえないのではないだろうか。
    もしそうであるとすれば、私はいっそう井上氏の西郷論を聞きたいものと思う。
    それはともあれ、私の個人的な記憶をたどって見ると、西南戦争のイメージが私の中で大きく変わった契機が、やはり遠山氏の「明治維新」によってであった。
    つまり、それまでこの内乱のイメージは、錦画風の英雄挫折物語としてしか私の中にはなかったのだが、それがはじめて学問的な照明の下に浮び上がってきたという意味である。
    しかし、それだけではない。私がとくに遠山氏の著をあげたのは、実はその歴史分析の講座派的なみごとさに感心したというよりも、その西南戦争の記述の中に、私は呆然とさせるような小さなエピソードが挿まれていたからである。
    そしてそれが私の中の西南戦争のイメージときりはなせないものとなっているということがある。同書三三三頁に次のような箇所がある-
    (「此時に当り、反するも誅せらる」との窮地に追い込まれた西郷は、ついに二月、逸る部下に擁されて挙兵した。
    西郷起つの報は、自由民権派に大きなショックを与えた。熊本民権派は、ルソーの民約論を泣き読みつつ、剣を取って薩軍に投じた。)(傍点、引用者)
    この傍点部分今なお私を考えさせる。

    もちろん、西南戦争に流入したエネルギーの多様さと雑多さということを私もまた知らないわけではない。
     にもかかわらず、この内乱がルソーの名と結びつく意味をもったということは、いくらそこから非本質的な要素をとりのぞいたとしても、やはり私には刺激的なことがらであった。
    宮崎八郎の思想と経歴については、荒木精之の評伝「宮崎八郎」、この評伝を連載した「祖国」の宮崎兄弟特集号(昭和二十九年五月号)などのほか、私は知るところが少ないが、ここでは宮崎八郎その人が問題ではない。

    先にも言ったように、一般に最後の封建反動とされる西南戦争が、その参加者のあるものにおいては、ルソーの名において戦われたということをどう考えるというのが私の問題である。この事実を、事実として例外的な些事にすぎない、もしくは単純なナンセンスにすぎないとして無視するならば話はかんたんである。
    事実、当時の青年たちが、ミルにしろ、スペンサーにしろ、どんなに自己流に読んでいたかは知れたものではないと疑うとしても、そこには、幾分の理由がなくもないからである。しかし、もしそうでなかったとしたらどうなるか?
    宮崎八郎に限らず、民権派の青年で西南戦争に参加したものたちこそ、ルソーを正当に読んだとしたならどういうことになるか?
    ISBN-10: 4006002572
    ISBN-13: 978-4006002572

    『正調 田原坂』


    2016年2月14日日曜日

    中島岳志編「橋川文三セレクション」岩波書店刊pp.46-51より抜粋20160214

    維新における西郷の役割を余さず書くことは、維新史の全体を書くこととなるであろう。ある意味において、明治元年の日本の維新は西郷の維新であったといいうると思う。」これはよく知られているように、内村鑑三がその西郷論(「代表的日本人」所収)において記した文章の一節である。
    内村はその西郷論のサブタイトルを「新日本の建設者」としているが、おそらく汗牛充棟もただならぬ西郷論のうち、もっとも熱烈純粋な賛美をささげたものが内村のこの文章だろう。そこに描かれている西郷は、あたかも「天」の啓示をうけた「聖人哲人」のごとき存在であり、ほとんど、「クロムウェル的の偉大」をそなえた霊感的な人物であった。そしてまた、「日本人のうちにて、もっとも幅広きもっとも進歩的なる人」でさえあった。
    すべてそのような頌示を、内村はその素朴雄渾な文章に綴っているのであるが、おそらくこのよに単純明快な熱烈さをもって西郷を語ること自体、あたかも西郷のような人物が現在では見られなくなったのと同じように、今では失われてしまった一時代の精神の姿を記念することがらかもしれない。(これが書かれたのは明治27年のことである。)
    しかし、西郷に対するこのような無条件の賛美ということは、おそらく現代の良識にとって、多大の抵抗感なしには到底容認しがたいことがらであろう。なぜならば、たとえば以下のような脈絡において西郷の歴史的な位置づけを行うことは、ほとんど一種の通念となっているからである。
    「征韓論争は、日本歴史における一つの大きな山をなすものである。この論争による明治6年の政府の分裂、ひいては西郷、板垣、副島、江藤ら多数官吏の辞職にひきつづいて、士族の反乱は散発的ではあったが、またも激烈となった。
    かくて主戦派の敗退の直接の帰結としてその直後の2年間には武装叛乱がいくたびか組織された。かように征韓論は結局内乱と西郷の死と膨張論者の一時的敗北に終ったが、しかし、この敗退にもかかわらず、外征の主張はその後永年のあいだ日本の極右反対派の採用するところとなった、西郷とその側近者の失敗から教訓を得た次代の膨張論者、たとえば福岡玄洋社の創立者らは反抗の新たな技術を完成し、侵略宣伝を高度化し、ついに西郷の死後20年にして膨張政策の目標を達成せしめることになった。」
    このような見解-すなわち、西郷がもっぱらその後の日本の大陸侵略思想をインスパイアした最大の源流であり、同時にまた右翼的ファナチシズムの模範でもあったとする見方は、一般に西欧の日本研究者にとっては自明のことがらのようである。たとえば、オクスフォードのリチャード・ストーリイ氏もまた次のように書いている。
    「西郷の武力によるプロテストは、もちろん彼自身の見地からすれば、決して反乱というべきものではなかった。
    彼は天皇の意志に背こうとしたのではなかった。
    なぜなら天皇は君側の奸によってその聖明を蔽われているのだから、西郷はかれらを権力の座から一掃しようとしたにすぎない。
    こうした精神的態度は、日本古来の起源をもつものであるが、あらゆる極右国家主義者に共有のものであり、おびただしいテロ行為を自ら正当化する理由を提供したものである。・・西郷の反乱はある意味では日本の封建勢力の最後の抵抗であったが、しかしそれが極端なウルトラ・ナショナリズムの理念によってひきおこされたというかぎりでは、それは今なお黒い影をはるかな未来にまでなげているのである。」
    すなわち、ここでは、おそらく国学者の一派によっていだかれた神国思想にもとづく膨張主義と、封建的ファナチシズムとのもっとも純粋な結合形態が西郷隆盛であるとされており、したがってその影響力は、先のノーマン氏の引用にあるようなプロセスをたどって、日本の超国家主義にもっとも純粋強力な作用を及ぼしえたと考えられているのである。
    こういう解釈にしたがうかぎり、西郷に対する生理的嫌悪感のごときものさえいだかれるとしても不思議はないかもしれない。ノーマン氏のような純正な歴史家が、西郷の中にある忌まわしい原始的な要素-男色趣味をともなう未開性のごときものを感じとっていることも(幾分その後のファシストたちのイメージの遡及的投射という気味がなくもないが)それなりに理解しがたいことではないであろう。
    ここでは、問題を浮き上がらせるために、西欧の歴史家の見解だけを引用したが、それが日本の近代史家たちの影響を多分にうけたものであることは、想像にかたくないはずである。日本の近代史家たちも、さすがにノーマン氏やストーリイ氏のように、西郷を直ちにファシスト的アウトローズの原型とみなすほど単純でないにせよ、西郷をもって近代日本のコースを反動的に逆転せしめようとした人物とする点においては、おおむね一致しているとみてよいであろう。
    少なくとも、それ以外に、征韓論、西南戦争のシンボルとしての西郷を統一的に理解する視座はありえないとするのが一般かもしれない。
    西郷に対する歴史家の冷淡さには、上述のようなファシスト的大陸侵略派の源流というイメージのほかに、もう一つの根拠がある。それはかんたんにいえば、彼が大久保利通や木戸孝允、伊藤博文や山県有朋に比べて、近代日本の造成にほとんどなんらの貢献も果たしていないではないかという評価である。なるほど、倒幕の軍事行動において西郷はかなりの役割を果たした。しかし。それさえも大村益次郎の指導力に比べればいくらか曖昧であるし、とくにその政治的能力にいたっては、ほとんど問題にもならないという見解がそれである。
    この場合には、西郷は反動と侵略のシンボルとしてではなく、まさに近代的な思考力と知識の欠乏という点から軽んじられるのである。そしてそのことは、その当時の同僚たちもまた、折りにふれて言及したところであった。
    「・・今日、西郷、桐野、篠原ら、官位剥奪の御沙汰あり、余人はともあれ、西郷は十二年前の知人にて、爾後同氏の国家に尽くせしもの少なからず。
    忠実寡欲、ことにのぞみて果断あり、ただ短なるものは、当時の形勢に暗く、大体を見るに能わずして疑惑その間に生じ、一朝の憤怒を以ってその身を亡ぼし、その名を損う。実に歎惜にたえず、人世の大遺憾なり云々」
    (「木戸孝允日記」)
    「・・・余人らはここにいたりて頗る西郷を疑えり。彼はよし維新の元勲として威権赫々と世人の瞻仰を受くるに至り、余らもまた尊敬しつつありといえども、その政治上の能力は果たして充分たりや否やという点につきては、頗るこれ疑えり。不幸にしてその疑念は一転して失望となれり。失望はさらに一転して苦心と変じたり。云々」
    (「大隈伯昔日譚」)
    この後者の批評は、岩倉使節団の外遊中、留守内閣をあずかった西郷の政治的無能を述べたものだろう。後年になっても大隈は「西郷も骨を故山に埋めてすでに三十年、とうとう歴史上の大英雄、大豪傑となってしまった。あえて誹謗するのではないが、わが輩は決してそうは思わんのである」(「大隈伯百話」)
    となかなか辛辣であるが、その大隈もまた、西郷の純情と忠誠心だけはこれを認めているのである。
    要するに、木戸によれば西郷は大局の情勢を洞察するには余りに封建的な地方主義に偏局しており、大隈によれば近代的な政治・行政上の実務能力をまったく欠いていた。
    そして保守的な旧武士と階級によって、わけもなく鑚仰されるだけの厄介な存在であった。
    すなわち、内村鑑三ならばそこに天資の魂の素朴さと純真さとを見たであろうところに、当時の俊秀な政府官僚たちは、たんに無能さを見ただけであった。
    いいかえれば西郷は、近代国家とは何か、その操縦法はいかなるものかについてなんらの理解をもたなかったし、一般に当時の政治指導の主流をなしていた「文明開化」の必要に対して音痴であるとみなされていたわけである。功績主義の見地からすれば、西郷は無意味・有害な西南戦争をしでかしただけであり、せいぜい維新変革の当然に予定しなければならない近代化のコースを阻止しようとした純情な夢想家だったということになる。
    ISBN-10: 4006002572
    ISBN-13: 978-4006002572




    20160214  昨今の社会における不祥事について

    A「最近はどうも閣僚、国会議員の不祥事による辞任、かつての野球スター選手の逮捕など、どうも社会全体が慌しいですね・・。
    そして、これらの事件は何故この時期に集中しているのでしょうか?」


    B「・・さあ、それは何故かわかりません。
    しかし、それらを扱った報道、情報番組での取り扱いを動画サイトで見ますと、出演されている方々にあまり変わった意見もなく、また、おためごかし的、あるいは「騙された!」といった発言が多く見られ、あまり良い気分はしませんでした・・。」


    A「ああ、それは私も同感ですね、しかしテレビといった芸能業界とは昔からそのような不祥事がつきものですから、彼等がどんなに声高にそういった主張をしてみても、どうも観ている一般の我々からすると空々しく観えてしまうのではないでしょうかね?
    それよりも私は一連の事件について見聞きしますと「魏志倭人伝」に記されている「持衰」あるいはフレーザーの「金枝篇」における「殺される王」の記述を想起してしまいますね・・(苦笑)。
    そしてそういった一連のマツリを催しているのがテレビなどのマスメディアなのでしょうが、現今のネット社会の進化、発展により相対的に彼等(マスメディア)は自らの影響力の衰えを感じ、それでこうした一連のマツリ、事件を催しているようにも見えるのですが。」


    B「・・はあ、それはかなり穿った見方ですが、たしかに一理あるかもしれませんね。
    果たして彼等は何をもってそれらの事件を大ニュース(であるかのよう)に仕立てるのでしょうか?
    また、現今のテレビをはじめとするマスメディアがインターネット上の様々なコンテンツにより圧迫を受け、その反応として一連の事件が大々的に取上げられるというのは、読者、視聴者が、より強い刺激を求めているという彼等側の架空の命題に応じる姿勢によるものではないかとも考えさせられますね・・。」


    A「ええ、以前の彼等以外の情報発信媒体が存在しない時代においては、彼等はまさに「向かうところ敵なし」の状態であったのでしょうが、現在は海外メディアのサイト、あるいは国内メディアとは異なるものの、たしかな情報源となり得るような存在が独自で広く情報を発信することが出来る仕組みが存在しますからね・・。
    そういった意味において現在の国内メディアとはある意味ジリ貧の状態なのではないでしょうか?
    加えてテレビの報道、情報番組に出演されている多くの芸能人の方々の発言を聞いていても、インターネットなどで情報を得ている我々一般の人間とあまり変わりないような感じを強く受けますので、こうしたことからも、やはり何といいますか現在のテレビ業界をはじめとするマスメディア全般とは困難な状態に置かれているのかもしれません・・。」


    B「はあ、なるほど・・そして今のお話を聞いて不図思ったのですが、現在のテレビ番組に出演されている方々は、その番組が動画サイトにて保存され全世界から視聴される可能性があることから、あまり変わった意見などを云えず、ありきたりな反応しか出来なくなってしまったのかもしれませんね・・。
    そうすると、たしかにテレビ番組とは動画サイトといったインターネット上のコンテンツに押されているということになりますね・・。
    また、そのような状態に立たされたテレビ等のマスメディアに係る方々は、自らの立場を有利にするために一体どのようなことをするのでしょうか・・?」


    A「そうですね・・視聴者があまり疑問を感じないような状態になるように仕向けるか、あるいはインターネット上の様々なコンテンツとの共存をはかるのではないでしょうか?
    しかし、これらコンテンツの中には国内マスメディアでは手に負えないような国際的な組織もありますから、それはそれで大きな負の側面もまたあるのではないでしょうか?」


    B「なるほど、昨今の時代的潮流である国際化の影響により、国内のマスメディアも窮地に立たされつつあるというわけですか・・。
    そうしますと、こうしたことは我々からは随分縁遠いハナシであると思っていましたが、案外そうでもないようですね・・。」


    A「ええ、なかなか難しい時代になりつつあるのではないかと思います・・。
    そして、そこで重要になるのが、情報リテラシーではないかと思うのです。
    無論こうしたことは一朝一夕に身につけることは難しいと思います。
    また私も仕事柄色々と考えることはありますが、それでも「自分は情報リテラシーを持っている!」と胸を張って主張することはできません(苦笑)。
    ですから、やはり歴史などの人文社会科学的な教養といったものを能動的に持続して学び続けるような態度が必要になるのではないでしょうか?」


    B「まあ、多少Aさんの御専門の我田引水気味の主張のようにも聞こえますが、それでも仰ることには同意できます。
    しかし、現在書店などに行きますと、ハウツー本のコーナーに「教養」「歴史」と表題した書籍が並んでいる状態は「どうも違うのでは?」と思うのです。
    そして現在のいわゆる勉強ブームとは、これまでと同様、一過性の「様々な意匠」に過ぎないのではないかとも思いますが・・。」


    A「ええ、たしかにそうであるかもしれません・・。
    しかし、こうしたことはたとえ無意味である可能性が高いからといって、やらないよりかは、やった方が良いと思いますので、それでも良いのではないかと私は思っています。
    ただ、それと同時に、上からの柔らかな圧力、世間体、空気などから生じる、いわゆる「優等生病」とは、近代以降の我が国を滅ぼしてきた一つの大きな原因であるとも思いますので、何とも難しいところですね(苦笑)。
    その意味において140年、139年前の「神風連の乱」、「西南戦争」に立ち上がった方々とは、現在の我々に比べて、少なくとも自身の信条に対しては忠実であったのではないかと思うことがあります・・。
    そして彼等が政府軍の前に敗れたということは、日本近代の精神史にとって、どのような影響があったのであろうかとは、この時期になると不図考えてしまいますね・・。」

    2016年2月13日土曜日

    20160213  ネット、出版界における文字、文章について

    A「ここ数日でブログの閲覧者数が増えたのですが、そうした背景に基づき、新たに記事を書こうとすると、どうも「何かマズイことを書いてしまうのではないか?」などと考えてしまい、スムーズにペンが進まなくなってしまうようです・・(苦笑)。
    つまり、文章を書く上で感じるプレッシャー、圧力が閲覧者の増加に伴い強くなり、それが記事作成に際し、悪影響を与えたのではないかということです。
    しかし、それはあくまでも私がプレッシャー、圧力として認識しているだけであり「閲覧者の増加」とは直接的にはプレッシャー、圧力ではなく、単なる数字の変化です。
    そして、それをプレッシャーあるいは励起を促す要素の何れかと認識するのは私自身の問題です。
    そして、そのように事態を認識すると、記事作成に際し、あまり肩肘を張らず、また特に深刻になることもなくなるのではないかと思った次第です・・。
    ですから、現状において大切なことは、現状を認識しつつ、あわてず、落ち着いて書き続けることではないかと思います・・。」


    B「まあ何でも大勢の前で自身のつくったものを発表、公表するのは緊張するものですからね・・。
    また、それを見る人が増えれば、なおさら緊張の度合いは高まるものかもしれません・・。
    そうした状況とは、学会のポスター発表で自身の発表ポスターの前に人があまり集まらないのでトイレに行き、帰ってきてみたら黒山の人だかりが出来ていたような感じでしょうか(笑)?
    それでも私から見ればAさんのブログに1日に200人程度の閲覧者がいること自体が不思議ですね・・。」


    A「ええ、それは私自身も不思議に思います・・(苦笑)。
    とはいえ、私の書いた記事が1日200人以上に読んでいただいていることは単純にうれしい側面もあります(笑)。
    しかしまた、それらがどのように読まれているのかということも若干気になるところですね・・。」


    B「うん、そうした感じは私もよくわかります(笑)。
    これまでに何冊か執筆、分担執筆などしてきましたが、自分が係った書籍が書店で並んでいるのを見るとやはりうれしいものです・・。
    そして、その売行き、評価なども多少気になってしまうものです・・(笑)。」


    A「はあ、なるほど・・私はこれまでに書いた文章が書籍になったことはありませんが、ブログの記事といったネット上での文章とは、書籍と比べ、どちらかというと消費される文章であり、あまり記憶されるような文章、コトバではないような気がします・・(苦笑)。
    とはいえ、過分な望みであるかもしれませんが、私は自身の書いた文章がネット上のものであるにも係らず、読んで頂いた方々に良い意味で記憶されることを心の片隅で希望しながら書いております・・。
    そして、そうした行為の絶対数が多くなるにしたがい出版業界をはじめ様々な分野での変化が生じ、社会全般における文化、知識の発展に寄与できるのではないかと思います。
    多少大風呂敷であったかもしれませんが、実際の現状況とは、そうした方向に進んでいるのではないかとも思います(笑)。」


    B「ええ、ネット上でのブログをはじめ、様々なコンテンツの充実に伴い、出版業界なども変化しつつあると聞きますから、たしかにそういった方向に進んでいる一面はあるのではないかと思います・・。
    そして、今後ネット社会と実際の書籍がどのような形で折り合いをつけるのかはわかりません。
    しかしながら、特に文系の学術書、古典などについては、まだまだ実際の書籍の重要性が維持され、加えて、これは古本についても同様ではないでしょうか?」


    A「・・それはたしかにそうですね・・。
    また、それは大切なことではないかと思います。
    といいますのは、学問、研究などにおいて実際の書籍を資料として用いる経験は必要不可欠ではないかと思うからです・・。
    それは実際の辞書でコトバの意味を調べられないで、電子辞書で調べるという行為とは、人間として何といいますか致命的な退化ではないかと感覚的に思うからでしょうか・・。
    また、こうしたことは様々な実験、分析機器などにおいても同様であり、私のお師匠の一人は御自身の院生時代に機器操作で苦労された話を周りの弟子どもによくされて、基礎の重要性を説かれていました・・。
    そして、私がどうにか歯学分野にて学位を取得することが出来たのは、畢竟、機器の進化により、それらの操作がし易くなったことに因るのではないかと思います・・(苦笑)。
    その意味で、私の基礎とは、あくまでも文系ではないかと思います・・。
    そして同時に、その修練の過程、方法とは、理系学問分野のそれとは若干性質が異なるのではないかと思われます。
    とはいえ、それはそこまで簡単なものではないと思います。
    また、そうであったからこそ、様々な場面において、どうにか応用をきかすことができたのではないかと思います・・。
    しかし、だからといって、私は「文系が理系よりも上である。」とは考えていません。
    ただ「文系には文系の深みもある。」ということを理系の方々に知って頂きたいとは常々思っているところです・・。
    そして私の一連のブログ記事とは、一面において、そうした思いの発露であるのかもしれません・・(苦笑)。
    しかし今後、私がもし理系分野の職に就くことが出来ましたら、またそこでの勉強をして、応用をきかすことが出来るようになりたいと考えております・・(笑)。」


    B「まあ、どのような学問分野であっても基礎は大事ですからね・・。
    とはいえ、Aさんの場合、背景知識の質、量は認めますが、同時にかなり特殊ではないかと思います・・(笑)。
    そして今後、御自身のこれまでに得た知識、経験などの多くを生かすことができる職種に就くことを願っております。」


    A「ええ、それは私もそのように願っております(笑)。」

    2016年2月12日金曜日

    20160212 作成したブログについて

    A「最近はまた自作の対話形式の記事が続いていますが、Bさんはブログ記事のネタに行き詰るようなことはありますか?」

    B「・・ええ、行き詰まり感は始終感じながら記事を書いております・・(苦笑)。
    ただ、そういった時は、その時の心情を書いておりますと、徐々に行き詰まり感が解消されてゆき、まあ何とかネタらしきものが見えてくる、浮き上がってくるといった感じが多いようです・・。
    とはいえ、そのようにして生み出された記事が閲覧者数を集めやすいか、そうでないかとは、また別問題のようです・・(苦笑)。」

    A「・・はあ、そうすると、苦労して書いたにも係らず、多くの閲覧者を得られないこと、あるいはその逆もあるということですか?」

    B「ええ、大体そのようなところです。
    ですから、ブログの記事を含め、文章とは、絵画や釣りと同様、とりあえず始めてみないとわからないものではないかと思います。
    とはいえ、苦労の多寡に係らず、投稿した記事が多くの閲覧者数を得ることはなかなかうれしいものです。
    そして、そのことにより私はこれまで継続して記事を作成することができたと思っています・・。
    そうしますと、創造の際において必要な能動性とは、あくまでも第一義的に重要ではありますが、同時に創造されたものを発信した後の反応、リアクションによっても、その後の能動性とは、ある程度変化するものではないかと思うようになりました・・。
    こうしたことはリゴリスティックに考えれば堕落であるのかもしれませんが、実際問題、こうしたこと(発信の反応による自身の鼓舞)がなければ、これまでの記事作成を継続することができませんでした。
    その意味において私は弱い人間であることを認めます。
    また、一方において、生前はあまり評価されず、死後に大きく評価されるようになった創造者の方々も大勢おりますので、そうした方々の周囲の反応などは意に介さない創造に対する意欲、熱意とは、その源泉が如何なるものであったとしても、偉大なものであったと思います・・。
    その点、私などの場合、ブログ開設当初は閲覧者数が伸び悩む時期があり、記事の作成を疎ましく思うことが多くありましたが「ここでブログの更新を止めたら後で後悔し、また私にブログの作成を勧めてくれた方々に対しても悪い。」と思い、断続的であったかもしれませんが、どうにか続けることができた次第です・・。」

    A「・・はあ、なるほど、そんなことがあったのですか。
    ブログなどの場合、閲覧者数が伸び悩むと、やはり能動性、記事を書く気が削がれるものなのですか?」

    B「ええ、正直そうですね。
    閲覧者がいないで投稿するということは、何といいますか、壁に話しかけているような、何ともいえないやるせない気分になるものです・・(苦笑)。
    また、それに加えて、ブログによる発信とは、論文や学会誌などと異なり、誰かしら類似の研究をしている方々に読んでいただけるというわけではありませんので、何といいますか、より根源的な自身の価値を判断されてしまうのではないかというおそれもあるのではないでしょうか?
    そして、そうしたおそれが実際にあったことから、周囲の方々から勧められるまで、はじめようとしなかったのではないかと思います・・(苦笑)。」

    A「そうしますとBさんはブログ作成をすすめてくださった方々に感謝しなければなりませんね(笑)。」

    B「まあ、たしかにそうですが、それでも今後私のブログがどうなるかわかりませんので、とりあえずは感謝の念を抱きつつ、何かしら書き続けることが今の段階においては重要なのではないかと思います・・。
    ですから、とりあえず当面は自身の作成記事数を100にすることを目標にします。
    そのあとは全体の記事数に対する自身の作成した記事の割合を半分(50%)にすることでしょうか・・。」

    A「まあ、自身の作成する記事にこだわるのもいいですが、一方において書籍の抜粋記事もなかなか面白いのがありますよ・・。
    ああいったものを読んでも、その抜粋者の書籍、文章に対するセンス、感性らしきものは伝わってくるとも思いますので、それはそれで続けてみてはどうですか?」

    B「ええ、残念ながら多くの閲覧者数を得るのは書籍からの抜粋が多いので、それはおっしゃるとおりであると思います・・(苦笑)。
    しかし、これは私の実体験から得た教訓なのですが、書籍の抜粋を続けていると自身の文章が書けなくなるのです・・。
    あるいはまた、大御所、ビッグ・ネームの著作抜粋とは、いかにも権威主義的であり、また抜粋の後、自身の記事を作成する時に否応無く比較してしまい、その出来の浅薄さにどうもいたたまれなくなるのです・・(苦笑)。
    まあ、こうした理由により出来るだけ自身の作成記事を投稿しようと考えているわけですが、それでも書籍からの抜粋は今後も併行して続けるつもりです・・。
    これは閲覧者の増加を望む心情からというよりも「こんな面白いことが書いてある書籍があるのだ!」ということを示したいがためと、お考えいただけたらありがたいです(笑)。」

    A「・・なるほど、それはわかりました。
    それはそうと、最近のBさんの作成した記事で多くの閲覧者数を得ているのはどれですか?」

    B「ううむ・・それは20160207の「真田丸」を題材にした記事でしょうか・・?
    あの記事は既に閲覧者数が100以上となりました。
    この閲覧者数は周辺日時に投稿した他の記事に比べ、数倍の数です。
    そして、自分なりにその理由を考えてみますと、歴史的な小ネタが多く、且つ何といいますか、話のオチがそこそこ整っているからではないかと思います。」

    A「ああ、たしかにBさんの作成する記事には歴史などの小ネタをはさんだものが多いですね・・それでああいった記事が受けるのですか?」

    B「さあ、それはよくわかりませんし、ああいった歴史などの小ネタを入れて実際に広く対話できたのは、それこそ文系院時代の議論だけであり、それ以外の場所では衒学的だとか、堅苦しいとか、文系は理屈っぽい・・などといった反応がほとんどでした・・(苦笑)。
    とはいえ、そうした用語を用いた会話を文章にすると受けるというのはなかなか面白い現象であるかもしれません・・。
    加えて、文系院での議論とは、そういった小ネタの使い方で、相手の思考、こころざしの方の志向、知識レベルなどが明らかになるといった傾向がありますので、当初の議論においては、用いている用語、専門用語の意味などを突っ込まれることが多くありました。
    そして口惜しい思いをして後で図書館、書店などで色々と調べたりしたものです・・(苦笑)。
    しかし、ああいった切磋琢磨のようなものがなければ、現在書いているようなブログの記事は書けていないと思います・・。
    そして、そうした状況を対話形式の文章にするといった行為には、もしかしたら少なからず負の側面もあるのかもしれません・・。
    まあ、単なる自意識過剰であるとは思いますが・・(笑)。」

    A「うん、帰納論的な発想をすることが多い文系学問分野においては、特にそうした個々の用語の意味の認識は大事であり、加えて「神は細部に宿る」などともいいますから、たしかにその意味はよくわかります・・。
    そして、そのように考えますと、現在の何というか言語ばかりが躍っている、この状況とは、昭和初期の日本浪漫派が流行していた頃を彷彿とさせますね・・。
    また、これからの社会では英語が大事であるというのはわかりますが、それも何だか現在のところ空回りしているような感があります。
    こういったものは今後どうなってゆくのでしょうかね?」

    B「・・さあ、どうなるのでしょうか・・?
    しかし日本社会においては定期的にそうしたブームが起きているのではないでしょうか?
    そして、その先にあたるのが現在の社会ですので、それを漸進的な進化の結果であると見るのか、あるいは双方共に同じ軌道を描いている一つのパターンと見るかで変わってくると思います。
    願わくは前者であることを望みますが、残念ながら現在の私では、これらの現象が、その何れであるかは判然としません・・。」

    A「ええ、言語が躍るのであれば、それに対応する意味もまた同時に躍ってくれないと、それは一過性の空虚な言葉遊びに終ってしまうのではないかと思います・・。」

    B「ええ、それは今後の私の作成するブログ記事に対する戒めとさせていただきます・・(笑)。」